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樋口一葉の生涯・年表【性格や死因、代表作品、エピソードについて紹介】

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樋口一葉は、明治時代の女性作家です。日本で近代小説が書かれ始めたばかりのこの時代、一葉は和歌の教養をベースにした優雅な文体を用いながら、下層社会で必死に生きる女性の姿を、叙情的かつリアルに描き出しました。

一葉の人生は24年という短いものでした。そしてその短い生涯の大半を「貧しさ」に苦しめられました。明治という半封建的な時代にあって、一葉はうら若い女性の身でありながら、戸主として家族の生活を支えて行かなければなりませんでした。だからこそ一葉は「小説」を書いてお金を儲けなければならなかったのです。一葉にとって小説は、創作欲求により生み出す芸術であるとともに、原稿用紙に記す一文字一文字が「生きていく」ための糧でした。

樋口一葉

貧しさの中に沈み、女の力で生きていくことの辛さ・悲しみを身をもって知っていた一葉だからこそ、社会の下層に生きる女性の悲哀を叙情的にこの上もなく美しく、かつリアルに描くことができたのでしょう。

たった24年しか生きることができず、貧しさのために満足に学ぶこともできななかった女流作家樋口一葉の作品は、文豪森鴎外をして「われはたとえ世の人に一様崇拝の嘲りを受けんまでも、この人にまことの詩人という称をおくることを惜しまざるなり」とまで言わしめたのです。

男女平等とか、女性の権利とかいう言葉も存在しない時代、生きること自体がサバイバルなのに、文学を追求し続けた一葉の凄まじさ!「われは女なりけるものを」という一葉の文章に触れて感動し、以来、同じ女性として一葉文学を敬愛してやまない私が一葉の生き様と文学の魅力をお伝えします。

樋口一葉とはどんな人?

名前樋口一葉(本名:奈津)
誕生日1872年5月2日
生地東京都第二大区一小区
(現・東京都千代田区)
内幸町一丁目一番屋敷
没日1896年11月23日
没地本郷区丸山福山町四番地
配偶者なし
埋葬場所現・杉並区和泉の本願寺墓所

樋口一葉の作品は?

樋口一葉全集
  • 「薮の鶯」(1888年「都の花」掲載)
  • 「闇桜」(1892年「武蔵野」掲載)
  • 「たま襷」(1892年「武蔵野」掲載)
  • 「別れ霜」(1892年「改新新聞」掲載)
  • 「五月雨」(1892年「武蔵野」掲載)
  • 「経つくえ」(1892年「甲陽新聞」掲載)
  • 「うもれ木」(1892年「都の花」掲載)
  • 「朧月夜」(1893年「都の花」掲載)
  • 「雪の日」(1893年「文學界」掲載)
  • 「琴の音」(1893年「文學界」掲載)
  • 「花ごもり」(1894年「文學界」掲載)
  • 「暗夜」(1894年「文學界」掲載)
  • 「大つごもり」(1894年「文學界」掲載)
  • 「たけくらべ」(1895年「文學界」掲載)
  • 「軒もる月」(1895年「毎日新聞」掲載)
  • 「ゆく雲」(1895年「太陽」掲載)
  • 「うつせみ」(1895年「読売新聞」掲載)
  • 「にごりえ」(1895年「文藝倶楽部」掲載)
  • 「十三夜」(1895年「文藝倶楽部」掲載)
  • 「わかれ道」(1896年「国民之友」掲載)
  • 「この子」(1896年「日本之家庭」掲載)
  • 「われから」(1896年「文藝倶楽部」掲載)

樋口一葉は日本初の女性小説家?

田辺花圃

樋口一葉は「日本で最初の女流小説家」と呼ばれます。「小説」というジャンルの文学が日本で書かれるようになったのは明治時代以降なので、明治初の女性作家という言い方もできますが、一葉より先に小説を書いた女性は存在します。

一葉の歌塾の先輩である田辺花圃は、一葉に先立って小説を出版しています。むしろ一葉は花圃に刺激を受け、かほの後を追って小説の道を志したのです。花圃の他にも若松賎子や岸田俊子、小金井喜美子など一葉と同時代の女性作家は存在します。

ただ彼女らと一葉には決定的な違いがありました。一葉と違い彼女らはみな中・上流の出身であり、生活のためお金の心配をする必要はありませんでした。それに対し一葉は女性の社会進出が難しい時代にあって女戸主として家族を養わなければならず、小説を書いて「稼ぐ」という必要に迫られていました。つまり職業として小説と向き合わなければならないという意味で、一葉は「日本初の女流職業小説家」だということが言えるでしょう。

樋口一葉、奇跡の14ヶ月とは?

