いくつ答えられる?ダヴィンチクイズ

天才レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・年表まとめ【作品や名言、死因も紹介】

レオナルド・ダ・ヴィンチは世界で最も有名な絵画と言われる「モナ・リザ」の作者です。しかし、その功績は絵画だけにとどまらず「“飽くなき探究心”と“尽きることのない独創性”を兼ね備えた人物」「万能の天才」とまで呼ばれています。

1452年4月15日、フィレンツェ郊外のヴィンチ村に私生児として生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチは、幼少期にはきちんとした教育を受けませんでしたが、代わりに鋭い観察眼と描写力を養い、当時のフィレンツェで最も優れた工房に入門した後は、その才能をどんどん開花させていきました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像

その才能は芸術面だけにとどまらず、生涯で書き残した7200枚ものノートの中には現代のヘリコプターや装甲車、パラシュートといった機械工学的な構想や、世界初の人体の詳細な解剖図や動脈硬化の発見など、およそ500年前のものとは思えないほどの発明や発見が多数含まれていました。

一方で、ノートには鏡文字を使用していたり、ノートや絵画の中に意味深な文章や文字列を残したりと、ミステリアスな部分も多く「ダ・ヴィンチ・コード」という小説の題材になるほどで、現在も注目を集め続けている偉人の一人です。

ミステリアスな魅力のあるレオナルド・ダ・ヴィンチ。その生涯から見える人となりを知ると、彼のことをより一層好きになるはずです。まさに彼の生涯を知って好きなった私がレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をご紹介します。

目次

レオナルド・ダ・ヴィンチとはどんな人物か

名前レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
(Leonardo di ser Piero da Vinci)
誕生日1452年4月15日
生地フィレンツェ共和国ヴィンチ村
没日1519年5月2日
没地フランス
アンドル=エ=ロワール県
クルーの館
配偶者なし
埋葬場所フランス
アンドル=エ=ロワール県
アンボワーズ城
サン=ユベール礼拝堂

レオナルド・ダ・ヴィンチの本名とその意味は?

ダ・ヴィンチの故郷 ヴィンチ村

日本ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことをよく「ダ・ヴィンチ」と略称しますが、イタリアの人はそうは呼びません。なぜでしょうか。

彼の本名は「レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ」といいます。

「セル・ピエーロ」は父親セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチからとっています。そして「ダ・ヴィンチ」は生まれた村の名前「ヴィンチ」が由来です。「ダ・ヴィンチ」で「ヴィンチ村の」という意味になります。

実は当時、名字があるほうが珍しく、同じ名前の人には村名や土地名、職業名などをつけて区別していたそうです。そのためイタリアの人がレオナルド・ダ・ヴィンチを略称するときは「レオナルド」と呼びます。「ダ・ヴィンチ」だと「ヴィンチ村の」になってしまいますからね。

なのでこの記事での略称も「レオナルド」としています。意味を知るともう彼のことを「ダ・ヴィンチ」なんて呼べなくなりますね。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生まれ、家庭事情は?

歴史に残る天才の誕生

レオナルドは、フィレンツェ郊外のヴィンチ村で公証人であるセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘カテリーナとの間に私生児として誕生しました。

公証人とは
公の文章作成などを扱う弁護士と会計士を合わせたような職業で当時としてはエリートにあたる職業です。

両親は身分違いのため正式な結婚をせず、父親だけフィレンツェの中心街に出ていってしまい、レオナルドは母親とフィレンツェの郊外で暮らしました。一説には、父親は公証人という仕事柄、フィレンツェに出張することが多かったため、フィレンツェ都市部で過ごすことが多かったとも言われています。

カテリーナも別の男性に嫁ぎ、子を授かったため、実質的にはレオナルドは父方の祖父・アントニオや叔父・フランチェスコに育てられたそうです。

その後、5歳の頃に父親が名家の娘と正式に結婚するも、子供に恵まれなかったために父に引き取られ、父夫婦と暮らすことになりました。

なんだか複雑な家庭事情があるようですが、父セル・ピエーロはレオナルドの才能を早い時期から見抜いていたようで、工房への入門や独立の援助を惜しまなかったりと、愛のない家庭ということでもなかったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチは画家?科学者?発明家?

博物館で再現されたダヴィンチの物作りアイディア

「モナ・リザ」の作者として有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。彼の活動は画家としてだけでなく、解剖学、土木工学、工学、流体力学、地質学、天文学など非常に広範な分野に及びました。

たとえば、ヘリコプターや装甲車、パラシュートの構想を持っていたり、世界初の詳細な人体解剖図の作成や、動脈硬化の発見をしていたり、当時としては異常なほど正確な地図を描いていたりなど。また、芸術面では絵画だけでなく、彫刻や音楽もやっていましたし、舞台演出の総監督を努めたこともありました。

ここまで広い分野で活躍しているのは人類史上でもレオナルド・ダ・ヴィンチただ一人で、「万能の天才」と言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチが画家になるまでの経緯は?

ダ・ヴィンチの師アンドレア・デル・ヴェロッキオ

レオナルド・ダ・ヴィンチは私生児として生まれたため、しっかりとした教育は受けられませんでしたが、自然豊かなヴィンチ村で勉学の代わりに自然をつぶさに観察する観察眼と探究心を養ったと言われています。

その後、14歳で父の力添え(一説には金遣いのあらいレオナルドを見かねて工房を紹介したという説もある)もあり、当時フィレンツェで一、二を争う有名なヴェロッキオの工房へ入門。多くの弟子や雇われ絵師に囲まれて、絵画、彫刻だけでなく金属加工、機械工学、木工、建築、設計などさまざまな分野を学びました。

この工房からレオナルド・ダ・ヴィンチの画家としてのキャリアがスタートしたのです。

当時の工房での作品制作スタイル
当時のフィレンツェの工房では一度に多くの注文を捌くために工房の弟子たちや雇われた芸術家が共同で作品を制作していました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの性格は?

