高杉晋作とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や名言・辞世の句について紹介】

高杉晋作が影響を受けた人物は?

吉田松陰

高杉晋作が19歳の時、久坂玄端に誘われて、吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入塾します。入塾した際に提出した自信作の詩を、松陰から「久坂玄端よりは劣る」と評価されたことが負けず嫌いの晋作にとってはひどく悔しかったようで、その後は一心不乱に勉学に励みます。

この塾では、学んだことを実行に移すことと、将来の日本にどう生かすか…といった吉田松陰の熱い思いを学びます。

この吉田松陰との出会いが大きな影響を与え、のちに長州藩を代表する志士として幕府と戦うまでに成長していくのです。

高杉晋作の功績

功績1「奇兵隊を創設する」

奇兵隊の本拠地であった白石正一郎邸

高杉晋作は吉田松陰の「身分に関係なく、志の高いものが立ち上がらなければならない」という教えのもと奇兵隊を設立します。

今までは軍というのは武士だけが所属するものでしたが、奇兵隊は農民や商人も武装して戦うことが出来ます。

身分の垣根を超えたこの奇兵隊は、身分制度が厳しかった当時からすると、非常に革新的なものでした。

設立した年に、奇兵隊士と撰鋒隊が衝突し事件を起こしてしまったため、その責任をとり高杉晋作は総督からおろされてしまいますが、この奇兵隊をきっかけとして、次々と民衆の軍隊が結成されるなど、世の中に多大な影響を与えました。

功績2「連合国と話し合い交渉を行う」

4か国連合艦隊が下関を砲撃し占拠される

1864年にアメリカ、オランダ、イギリス、フランスの4か国連合の艦隊が下関を砲撃します。この下関戦争に敗れた長州藩は、連合国と和解するための話し合いをするために長州藩の代表として高杉晋作を送り出しました。

高杉晋作は戦争に負けた側であるにもかかわらず、強気にこの話し合いに参加します。

連合国は下関にある「彦島」を、連合国の租借地にすることを和解の条件にあげてきましたが、高杉晋作は、この条件を受け入れたら彦島が植民地にされてしまうことを危惧し、頑なにこの条件を受け入れずに、連合国をあきらめさせることに成功します。

功績3「第二次長州征伐にて長州軍を勝利へ導く 」

第二次長州征伐で長州藩の力を見せることで大政奉還に繋がる

第一次長州征伐が起こる頃には、長州藩は幕府に味方する勢力が実権を握っていました。倒幕を考えていた高杉晋作は、これに危機感を持ち、クーデターを起こすために反乱の兵を起こします。

クーデターが成功した高杉晋作は長州藩の実権を握り、第二次長州征伐にて大活躍します。

幕府軍10万人に対して長州軍3,500人ではありましたが、最新の武器を装備し、高杉晋作の指揮の元、志の高い奇兵隊も参加し、幕府軍を撃退し大勝利をおさめました。

この力を見せつけたこともあり、勝てないと踏んだ幕府はのちに大政奉還を行い、250年以上続いた江戸幕府が終了することになります。

高杉晋作の名言・辞世の句は?

高杉晋作の名言

「苦しいという言葉だけは
どんなことがあっても
言わないでおこうじゃないか」

「先が短いなら短いなりに
僕は面白う生きたい。
派手な打ち上げ花火を打ち上げて、
消えていく…
それが高杉晋作の生き方ですき」

「同志と共に国を作ろうとしている。
曲がった国が
真っ直ぐになるのはいつか分からない。
その苦労は死んでからじっくりと味わおう」

「シャクトリムシのように身を屈するのも、
いずれは龍のように伸びるためだ。
そのためには、
奴隷になっても、
下僕になっても構わない。」

高杉晋作の辞世の句

おもしろきこともなき世をおもしろく

高杉晋作にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「14億円もの船を独断で買ってしまう」

軍艦を許可なく購入

第二次長州征伐の時、晋作は長州藩の海軍総督として軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」で藩を率いていました。この船で、夜中に奇襲攻撃をしかけ、東洋一と名高い幕府艦隊を見事打ち破ります。

このときの軍艦「丙寅丸」は、3万6千両だったそうで、今の金額で換算すると、なんと14億円にもなるのです。この船を、晋作は藩に相談もせず、藩の後払いにして独断で買ったと言われています。

あとからきた請求書を見て、長州藩は絶句したでしょうね…。ちなみに、この「丙寅丸」は、明治に入ったあとは「ヲテント丸」と名前を変えて、定期客船として活躍したそうです。

都市伝説・武勇伝2「子供の頃、大人の武士を土下座させた」

子供の時から気高い一面が

高杉晋作は、名門の武家に生まれた、いわば良家のボンボンでした。家柄を誇りに思っており、また負けず嫌いな性格だったようです。

晋作が子供の頃、遊んでいた凧が地面に落ち、それを偶然通った大人の武士が踏みつけ、そのまま立ち去ろうとしました。晋作はそれを見てひどく腹を立てて、武士を呼び止めます。「謝りもせず立ち去るとは何事か!」といった感じでしょうか。

晋作は、その武士に土下座をさせて謝らせたそうです。当時は武士の中でも上流武士と下流武士との差がはっきりとしており、子供といえども名門の武家の生まれとしてのプライドと正義感があったのかもしれません。なかなか勝気な子供だったようですね。

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