『たけくらべ』の自筆原稿

樋口一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」など文学史上に残る名作を死の直前の14ヶ月間で書き上げました。若干24歳の時の作品です。一葉の作家人生は19歳から24歳までと短いものでした。

職業作家として歩みを始めた当初、一葉は遅筆で作品を多く手がけることができませんでした。自分の意に添わなくても「売れる」作品にするため、世の中が要求する世俗的な作風で書くようにと師の半井桃水から指導され、一葉は自分の表現欲求と合致しない作品を手がけざるをえませんでした。

しかし、師との決別や多くの文士との交流、文壇からの評価をきっかけに、小説家樋口一葉は、自分の世界観を存分に作品に描き出していくようになりました。「奇跡の14ヶ月」とはまさにこうした一葉文学が満開に開花した絶頂の時を指します。しかし、奇跡の時は一葉の死によって終わりを告げます。

樋口一葉の経済状態は?

森鴎外が筆写した『樋口一葉日記』

樋口家の戸主であった長男泉太郎の死と、一葉の後見人であった父の死のため、一葉は女性ながら戸主として家族を扶養しなければなりませんでした。また父は生前事業に失敗して多額の借金を残していました。そのため16歳で戸主になってから24歳で死ぬまで、一葉に金銭的な余裕が生じたことは一度もありませんでした。

明治という時代、女性が生計を立てる方法は多くありませんでした。一葉は小商いをしながら小説執筆で収入を得ようとしましたが、思うようにいかず、常に借金をしている状態が続いていました。

知人友人をはじめ、借りられるところからは全て借り尽くしているようなありさまでした。一葉は日記に「人つねの産なければ常の心なし」=安定した収入のないものには、安定した心はないと書き記していますが、逼迫した経済状況の中で創作活動をすることは、大変な精神的エネルギーを要したと思われます。

樋口一葉と関わりのあった男性は?

半井桃水

父の死とそれに伴う樋口家の没落により、樋口家が一葉の婚約者とみなしていた男性渋谷三郎に手のひらを返されるという不愉快な経験が一葉にはあります。また、金銭的支援の代わりに愛人関係を要求され、浮世で若い女性が生きていくことの難しさを味わうこともありました。

しかし、作家としての自立のために必死に生きた一葉の周りには、彼女を尊敬し助力してくれる多くの男性も現れます。一葉の文学の師であった半井桃水は、一葉が文学で生きていくための門戸を最初に開いてくれた人物です。また桃水は一葉が一人の男性として意識し、愛した最初の人物でもありました。

一葉の才能を見出し、文学の仲間として切磋琢磨した「文学界」のメンバー平田禿木・馬場孤蝶らは、文学の世界で生きていこうと決心した一葉にとって、大切な文学仲間でした。一葉の貧しい家は、あたかも文学サロンのように「文学界」のメンバーが集うこともありました。

森鴎外・斎藤緑雨・幸田露伴ら文壇の大物たちが一葉の作品を評価したことで、一葉は一躍文壇の寵児になりました。彼らの評価があったからこそ、一葉の名は文学史に刻まれたとも言えるでしょう。また彼らは病床の一葉のサポートも惜しみませんでした。一葉の死を最も悲しんだ一人が「一葉崇拝者」と自認する森鴎外でした。

樋口一葉の名言は?

あはれその厭う恋こそ恋の奥なりけれ

我は人の世に痛苦と失望とをなぐさめんために、生まれ来つる詩のかみの子なり

只世にをかしくて、あやしく、のどかに、やはらかに、悲しく、おもしろきものは”恋”とこそ言はめ

恐ろしきは涙の後の女子心なり

樋口一葉がお札になった理由は?

一葉の肖像が使われている5000円札

樋口一葉といえば2004年(平成16年)から発行されている5000円紙幣の肖像でお馴染みです。実は、日本銀行券の肖像に女性が描かれたのは、この一葉の5000円札が初めてなのです。(2000円札の裏面には紫式部が描かれていますが、これは肖像画ではありません。)それにしてもなぜ一葉が選ばれたのでしょうか?

財務省は、5000円札の肖像に一葉を選んだ理由を次のように発表しています。

女性の社会進出の進展に配意し、また、学校の教科書にも登場するなど、知名度の高い文化人の女性の中から採用したものです。

引用:財務省ホームページ

つまり女性の社会進出が困難な時代に、女性でありながら小説家として身を立てて行こうとした一葉を、女性の社会進出のオピニオンリーダーと評価して選択したというわけです。それにしても一生お金に苦しめ泣かされた一葉が紙幣の肖像になるとは皮肉なものです。

樋口一葉にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「謎の占い師に経済的援助を頼んだ」

久佐賀義孝

一葉は経済的困窮に見舞われる中、パトロンを得ようとして、久佐賀義孝という占い師の元をいきなり訪問します。久佐賀は朝鮮や清・印度を歴訪し、東京に「顕真術会」なるものを創設した謎の多い人物ですが、一葉は彼をいきなり訪問し、自分の苦境を訴えました。