万能の天才と呼ばれたダ・ヴィンチ

「万能の天才」とまで言われるレオナルド・ダ・ヴィンチ、その容姿や性格はどのようなものだったのでしょうか。

性格は穏やかでマイペース。ただし自分が興味を持ったものにはとことんこだわる完璧主義な面がある一方で、飽き性でもあったようです。そのせいなのか、レオナルドの作品は16作品か現代に残っていません。彼の生涯を振り返ってみてみても、依頼を受けたもの途中で投げ出すことが多くあります。

また、いたずら好きで、ある日見つけたトカゲのの背中に染色した鱗をたくさん貼り付け、友人たちに見せて驚かせたという逸話もあります。案外、お茶目な面もあったんですね。

自分なりのこだわりが強いため周りを困らせることもあったレオナルドですが、親しい人に対しては優しく、また菜食主義なこともあってか動物に対してもとても優しかったそうです。

天才で変わり者、謎が多い人物というイメージが強いレオナルドですが、実は飽きっぽいけど優しくて人に慕われる、人間味溢れる人物だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作は?

レオナルド・ダ・ヴィンチは完璧主義だったせいか、独自の研究に関するノートはたくさん残っていますが絵画の作品となるとそう多くは残っていません。その中でも代表作として挙げるとすると以下の作品です。

モナ・リザ

ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

レオナルド・ダ・ヴィンチといえばこの作品でしょう。世界で最も有名な絵とも言われています。この謎めいた微笑みからか、都市伝説や映画の題材としても取り上げられていますね。

最後の晩餐

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

こちらも世界でも有名な作品です。最も多くの複製がやパロディ画が描かれた宗教画とも言われています。キリスト教徒ではない日本人でも大半の人は知っているのではないでしょうか。

最後の晩餐に焦点を当てて、どんな絵なのか、背景や特徴を以下の記事で詳しく解説していますので、是非ご覧ください。

「最後の晩餐」とは?天才レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作を徹底解説

アンギアーリの戦い

ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」

ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描かれ、未完成のまま放置された本作品。実は大会議室の別の壁画の裏にまだ現存しているのではないか、と言われており現在でも多くの研究者の注目を集めています。

上記以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を解説つきで紹介していますので、読んでみてください。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品・代表作10選!創作背景も解説

レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる謎とは?

謎多きダ・ヴィンチの生涯

なぜ鏡文字を多用していた?

レオナルド・ダ・ヴィンチの残したノートのほとんどは鏡文字(左右反転した文字)で書かれていたそうです。なぜ鏡文字を使ったのか。ノートに重要な秘密を記載していたから、という説や、幼少期に教育を受けなかったために幼少の頃の書き方が矯正されなかったからという説がありますが、今となっては誰も真実を知ることができません。

同性愛者だった?

当時は認められていなかった同性愛

ハンサムで優しい性格だったレオナルドダ・ヴィンチですが生涯独身で恋仲と呼べる女性もいなかったそうです。また、同性愛者の疑いで裁判になったり、同性愛を思わせる描写が絵画にも見られたりと、実は同性愛者だったのではないか、と言われていますがはっきりとした証拠は残っていません。

レオナルド・ダ・ヴィンチは複数人いた?

のあまりにも多方面での功績の多さから「レオナルド・ダ・ヴィンチは複数人いたのではないか」という説があります。確かに名前も「ヴィンチ村のレオナルド」ですから名前が被ることもありそうです。もしかしたら意図的に活動をともにするグループのメンバーのことを「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼んでいたのかもしれません。

レオナルド・ダ・ヴィンチのクイズ

/
いくつ答えられる?レオナルド・ダ・ヴィンチクイズ
Start Quiz
Q1/Q5

レオナルド・ダ・ヴィンチの「ダ・ヴィンチ」はどんな意味があるでしょうか?

Q2/Q5

レオナルド・ダ・ヴィンチの着彩画はフェルメールより多い?少ない?

Q3/Q5
Question Image

2017年、オークション史上最高額でダ・ヴィンチ作とされる《サルヴァトール・ムンディ》が落札されました。落札額はおよそどのくらいだったでしょう?

Q4/Q5
Question Image

《最後の晩餐》は現存するレオナルド作品中、最大の壁画です。この壁画はどこに描かれたものでしょうか?

Q5/Q5

ダヴィンチの誕生日、4月15日は彼の功績を称えてある記念日になっています。それは何の記念日でしょうか。

Check Answers

レオナルド・ダ・ヴィンチの名言

知恵は経験の娘である。(Wisdom is the daughter of experience.)

シンプルさは究極の洗練である。(Simplicity is the ultimate sophistication.)

その手に魂が込められなければ、芸術は生まれないのだ。(Where the spirit does not work with the hand, there is no art.)

最も高貴な娯楽は理解する喜びである。(The noblest pleasure is the joy of understanding.)

猫科の一番小さな動物、つまり猫は、最高傑作である。(The smallest feline is a masterpiece.)

レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説1「シオン修道会のメンバーだった?」

レオナルド・ダ・ヴィンチは、11世紀に発足したテンプル騎士団の秘密を守ることを目的とした秘密結社のメンバーだった、という説があります。この説は映画にもなったダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」の題材となり世界から注目を浴びました。

しかし、このシオン修道会。現在では、ピール・プランタールという人が1956年に考えた架空の集団だった、と言われています。

とはいえ、小説「ダ・ヴィンチ・コード」を読みながらレオナルド・ダ・ヴィンチの作品集を読み漁っていた時の胸のときめきは忘れられません。こういう話は嘘か真かは重要でないのかもしれませんね。

都市伝説2「レオナルド・ダ・ヴィンチのお墓に本人の遺骨はない?」

ダ・ヴィンチの墓の謎…

レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスのアンボワーズ城内のサン・フロランタン教会に埋葬されたと言われていますが、実は本人の遺骨かは定かではない、と言われています。

というのも、1802年にこの教会は老朽化もありフランス革命時に破壊されてしまい、墓石は城を再建するために利用され、骨は掘り返されて、別の場所に埋葬されたそうです。

