樋口一葉の略歴年表
樋口一葉は明治維新から5年後の1872年5月2日(旧暦3月25日、)現在の東京都千代田区内幸町に生まれました。戸籍名は「奈津」。他に「夏・なつ・夏子・なつこ」と記すこともありました。
父・則義は山梨の農家出身でしたが、江戸に出奔して同心株を買取り幕臣になりました。また維新後は東京府の役人に転身しました。樋口家は「士族」の肩書きを得、明治維新の歴史の大波も上手く乗り切った比較的裕福な家庭でした。この樋口家の4番目の子供として一葉は生まれました。
家族構成は以下の通りです。
- 父・則義(甲斐国山梨郡出身/一葉誕生の際42歳)
- 母・たき(甲斐国山梨郡出身/一様誕生の際38歳)
- 長女・ふじ(生後すぐ里子に出される)
- 長男・泉太郎
- 次男・虎之助(勘当され、樋口家の籍から抜ける)
- 次女・奈津
- 3女・くに
すでに草双紙を読みふけっていた一葉は、満5歳のこの年、公立の本郷学校に入学しますが、年齢が幼すぎたためすぐに退学しました。
もとは寺子屋だった私立吉川学校に入学した一葉は、ここで主に読み書きを学びました。ただ早熟な一葉はすぐに教科書を読み終えてしまい、師から漢籍を与えられて学びました。
満11歳になった一葉は、青海学校小学中等科を首席で修了し、進級を希望しましたが、女性は学問をするべきではないという母の教育方針のために退学しました。一葉はのちに日記で「死ぬばかりかなしかりしかど学校は止めになりけり」と回想しています。
この後、一葉は家事見習いや裁縫を習ったりするかたわら、和歌を作って過ごしました。
満14歳になった一葉は、父則義の知人の紹介で、旧派の歌人として著名な中島歌子が主催する歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門しました。この頃はちょうど萩の舎の全盛期で、歌子の弟子には皇族や華族の夫人・令嬢が名を連ねていました。そのような面々の中で「平民」である一葉はコンプレックスを感じていましたが、その一方で師の歌子が自分の後継ぎにと望むほど、一葉は弟子の中で抜きん出た才能を溢れさせていました。
前年、長男の泉太郎が結核で死去し、また長女と次男はすでに樋口家の籍から抜けていたため、16歳の一葉が父則義を後見人にして戸主になりました。このころ則義が財産をつぎ込んだ事業が失敗し多額の借金を抱え、樋口家は没落へと突き進んでいました。
翌1889年7月、父則義は病に倒れ、あっけなくこの世を去りました。残された母と妹を養うべく、17歳の一葉に女戸主としての責任が重くのしかかります。
女性の社会進出はまだまだ認められておらず、職を得るとすれば、手内職か水商売、あるいは教師といった時代の中で、高い知性を持つものの学歴が低い一葉は教職にもつくことが出来ず、母と妹とともに細々と手内職をするほかありませんでした。
そんな時、萩の舎同門の田辺花圃(たなべかほ)が小説を出版して原稿料を得たのを知った一葉は、自分も文筆で生計を立てようと画策します。
花圃が小説家坪内逍遥のサポートを受けて小説家デビューを果たしたのを知った一葉は、文壇で師になって自分を導いてくれる人物を探します。知人の紹介で知り合った半井桃水を師として一葉の小説家人生が始まります。
そして19歳の一葉は31歳の半井桃水に師以上の感情、異性としての愛情を抱くようになります。
半井桃水の配慮によって、同人誌「武蔵野」に小説「闇桜」を発表しました。続いて「棚なし小舟」「たま襷」を執筆し、「改新新聞」に「別れ霜」を二週間に亘り連載しました。順調な滑り出しに見えますが、世間が要求する世俗的な作風を書くことに対する違和感を一葉は感じていました。
また、師である半井桃水との関係がスキャンダルな噂になり、一葉は桃水との決別を決意します。しかしその後、先輩女流作家田辺花圃の紹介で、山田美妙が主筆を務め、尾崎紅葉など文壇の大物も作品を寄稿する「都の花」に「うもれ木」を発表し、女流小説家としての歩みを進めました。