創作に没頭するため、久佐賀をパトロンにしようという意図が一葉にはあったようですが、月々のお金と引き換えに体を要求された一葉は日記で憤慨しています。真意ははっきりしませんが、一葉は金に困らず自由に創作するという望みを叶えるため、かなり大胆なアクションを起こしていたようです。

都市伝説・武勇伝2「森鴎外にリスペクトされた」

森鴎外

森鴎外は一葉の作品を大変高く評価しました。鴎外の一葉愛は、一葉の死後も噴出します。樋口家は経済的困窮のため、一葉に立派な葬儀を出してやることができず、体裁を重んじた一葉の母は弔問客を一切断りました。

しかしどうしても一葉に弔意を表したかった鴎外は、一葉の葬送の列に加わることを申し出ます。しかも軍人だった鴎外は、最も格式が高い軍服で騎乗して棺に付き添いたいと申し出たそうです。これに驚いた樋口家は謹んで辞退しました。そのため鴎外はひっそりと一葉の棺を見送り、弔意を表すために大ろうそくを贈ったということです。鴎外の一葉に対する思いが溢れた逸話です。

樋口一葉の略歴年表

1872年
誕生
樋口一葉は明治維新から5年後の1872年5月2日(旧暦3月25日、)現在の東京都千代田区内幸町に生まれました。戸籍名は「奈津」。他に「夏・なつ・夏子・なつこ」と記すこともありました。

父・則義は山梨の農家出身でしたが、江戸に出奔して同心株を買取り幕臣になりました。また維新後は東京府の役人に転身しました。樋口家は「士族」の肩書きを得、明治維新の歴史の大波も上手く乗り切った比較的裕福な家庭でした。この樋口家の4番目の子供として一葉は生まれました。
家族構成は以下の通りです。

  • 父・則義(甲斐国山梨郡出身/一葉誕生の際42歳)
  • 母・たき(甲斐国山梨郡出身/一様誕生の際38歳)
  • 長女・ふじ(生後すぐ里子に出される)
  • 長男・泉太郎
  • 次男・虎之助(勘当され、樋口家の籍から抜ける)
  • 次女・奈津
  • 3女・くに
1877年
本郷学校に入学
すでに草双紙を読みふけっていた一葉は、満5歳のこの年、公立の本郷学校に入学しますが、年齢が幼すぎたためすぐに退学しました。
1878年
私立吉川学校に入学
もとは寺子屋だった私立吉川学校に入学した一葉は、ここで主に読み書きを学びました。ただ早熟な一葉はすぐに教科書を読み終えてしまい、師から漢籍を与えられて学びました。
1883年
私立青海学校小学中等科第1級を卒業
満11歳になった一葉は、青海学校小学中等科を首席で修了し、進級を希望しましたが、女性は学問をするべきではないという母の教育方針のために退学しました。一葉はのちに日記で「死ぬばかりかなしかりしかど学校は止めになりけり」と回想しています。

この後、一葉は家事見習いや裁縫を習ったりするかたわら、和歌を作って過ごしました。

1886年
萩の舎に入門
満14歳になった一葉は、父則義の知人の紹介で、旧派の歌人として著名な中島歌子が主催する歌塾「萩の舎(はぎのや)」に入門しました。この頃はちょうど萩の舎の全盛期で、歌子の弟子には皇族や華族の夫人・令嬢が名を連ねていました。そのような面々の中で「平民」である一葉はコンプレックスを感じていましたが、その一方で師の歌子が自分の後継ぎにと望むほど、一葉は弟子の中で抜きん出た才能を溢れさせていました。
1888年
女戸主になる
前年、長男の泉太郎が結核で死去し、また長女と次男はすでに樋口家の籍から抜けていたため、16歳の一葉が父則義を後見人にして戸主になりました。このころ則義が財産をつぎ込んだ事業が失敗し多額の借金を抱え、樋口家は没落へと突き進んでいました。

翌1889年7月、父則義は病に倒れ、あっけなくこの世を去りました。残された母と妹を養うべく、17歳の一葉に女戸主としての責任が重くのしかかります。

1891年
小説の師半井桃水と出会い愛情を抱く
女性の社会進出はまだまだ認められておらず、職を得るとすれば、手内職か水商売、あるいは教師といった時代の中で、高い知性を持つものの学歴が低い一葉は教職にもつくことが出来ず、母と妹とともに細々と手内職をするほかありませんでした。