その後の1863年、詩人のアルセーヌ・ウーセイが「…EODUS VINC…」という墓石の欠片と骸骨を発見し、「LEONARDUS VINCIUS(レオナルドゥス・ヴィンチウス)」(ラテン語のレオナルド・ダ・ヴィンチ)の墓ではないかとして、アンボワーズ城に再び埋葬した、と言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの簡単年表

1452年
フィレンツェ郊外のヴィンチ村に生まれる
1452年4月15日、公証人のセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘、カテリーナとの間に私生児として誕生しました。
1457年
父の元に引き取られる
生まれてから5歳まではヴィンチ村で母親と暮らしていましたが、父セル・ピエーロが正式に名家の娘と結婚したことを機に、父に引き取られて父夫婦とフィレンツェ都市部で暮らし始めます。
1466年
ヴェロッキオが運営する工房に入門
14歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは父の働きかけもあり、当時フィレンツェで最も優れた工房の一つと言われていたヴェロッキが運営する工房へ入門し、芸術家としての道を歩み始めます。
1472年
「キリストの洗礼」を制作
20歳の頃には、工房の主催者であるヴェロッキオと「キリストの洗礼」を合作します。この時すでにレオナルド・ダ・ヴィンチは聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ていたと言われています。また同じころにはヴェロッキオから独立していたとも言われています。
1476年
同性愛の容疑をかけられる「サルタレッリ事件」
24歳だったレオナルド・ダ・ヴィンチと他3名の青年が、同性愛の容疑を掛けられるも証拠不十分で放免される、という事件が起こりました。レオナルド・ダ・ヴィンチが同性愛者の傾向があったことを示唆している事件です。
1478年
独立後の最初の作品「ブノアの聖母」「カーネーションを持つ聖母」
26歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴェロッキオから独立して最初の作品である「ブノアの聖母」と「カーネーションを持つ聖母」を制作します。この頃には父親の池からも出たと言われています。
1480年
スランプ時代?「荒野の聖ヒエロニムス」の制作
28歳の頃のレオナルド・ダ・ヴィンチは、彼の残した手記からスランプに陥った時代だったのではないかと言われています。この頃に「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始めますが、描き始めの時点で制作を放棄しています。
1481年
「東方三博士の礼拝」の制作を開始するも未完のまま放棄
レオナルド・ダ・ヴィンチが29歳の頃、サン・ドナート・スコペーと修道院から「東方三博士の礼拝」の制作依頼を受けます。しかし、1482年にレオナルド・ダ・ヴィンチがミラノ公国へと向かったため未完に終わっています。
1482年
ミラノ公国へ
1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチは制作依頼を受けていた「東方三博士の礼拝」の制作を放棄しミラノ公国へ旅立ちます。理由は諸説ありますが、一説には「東方三博士の礼拝」の制作で行き詰まったため、とも言われています。
1483年
のちに25年間の裁判沙汰になる「岩窟の聖母」制作依頼
1483年、レオナルド・ダ・ヴィンチは「岩窟の聖母」の制作依頼を受けます。作品は完成させたものの、構成や報酬について依頼主側と裁判になり、この裁判は発注から25年後の1508年にようやく決着することになります。
1489年
解剖デッサンの開始
1489年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチは解剖した人体のデッサンを描き始めました。教皇レオ10世に解剖を禁止されるまでの20年間で約30体の死体を解剖し、デッサンの数は750枚にも上りました。
1490年
ルカ・パチョーリのもとで数学を学ぶ
1490年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチは数学者のルカ・パチョーリのもとで数学を学びます。1509年に出版されるパチョ―リの「神聖比率」の挿絵版画の下絵を手掛けます。

この年には、舞台劇「天国の祭典」の舞台総監督として舞台演出を手掛けたり、巨大な騎馬像の制作を開始したりなど多方面での活動しています。

1492年
粘土像「巨大な馬」の完成とミケランジェロの侮辱
1492年、レオナルド・ダ・ヴィンチは粘土像「巨大な馬」を完成させ、鋳造を進めようとしていましたが、競争相手だったミケランジェロからは「このような大仕事ができるわけがない」と侮辱されたと言われています。
1493年
生母カテリーナとともに暮らし始める
1493年、レオナルド・ダ・ヴィンチはヴィンチ村で貧しい生活を送っていた生母のカテリーナをミラノに招待し、カテリーナがなくなるまでの2年間をともに暮らしました。
1495年
「最後の晩餐」の制作
1495年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは、のちに世界で最も複製画やパロディ作品が作られた言われる「最後の晩餐」の制作を行います。この頃に生母カテリーナが死去したと考えられています。
1499年
第二次イタリア戦争勃発、軍事技術者となる
1499年、第二次イタリア戦争が勃発します。レオナルド・ダ・ヴィンチがいたミラノ公国がフランスに敗れたため、レオナルドは友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへ避難し、避難先のヴェネツィアで軍事技術者として雇われることになります。
1500年
故郷フィレンツェに戻る
ヴェネツィアで軍事技術者として雇われたレオナルドですが、新兵器のアイディアは当時の技術では実現することができないものが多く、1年もしないうちにヴェネツィア共和国を去り、故郷のフィレンツェに戻ってきました。

ちょうどこの頃、ライバルであるミケランジェロが「ダヴィデ像」を完成させ、世間の注目を集めていました。

1502年
チョーザレ・ボルジアの軍事技術者としてイタリア中を行脚
教皇アレクサンデル6世の息子チョーザレ・ボルジアの軍事技術者として8ヶ月従軍しイタリア中を行脚し、要塞建築のための地図制作や、軍事戦略のための地図作成、200メートルに及ぶ橋の建造計画の立案などを行いました。
1503年
モナ・リザの制作開始
1503年、レオナルド・ダ・ヴィンチが55歳の頃に、世界で最も有名な絵画とも言われる「モナ・リザ」の制作を開始、完成までに3~4年かかったと言われています。
1504年
ミケランジェロと壁画対決
1504年、フィレンツェ共和国政庁からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描く壁画「アンギアーリの戦い」の制作を開始します。

同時期に大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが壁画「カッシーナの戦い」の制作に取り掛かっており、同時の天才画家を競わせようと仕組まれたものだった言われています。

