レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯・年表まとめ【作品や本名、死因も紹介】

1466年 – 14歳「ヴェロッキオの工房へ入門」

フィレンツェで最も優れた工房のヴェロッキオの工房へ入門

レオナルド・ダ・ヴィンチは14歳のときに、父親の尽力もあり、当時のフィレンツェで最も優れた工房の一つと言われていたヴェロッキオが運営する工房に入門します。

当時の工房は大量の注文にスピーディーに対応するために多くの弟子や雇われ画家などが協力して絵画や彫刻の制作を行っていました。

「万能の天才」はここから生まれた

ダ・ヴィンチの解剖学的スケッチ

多種多様な芸術家や匠がいる環境のおかげか、絵画や彫刻だけでなく冶金や建築設計、木工、皮細工、機械工学などさまざまな分野の知見を吸収したと言われています。

ヴェロッキオの工房では、絵画のために解剖学の習得も勧めており、のちにレオナルドの偉業の一つの解剖スケッチの基礎もここで学んだと言われています。

こういったレオナルドの好奇心を十二分に満たしてくれる環境の中で、技術だけでなく理論に関してしても才能を開花させ、まさに「万能の天才」の下地ができた時期でもあります。

1472年 – 20歳「マスター(親方)の資格を得る」

聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得る

若いうちから才能を認められた

若い頃から才能を発揮していたレオナルド・ダ・ヴィンチは20歳の頃にはマスター(親方)の資格を得ていたと言われています。

同じ時期には「キリストの洗礼」という作品を師であるヴェロッキオと共同制作しており、ダヴィンチの制作した部分のあまりのできの良さに師ヴェロッキオは2度と絵画を描かなくなった、という逸話が残っているほどです。

この逸話、実際にはヴェロッキオは絵画制作は続けており、絵画部門の大部分をレオナルドに任せて本業である彫刻に専念した、というのが有力な説のようです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの才能開花には父親の支援のおかげでもあった

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1472年頃にはヴェロッキオの工房から独立していたとも言われています。この独立には父セル・ピエーロがレオナルドに工房を与えるなどの援助があったそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の若さで独立できたのは、その才能もさることながら、父セル・ピエーロのレオナルドに対する惜しみない援助もあったからだとも言えます。

1476年 – 24歳「サルタレッリ事件」

ダ・ヴィンチが疑惑の的となった事件とは

同性愛者の容疑をかけられた「サルタレッリ事件」

1476年、レオナルド・ダ・ヴィンチを含む数人が当時有名だった男娼と揉めて事を起こしたとして、同性愛者の容疑で訴えられました。

結局は証拠不十分で無罪放免とされていますが、この記録が「レオナルド・ダ・ヴィンチは同性愛者の傾向があったのではないか」という説を示唆することにつながっています。

「サルタレッリ事件」は権力によって不起訴になった?

証拠不十分として放免された「サルタレッリ事件」ですが、実は容疑者の一人が当時の有力者であるメディチ家の関係者だったため、メディチ家が圧力をかけたという説や、レオナルドの父親が公証人だったおかげで無罪放免となった、という説があります。

当時、同性愛はキリスト教の教えに反するとして、最悪の場合は火あぶりにされるほどでした。権力で圧力を掛けたりすることはあまり良いとは思えませんが、この場合は無罪放免となりレオナルド・ダ・ヴィンチの今後の偉業が後世に残ることにもつながったので良かった、のかもしれません。

1478年 – 26歳「工房から独立後の最初の作品を制作」

工房から独立後の最初の作品「ブノアの聖母」「カーネーションを持つ聖母」を制作

ダ・ヴィンチ「ブノアの聖母」

1478年、レオナルド・ダ・ヴィンチは独立後も継続していたヴェロッキオとの共同制作を止め、父親の家からも出ました。まさに独立です。その時に制作されたのが「ブノアの聖母」や「カーネーションを持つ聖母」です。

1480年 – 28歳「スランプ時代?「荒野の聖ヒエロニムス」制作」

思い悩んだスランプ時代「荒野の聖ヒエロニムス」の制作

ダ・ヴィンチ「荒野の聖ヒエロニムス」

1480年頃にレオナルド・ダ・ヴィンチは「荒野の聖ヒエロニムス」を描き始めますが、描き始めの段階で制作を放棄しています。放棄した理由には「依頼主からの支払いがなかった」や「大作である“東方三博士の礼拝”の依頼が同時期に来た」など諸説ありますが、当時のレオナルドの手記には

「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」

という記述があり、スランプだったのではないか、という説もあります。「自分の描きたい絵はこれなのだろうか」といった悩みを抱えていたのかもしれませんね。

靴屋の足乗せ台に使われていた「荒野の聖ヒエロニムス」

未完のまま放棄された「荒野の聖ヒエロニムス」は、19世紀に靴屋の足乗せ台として使用されているところを発見されました。

現在は修復されてヴァチカン美術館に所蔵されていますが、未完とはいえ靴屋の足乗せ台にされていたこともそうですが、よく見つけたなと、いろいろな点で驚きです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品はいまだに所在が分からない作品が多いと言われているので、もしかしたら私たちの身近に何気なくあったりするのかもしれません。