一葉は、ロマン主義の雑誌「文学界」のメンバーに迎えられ、星野天知・戸川秋骨・島崎藤村・平田禿木・馬場孤蝶・上田敏・北村透谷ら若手の才気あふれる作家たちとの交流が始まります。
しかし、文筆だけで家族を養うことは難しく、一葉は生活苦打破のために、下谷区竜泉寺町に転居し、荒物屋兼駄菓子屋を開業しました。
創作に集中するため店を閉じた一葉は、吉原にほど近い本郷区丸山福山町に引っ越します。一葉の家には「文學界」の青年文士が集うようになり、貧しいながらも華やぎのある生活が始まりました。
竜泉寺町での商いの経験や「隣りに酒うる家あり。女子あまたいて(中略)遊び女ににたり。」(日記)というような場末の花街だった丸山福山町での生活は、「たけくらべ」や「にごりえ」の執筆に多大な影響を及ぼしました。
丸山福山町に引っ越した一葉は、旺盛な執筆活動を行いました。名作として名高い「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」をはじめとする作品は、「奇跡の14ヶ月」と呼ばれるこの年から翌年にかけて執筆されました。
またこの頃、森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨による合評「三人冗語」が「たけくらべ」を取り上げ、一葉の才能を絶賛しました。これにより一葉は文壇の寵児として脚光を浴びることになりました。
作家としてようやく充実した日々を送ることができるようになった一葉でしたが、病が彼女を襲います。肺結核の症状が進行した一葉は、死の床に就きました。
満24歳作家としても女性としてもこれから大輪の花を咲かせるはずだった一葉の死を、彼女の才能を知る多くの人々が悼みました。
樋口一葉の生涯年表
1872年 – 0歳「樋口奈津=一葉の誕生」
現・東京都千代田区内幸町に生まれる
明治5年5月2日、のちに日本近代文学史上に名を残す女流作家となる樋口一葉は、この世に生を受けました。戸籍上の名前は「奈津」。他にも「夏・なつ・夏子」などの名前も使っています。
父則義と母たきは、甲斐国山梨郡の農民の出ですが、結婚を反対され、江戸に駆け落ちをしました。同郷の先輩蕃書取調役勤番の真下専之丞の助けを得て、苦労の末、慶応3年に南町奉行所配下八丁堀同心浅井竹蔵の株(30俵2人扶持)を382両2分銀10匁で購入し、士分を得たというサクセスストーリーの持ち主です。維新の時代の転換点もうまく乗り切り、東京府の役人の地位を得て、のちに警視庁に転職しました。
官舎から持ち家に引っ越し
一葉は東京府の役人だった父の官舎で生まれましたが、4歳の時、麻布三河台町に転居、翌年には文京区本郷に宅地233坪で土蔵もある屋敷に転居し、9歳までの5年間をここで過ごします。
幼少期の一葉は、農民から武士へと身分を超えた出世を果たし、多くの士族が生活の術を失った維新の混乱期も力強く乗り越えた父則義の庇護のもと、不自由のない生活を送っていました。
1878年 – 6歳「学校教育を受ける」
公立学校から私立学校へ
一葉は公立の本郷学校に入学しますが、年齢が足りなかったためにすぐ退学します。その後すぐ、私立の吉川学校に入学し、元は寺子屋だったこの学校で読み書きを学びます。
「草双紙というものを好みて手まりや羽子をなげうちてよみけるがその中にも一と好みけるは英雄豪傑の伝任俠義人の行為など」(日記)というような早熟な少女でした。
8歳の時にはすでに「我が身の一生の常にて終わらむことなげかわしく(中略)竹のひとふしぬけ出でしがなとぞあけくれに願ひける」と、普通の一生で終わるのでなく人よりも抜きん出たいという、父譲りの強い上昇志向を持つ少女でした。
成績優秀も学校教育から離脱する
一葉は9歳になると池の端にあった私立青海学校の小学2級後期に入学し、11歳の時、同小学校の高等科第4級を首席で卒業しました。一葉は進級を望んでいましたが、母たきは、女性に学問は不要だと考えており、一葉は学校を辞めさせられました。