しかし両方の壁画が未完のまま放棄されるという結末となりました。

1507年
遺産相続争いでミラノとフィレンツェを行き来する
1506年、レオナルド・ダ・ヴィンチは再びミラノを訪れ宮廷画家兼技師に任命されますが、1507年には父親の遺産を巡って兄弟たちと訴訟問題になり、その解決のために一時フィレンツェに戻ります。この故郷でのトラブルに疲れたのか、レオナルド・ダ・ヴィンチはは1508年には再びミラノ公国へ旅立ちます。
1510年
解剖学で人体そのものに興味を抱く
1510年頃からレオナルド・ダ・ヴィンチはパドヴァ大学解剖学教授のマルカントニオ・デッラ・トッレとともに解剖学の共同研究を行います。

絵画の写実性を高めるための解剖学の研究ですが次第に人体そのものに興味を抱くようになり科学者として人体の構造をデッサンするようになったそうです。

1513年
フランス・ローマへ移住
1513年、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世に招かれて、フランそのローマへ移住し、この世を去るまでの3年間をローマで過ごします。
1516年
64歳、フランス・ローマで死去
1516年、フランス王フランソワ1世の居城であるアンボワーズ城近くのクルーの館で息を引き取ります。享年64歳でした。

レオナルド・ダ・ヴィンチの葬儀は彼の遺言に従い60名の貧者が参加し、遺産も親しい間柄だった人たちに分配されました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの年表

1452年 – 0歳「フィレンツェ郊外のヴィンチ村で誕生」

ダ・ヴィンチの生家

公証人の父と農家の娘の間に生を授かる

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日にフィレンツェ郊外のヴィンチ村にて、公証人であるセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘だったカテリーナとの間に生まれます。

しかし、公証人と農家の娘では身分の差が大きくかったためレオナルド・ダ・ヴィンチは私生児として扱われ、公証人という仕事を継ぐこともできなかったため、しっかりとした教育を受けられなかったとも言われています。

私生児で教育を受けられなかったら天才になれた

私生児としてしっかりとした教育を受けなかったレオナルド・ダ・ヴィンチでしたが、そのおかげか自分の興味関心に素直に従ってのびのびと成長できた、自然の中で鋭い観察眼を培ったと言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチほどの天才が実はしっかりとした教育を受けたかったために生まれた偉人であることは驚きです。

また、もし教育を受けていたら、今とは逆に平凡な人物になっていたのかもしれないと思うと、歴史的な偉人やエピソードは偶然の連続による産物であるということを改めて認識させられます。

1457年 – 5歳「フィレンツェ都市部で父と暮らし始める」

父のものとに引き取られ、フィレンツェ都市部で父夫婦と暮らし始める

フィレンツェの街並み

身分の違いから都市部で暮らしていた父セル・ピエーロは、レオナルド・ダ・ヴィンチが5歳の頃に名家の娘と結婚します。しかし、子どもには恵まれなかったため、ヴィンチ村でカテリーナと暮らしていたレオナルドを引き取ることにしました。

こうしてレオナルドは母親から引き離され、父夫婦と暮らすようになります。

複雑な家庭事情のようにも思えますが、父セル・ピエーロはレオナルドのことをしっかり愛していたようで、レオナルドが工房へ入門する際や独立する際などに援助をしています。

当時としてはこういった家庭事情は今と比べて当たり前だったのかもしれませんね。

レオナルドの画才は天性のものだった

子供の頃から高い画力を誇った

レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期の逸話として、父セル・ピエーロがレオナルドに絵を描かせてみた時の話が有名です。

ある日、セル・ピエーロのもとに知人から楯飾りの装飾の相談が来ました。レオナルドは悪戯でそこにコオロギやコウモリ、カゲロウといったグロテスクな動物や昆虫で埋め尽くされた絵を描きました。

この絵を見たセル・ピエーロは、あまりの絵の質の高さに驚き、レオナルドが描いた絵はフィレンツェの画商に売り、知人には購入した楯飾りを渡したそうです。

レオナルドは、幼少の頃から鋭い観察眼とそれを描写する表現力を持ち合わせていたようです。

1466年 – 14歳「ヴェロッキオの工房へ入門」

フィレンツェで最も優れた工房のヴェロッキオの工房へ入門

レオナルド・ダ・ヴィンチは14歳のときに、父親の尽力もあり、当時のフィレンツェで最も優れた工房の一つと言われていたヴェロッキオが運営する工房に入門します。

当時の工房は大量の注文にスピーディーに対応するために多くの弟子や雇われ画家などが協力して絵画や彫刻の制作を行っていました。

「万能の天才」はここから生まれた

ダ・ヴィンチの解剖学的スケッチ

多種多様な芸術家や匠がいる環境のおかげか、絵画や彫刻だけでなく冶金や建築設計、木工、皮細工、機械工学などさまざまな分野の知見を吸収したと言われています。

ヴェロッキオの工房では、絵画のために解剖学の習得も勧めており、のちにレオナルドの偉業の一つの解剖スケッチの基礎もここで学んだと言われています。

こういったレオナルドの好奇心を十二分に満たしてくれる環境の中で、技術だけでなく理論に関してしても才能を開花させ、まさに「万能の天才」の下地ができた時期でもあります。

1472年 – 20歳「マスター(親方)の資格を得る」

聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得る

若いうちから才能を認められた

若い頃から才能を発揮していたレオナルド・ダ・ヴィンチは20歳の頃にはマスター(親方)の資格を得ていたと言われています。

同じ時期には「キリストの洗礼」という作品を師であるヴェロッキオと共同制作しており、ダヴィンチの制作した部分のあまりのできの良さに師ヴェロッキオは2度と絵画を描かなくなった、という逸話が残っているほどです。

この逸話、実際にはヴェロッキオは絵画制作は続けており、絵画部門の大部分をレオナルドに任せて本業である彫刻に専念した、というのが有力な説のようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの才能開花には父親の支援のおかげでもあった

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1472年頃にはヴェロッキオの工房から独立していたとも言われています。この独立には父セル・ピエーロがレオナルドに工房を与えるなどの援助があったそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の若さで独立できたのは、その才能もさることながら、父セル・ピエーロのレオナルドに対する惜しみない援助もあったからだとも言えます。

1476年 – 24歳「サルタレッリ事件」

ダ・ヴィンチが疑惑の的となった事件とは

同性愛者の容疑をかけられた「サルタレッリ事件」

1476年、レオナルド・ダ・ヴィンチを含む数人が当時有名だった男娼と揉めて事を起こしたとして、同性愛者の容疑で訴えられました。

結局は証拠不十分で無罪放免とされていますが、この記録が「レオナルド・ダ・ヴィンチは同性愛者の傾向があったのではないか」という説を示唆することにつながっています。

「サルタレッリ事件」は権力によって不起訴になった?