そんな時、萩の舎同門の田辺花圃(たなべかほ)が小説を出版して原稿料を得たのを知った一葉は、自分も文筆で生計を立てようと画策します。
花圃が小説家坪内逍遥のサポートを受けて小説家デビューを果たしたのを知った一葉は、文壇で師になって自分を導いてくれる人物を探します。知人の紹介で知り合った半井桃水を師として一葉の小説家人生が始まります。

そして19歳の一葉は31歳の半井桃水に師以上の感情、異性としての愛情を抱くようになります。

1892年
小説家としての船出とスキャンダル
半井桃水の配慮によって、同人誌「武蔵野」に小説「闇桜」を発表しました。続いて「棚なし小舟」「たま襷」を執筆し、「改新新聞」に「別れ霜」を二週間に亘り連載しました。順調な滑り出しに見えますが、世間が要求する世俗的な作風を書くことに対する違和感を一葉は感じていました。

また、師である半井桃水との関係がスキャンダルな噂になり、一葉は桃水との決別を決意します。しかしその後、先輩女流作家田辺花圃の紹介で、山田美妙が主筆を務め、尾崎紅葉など文壇の大物も作品を寄稿する「都の花」に「うもれ木」を発表し、女流小説家としての歩みを進めました。

1893年
文芸の仲間に恵まれるが生活は困窮し荒物屋を開業する
一葉は、ロマン主義の雑誌「文学界」のメンバーに迎えられ、星野天知・戸川秋骨・島崎藤村・平田禿木・馬場孤蝶・上田敏・北村透谷ら若手の才気あふれる作家たちとの交流が始まります。

しかし、文筆だけで家族を養うことは難しく、一葉は生活苦打破のために、下谷区竜泉寺町に転居し、荒物屋兼駄菓子屋を開業しました。

1894年
吉原にほど近い円山福山町に転居し執筆に集中する
創作に集中するため店を閉じた一葉は、吉原にほど近い本郷区丸山福山町に引っ越します。一葉の家には「文學界」の青年文士が集うようになり、貧しいながらも華やぎのある生活が始まりました。

竜泉寺町での商いの経験や「隣りに酒うる家あり。女子あまたいて(中略)遊び女ににたり。」(日記)というような場末の花街だった丸山福山町での生活は、「たけくらべ」や「にごりえ」の執筆に多大な影響を及ぼしました。

1895年
奇跡の14ヶ月
丸山福山町に引っ越した一葉は、旺盛な執筆活動を行いました。名作として名高い「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」をはじめとする作品は、「奇跡の14ヶ月」と呼ばれるこの年から翌年にかけて執筆されました。

またこの頃、森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨による合評「三人冗語」が「たけくらべ」を取り上げ、一葉の才能を絶賛しました。これにより一葉は文壇の寵児として脚光を浴びることになりました。

11896年
死去
作家としてようやく充実した日々を送ることができるようになった一葉でしたが、病が彼女を襲います。肺結核の症状が進行した一葉は、死の床に就きました。

満24歳作家としても女性としてもこれから大輪の花を咲かせるはずだった一葉の死を、彼女の才能を知る多くの人々が悼みました。

樋口一葉の生涯具体年表

1872年 – 0歳「樋口奈津=一葉の誕生」

当時の東京

現・東京都千代田区内幸町に生まれる

明治5年5月2日、のちに日本近代文学史上に名を残す女流作家となる樋口一葉は、この世に生を受けました。戸籍上の名前は「奈津」。他にも「夏・なつ・夏子」などの名前も使っています。

父則義と母たきは、甲斐国山梨郡の農民の出ですが、結婚を反対され、江戸に駆け落ちをしました。同郷の先輩蕃書取調役勤番の真下専之丞の助けを得て、苦労の末、慶応3年に南町奉行所配下八丁堀同心浅井竹蔵の株(30俵2人扶持)を382両2分銀10匁で購入し、士分を得たというサクセスストーリーの持ち主です。維新の時代の転換点もうまく乗り切り、東京府の役人の地位を得て、のちに警視庁に転職しました。

官舎から持ち家に引っ越し

一葉は東京府の役人だった父の官舎で生まれましたが、4歳の時、麻布三河台町に転居、翌年には文京区本郷に宅地233坪で土蔵もある屋敷に転居し、9歳までの5年間をここで過ごします。

幼少期の一葉は、農民から武士へと身分を超えた出世を果たし、多くの士族が生活の術を失った維新の混乱期も力強く乗り越えた父則義の庇護のもと、不自由のない生活を送っていました。