1481年 – 29歳「「東方三博士の礼拝」の制作開始」

修復作業中の「東方三博士の礼拝」

「東方三博士の礼拝」の制作開始

1481年5月、父セル・ピエーロの口利きもありレオナルド・ダ・ヴィンチはサン・ドナート・スコペート修道院から「東方三博士の礼拝」の制作を依頼されます。相変わらず、父からの惜しみない援助があったようです。

この依頼はレオナルドが受けた最初の大きな依頼と言われていますが、後にレオナルドがミラノ公国に旅立ったため未完のまま放棄されることになります。

心機一転、ミラノ公国へ

1482年、レオナルド・ダ・ヴィンチは、当時の強国であったミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツア(通称イル・モーロ)公に自薦状を出し、「東方三博士の礼拝」の制作を放棄してミラノ公国へ旅立ちます。

ルドヴィーコ・スフォルツア公に送った自薦状には、土木学や築城、兵器の設計・製造など多方面での自らのスキルを書き連ね、また戦時下でなくとも絵画や彫刻などの芸術的なスキルを兼ね備えていることが記載されていたそうです。

レオナルドのミラノ行きには、「東方三博士の礼拝」の制作に行き詰まっていたという説や、金銭的なトラブルがあったためという説があります。もしくは、これら複数のトラブルが重なったため、心機一転、再スタートを切りたくて自薦上を書き、大事な依頼を放棄してまでミラノ公国に旅立ったのかもしれません。

1483年 – 31歳「25年間の裁判沙汰になる「岩窟の聖母」制作」

ナショナル・ギャラリー所蔵の「岩窟の聖母」

ミラノでの初仕事「岩窟の聖母」は2つ存在する

ミラノへ移住したレオナルド・ダ・ヴィンチの初仕事は「無原罪の御宿り信心会」からの依頼で礼拝堂に飾るための絵画、のちに25年間の裁判沙汰になる「岩窟の聖母」の制作でした。

実はこの「岩窟の聖母」は2つ存在します。一つはパリのルーヴル美術館が所蔵し、もう一つはロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。

どちらもレオナルド・ダ・ヴィンチが制作したもので構図もほぼ同じ絵です。なぜ2つも同じような絵を描いたのでしょうか。

「岩窟の聖母」が2つある理由。25年間に渡る裁判沙汰

絵画を巡って裁判沙汰に

2つ存在する「岩窟の聖母」。その最初の絵は、依頼主からイメージと雰囲気や構成が異なるとしてクレームが入り、裁判となってしまいます。結局、裁判ではフランス王ルイ12世の仲裁により、依頼主の意向に合わせる形で同じ図柄の絵を描き直すことになりました。

描き直しは1495年からレオナルド・ダ・ヴィンチ監督のもと、弟子たちによって進められ、完成して費用が支払われたのは最初の「岩窟の聖母」制作から25年後の1508年だったそうです。

明らかに2作目の制作に時間がかかっていますし、良かれと思って描いた一作目にクレームを入れられてからの描き直しなのでモチベーションはとても低かったのではないでしょうか。

ミラノでの生活には苦労していた

当時のミラノ公国の人口は10万人とヨーロッパの中でも多く、人や情報の往来が活発な大都市でした。

レオナルド・ダ・ヴィンチの当時の手記には、未払いの食事代のメモや支払に関するメモなど生活に関するものが多く、「万能の天才」とまで言われるほどのレオナルドでも、故郷のフィレンツェとは異なる習慣や気候、言語などになかなか順応できなかったことがうかがえます。

ただ、そういった刺激の多い環境を気に入ったのか、生涯において何度もミラノを訪れることになります。

1489年 – 37歳「人体解剖デッサンを開始」

「ウィトルウィウス人体図」

ダ・ヴィンチ「ウィトルウィウス人体図」

レオナルド・ダ・ヴィンチは1489年頃から人体を解剖し、詳細をデッサンする活動をはじめました。

のちに教皇のルイ12世が解剖を禁止するまでの約20年間で約30体の死体を解剖し、そのデッサンの数は750枚にも上ったそうです。その中で描かれたのが有名な「ウィトルウィウス人体図」です。

当時のレオナルドの人体解剖のデッサンは、当時のどの解剖図よりも詳細、かつ正確で先進的な内容でしたが、完璧主義の性格からか自ら発表することはしなかっため、直接的にな解剖学への貢献はあまり大きくありませんでした。

1490年 – 38歳「舞台総監督までこなす多才ぶり」

舞台美術にも携わったダ・ヴィンチ

舞台劇「天国の祭典」の舞台総監督を務める

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1490年1月13日に開催された「天国の祭典」という舞台劇の舞台総監督を務めました。実はミラノで一躍有名になったのがこの仕事だと言われています。

