レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・年表まとめ【作品や本名、死因も紹介】

レオナルド・ダ・ヴィンチは、中世ヨーロッパ・ルネサンス期の芸術家です。世界一有名な絵画といわれる「モナリザ」や、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の修道院に描かれた「最後の晩餐」などでよく知られています。

またレオナルドは芸術だけでなく、工学や解剖学、天文学などにも大きな功績を残しました。多種多様な分野への飽くなき探求心と独創性から「万能の天才」と呼ばれています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像

彼が遺した7200枚ものノートには、現代のヘリコプターや装甲車などに通じる乗り物の構想や、世界初の人体解剖図など描かれています。数々のスケッチが残っている一方、彼の作品には謎めいた部分も数多く、いまだに世界中の美術史家を悩ませているのも事実です。そのミステリアスさから、2003年に出版された小説「ダ・ヴィンチ・コード」の題材になりました。

現在でも注目を集め続けるレオナルド・ダ・ヴィンチ。その人生を知ると、彼をさらに好きになれます。まさに彼の生涯を知って好きになった筆者が、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作や功績、人生をご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

レオナルド・ダ・ヴィンチとはどんな人物か

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名前レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
(Leonardo di ser Piero da Vinci)
誕生日1452年4月15日
生地フィレンツェ共和国ヴィンチ村
没日1519年5月2日
没地フランス
アンドル=エ=ロワール県
クルーの館
配偶者なし
埋葬場所フランス
アンドル=エ=ロワール県
アンボワーズ城
サン=ユベール礼拝堂

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をハイライト

ミラノ・スカラ広場にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ像

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日イタリア・フィレンツェ郊外にあるヴィンチ村に生まれました。幼い頃から絵の才能に秀でた子供だったようで、14歳のときに「フィレンツェで最も優れた工房」といわれていたヴェロッキオの工房に弟子入りしています。師匠であるヴェロッキオとの共作には「キリストの洗礼」「受胎告知」などがありますね。

1472年、20歳で「マスター(親方)」の資格を得ると、父親援護のもと自分の工房をもちました。1476年に同性愛者の嫌疑をかけられた事件があったものの、1478年には父親のもとからも独立しています。けれども1480年代初頭、スランプ状態に陥ったレオナルドは制作を放棄してミラノ公国へ向かいました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像

ミラノでは、軍事技術者として働く一方で、「岩窟の聖母」「最後の晩餐」など現代でもよく知られる名作を制作しています。1499年に第二次イタリア戦争が起こるとヴェネツィア共和国へと逃れ、翌年にフィレンツェに戻りました。

1503年から「モナリザ」の制作が始まりました。レオナルドは亡くなるまでこの作品に手を加え続けています。1508年には再びミラノに引っ越し、1513年にはローマに移住しました。

ローマでは実質的な遺作となる「洗礼者ヨハネ」を制作。1516年にはフランス王から招かれ、亡くなるまで過ごしています。1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチは67歳で亡くなりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの本名と由来

ダ・ヴィンチの故郷 ヴィンチ村

日本ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことをよく「ダ・ヴィンチ」と略称しますが、イタリアの人はそうは呼びません。なぜでしょうか。

彼の本名は「レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ」といいます。

「セル・ピエーロ」は父親セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチからとっています。そして「ダ・ヴィンチ」は生まれた村の名前「ヴィンチ」が由来です。「ダ・ヴィンチ」で「ヴィンチ村の」という意味になります。

実は当時、名字があるほうが珍しく、同じ名前の人には村名や土地名、職業名などをつけて区別していたそうです。そのためイタリアの人がレオナルド・ダ・ヴィンチを略称するときは「レオナルド」と呼びます。「ダ・ヴィンチ」だと「ヴィンチ村の」になってしまいますからね。

なのでこの記事での略称も「レオナルド」としています。意味を知るともう彼のことを「ダ・ヴィンチ」なんて呼べなくなりますね。

レオナルド・ダ・ヴィンチの出生と家庭事情

歴史に残る天才の誕生

レオナルドは、フィレンツェ郊外のヴィンチ村で公証人であるセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農家の娘カテリーナとの間に私生児として誕生しました。