1878年 – 6歳「学校教育を受ける」

草双紙

公立学校から私立学校へ

一葉は公立の本郷学校に入学しますが、年齢が足りなかったためにすぐ退学します。その後すぐ、私立の吉川学校に入学し、元は寺子屋だったこの学校で読み書きを学びます。

「草双紙というものを好みて手まりや羽子をなげうちてよみけるがその中にも一と好みけるは英雄豪傑の伝任俠義人の行為など」(日記)というような早熟な少女でした。

8歳の時にはすでに「我が身の一生の常にて終わらむことなげかわしく(中略)竹のひとふしぬけ出でしがなとぞあけくれに願ひける」と、普通の一生で終わるのでなく人よりも抜きん出たいという、父譲りの強い上昇志向を持つ少女でした。

成績優秀も学校教育から離脱する

一葉は9歳になると池の端にあった私立青海学校の小学2級後期に入学し、11歳の時、同小学校の高等科第4級を首席で卒業しました。一葉は進級を望んでいましたが、母たきは、女性に学問は不要だと考えており、一葉は学校を辞めさせられました。

家で家事見習いや裁縫をして過ごすことになった一葉ですが、青海学校在学中に始めた和歌だけは続けていました。その様子を見た父則義が、知人の和田重雄という人物に一葉の和歌の添削を頼んでくれました。直接会って講義を受けることはありませんでしたが、書簡のやり取りを通じた、いわば通信教育のような形で一葉は和歌の指導を受けました。

1886年 – 14歳「萩の舎に入塾する」

萩の舎での集合写真(上段左から3番目が一葉)

中島歌子が主催する萩の舎に入塾し和歌を学ぶ

14歳の一葉は、和歌を本格的に学ぶために、歌塾「萩の舎」に入塾しました。一葉はここで和歌の詠み方とともに、「源氏物語」「枕草子」「伊勢物語」など日本古典文学の素養も身につけました。

一葉が入塾した頃の萩の舎には、梨本宮妃、鍋島公爵夫人など皇族や華族の令嬢・夫人が名を連ね、門下生の数もとても多かったということです。一葉はここで6年間学びました。

この頃の日記に一葉は「身のふる衣 まきのいち」という表題をつけています。この頃、一葉は、貧しい生活をしていたわけではありませんが、周囲の高貴な身分の令嬢に比べるとはるかにみすぼらしい身なりしかできない己を憂えて日記の題名を「ふる衣」すなわち「古い着物」としました。

「ふる衣」を身につけた己に恥ずかしさを覚えていた一葉ですが、和歌の発表会では他の塾生を圧して最高点を獲得するなど、和歌や文学の才能が一葉のプライドを支えていました。

1888年 – 17歳「女戸主になる」

母・妹と写る一葉(右)

父則義は、勤務していた警視庁を依願退職し、財産をつぎ込んで荷車請負業組合の設立にのりだします。しかし事業は失敗に終わりました。ちょうどその頃、樋口家の家督を継いだ長男の泉太郎が病に倒れ亡くなります。

そのため父を後見人に立て、一葉が樋口家を相続しました。しかしその父も病に倒れてこの世を去ります。一葉は父が残した多額の借金とともに樋口家を相続することになったのです。そしてその後、弱冠17歳の一葉に、戸主として母と妹の扶養義務がのしかかります。

明治という半封建的社会システムのなかで、女性の社会進出はまだ進んでおらず、可能な職は限られていました。仕立物などの手内職で細々とした収入を得るか、まともな職につくならば教師くらいしかない時代です。切羽詰まった一葉は、ちょうどそのころ開催された政府主催のイベント内国博覧会の売り子にでもなろうかと考えていました。

婚約破棄

渋谷三郎

一葉の父則義は存命中に、渋谷三郎という男性を一葉の婿にしたいと期待をかけていました。三郎は立身出世を絵に描いたような男性で、東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、判事になり、のちには秋田県知事や山梨県知事、早稲田大学法学部部長などを歴任しました。三郎は、則義の恩人である真下専之丞の係累だったため、樋口家に出入りしており、一葉の婿にという則義の願いも承知していました。しかし則義の死に伴い、没落した樋口家の様子を察した真下家が、経済的に無理難題な申し出を樋口家に投げかけたため、縁談は破棄になりました。

萩の舎の内弟子になる

父の死で困窮している一葉を見た師の中島歌子の計らいで、一葉は萩の舎の内弟子になりました。一葉の日記によると、中島歌子は一葉を学校の教師に推薦するという約束をしており、一葉もそれに期待していましたが、能力があっても一葉の学歴が低いため叶いませんでした。結局萩の舎での下働きのような生活に耐えかねた一葉は、半年足らずで母の元に帰りました。

1891年 – 19歳「文筆業を志す」

長崎県・対馬にある半井桃水館

田辺花圃の小説家デビューに刺激を受ける

一葉は、萩の舎の先輩である田辺花圃が、1888年に小説を出版したことに大きな刺激を受けました。

花圃は貴族院議員田辺太一の長女で、東京高等女学校専修を卒業した良家の子女でした。しかし、父田辺太一の豪奢な暮らしぶりや、兄がロンドンで客死したために纏まった金が必要になり、花圃は小説を出版したのでした。この花圃の前例に刺激を受け、一葉も職業として小説を書くということを志すようになったのです。

