樋口一葉は、明治時代の女性作家です。代表作品としては「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」という作品を生み出し、森鴎外など辛辣で有名な作家たちから筆を揃えて賞讃を受けました。
一葉の人生は24年という短いもので、死因は肺結核でした。
その短い生涯の大半は「貧しさ」に苦しめられ、一葉は若い女性の身でありながら、戸主として家族の生活を支えて行かなければなりませんでした。だからこそ一葉は「小説」を書いてお金を儲けなければならなかったのです。一葉にとって小説は、創作欲求により生み出す芸術であるとともに、原稿用紙に記す一文字一文字が「生きていく」ための糧でした。
貧しさの中に沈み、女の力で生きていくことの辛さ・悲しみを身をもって知っていた一葉だからこそ、社会の下層に生きる女性の悲哀を叙情的にこの上もなく美しく、かつリアルに描くことができたのでしょう。
男女平等とか、女性の権利とかいう言葉も存在しない時代、生きること自体がサバイバルなのに、文学を追求し続けた一葉の凄まじさ!「われは女なりけるものを」という一葉の文章に触れて感動し、以来、同じ女性として一葉文学を敬愛してやまない私が一葉の生き様と文学の魅力をお伝えします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
樋口一葉とはどんな人?生涯ハイライト
名前 | 樋口一葉(本名:奈津) |
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誕生日 | 1872年5月2日 |
生地 | 東京都第二大区一小区 (現・東京都千代田区) 内幸町一丁目一番屋敷 |
没日 | 1896年11月23日 |
没地 | 本郷区丸山福山町四番地 |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | 現・杉並区和泉の本願寺墓所 |
樋口一葉は明治5年5月2日に、現在の東京千代田区にある下級役人の家に生まれました。読書好きな女の子として育ち、6歳になると私立学校へ入学。読み書きを学び、11歳のときに高等科第4級を首席で卒業します。
一葉は進級を希望しましたが、母の教育方針により学校を辞めることになりました。しかし、14歳になると和歌を学ぶために歌塾「萩の舎」に入り、和歌の発表会で優れた才能を見せます。
順調な人生を歩んでいた一葉ですが、父親が病に倒れ、この世を去ってしまいます。一葉は父が残した多額の借金と共に樋口家を継ぎ、一家の大黒柱として母と妹を養わなければならなくなりました。
お金に困っていたちょうどその頃、萩の舎の先輩・田辺花圃が小説を出版し、原稿料をもらったという話を耳にします。一葉はこれを聞いて小説家の道へ進むことを決意。
妹の友人のつてを頼り、半井桃水へ弟子入りして、1892年に処女作『闇桜』を発表し、小説家としてスタートしました。
とはいえ、まだ原稿料を取れるほどの腕前はありません。変わらず桃水の下で学ぶ一葉でしたが、桃水と一葉の関係が噂になってしまい桃水と決別することになりました。今度は萩の舎の先輩・田辺花圃の紹介で商業文芸雑誌に小説を投稿。
これが、文芸誌の「文學界」の創刊を計画していた平田禿木の目に止まり、一葉へ執筆を依頼しました。無事、原稿料を得られるようになった一葉でしたが、まだ筆が遅く、生活するほどの金額は得られません。
そこで1893年、一葉は下谷区竜泉寺町に引っ越し、駄菓子屋を開業しました。この街での経験は一葉の小説に大きな影響を与えます。一葉は文学の才はあっても商売の才能はなかったようで、駄菓子屋の経営はうまくいかず、店を閉じて丸山福山町へ引っ越します。
小説家としての道を諦めていた一葉でしたが、ここで「文學界」を発刊していた平田禿木から執筆依頼があり、再び小説家の道へと戻ることができました。
「たけくらべ」が1895年に発表されると、森鴎外を始めとした文化人から絶賛され、一葉は人気作家としての道をようやく歩み始めます。その後も「にごりえ」「裏紫」など数々の名作を執筆しました。
ようやく人気作家への道が開かれた一葉でしたが、1896年の春、彼女の体に肺結核の症状が現れます。森鴎外の尽力もありましたが、1896年11月に24歳という若さでこの世を去りました。
樋口一葉の代表作品や人物像、死因
樋口一葉の作品とその特徴とは
