高杉晋作とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や名言・辞世の句について紹介】

高杉晋作の略歴年表

1839年
長州藩で生まれる

高杉晋作は、天保10年(1839年)に、長州藩士である高杉家の長男として誕生しました。4人兄弟で、晋作の下には3人の妹がいます。
1857年
松下村塾に入門

幼なじみだった久坂玄端に誘われ、吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入門します。吉田松陰の思想に感銘を受け、嫌いだった勉学に励むようになっていきます。
1858年
江戸へ遊学

松下村塾で頭角をあらわし、松下村塾四天王の一人として一目置かれるようになります。さらに学問を深めるよう藩命を受け、江戸へ遊学。幕府直轄の学問所で学びます
1860年
まさと結婚

長州に帰郷後、町奉行井上平右衛門の次女であるまさと結婚します。まさとの結婚生活は6年でしたが、一緒に過ごしたのは2年ほどでした。
1860年
視察団として上海へ行く

幕府が募集した視察団の一員として、上海へと渡ります。アヘン戦争でイギリスに負けた中国の姿を目の当たりにしたことが、のちに攘夷への強い意志を固めるきっかけになりました。
1862年
英国公使館焼き討ちを決行する

高杉晋作が帰国したころ、長州藩は異国を追い払おうとする尊王攘夷派が台頭していました。晋作もこれに加わり、品川の英国公使館焼き討ちを決行したのです。
1863年
奇兵隊を結成する

過激な攘夷思想だった長州藩は、関門海峡を通る異国船を次々に攻撃し、アメリカやフランスから報復をうけます。藩から下関の防衛を命じられ、奇兵隊を結成し初代総督に就任します。
1864年
攘夷から討幕へ

四国連合艦隊殻の攻撃で大打撃を受けた長州藩は、晋作を中心に連合国と交渉、講和談判し、攘夷を捨てます。これをきっかけに、攘夷から討幕へと突き進むことになるのです。

1867年
晋作、27歳で死去

高杉晋作は、肺結核で療養していた下関桜山で、家族に見守られながら息を引き取りました。

高杉晋作の具体年表

1839年 – 0歳「長州にて命を授かる」

出身地萩市に佇む高杉晋作の立像

1839年、長州にて生まれる

高杉晋作は、天保10年(1839年)に、長州藩士である高杉家の長男として誕生しました。4人兄弟で、晋作の下には3人の妹がいます。

家族構成は以下の通りです。

  • 父:子忠太
  • 母:みち
  • 妹:武
  • 妹:栄
  • 妹:光

高杉家は、戦国武将毛利元就の家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門の武家でした。祖父や父は、藩の重要な役職に就いており、男子は晋作だけだったこともあって、高杉家の大事な跡取りとして育てられました。

8歳なると、学問を習得すべく寺子屋に入りますが、ここで、生涯のライバルでもあり親友でもある久坂玄端と出会います。

1857年 – 19歳「松下村塾に入門する」

生涯の師とあおぐ吉田松陰と出会う

松下村塾の講義室

久坂玄端とともに、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門。この吉田松陰との出会いが、晋作に大きな影響を与えることになります。

吉田松陰は、武士・町民といった身分にこだわらず松下村塾に受け入れていたので、武士の誇り高かった晋作も、自分より身分の低い家の者と机を並べて学問に励んでいたことになります。これが、のちに身分にこだわらない有志を集めた奇兵隊結成した高杉晋作という人物の基盤になったのかもしれませんね。

晋作は、物事をどう実践していくかを教える吉田松陰の教育と熱い思いに引き込まれ、一心不乱に勉学に励み、松下村塾の四天王の一人として将来を有望視されるようになっていったのです。

1858年 – 20歳「晋作江戸へ遊学、そして安政の大獄で…」

より高い学問を求めて江戸へ

吉田松陰

吉田松陰の勧めで、松下村塾の塾生たちは、全国へ遊学に出るようになります。遊学にでた塾生から入る各地の情報を、塾ではまとめて資料にし、残った塾生たちもそれをもとに全国でなにが起きているかを知ることができたのです。

晋作も、遊学に出たいと松陰に頼み込みます。松陰は藩の重職を通して、晋作の遊学を推薦し、藩命として晋作の遊学が認められました。

藩命を受け、当時の最高学府である幕府直轄の昌平坂学問所や、大橋塾などで学問に励みます。しかし、晋作にとっては役に立つとは思えないようなものばかりだったようで、当時久坂玄端に送った手紙には、「江戸の学問はつまらない」と書いてます。

安政の大獄、そして師を失う

1859年、幕府の大老・井伊直弼による安政の大獄がはじまります。吉田松陰も、幕府を批判したとして投獄されていた、梅田雲浜と関わりがあったとの疑いがかけられ、投獄されてしまいます。

晋作は、獄中の松陰の世話をしながら、師とあおぐ 松陰のもとで対話をしながら関わりを持ち続けますが、藩命により帰郷が決まり長州へ帰ることになります。晋作が江戸を出発して10日後、吉田松陰は死罪となってしまうのです。

1860年 – 22歳「晋作、長州で伴侶を得る」

井上まさと結婚

伴侶を得る

師である吉田松陰を亡くし、悲しみと怒りにこぶしをにぎりしめ身を震わせている頃、父は晋作の縁談を進めます。高杉家の跡取りとして、早く身を固めて欲しかったのでしょうね。

晋作は乗り気ではなかったものの、父に対する忠誠心も強かったため結婚することを決めます。相手は、長州藩士である井上平右衛門の次女雅(まさ)で、防長一の美人だと言われる女性でした。

このとき晋作22歳、まさ16歳。晋作は伴侶を得て、身を固めることとなったのですが、実際は結婚生活は6年と短く、共に過ごしたのは1年ほどだったそうです。激動の時代をかけぬけた晋作らしいのですが、まささんにとっては寂しい結婚生活だったでしょうね。

1862年 – 24歳「晋作、使節団として上海へ渡る」

上海で、欧米に負けた悲惨な姿を見る

上海へ視察に

晋作は、幕府の使節団に加わることになり、長崎から上海へと渡ります。そこでは、イギリスと中国との間で勃発したアヘン戦争後、降伏した中国の悲惨な姿を目の当たりにします。

このとき晋作は、このままでは日本も同じ目にあう…と思いました。この使節団に加わったことがきっかけで、晋作の中には攘夷への強い意思が固まったのかもしれません。

1862年 – 24歳「尊王攘夷運動が過激化、そして出家」

英国公使館焼き討ちを決行

過激な手段に打って出る

上海から戻った晋作は、尊王攘夷運動に加わります。上海で欧米の残忍さ、そして恐ろしさを知った晋作にとって、攘夷論はもっぱら同感だったのでしょう。

行動は次第に過激化し、英国公使館焼き討ちを決行します。驚いたのは長州藩でした。このままでは欧米と戦争になる…しかし、まだ長州藩には欧米と戦う武力が備わっていませんでした。

晋作、出家する

藩は晋作に、時期尚早となだめますなだめますが、それなら時期が来るまで身を引くとでも言わんばかりに、晋作は頭を剃り、勝手に出家してしまいます。

しかし、晋作が寺にこもっている間に、長州藩は攘夷へと一気に進んでいきます。関門海峡を通る欧米船を次々に攻撃し、ついに欧米との戦争へと発展していったのです。

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