ただ、花圃が小説の出版にこぎつけることができたのは、坪内逍遥に添削を依頼し、父太一の旧知、金港堂中根香亭が版元になるなど、周囲の人々の協力があったためでした。一方、一葉にはそうした人脈もなく、作品を書いても発表の術がありませんでした。

半井桃水への弟子入りを希望する

一葉は新聞社や出版社へのつてとして、妹くにの友人の紹介で、東京朝日新聞の小説記者半井桃水を頼ります。半井桃水は対馬藩典医の長男として生まれ、朝日新聞の特派員として壬午事件を報じた能力を買われて小説記者として招聘された人物です。朝日新聞を発表の舞台に大正前半まで小説を発表していますが、通俗性が高い作風を手がけていました。

半井桃水は、田辺花圃をサポートした坪内逍遥のような文壇の大物ではありませんが、一葉は小説家デビューのために一縷の望みをかけて、半井桃水に弟子入りの意志を伝えました。

男性でさえ簡単ではない小説家という職業を目指す一葉に、桃水は一旦は反対しますが、桃水は自分が創刊した同人雑誌「武蔵野」への寄稿を後押しするなど、一葉をサポートし、桃水と一葉の師弟関係は続きました。

一葉というペンネームを使い始める

一葉というペンネームは、本格的に小説で自立しようと考えた1891年ごろから使い始めています。「一葉」の由来は、達磨が乗って来たという葦の葉のことで、葦=「おあし(お銭)が無い」という洒落が込められています。

金銭に困り、追い詰められるように小説家の道に進んだ一葉ですが、我が身に降りかかった苦境をユーモアと知性溢れる言葉遊びで洒脱なペンネームに昇華したのです。

「武蔵野」に「闇桜」を発表

1892年に一葉は処女作「闇桜」を「武蔵野」に発表し、小説家としてのスタートを切りました。とはいうものの、まだ原稿料を取れるようなものではありませんでした。そのため生活はまだ変わらず、師の半井桃水に借金を申し入れることさえありました。

半井桃水への愛情の芽生えと苦悩

スキャンダルとされた桃水との関係

一葉にとって半井桃水は、師以上の存在になっていました。初対面の日から一葉は好意的な目で桃水を見ています。桃水を見た印象を「色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」と日記に書いています。

桃水は妻と死別しており、一葉と出会った頃は32歳で独身でした。小説の指導を受けるために、一人暮らしの桃水の元を度々訪れるようになった一葉は、桃水のことを師匠としてだけでなく男性として強く意識するようになります。
しかし桃水の品行を疑う人々からのノイズが一葉の耳の届き、一葉の心は揺れ動きました。

桃水の元に足しげく通う一葉のことを萩の舎の人々は快く思っていませんでした。一葉と桃水の関係はスキャンダルとして話題になり、友人や師である中島歌子から桃水とは決別すべきだとの忠告を受けました。スキャンダルとして語られることにプライドが傷ついた一葉は、桃水に事情を説明したうえで交際を断つことを告げました。

それに対し桃水は「我はお前様よかれとてこそ身をも盡(つく)すなれ、御一身のご都合よきようが我にも本望なり」と、一葉のためになることを自分は望んでいると優しく受け止めてくれたことを一葉は日記に書いています。

新たな出発

桃水との決別で文壇との繋がりが途絶えた一葉に、萩の舎の先輩で、女流小説家としても先輩にあたる田辺花圃が雑誌「都の花」での執筆を勧めてくれました。山田美妙が主催していた「都の花」は日本最初の商業文芸雑誌でした。尾崎紅葉・田山花袋・幸田露伴などのちに文学史に名を列ねることになる大物も「都の花」に作品を発表していました。

これまで、桃水の指導の下、大衆に受け入れられる小説を書くようにと教えられ、不本意ながら自分の文学観を押し殺して執筆をしていた一葉は、桃水との決別、「都の花」への執筆を通じて、新たな一歩を歩み始めます。

一葉は「都の花」に発表した「うもれ木」で、原稿料11円75銭を手に入れました。また「うもれ木」は文芸誌「文學界」を創刊準備していた平田禿木の目にとまり、これがのちに雑誌「文学界」での一葉の活躍に繋がって行きます。