公証人とは
公の文章作成などを扱う弁護士と会計士を合わせたような職業で当時としてはエリートにあたる職業です。

両親は身分違いのため正式な結婚をせず、父親だけフィレンツェの中心街に出ていってしまい、レオナルドは母親とフィレンツェの郊外で暮らしました。一説には、父親は公証人という仕事柄、フィレンツェに出張することが多かったため、フィレンツェ都市部で過ごすことが多かったとも言われています。

カテリーナも別の男性に嫁ぎ、子を授かったため、実質的にはレオナルドは父方の祖父・アントニオや叔父・フランチェスコに育てられたそうです。

その後、5歳の頃に父親が名家の娘と正式に結婚するも、子供に恵まれなかったために父に引き取られ、父夫婦と暮らすことになりました。

なんだか複雑な家庭事情があるようですが、父セル・ピエーロはレオナルドの才能を早い時期から見抜いていたようで、工房への入門や独立の援助を惜しまなかったりと、愛のない家庭ということでもなかったようです。

完璧主義と飽き性を兼ね備えた気性の持ち主

万能の天才と呼ばれたダ・ヴィンチ

「万能の天才」とまで言われるレオナルド・ダ・ヴィンチ、その容姿や性格はどのようなものだったのでしょうか。

性格は穏やかでマイペース。ただし自分が興味を持ったものにはとことんこだわる完璧主義な面がある一方で、飽き性でもあったようです。そのせいなのか、レオナルドの作品は16作品か現代に残っていません。彼の生涯を振り返ってみてみても、依頼を受けたもの途中で投げ出すことが多くあります。

また、いたずら好きで、ある日見つけたトカゲのの背中に染色した鱗をたくさん貼り付け、友人たちに見せて驚かせたという逸話もあります。案外、お茶目な面もあったんですね。

自分なりのこだわりが強いため周りを困らせることもあったレオナルドですが、親しい人に対しては優しく、また菜食主義なこともあってか動物に対してもとても優しかったそうです。

天才で変わり者、謎が多い人物というイメージが強いレオナルドですが、実は飽きっぽいけど優しくて人に慕われる、人間味溢れる人物だったようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが画家になるまでの経緯

ダ・ヴィンチの師アンドレア・デル・ヴェロッキオ

レオナルド・ダ・ヴィンチは私生児として生まれたため、しっかりとした教育は受けられませんでしたが、自然豊かなヴィンチ村で勉学の代わりに自然をつぶさに観察する観察眼と探究心を養ったと言われています。

その後、14歳で父の力添え(一説には金遣いのあらいレオナルドを見かねて工房を紹介したという説もある)もあり、当時フィレンツェで一、二を争う有名なヴェロッキオの工房へ入門。多くの弟子や雇われ絵師に囲まれて、絵画、彫刻だけでなく金属加工、機械工学、木工、建築、設計などさまざまな分野を学びました。

この工房からレオナルド・ダ・ヴィンチの画家としてのキャリアがスタートしたのです。

当時の工房での作品制作スタイル
当時のフィレンツェの工房では一度に多くの注文を捌くために工房の弟子たちや雇われた芸術家が共同で作品を制作していました。

レオナルド・ダ・ヴィンチは画家?科学者?発明家?

博物館で再現されたダヴィンチの物作りアイディア

「モナ・リザ」の作者として有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ。彼の活動は画家としてだけでなく、解剖学、土木工学、工学、流体力学、地質学、天文学など非常に広範な分野に及びました。

たとえば、ヘリコプターや装甲車、パラシュートの構想を持っていたり、世界初の詳細な人体解剖図の作成や、動脈硬化の発見をしていたり、当時としては異常なほど正確な地図を描いていたりなど。また、芸術面では絵画だけでなく、彫刻や音楽もやっていましたし、舞台演出の総監督を努めたこともありました。

ここまで広い分野で活躍しているのは人類史上でもレオナルド・ダ・ヴィンチただ一人で、「万能の天才」と言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作品