舞台装置や演出に関しては詳細な記録は残っていませんが、観客たちの記憶に強烈に残る演出をしたそうです。

絵画や彫刻、軍事技術者というだけでなく舞台監督までやってのけるとは、さすが「万能の天才」ですね。

数学者の友人のもとで数学を学ぶ

ダ・ヴィンチが描いた本の挿絵

1490年代にはレオナルド・ダ・ヴィンチは数学者のルカ・パチョ―リのもとで数学を学び、1509年に出版されたパチョーリの「神聖比率」の挿絵60枚を描いています。

レオナルドはちょうど同時期に「最後の晩餐」の制作に取りかかっていて、数学的な知識が必要な遠近法についてはパチョ―リから助言をもらっていたそうです。

レオナルド・ダ・ヴィンチが理論的に絵画などの作品を制作していることがうかがえるエピソードでもあります。

1493年 – 41歳「「スフォルツア騎馬像」とミケランジェロからの侮辱」

ダ・ヴィンチ「スフォルツァ騎馬像のための素画」

「スフォルツァ騎馬像」の馬部分の原型像が完成

1493年、ルドヴィーコ・スフォルツァ公の「世界最大のフランチェスコ・スフォルツァ将軍(ルドヴィーコの父)の像を制作せよ」という命により、かねてより制作していた「スフォルツア騎馬像」の馬部分の原型(粘土)像が完成します。

この騎馬像の鋳造のために17tにもなるブロンズが用意されましたが、フランス王がミラノに侵攻にしてきたため、用意されたブロンズは大砲の材料として使われてしまい、「スフォルツア騎馬像」を鋳造することができませんでした。

そして、1499年に勃発する第二次イタリア戦争で原型像も破壊され、「スフォルツア騎馬像」はついに完成することはありませんでした。

ライバル、ミケランジェロからの侮辱

ヴォルテッラが描いたミケランジェロの肖像画

「スフォルツア騎馬像」を完成させることができなかったレオナルド・ダ・ヴィンチに対してライバルだったミケランジェロは

あなたは騎馬像の素描(デッサン)はなされたが、それをブロンズに鋳造しようとして鋳造できず、恥知らずにもそのまま放置した

と侮辱したそうです。

1943年当時、レオナルドは41歳、ミケランジェロはなんと18歳。20歳以上も若いミケランジェロに侮辱されたレオナルドは失意のどん底だったと言われています。

戦争の影響で完成できなかったとはいえ、自分よりも20歳以上も若い若者にこんな侮辱をされたら落ち込みますよね。

生母カテリーナと一緒に暮らす

1943年頃、ヴィンチ村で貧しい暮らしをしていた生母のカテリーナをミラノに招待し、カテリーナがなくなるまでの約2年間を一緒に暮らしたそうです。

1495年 – 43歳「「最後の晩餐」の制作」

ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」

実は失敗していた「最後の晩餐」

1495年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に「最後の晩餐」を描きました。

世界で最も複製画やパロディ作品が作られた宗教画としても有名でレオナルドダヴィンチの最高傑作とも言われるこの作品ですが、実はこの時に試した新技法が原因で、50年も経たないうちにボロボロに崩壊してしまいました。

現存する壁画の大部分は1980年から行われた修復作業によるもので、レオナルド自身が実際に描いた部分はほとんど残っていないと言われています。

なぜ新技法を試したのか

壁画を描く時の技法の一つにフレスコ画がありますが、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描いた時はフレスコ画の技法を用いませんでした。

それは、伝統的なフラスコ画では表現できない明るさを表現したかったからと、フラスコ画は石膏が乾燥する前に急いで描かなければならず、遅筆なレオナルドにとっては苦手な画法だったためだと言われています。

1499年 – 47歳「第二次イタリア戦争が勃発」

作者不明 イタリア戦争パヴァの戦い

第二次イタリア戦争が勃発、ヴェネツィアへ避難

1499年、第二次イタリア戦争が勃発し、ミラノ公国はフランスに敗れたため、レオナルド・ダ・ヴィンチは弟子や友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィア共和国へ避難します。

避難先のヴェネツイアでは、画家ではなくまたもや軍事技術者として雇われることになります。

恐ろしい兵器のアイディアは隠していた

ダ・ヴィンチは様々な発明のアイディアを残した

レオナルド・ダ・ヴィンチのアイディアの中にはヘリコプターや装甲車、パラシュートといった現代では実現されているアイディアも多数含まれていましたが、当時の技術では実現できたものが少なかったそうです。

また、矛盾しているかもしれませんがレオナルド自身は戦争を嫌っており、自ら恐ろしいと感じる兵器のアイディアに関しては公表することがなかったと言われています。

レオナルドは、兵器はあくまで自己防衛や敵勢力への対抗手段として捉えていたようです。彼の合理的な考え方や博愛的な一面がうかがえますね。

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