1893年 – 21歳「「文學界」文士との交流、一葉の文学の進化」

明治時代の『文學界』

「文學界」への執筆、経済的窮状

「うもれ木」に才能を見出した平田禿木は、一葉に「文學界」への寄稿を依頼しました。これを機に一葉と「文學界」周辺の文士らとの交流が始まります。

しかし、一葉の経済的な窮状は一向に改善されず、友人にもまとまったお金を借りている状態で、一葉は日記に「我が家貧困ましにせまりて今は何方より金借り出すべき道もなし」と書き記しています。もちろんこのころの一葉は「文學界」周囲の人々から執筆依頼があり原稿料を手にすることができましたが、まだ筆が遅く、多くの作品を書くことはできませんでした。

下谷区竜泉寺町で商売を始める

樋口一葉旧居跡

1893年7月1日の日記に一葉は「人常の産なければ常の心なし」つまり定収入がない人間には心の安定はないと書き記し、「文学は糊口のためになすべきもの」ではなく心の赴くままに書くべきなので、これからは「糊口的文学」つまり金儲けのために書くことはやめて、商いをしようと決心を述べています。

一葉親子は下谷区竜泉寺町に引っ越し、間口二間の長屋で荒物屋兼駄菓子屋を開業しました。竜泉寺町は俗に大音寺前と呼ばれ、遊郭・吉原と隣り合う町、周辺は貧しい人々が多く暮らす土地柄でした。一葉一家はここで主に子供相手に細々とした商売を行いました。

一度は小説で身を立てることを諦めた一葉のもとに平田禿木が訪れ、原稿を依頼します。それに応え一葉は「琴の音」を執筆しました。またこのころ萩の舎で一葉と同門だった人々が家塾を開くことを聞き、隠しきれない嫉妬の感情を日記に記しています。

文筆で身を立てる決心をし、久佐賀義孝との交流が始まる

このころ一葉は、久佐賀義孝という人物を訪ねています。一葉の日記によると「学あり力あり金力ある人によりおもしろくをかしく(中略)世のあら波をこぎ渡らんとて」とあり、久佐賀の財力に頼るため、つまり文筆を行うためのパトロンになってもらうことを頼むための訪問でした。

久佐賀義孝は、東京本郷区で顕真術会を創設し、占い、身の上相談、相場のコンサルティングを行う人物で、このころ盛んに新聞に広告を掲載していました。おそらく新聞広告で久佐賀を知ったと思われる一葉は、女の身で浮世で生きていくために相場をやってみたいと伝えました。

一葉に興味を持った久佐賀は、その後も一葉との交流を求めています。その久佐賀の好意を察知した一葉は、援助をして欲しいとダイレクトに頼みますが、交換条件として囲い者になることを提案され、憤慨した一葉はそれを断りました。

本郷区丸山福山町での生活

本郷にある樋口一葉も使ったといわれる井戸

一葉は、この年の5月、竜泉寺町の店を閉じて、本郷区丸山福山町に引っ越しました。この丸山福山町の家で、「大つごもり」や「たけくらべ」などの名作が描かれることになります。「文学界」の平田禿木は、度々一葉の家を訪れ、原稿依頼をしました。それにより一葉は諦めかけていた文学の道に立ち返ることができました。

この家には、禿木の他にも馬場孤蝶や上田敏など「文学会」に関わる青年文士が集い、哲学や文学談義を行うなど、一葉と同世代で共に文学を志す面々との楽しい時間を送ることも度々ありました。

特に馬場孤蝶は度々一葉宅を訪れ、旅先からは必ず手紙を寄せるなど、一葉に敬愛の念とともに、特別な思いを寄せていた様も伺えます。一葉が没したのちも一葉に関する回想や随筆を多く執筆し、初めて一葉の日記を収録した「一葉全集」の刊行の編纂にあたったのも馬場孤蝶でした。

「大つごもり」執筆により作家として成熟する

1894年12月一葉は「大つごもり」を「文学界」に発表しました。「大つごもり」では幼少期から苦労し下女として働く女性を主人公に、女性が生きる下層社会の暮らしと、奉公先の裕福な上流家庭との暮らしぶりの違いをリアリティを持った筆致で描き出しています。

これまでの一葉の作品は没落した家のお嬢様を主人公にすることが多く、少女趣味的なロマンティシズムが漂っていましたが、「大つごもり」以降の作品では、王朝文学の流れをくむ古典的で雅やかな文体を用いながらも、社会構造の矛盾や犠牲を強いられ下層に生きる人々を写実的に描く批評性を兼ね備えた小説へ成熟を遂げて行きました。

1896年 – 24歳「奇跡の14ヶ月と一葉の死」

一葉最後の写真(右が一葉)

「たけくらべ」を発表する

1895年1月30日「文学界」25号から37号まで、一葉の代表作「たけくらべ」が連載されました。「たけくらべ」の舞台は「大音寺前」、つまり一葉が荒物屋兼駄菓子屋を営んでいた下谷竜泉寺町です。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」という有名な書き出しからはじまる「たけくらべ」は吉原の「大門」周辺に暮らす子供達の生き生きとした姿を映し出すと共に、いずれそれぞれが決められた人生を歩んでいくことになる哀しみや、子供という時代と決別する切なさが美しく情緒的に描かれています。