樋口一葉の作品の特徴は、美しくわかりやすい文体でどこにでもある現実の生活を見事に表現していることです。
彼女の作品は恋愛小説がほとんどで、女性に不利な制度や家庭内での不遇がもたらす女性の悲劇を描いていました。そのため、恋愛小説でありながら、当時の社会への批評性も含んだ作品となっており、このあと述べる女性の地位向上に一役買います。
- 「薮の鶯」(1888年「都の花」掲載)
- 「闇桜」(1892年「武蔵野」掲載)
- 「たま襷」(1892年「武蔵野」掲載)
- 「別れ霜」(1892年「改新新聞」掲載)
- 「五月雨」(1892年「武蔵野」掲載)
- 「経つくえ」(1892年「甲陽新聞」掲載)
- 「うもれ木」(1892年「都の花」掲載)
- 「朧月夜」(1893年「都の花」掲載)
- 「雪の日」(1893年「文學界」掲載)
- 「琴の音」(1893年「文學界」掲載)
- 「花ごもり」(1894年「文學界」掲載)
- 「暗夜」(1894年「文學界」掲載)
- 「大つごもり」(1894年「文學界」掲載)
- 「たけくらべ」(1895年「文學界」掲載)
- 「軒もる月」(1895年「毎日新聞」掲載)
- 「ゆく雲」(1895年「太陽」掲載)
- 「うつせみ」(1895年「読売新聞」掲載)
- 「にごりえ」(1895年「文藝倶楽部」掲載)
- 「十三夜」(1895年「文藝倶楽部」掲載)
- 「わかれ道」(1896年「国民之友」掲載)
- 「この子」(1896年「日本之家庭」掲載)
- 「われから」(1896年「文藝倶楽部」掲載)
樋口一葉の作品については以下の記事で詳しく紹介しているので、読んでみてください。
樋口一葉は日本初の女性小説家なのか
樋口一葉は「日本で最初の女流小説家」と呼ばれます。「小説」というジャンルの文学が日本で書かれるようになったのは明治時代以降なので、明治初の女性作家という言い方もできますが、一葉より先に小説を書いた女性は存在します。
一葉の歌塾の先輩である田辺花圃は、一葉に先立って小説を出版しています。むしろ一葉は花圃に刺激を受け、かほの後を追って小説の道を志したのです。花圃の他にも若松賎子や岸田俊子、小金井喜美子など一葉と同時代の女性作家は存在します。
ただ彼女らと一葉には決定的な違いがありました。一葉と違い彼女らはみな中・上流の出身であり、生活のためお金の心配をする必要はありませんでした。それに対し一葉は女性の社会進出が難しい時代にあって女戸主として家族を養わなければならず、小説を書いて「稼ぐ」という必要に迫られていました。つまり職業として小説と向き合わなければならないという意味で、一葉は「日本初の女流職業小説家」だということが言えるでしょう。
樋口一葉、奇跡の14ヶ月とは
樋口一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」など文学史上に残る名作を死の直前の14ヶ月間で書き上げました。若干24歳の時の作品です。一葉の作家人生は19歳から24歳までと短いものでした。
職業作家として歩みを始めた当初、一葉は遅筆で作品を多く手がけることができませんでした。自分の意に添わなくても「売れる」作品にするため、世の中が要求する世俗的な作風で書くようにと師の半井桃水から指導され、一葉は自分の表現欲求と合致しない作品を手がけざるをえませんでした。
しかし、師との決別や多くの文士との交流、文壇からの評価をきっかけに、小説家樋口一葉は、自分の世界観を存分に作品に描き出していくようになりました。
「奇跡の14ヶ月」とはまさにこうした一葉文学が満開に開花した絶頂の時を指します。しかし、奇跡の時は一葉の死によって終わりを告げます。
樋口一葉には多額の借金があった
樋口家の戸主であった長男泉太郎の死と、一葉の後見人であった父の死のため、一葉は女性ながら戸主として家族を扶養しなければなりませんでした。また父は生前事業に失敗して多額の借金を残していました。そのため16歳で戸主になってから24歳で死ぬまで、一葉に金銭的な余裕が生じたことは一度もありませんでした。
明治という時代、女性が生計を立てる方法は多くありませんでした。一葉は小商いをしながら小説執筆で収入を得ようとしましたが、思うようにいかず、常に借金をしている状態が続いていました。
知人友人をはじめ、借りられるところからは全て借り尽くしているようなありさまでした。一葉は日記に「人つねの産なければ常の心なし」=安定した収入のないものには、安定した心はないと書き記していますが、逼迫した経済状況の中で創作活動をすることは、大変な精神的エネルギーを要したと思われます。