証拠不十分として放免された「サルタレッリ事件」ですが、実は容疑者の一人が当時の有力者であるメディチ家の関係者だったため、メディチ家が圧力をかけたという説や、レオナルドの父親が公証人だったおかげで無罪放免となった、という説があります。

当時、同性愛はキリスト教の教えに反するとして、最悪の場合は火あぶりにされるほどでした。権力で圧力を掛けたりすることはあまり良いとは思えませんが、この場合は無罪放免となりレオナルド・ダ・ヴィンチの今後の偉業が後世に残ることにもつながったので良かった、のかもしれません。

1478年 – 26歳「工房から独立後の最初の作品を制作」

工房から独立後の最初の作品「ブノアの聖母」「カーネーションを持つ聖母」を制作

ダ・ヴィンチ「ブノアの聖母」

1478年、レオナルド・ダ・ヴィンチは独立後も継続していたヴェロッキオとの共同制作を止め、父親の家からも出ました。まさに独立です。その時に制作されたのが「ブノアの聖母」や「カーネーションを持つ聖母」です。

1480年 – 28歳「スランプ時代?「荒野の聖ヒエロニムス」制作」

思い悩んだスランプ時代「荒野の聖ヒエロニムス」の制作

ダ・ヴィンチ「荒野の聖ヒエロニムス」

1480年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始めますが、描き始めの段階で制作を放棄しています。放棄した理由には「依頼主からの支払いがなかった」や「大作である“東方三博士の礼拝”の依頼が同時期に来た」など諸説ありますが、当時のレオナルドの手記には

「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」

という記述があり、スランプだったのではないか、という説もあります。「自分の描きたい絵はこれなのだろうか」といった悩みを抱えていたのかもしれませんね。

靴屋の足乗せ台に使われていた「荒野の聖ヒエロニムス」

未完のまま放棄された「荒野の聖ヒエロニムス」は、19世紀に靴屋の足乗せ台として使用されているところを発見されました。

現在は修復されてヴァチカン美術館に所蔵されていますが、未完とはいえ靴屋の足乗せ台にされていたこともそうですが、よく見つけたなと、いろいろな点で驚きです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品はいまだに所在が分からない作品が多いと言われているので、もしかしたら私たちの身近に何気なくあったりするのかもしれません。

1481年 – 29歳「「東方三博士の礼拝」の制作開始」

修復作業中の「東方三博士の礼拝」

「東方三博士の礼拝」の制作開始

1481年5月、父セル・ピエーロの口利きもありレオナルド・ダ・ヴィンチはサン・ドナート・スコペート修道院から「東方三博士の礼拝」の制作を依頼されます。相変わらず、父からの惜しみない援助があったようです。

この依頼はレオナルドが受けた最初の大きな依頼と言われていますが、後にレオナルドがミラノ公国に旅立ったため未完のまま放棄されることになります。

心機一転、ミラノ公国へ

1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチは、当時の強国であったミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツア(通称イル・モーロ)公に自薦状を出し、「東方三博士の礼拝」の制作を放棄してミラノ公国へ旅立ちます。

ルドヴィーコ・スフォルツア公に送った自薦状には、土木学や築城、兵器の設計・製造など多方面での自らのスキルを書き連ね、また戦時下でなくとも絵画や彫刻などの芸術的なスキルを兼ね備えていることが記載されていたそうです。

レオナルドのミラノ行きには、「東方三博士の礼拝」の制作に行き詰まっていたという説や、金銭的なトラブルがあったためという説があります。もしくは、これら複数のトラブルが重なったため、心機一転、再スタートを切りたくて自薦上を書き、大事な依頼を放棄してまでミラノ公国に旅立ったのかもしれません。

1483年 – 31歳「25年間の裁判沙汰になる「岩窟の聖母」制作」

ナショナル・ギャラリー所蔵の「岩窟の聖母」

ミラノでの初仕事「岩窟の聖母」は2つ存在する

ミラノへ移住したレオナルド・ダ・ヴィンチの初仕事は「無原罪の御宿り信心会」からの依頼で礼拝堂に飾るための絵画、のちに25年間の裁判沙汰になる「岩窟の聖母」の制作でした。

実はこの「岩窟の聖母」は2つ存在します。一つはパリのルーヴル美術館が所蔵し、もう一つはロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。

どちらもレオナルド・ダ・ヴィンチが制作したもので構図もほぼ同じ絵です。なぜ2つも同じような絵を描いたのでしょうか。

「岩窟の聖母」が2つある理由。25年間に渡る裁判沙汰

絵画を巡って裁判沙汰に

2つ存在する「岩窟の聖母」。その最初の絵は、依頼主からイメージと雰囲気や構成が異なるとしてクレームが入り、裁判となってしまいます。結局、裁判ではフランス王ルイ12世の仲裁により、依頼主の意向に合わせる形で同じ図柄の絵を描き直すことになりました。

描き直しは1495年からレオナルド・ダ・ヴィンチ監督のもと、弟子たちによって進められ、完成して費用が支払われたのは最初の「岩窟の聖母」制作から25年後の1508年だったそうです。

明らかに2作目の制作に時間がかかっていますし、良かれと思って描いた一作目にクレームを入れられてからの描き直しなのでモチベーションはとても低かったのではないでしょうか。

