高杉晋作(たかすぎしんさく)天保10年(1839年9月27日)-慶応3年(1867年5月17日)は、江戸末期の激動の時代を生きた、現在の山口県にあたる長州藩出身の志士です。尊王攘夷の志士として活躍しましたが、のちに長州藩を討幕に傾けたキーマンとなります。
通称は「晋作」と言われていますが、本名は「春風(はるかぜ)」。高杉家は、戦国時代から代々毛利家に仕えてきた名門で、晋作は武家に生まれた誇りを持って育ちます。
そんな晋作の生涯は、本名「春風」のごとく激しく、たった27年という短い人生でした。しかしその人生には、長州藩一の美女との結婚や、「奇兵隊」を結成、脱藩、第二次長州征討への参加など様々な功績や武勇伝があります。
討幕から大政奉還へという新しい時代を見ることなく亡くなってしまいましたが、晋作は250年以上続く幕府の権威を落とし、新しい時代の扉を開くきっかけを作った一人だと言えるでしょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
高杉晋作とはどんな人物か?
名前 | 高杉晋作 |
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本名 | 春風 |
誕生日 | 1839年9月27日 |
生地 | 長州藩(山口県) |
没日 | 1867年5月17日(27歳) |
没地 | 下関市桜山 |
配偶者 | 高杉雅 |
埋葬場所 | 山口県下関市吉田 東行庵 |
高杉晋作の生涯をハイライト
高杉晋作は、どのような生涯を歩んできたのかを、簡単におさらいしていきましょう。
高杉晋作は1839年9月27日、現在の山口県にあたる長州藩に生まれます。父親は長州藩士の高杉小忠太のため、少年時代は藩校の明倫館に入学し、剣術などを学びました。18歳になると、松下村塾に入学し吉田松陰を尊敬し「草莽崛起」という思想に感銘を受けます。
時代を切り開く為には、身分に関係なく志高い者が立ち上がらなければならないというもの
その後22歳になった高杉晋作は、長州藩一の美女と言われた、井上平右衛門の次女、まさと結婚します。しかし激動の時代だったこともあり、妻のまさと過ごした時間は1年程だったそうです。
高杉晋作は24歳の頃に、師である吉田松陰の「草莽崛起」という思想に従い、有志を集めて「奇兵隊」を設立します。これは武士や農民などの垣根を取っ払った、新しい軍のシステムを作り上げたといえます。
その後、第一次長州征討が始まる頃、長州藩は幕府に味方する声が強くなっていました。倒幕を考えていた26歳の高杉晋作は、これに危機感を感じ、藩に不満を持つものを集めてクーデターを起こし成功します。
長州藩の実権を握った高杉晋作は、幕府との第二次長州征討にて勝利し、後の倒幕に大きく貢献しました。その後高杉晋作は1867年5月17日、肺結核によって27歳の若さで亡くなります。
高杉晋作は長州藩士らしく男気溢れる性格
高杉晋作は、名門の武家に生まれました。今で言うなれば、良家のエリートのようなものです。家柄を誇りに思う晋作は、子供の頃から正義感とプライドが高かったようです。また、同じ松下丸塾の塾生だった伊藤博文が晋作のことを次のように語っています。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然(がいぜん)、あえて正視するなし」
動けば雷電のようで、風雨のように言葉を発し、まわりは驚くばかりで、誰も正視すらしない…。晋作のことを、破天荒な異端児とよく表現されますが、身近な人をも驚かせるほど突拍子もない行動力があったのかもしれませんね。
また高杉晋作はクーデターを起こした際「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と叫び戦ったり「男子たるもの困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」という言葉を残していたりと、高杉晋作が残した言葉からも、長州藩士らしい男気を感じ取ることが出来ます。
高杉晋作の生まれは?
高杉晋作は、1839年9月27日に長州藩士である高杉家の長男として生まれました。高杉家の男子は晋作だけで、下に3人の妹がいます。
名門武家の高杉家の跡取りとして大事に育てられた晋作は、自分の家柄に高い誇りを持って育ち、8歳になると、萩でも評判の寺子屋へ入塾し、ここで、将来同士となる久坂玄端と出会います。
秀才だった玄端とは違い、晋作は勉強があまり好きではなく、剣術ばかりに打ち込んでいたようです。
負けず嫌いで才能があり、剣術も学業も優秀だった
高杉晋作は長州藩の藩校、明倫館に入学しますが、ここで柳生新陰流剣術を学び、後に免許皆伝を成し遂げています。松下村塾の吉田松陰からも、その剣術の才能を認められていましたが、反対に学業が疎かになっていると言われます。
そんな高杉晋作を奮起させるために、吉田松陰はあえて同門で高杉と仲のいい久坂玄瑞ばかりを褒めて育てました。
負けず嫌いの高杉晋作はこれに悔しがり、学業も力をいれるようになり久坂玄瑞と切磋琢磨しあったそうです。
高杉晋作は自分が小柄なのを気にしていた?
高杉晋作の身長は150~155cm言われており、本人は小柄であることを気にしていました。そのため高杉晋作は、写真を撮る際も直立して写ることはありませんでした。
今のイメージだと非常に低い身長に感じますが、当時の江戸時代の男性の平均身長は155cmなので、ものすごく低いというわけではありません。
おそらく幼馴染の久坂玄瑞の身長が180cmほどあったことや、同じく長州藩の桂小五郎の身長が174cmであったりと周囲の人たちが高身長だったため、小柄なのを気にしていたのでは無いのかと思われます。
松下村塾は私塾であって寺子屋ではない
わーい