モナ・リザ

ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

レオナルド・ダ・ヴィンチといえばこの作品でしょう。世界で最も有名な絵とも言われています。この謎めいた微笑みからか、都市伝説や映画の題材としても取り上げられていますね。

受胎告知

受胎告知

レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳のときに師匠・ヴェロッキオと共作した作品です。イタリア・フィレンツェにあるウフィツィ美術館に所蔵されています。1472年から1475年頃に制作され、当時ヴェロッキオの工房にいち早く導入された油絵の具を使っています。

大天使ガブリエルが聖母マリアのもとを訪れ、イエス・キリストを授かったことを告げる場面を描いた作品です。レオナルドが担当したのは背景とガブリエルで、よく見るとガブリエルの羽は現実の鳥の羽のように描かれています。天使の羽は金色で描かれることが一般的だった当時、レオナルドの描いた羽は珍しいものでした。

サルバトール・ムンディ

サルバトール・ムンディ

1490年から1519年頃にかけて制作された作品です。2017年にオークションでおよそ4億5000万ドル(日本円で約508億円)で落札されたことでも知られています。この価格は一般市場で流通している美術品のなかでは史上最高額のものです。

「サルバトール・ムンディ」とは「世界の救世主」という意味のラテン語で、右手で十字を切り、左手に水晶をもったイエス・キリストが正面から描かれています。左手の水晶は「天球」を意味しているとされているのですが、光の屈折が起こるため、実際の水晶はこの作品に描かれているように背後がそのままクリアに見えることはありません。「科学に精通していたレオナルドがこのような間違いをするだろうか?」「何かの暗号では?」と専門家の間でも議論が起こっている作品です。

洗礼者ヨハネ

洗礼者ヨハネ

レオナルド・ダ・ヴィンチ最後の完成している作品です。1513年から1516年頃に描かれ、「モナリザ」「聖アンナと聖母子」とともにレオナルドが生涯手元に置いていた作品といわれています。現在はルーブル美術館に所蔵されていますね。

ヨハネは旧約聖書に描かれているうち最大の預言者で、救世主であるキリストの到来を告げるのですが人々は信じず、ついには処刑されたのです。暗い画面はキリストが到来していない世界を、天を指し示す指は「真実のあるところ」を表しているとされています。「スフマート」と呼ばれる柔らかな筆使いで繊細な陰影を表現する技法が最高潮に達した頃の作品です。

最後の晩餐

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

こちらも世界でも有名な作品です。最も多くの複製がやパロディ画が描かれた宗教画とも言われています。キリスト教徒ではない日本人でも大半の人は知っているのではないでしょうか。

最後の晩餐に焦点を当てて、どんな絵なのか、背景や特徴を以下の記事で詳しく解説していますので、是非ご覧ください。

「最後の晩餐」とは?天才レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作を徹底解説

アンギアーリの戦い

ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」

ヴェッキオ宮殿の大会議室の壁に描かれ、未完成のまま放置された本作品。実は大会議室の別の壁画の裏にまだ現存しているのではないか、と言われており現在でも多くの研究者の注目を集めています。

上記以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を解説つきで紹介していますので、読んでみてください。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品・代表作10選!創作背景も解説

レオナルド・ダ・ヴィンチの功績

功績1「さまざまな絵画制作の技法を大成」

遠くのものを青っぽくぼかして描く「空気遠近法」を熱心に研究した

レオナルド・ダ・ヴィンチは、さまざまな絵画技法を制作に取り入れ、技術を洗練していったことで知られています。レオナルドが生まれる以前、初期ルネサンスには遠近法や透視図法が発明されました。発明されたばかりでまだ粗削りだったそれらの技法を、レオナルドは制作の中でブラッシュアップしていったのです。

たとえば「モナリザ」の背景は遠くのものほど青っぽく、ぼかして描かれていますよね。これは「空気遠近法」という技法で、北方フランドル(現在のオランダあたり)で誕生したものです。レオナルドは空気遠近法を取り入れることで、当時はまだ重要視されていなかった「風景」をリアルに描くことができました。