ミラノでの生活には苦労していた

当時のミラノ公国の人口は10万人とヨーロッパの中でも多く、人や情報の往来が活発な大都市でした。

レオナルド・ダ・ヴィンチの当時の手記には、未払いの食事代のメモや支払に関するメモなど生活に関するものが多く、「万能の天才」とまで言われるほどのレオナルドでも、故郷のフィレンツェとは異なる習慣や気候、言語などになかなか順応できなかったことがうかがえます。

ただ、そういった刺激の多い環境を気に入ったのか、生涯において何度もミラノを訪れることになります。

1489年 – 37歳「人体解剖デッサンを開始」

「ウィトルウィウス人体図」

ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス人体図」

レオナルド・ダ・ヴィンチは1489年頃から人体を解剖し、詳細をデッサンする活動をはじめました。

のちに教皇のルイ12世が解剖を禁止するまでの約20年間で約30体の死体を解剖し、そのデッサンの数は750枚にも上ったそうです。その中で描かれたのが有名な「ウィトルウィウス人体図」です。

当時のレオナルドの人体解剖のデッサンは、当時のどの解剖図よりも詳細、かつ正確で先進的な内容でしたが、完璧主義の性格からか自ら発表することはしなかっため、直接的にな解剖学への貢献はあまり大きくありませんでした。

1490年 – 38歳「舞台総監督までこなす多才ぶり」

舞台美術にも携わったダ・ヴィンチ

舞台劇「天国の祭典」の舞台総監督を務める

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1490年1月13日に開催された「天国の祭典」という舞台劇の舞台総監督を務めました。実はミラノで一躍有名になったのがこの仕事だと言われています。

舞台装置や演出に関しては詳細な記録は残っていませんが、観客たちの記憶に強烈に残る演出をしたそうです。

絵画や彫刻、軍事技術者というだけでなく舞台監督までやってのけるとは、さすが「万能の天才」ですね。

数学者の友人のもとで数学を学ぶ

ダ・ヴィンチが描いた本の挿絵

1490年代にはレオナルド・ダ・ヴィンチは数学者のルカ・パチョ―リのもとで数学を学び、1509年に出版されたパチョーリの「神聖比率」の挿絵60枚を描いています。

レオナルドはちょうど同時期に「最後の晩餐」の制作に取りかかっていて、数学的な知識が必要な遠近法についてはパチョ―リから助言をもらっていたそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが理論的に絵画などの作品を制作していることがうかがえるエピソードでもあります。

1493年 – 41歳「「スフォルツア騎馬像」とミケランジェロからの侮辱」

ダ・ヴィンチ「スフォルツァ騎馬像のための素画」

「スフォルツァ騎馬像」の馬部分の原型像が完成

1493年、ルドヴィーコ・スフォルツァ公の「世界最大のフランチェスコ・スフォルツァ将軍(ルドヴィーコの父)の像を制作せよ」という命により、かねてより制作していた「スフォルツア騎馬像」の馬部分の原型(粘土)像が完成します。

この騎馬像の鋳造のために17tにもなるブロンズが用意されましたが、フランス王がミラノに侵攻にしてきたため、用意されたブロンズは大砲の材料として使われてしまい、「スフォルツア騎馬像」を鋳造することができませんでした。

そして、1499年に勃発する第二次イタリア戦争で原型像も破壊され、「スフォルツア騎馬像」はついに完成することはありませんでした。

ライバル、ミケランジェロからの侮辱

ヴォルテッラが描いたミケランジェロの肖像画

「スフォルツア騎馬像」を完成させることができなかったレオナルド・ダ・ヴィンチに対してライバルだったミケランジェロは

あなたは騎馬像の素描(デッサン)はなされたが、それをブロンズに鋳造しようとして鋳造できず、恥知らずにもそのまま放置した

と侮辱したそうです。

1943年当時、レオナルドは41歳、ミケランジェロはなんと18歳。20歳以上も若いミケランジェロに侮辱されたレオナルドは失意のどん底だったと言われています。

戦争の影響で完成できなかったとはいえ、自分よりも20歳以上も若い若者にこんな侮辱をされたら落ち込みますよね。

生母カテリーナと一緒に暮らす

1943年頃、ヴィンチ村で貧しい暮らしをしていた生母のカテリーナをミラノに招待し、カテリーナがなくなるまでの約2年間を一緒に暮らしたそうです。

1495年 – 43歳「「最後の晩餐」の制作」

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

実は失敗していた「最後の晩餐」

1495年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に「最後の晩餐」を描きました。

世界で最も複製画やパロディ作品が作られた宗教画としても有名でレオナルドダヴィンチの最高傑作とも言われるこの作品ですが、実はこの時に試した新技法が原因で、50年も経たないうちにボロボロに崩壊してしまいました。

現存する壁画の大部分は1980年から行われた修復作業によるもので、レオナルド自身が実際に描いた部分はほとんど残っていないと言われています。

なぜ新技法を試したのか

壁画を描く時の技法の一つにフレスコ画がありますが、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描いた時はフレスコ画の技法を用いませんでした。

それは、伝統的なフラスコ画では表現できない明るさを表現したかったからと、フラスコ画は石膏が乾燥する前に急いで描かなければならず、遅筆なレオナルドにとっては苦手な画法だったためだと言われています。

1499年 – 47歳「第二次イタリア戦争が勃発」

作者不明 イタリア戦争パヴァの戦い

第二次イタリア戦争が勃発、ヴェネツィアへ避難

1499年、第二次イタリア戦争が勃発し、ミラノ公国はフランスに敗れたため、レオナルド・ダ・ヴィンチは弟子や友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィア共和国へ避難します。

避難先のヴェネツイアでは、画家ではなくまたもや軍事技術者として雇われることになります。

恐ろしい兵器のアイディアは隠していた

ダ・ヴィンチは様々な発明のアイディアを残した

レオナルド・ダ・ヴィンチのアイディアの中にはヘリコプターや装甲車、パラシュートといった現代では実現されているアイディアも多数含まれていましたが、当時の技術では実現できたものが少なかったそうです。