家で家事見習いや裁縫をして過ごすことになった一葉ですが、青海学校在学中に始めた和歌だけは続けていました。その様子を見た父則義が、知人の和田重雄という人物に一葉の和歌の添削を頼んでくれました。直接会って講義を受けることはありませんでしたが、書簡のやり取りを通じた、いわば通信教育のような形で一葉は和歌の指導を受けました。
1886年 – 14歳「萩の舎に入塾する」
中島歌子が主催する萩の舎に入塾し和歌を学ぶ
14歳の一葉は、和歌を本格的に学ぶために、歌塾「萩の舎」に入塾しました。一葉はここで和歌の詠み方とともに、「源氏物語」「枕草子」「伊勢物語」など日本古典文学の素養も身につけました。
一葉が入塾した頃の萩の舎には、梨本宮妃、鍋島公爵夫人など皇族や華族の令嬢・夫人が名を連ね、門下生の数もとても多かったということです。一葉はここで6年間学びました。
この頃の日記に一葉は「身のふる衣 まきのいち」という表題をつけています。この頃、一葉は、貧しい生活をしていたわけではありませんが、周囲の高貴な身分の令嬢に比べるとはるかにみすぼらしい身なりしかできない己を憂えて日記の題名を「ふる衣」すなわち「古い着物」としました。
「ふる衣」を身につけた己に恥ずかしさを覚えていた一葉ですが、和歌の発表会では他の塾生を圧して最高点を獲得するなど、和歌や文学の才能が一葉のプライドを支えていました。
1888年 – 17歳「女戸主になる」
父則義は、勤務していた警視庁を依願退職し、財産をつぎ込んで荷車請負業組合の設立にのりだします。しかし事業は失敗に終わりました。ちょうどその頃、樋口家の家督を継いだ長男の泉太郎が病に倒れ亡くなります。
そのため父を後見人に立て、一葉が樋口家を相続しました。しかしその父も病に倒れてこの世を去ります。一葉は父が残した多額の借金とともに樋口家を相続することになったのです。そしてその後、弱冠17歳の一葉に、戸主として母と妹の扶養義務がのしかかります。
明治という半封建的社会システムのなかで、女性の社会進出はまだ進んでおらず、可能な職は限られていました。仕立物などの手内職で細々とした収入を得るか、まともな職につくならば教師くらいしかない時代です。切羽詰まった一葉は、ちょうどそのころ開催された政府主催のイベント内国博覧会の売り子にでもなろうかと考えていました。
婚約破棄
一葉の父則義は存命中に、渋谷三郎という男性を一葉の婿にしたいと期待をかけていました。三郎は立身出世を絵に描いたような男性で、東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、判事になり、のちには秋田県知事や山梨県知事、早稲田大学法学部部長などを歴任しました。三郎は、則義の恩人である真下専之丞の係累だったため、樋口家に出入りしており、一葉の婿にという則義の願いも承知していました。しかし則義の死に伴い、没落した樋口家の様子を察した真下家が、経済的に無理難題な申し出を樋口家に投げかけたため、縁談は破棄になりました。
萩の舎の内弟子になる
父の死で困窮している一葉を見た師の中島歌子の計らいで、一葉は萩の舎の内弟子になりました。一葉の日記によると、中島歌子は一葉を学校の教師に推薦するという約束をしており、一葉もそれに期待していましたが、能力があっても一葉の学歴が低いため叶いませんでした。結局萩の舎での下働きのような生活に耐えかねた一葉は、半年足らずで母の元に帰りました。
1891年 – 19歳「文筆業を志す」
田辺花圃の小説家デビューに刺激を受ける
一葉は、萩の舎の先輩である田辺花圃が、1888年に小説を出版したことに大きな刺激を受けました。
花圃は貴族院議員田辺太一の長女で、東京高等女学校専修を卒業した良家の子女でした。しかし、父田辺太一の豪奢な暮らしぶりや、兄がロンドンで客死したために纏まった金が必要になり、花圃は小説を出版したのでした。この花圃の前例に刺激を受け、一葉も職業として小説を書くということを志すようになったのです。