功績2「工学技術者としてヘリコプターなどを考案」

レオナルドによるヘリコプターのスケッチ

レオナルドは優れた工学技術者としても有名でした。ヘリコプターや装甲車など軍事に仕えるものをはじめ、印刷機や楽器など発明品の構想は100以上に及びます。なかにはロボットのような、500年前に考案されたものとは思えないものもあり、レオナルドの発想の豊かさがわかります。

かねてからレオナルドには「空を飛びたい」という夢があったようです。鳥やコウモリなど空を飛ぶ動物や昆虫、トビウオまで研究し、その飛ぶ原理を追究したノートが残っています。ヘリコプターのほかにも、ハンググライダーやパラシュートなどを考案していました。

功績3「解剖学の進歩に大きく貢献 」

レオナルドによる人体骨格のスケッチ

レオナルドが弟子入りしたヴェロッキオの工房では、正確なデッサン力を身につけるために解剖学の技術の習得が勧められていました。レオナルドもすぐに習得し、絵画制作にいかしていったのですが、そのうちに科学者の視点から解剖に興味をもつようになったといわれています。画家として有名だった彼は、病院で遺体解剖の立ち合いを許可されたり、解剖学の教授と共同研究も行ったりするようになりました。

レオナルドのスケッチの中には、脊椎や肝硬変、動脈硬化などが正確に描かれています。それらのスケッチはすぐに出版されなかったために正式な発見とはなっていないのですが、現在ではレオナルドの解剖学での功績は多くの人が知るところとなりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの名言

知恵は経験の娘である。(Wisdom is the daughter of experience.)

シンプルさは究極の洗練である。(Simplicity is the ultimate sophistication.)

その手に魂が込められなければ、芸術は生まれないのだ。(Where the spirit does not work with the hand, there is no art.)

最も高貴な娯楽は理解する喜びである。(The noblest pleasure is the joy of understanding.)

猫科の一番小さな動物、つまり猫は、最高傑作である。(The smallest feline is a masterpiece.)

レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる3つの謎

謎多きダ・ヴィンチの生涯

謎その1「鏡文字を多用していた?」

レオナルド・ダ・ヴィンチの残したノートのほとんどは鏡文字(左右反転した文字)で書かれていたそうです。なぜ鏡文字を使ったのか。ノートに重要な秘密を記載していたから、という説や、幼少期に教育を受けなかったために幼少の頃の書き方が矯正されなかったからという説がありますが、今となっては誰も真実を知ることができません。

謎その2「同性愛者だった?」

当時は認められていなかった同性愛

ハンサムで優しい性格だったレオナルドダ・ヴィンチですが生涯独身で恋仲と呼べる女性もいなかったそうです。また、同性愛者の疑いで裁判になったり、同性愛を思わせる描写が絵画にも見られたりと、実は同性愛者だったのではないか、と言われていますがはっきりとした証拠は残っていません。

謎その3「レオナルド・ダ・ヴィンチは複数人いた?」

のあまりにも多方面での功績の多さから「レオナルド・ダ・ヴィンチは複数人いたのではないか」という説があります。確かに名前も「ヴィンチ村のレオナルド」ですから名前が被ることもありそうです。もしかしたら意図的に活動をともにするグループのメンバーのことを「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼んでいたのかもしれません。

レオナルド・ダ・ヴィンチのクイズ

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Q1/Q5

レオナルド・ダ・ヴィンチの「ダ・ヴィンチ」はどんな意味があるでしょうか?

Q2/Q5

レオナルド・ダ・ヴィンチの着彩画はフェルメールより多い?少ない?

Q3/Q5
Question Image

2017年、オークション史上最高額でダ・ヴィンチ作とされる《サルヴァトール・ムンディ》が落札されました。落札額はおよそどのくらいだったでしょう?

Q4/Q5
Question Image

《最後の晩餐》は現存するレオナルド作品中、最大の壁画です。この壁画はどこに描かれたものでしょうか?

Q5/Q5

ダヴィンチの誕生日、4月15日は彼の功績を称えてある記念日になっています。それは何の記念日でしょうか。

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