また、矛盾しているかもしれませんがレオナルド自身は戦争を嫌っており、自ら恐ろしいと感じる兵器のアイディアに関しては公表することがなかったと言われています。

レオナルドは、兵器はあくまで自己防衛や敵勢力への対抗手段として捉えていたようです。彼の合理的な考え方や博愛的な一面がうかがえますね。

1500年 – 48歳「故郷のフィレンツェへ」

アイディアに時代が追いつかず、故郷フィレンツェへ

ヴェネツィアで軍事技術者として雇われたレオナルド・ダ・ヴィンチですが、新兵器のアイディアは当時の技術では実現することができないものが多く、1年も経たないうちにヴェネツィア共和国を去り、故郷のフィレンツェに戻ってきました。

時代が追いついてなかったんですね。

絵画史上最高値で落札された「サルバトール・ムンディ」の制作

ダ・ヴィンチ「サルバトール・ムンディ」

レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェでもいくつもの傑作を制作しています。中でも「サルバトール・ムンディ」は男性版のモナ・リザとも言われ、2017年に約4億5千万ドルという美術品の落札価格としては史上最高額で落札されました。

1502年 – 50歳「チョーザレの軍事技術者としてイタリア中を行脚」

「地図の父」としての業績

ダヴィンチが手描きした地図

1502年、レオナルド・ダ・ヴィンチは当時のローマ教皇アレクサンデル6世の息子であるチョーザレ・ボルジアの軍事技術者として8ヶ月、イタリア中を行脚します。

今回は兵器の開発ではなく土木技術に特化した軍事技術者として任命され、地図の作成や長さ200メートルにもなる橋の設計図の制作などを行いました。

残念ながら、長さ200メートルの橋は当時の技術では不可能だとして工事が行われませんでしたが、地図の作成においては、まるで真上から見たかのうような正確な地図を作成し、「地図の父」の一人にも数えられるほどの功績を残しています。

1503年 – 51歳「「モナ・リザ」の制作開始」

世界で最も有名な絵画「モナ・リザ」の制作開始

ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

1503年、レオナルド・ダ・ヴィンチは後に「世界で最も有名な絵画」とまで言われることになる「モナ・リザ」の制作を開始します。

モデルとなった女性は、商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であるとする説が通説ですが、モデルについては諸説あり、中には「レオナルド本人の自画像ではないか」という説もあります。

作品自体に謎が多いことも注目を集め続ける所以の一つかもしれません。

ダヴィデ像の置き場についてミケランジェロと口論

ミケランジェロ「ダヴィデ像」

「モナ・リザ」を制作開始したのと同じ頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは、ライバルであるミケランジェロが制作していた「ダヴィデ像」の設置場所を決める委員会の一員となっていました。

仲が悪いことで有名なこの二人、案の定、設置場所で口論となり、結局はミケランジェロの希望が通ったそうです。

余談ですが、ミケランジェロは気難しくて怒りっぽい性格で弟子も長く続かないと言われるほどの性格だったそうです。案外、レオナルドはミケランジェロに困らされていた側なのかもしれません。

1504年 – 51歳「幻となったミケランジェロと壁画対決」

「アンギアーリの戦い」の制作開始

ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」

レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェ共和国政庁からの依頼で、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描く「アンギアーリの戦い」の制作を開始しました。

そして時を同じくして、ミケランジェロも同じ大会議室の反対側の壁に壁画「カッシーナの戦い」を描き始めていました。

この依頼、実は当時天才画家として有名だった二人を競わせるために企画されたものだったのです。粋な企画をする人はどの時代にもいるものですね。

幻となったレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画対決

ミケランジェロの下絵を模写した「カッシーナの戦い」

ヴェッキオ宮殿の大会議室で繰り広げられるはずだったレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロの壁画対決ですが、残念ながら両者の作品は完成することなく、幻の対決となってしまいました。

レオナルドの「アンギアーリの戦い」は新技法を試したものの失敗し未完のまま放棄され、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は、ミケランジェロがローマ法王の墓を手掛ける依頼のためにローマに呼び戻されてしまい、これも未完のまま放棄されたのです。

両壁画ともに、時代とともに失われたと言われていましたが、近年、ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁の裏に謎の空間が存在していることが分かり、そこに「アンギアーリの戦い」が現存しているのではないか、と注目を集めています。

1506年 – 54歳「ミラノとフィレンツェを行き来する」

ミラノの街並み

再びミラノへ

1506年、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノ総督シャルル・ダンボワーズに招かれて再びミラノを訪れ、宮廷画家兼技師を任命されます。

有名な自画像を描いたのもこの時期ですが、この自画像、一説にはレオナルド本人ではなく、 80代の叔父を描いたものではないかと言われています。

確かに、当時 50 歳半ばのレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像としては少し老けすぎているようにも見えます。

ラファエロが短期間弟子入り

ラファエロの代表作のひとつ「アテナイの学堂」

この頃には、のちに「ルネサンスの三巨匠」の一人として数えられる当時21歳のラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチのもとに短期間ですが弟子入りしていました。

この時期にラファエロが残したスケッチの中には「モナ・リザ」のものもあり、そのスケッチの背景には現存する「モナ・リザ」には描かれていない2本の柱が描かれていることから「モナ・リザはもう一枚存在するのではないか」とも言われています。

父親の遺産をめぐり親族とトラブル。一時フィレンツェへ

遺産を巡って訴訟に発展

レオナルド・ダ・ヴィンチの父セル・ピエーロが1504年に死去し、その遺産をめぐって異母弟妹12人と訴訟問題が発生。これを解決するためにレオナルドは一時フィレンツェへ向かいました。

レオナルドは、この訴訟問題で疲れてフィレンツェに嫌気がさしたのか、翌年の1508年にはすでにミラノ公国へ戻っています。

万能の天才でも、人間同士、特に親族のお金に関する問題には疲れるものなんですね。

1508年 – 56歳「ミラノで悠々自適な生活をおくる」

裕福で自由に活動していた時期

1508年頃のレオナルド・ダ・ヴィンチのミラノでの生活は悠々自適なものだったようです。

ミラノ総督シャルル・ダンボワーズの支援が会ったのもそうですが、1490年代にミラノにいた時の仕事の報酬としてもらい、戦争により没収されていたブドウ園が返還されたり、水路使用料の利権を得たりと、お金には困らなかったようです。

そのおかげで解剖学に没頭して240枚にもおよぶデッサンを描いたり、山登りをして風景画を描いたりと、好きなことをして過ごしていました。

「近代解剖学の祖」はレオナルド・ダ・ヴィンチだったかもしれない?