ただ、花圃が小説の出版にこぎつけることができたのは、坪内逍遥に添削を依頼し、父太一の旧知、金港堂中根香亭が版元になるなど、周囲の人々の協力があったためでした。一方、一葉にはそうした人脈もなく、作品を書いても発表の術がありませんでした。
半井桃水への弟子入りを希望する
一葉は新聞社や出版社へのつてとして、妹くにの友人の紹介で、東京朝日新聞の小説記者半井桃水を頼ります。半井桃水は対馬藩典医の長男として生まれ、朝日新聞の特派員として壬午事件を報じた能力を買われて小説記者として招聘された人物です。朝日新聞を発表の舞台に大正前半まで小説を発表していますが、通俗性が高い作風を手がけていました。
半井桃水は、田辺花圃をサポートした坪内逍遥のような文壇の大物ではありませんが、一葉は小説家デビューのために一縷の望みをかけて、半井桃水に弟子入りの意志を伝えました。
男性でさえ簡単ではない小説家という職業を目指す一葉に、桃水は一旦は反対しますが、桃水は自分が創刊した同人雑誌「武蔵野」への寄稿を後押しするなど、一葉をサポートし、桃水と一葉の師弟関係は続きました。
一葉というペンネームを使い始める
一葉というペンネームは、本格的に小説で自立しようと考えた1891年ごろから使い始めています。「一葉」の由来は、達磨が乗って来たという葦の葉のことで、葦=「おあし(お銭)が無い」という洒落が込められています。
金銭に困り、追い詰められるように小説家の道に進んだ一葉ですが、我が身に降りかかった苦境をユーモアと知性溢れる言葉遊びで洒脱なペンネームに昇華したのです。
「武蔵野」に「闇桜」を発表
1892年に一葉は処女作「闇桜」を「武蔵野」に発表し、小説家としてのスタートを切りました。とはいうものの、まだ原稿料を取れるようなものではありませんでした。そのため生活はまだ変わらず、師の半井桃水に借金を申し入れることさえありました。
半井桃水への愛情の芽生えと苦悩
一葉にとって半井桃水は、師以上の存在になっていました。初対面の日から一葉は好意的な目で桃水を見ています。桃水を見た印象を「色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に書いています。
桃水は妻と死別しており、一葉と出会った頃は32歳で独身でした。小説の指導を受けるために、一人暮らしの桃水の元を度々訪れるようになった一葉は、桃水のことを師匠としてだけでなく男性として強く意識するようになります。
しかし桃水の品行を疑う人々からのノイズが一葉の耳の届き、一葉の心は揺れ動きました。
桃水の元に足しげく通う一葉のことを萩の舎の人々は快く思っていませんでした。一葉と桃水の関係はスキャンダルとして話題になり、友人や師である中島歌子から桃水とは決別すべきだとの忠告を受けました。スキャンダルとして語られることにプライドが傷ついた一葉は、桃水に事情を説明したうえで交際を断つことを告げました。
それに対し桃水は「我はお前様よかれとてこそ身をも盡(つく)すなれ、御一身のご都合よきようが我にも本望なり」と、一葉のためになることを自分は望んでいると優しく受け止めてくれたことを一葉は日記に書いています。
新たな出発
桃水との決別で文壇との繋がりが途絶えた一葉に、萩の舎の先輩で、女流小説家としても先輩にあたる田辺花圃が雑誌「都の花」での執筆を勧めてくれました。山田美妙が主催していた「都の花」は日本最初の商業文芸雑誌でした。尾崎紅葉・田山花袋・幸田露伴などのちに文学史に名を列ねることになる大物も「都の花」に作品を発表していました。
これまで、桃水の指導の下、大衆に受け入れられる小説を書くようにと教えられ、不本意ながら自分の文学観を押し殺して執筆をしていた一葉は、桃水との決別、「都の花」への執筆を通じて、新たな一歩を歩み始めます。
一葉は「都の花」に発表した「うもれ木」で、原稿料11円75銭を手に入れました。また「うもれ木」は文芸誌「文學界」を創刊準備していた平田禿木の目にとまり、これがのちに雑誌「文学界」での一葉の活躍に繋がって行きます。
樋口一葉の略歴年表の「死去」の年数がとんでもないことになってますよ