樋口一葉と関わりのあった男性とは
父の死とそれに伴う樋口家の没落により、樋口家が一葉の婚約者とみなしていた男性渋谷三郎に手のひらを返されるという不愉快な経験が一葉にはあります。また、金銭的支援の代わりに愛人関係を要求され、浮世で若い女性が生きていくことの難しさを味わうこともありました。
しかし、作家としての自立のために必死に生きた一葉の周りには、彼女を尊敬し助力してくれる多くの男性も現れます。一葉の文学の師であった半井桃水は、一葉が文学で生きていくための門戸を最初に開いてくれた人物です。また桃水は一葉が一人の男性として意識し、愛した最初の人物でもありました。
一葉の才能を見出し、文学の仲間として切磋琢磨した「文学界」のメンバー平田禿木・馬場孤蝶らは、文学の世界で生きていこうと決心した一葉にとって、大切な文学仲間でした。一葉の貧しい家は、あたかも文学サロンのように「文学界」のメンバーが集うこともありました。
森鴎外・斎藤緑雨・幸田露伴ら文壇の大物たちが一葉の作品を評価したことで、一葉は一躍文壇の寵児になりました。彼らの評価があったからこそ、一葉の名は文学史に刻まれたとも言えるでしょう。また彼らは病床の一葉のサポートも惜しみませんでした。一葉の死を最も悲しんだ一人が「一葉崇拝者」と自認する森鴎外でした。
夏目漱石の兄との結婚の話もあった
父親が存命の頃、数々の縁談があった樋口一葉。実はその縁談相手には、夏目漱石の兄も含まれていました。
このことは夏目漱石の妻・鏡子が記した『漱石の思ひ出』に記述があります。これによると一葉の父の上司が漱石の父親だったらしく、その縁で一葉と漱石の兄との間で縁談があったそうです。
しかし、一葉の父が漱石の父にたびたび借金の申し出をしており、これを漱石の父はよく思っていませんでした。そして「上司と部下という関係でこれだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわからない」と縁談は破談になったそうです。
漱石の父の気持ちもわかりますが、一葉が漱石の義理の姉になっていたかもしれないと思うと、少し惜しい気持ちがありますね。
小説だけでなく手紙の代筆もしていた
樋口一葉は小説を書くだけでなく、飲み屋の女性や芸者から頼まれて手紙の代筆をしていました。
その腕前は素晴らしいもので、とある芸者は引っ越しをしたあとも人力車に乗ってわざわざ一葉を訪ね、手紙の代筆をさせたそうです。代表作『たけくらべ』が竜泉寺町の体験を生かした作品であるように、この手紙の代筆も一葉は作品に生かしました。
この芸者は『にごりえ』に登場した「お力」のモデルになったそうです。
死因は肺結核
冒頭でお伝えした通り、樋口一葉は肺結核により亡くなりました。死去は1896年(明治29年)11月23日、享年24歳という短い人生でした。
1896年の春には肺結核の症状が現れていたそうです。同年4月には喉が腫れて治らなくなったり、8月には病院で「絶望的」との診断を下されます。
一葉の作品を絶賛していた斎藤緑雨は、一葉の症状が悪化してから頻繁に樋口家を訪れていました。緑雨は森鴎外に頼み、東京帝国大学医科教授青山胤通による診察を取り計らうなど、一葉のために尽力しています。しかし青山が診察した時、彼女はすでに肺結核の末期に至っていました。
葬儀は11月25日に執り行われましたが、その葬儀はごく質素なものでした。
樋口一葉がお札になった理由は?
樋口一葉といえば2004年(平成16年)から発行されている5000円紙幣の肖像でお馴染みです。実は、日本銀行券の肖像に女性が描かれたのは、この一葉の5000円札が初めてなのです。(2000円札の裏面には紫式部が描かれていますが、これは肖像画ではありません。)それにしてもなぜ一葉が選ばれたのでしょうか?
財務省は、5000円札の肖像に一葉を選んだ理由を次のように発表しています。
女性の社会進出の進展に配意し、また、学校の教科書にも登場するなど、知名度の高い文化人の女性の中から採用したものです。
引用:財務省ホームページ
つまり女性の社会進出が困難な時代に、女性でありながら小説家として身を立てて行こうとした一葉を、女性の社会進出のオピニオンリーダーと評価して選択したというわけです。それにしても一生お金に苦しめ泣かされた一葉が紙幣の肖像になるとは皮肉なものです。
樋口一葉の略歴年表の「死去」の年数がとんでもないことになってますよ