多量の解剖学スケッチを残したダ・ヴィンチ

「近代解剖学の祖」として知られるヴェサリウスが、詳細な解剖図をもとにした「人体の構造」を出版し、解剖学に大きく影響を与えたのが1543年のことです。

しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチはその約40年も前にすでに世界初と言えるほどの詳細な解剖スケッチ「Anatomical Manuscript A」と「Anatomical Manuscript B」を残していました。

その中には、肝硬変や動脈硬化の発見など医学的にも非常に価値の高い内容も含まれていましたが、書籍や論文として発表されることはありませんでした。

もし、レオナルドもしくは誰かがこのスケッチをすぐに書籍にして出版していたら「近代解剖学の祖」はレオナルド・ダ・ヴィンチになっていたかもしれません。

1513年 – 61歳「ローマへ移住」

ローマへ移住するも仕事にあぶれる

ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1511年にパトロンであったシャルル・ダンボワーズが亡くなったこともあり、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチからの招待を受け、仕事を求めてローマへ移住しました。

ローマでは「洗礼者ヨハネ」を制作しましたが、当時のローマでは若いミケランジェロやラファエロが活躍していて、仕事はなかなかもらえなかったようです。

1516年 – 64歳「フランスで最期の3年間を過ごす」

フランス王からの招待でフランスへ

ダ・ヴィンチの晩年の家となったクルーの館

1516年、ローマでのパトロンだったジュリアーノ・デ・メディチが亡くなった後、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世の招待でフランスへ向かいました。

この時に与えられたのがアンボワーズ近郊のクルーの館で、永眠するまでの3年間を弟子や友人たちとともに過ごしていたそうです。

生涯「万能の天才」を貫き通した

フランスへ移住した後も活動の広範さは健在で、「アルジャンタンの舞踏会」や「マリニャーノ先勝記念イベント」「フランス王の姪の結婚式」といった祭典のプロデュースを行いました。

また、植物や動物の動き、機械の設計図、流体に関する考察など芸術領域に収まらないさまざまなノートをまとめていたそうです。

レオナルドのノートは一つの事柄について1ページにまとめて記載されていることが多く、将来的に出版するつもりだったのではないかとも言われています。

1519年 – 67歳「フランス、クルーの館で永眠」

67歳でこの世を去る

天才ダ・ヴィンチの最後

1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスのクルーの館で息を引き取りました。遺言に従って葬儀には60名の貧者が参列したそうです。

また、遺産相続は金銭だけでなく、絵画や蔵書、道具、私物(ノートなど)を兄弟や弟子だけでなく給仕係にまで分配したそうです。近しい人には大変優しかった、というレオナルドの性格が分かるエピソードです。

レオナルドの死後、フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチのことを

「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」

と語ったと言われています。

マルチタレントな人が多かった当時においてもレオナルド・ダ・ヴィンチの多才さは際立っていたことが分かります。

ダ・ヴィンチの関連作品

おすすめ4コマ漫画

おすすめ書籍・本・漫画

レオナルド・ダ・ヴィンチ 上

世界的ベストセラーとなった「スティーブ・ジョブズ」の著者が記した、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記です。レオナルド・ダ・ヴィンチが残した500年前の7200ページにもなる手記、ノートを中心に解説がされているため、画家としてだけでなく「万能の天才」と言われる所以がよく分かる本です。

イラストで読む レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチのの生涯のエピソードをイラスト付きで分かりやすく知れるだけでなく、人物相関図や当時の社会状況等の解説もされていて、レオナルド・ダ・ヴィンチの生きた自体も合わせて知ることができる本です。

ペンブックス1 ダ・ヴィンチ全作品・全解剖。 (Pen BOOKS)

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画作品にフォーカスして解説されている本です。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と他者の作品を比較しながら解説がされていたりなど、入門者向けの読みやすい本です。

ダ・ヴィンチ・コード

「レオナルド・ダ・ヴィンチはシオン修道会のメンバーだった」という都市伝説をもとに展開されるフィクション作品です。内容はフィクションですが随所にレオナルドの作品が謎解きの鍵として出てくるので、興味を持つキッカケには良い本です。

上記以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる書籍をこちらの記事で紹介していますので、多くの選択肢から書籍を選びたい人はご覧ください。

レオナルド・ダヴィンチをよく知れるオススメ本6選【入門から上級まで】

おすすめ動画

万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ偉人伝〜絵画全13作品を徹底解剖〜前編

当時の時代背景やレオナルド・ダ・ヴィンチの周りの人物についても解説しつつ、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯や絵画作品ひとつひとつの解説されている分かりやすい動画です。

おすすめドラマ

ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯

イタリア放送協会が制作したドキュメンタリードラマです。ドキュメンタリータッチで描かれているため当時の生活なども想像しながらみることができる貴重な作品と言えます。

ダ・ヴィンチ・デーモン

青年時代のレオナルド・ダ・ヴィンチが主人公のミステリードラマです。「学ぶ」というよりも「楽しむ」コンテンツのため好き嫌いは分かれるかもしれませんが、レオナルド・ダ・ヴィンチの想像を膨らませてくれる作品です。

関連外部リンク

終わりに

レオナルド・ダ・ヴィンチは、アウトプットの一つが「絵画」だっただけで、「画家」というよりも「研究者」「探求者」と言ったほうがシックリくることがが記事執筆を通して分かってきました。

飽きっぽくて完璧主義、なかなか作品が完成しない部分は見習わないほうが良いですが(笑)、興味のある事柄については学問の垣根なんて気にせずとことん突き詰めていくその姿勢は大いに見習いたいと思います。

この記事を読んだ方がレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯から何かしらポジティブな学びが得られれば幸いです。

コメントを残す