主人公の美登利は吉原の花魁の妹で、子供達のグループで女王的な存在の14歳の少女です。彼女は寺の長男藤本信如に淡い恋心を抱きますが、真如は仏門に入るために街を去り、ちょうどその頃初潮を迎えた美登利は、姉同様、吉原の店に上がる日が近付きます。一生を仏門に捧げる真如と遊郭で生きる美登利は、これから先、相入れることがない世界で行きていくことになるのです。

子供の時間の終焉を描くことで、運命に抗えずに生きて行くしかない人々の悲哀、封建的な社会構造を鋭く抉り出した作品でもありました。「たけくらべ」は、一葉自身が生活に困窮し、竜泉寺町での商い生活を余儀なくされたからこそ描くことができた作品だと言えるでしょう。

最下層に生きる女性への眼差しをもつ一葉の作品はさらなる進化を遂げる

一葉は自分が暮らす丸山福山町を舞台に「にごりえ」を執筆しました。日記によれば、丸山福山町の一葉の家の隣には「酒うる家あり。女子あまた居て客のとぎをすること歌ひめのごとく遊び女に似たり」とあり、酒場として酒を振る舞うだけでない怪しい商売が営まれて居ました。この周辺は、いわば場末の花街だったのです。

そうした花街の女たちから手紙の代筆を頼まれることが多かった一葉は、彼女らの生き様を間近かに感じることができたと思われます。「にごりえ」は新開の銘酒屋の酌婦お力を主人にした作品です。客の痴情から死に追いやられていくお力を通して、酌婦という社会の最下層で生きる女の姿、彼女らを取り巻く現実を鋭くえぐり出した作品でした。

奇跡の14ヶ月

森鴎外らが発行していた『めさまし草』

丸山福山町に転居した後の一葉は、花が一気に咲き乱れるように、優れた作品を続々と描きました。のちに一葉研究者が「奇跡の14ヶ月」と呼ぶ時期が到来です。

「大つごもり」「たけくらべ」「軒もる月」「経つくえ」「ゆく雲」「うつせみ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」「この子」「裏紫」「われから」を執筆した1894年12月から1896年1月にかけての時期を指します。

1896年4月「たけくらべ」が「文藝倶楽部」に一括再掲載されたことをきっかけに、「めさまし草」で「たけくらべ」が取り上げられます。「めさまし草」とは、森鴎外・斎藤緑雨・幸田露伴の3人が中心的に発行していた雑誌です。創刊号ですでに一葉の作品の批評を行い、一葉を高く評価していましたが、1896年4月発行「めさまし草」に掲載された鴎外・緑雨・露伴の創作合評「三人冗語」において、「たけくらべ」が絶賛を受けます。

当時34歳、軍医でありながら東西の文学に通じ、自らも「舞姫」などのロマン主義的な作品を手がけ、すでに明治文壇の中心人物の一人であった森鴎外は「われはたとえ世の人に一葉崇拝の嘲(あざけり)受けんまでも、この人に誠の詩人という称をおくることを惜しまざるなり」と、一葉文学へのリスペクトを声高に語っています。

しかし、この時すでに一葉の命のカウントダウンは始まっていました。

短い輝きと一葉の死

樋口一葉の墓

1896年の春、一葉の体には肺結核の症状が現れていました。4月には喉が腫れて治らなくなったり、7月には高熱が連日続くようになりました。終生日記を書き続けていた一葉ですが、その日記も7月で終わっています。8月に入って妹が一葉を駿河台の山龍堂病院に連れて行きましたが、「絶望的」との診断を下されます。

一葉の症状が悪化してから、斎藤緑雨は頻繁に樋口家を訪れていました。緑雨は森鴎外に頼み、東京帝国大学医科教授青山胤通による診察を取り計らうなど、一葉のために尽力しています。しかし青山が診察した時には一葉の病状はすでに肺結核の末期に至っていました。

こうして1896年(明治29年)11月23日、樋口一葉は24年の短い人生に終わりを告げました。小説家として、また一人の女性としてこれからますます輝いていくであろうという時期のあまりに早い死でした。

葬儀は11月25日に執り行われましたが、その葬儀はごく質素なものでした。

樋口一葉の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

文豪ブックス たけくらべ

樋口一葉の文体は言文一致体ではなく、古典的な和文脈の文体なので初めて読む人は、とっつきにくいかもしれません。これは上段が原文、下段が対訳になっているので、大変わかりやすく便利です。

樋口一葉 [ちくま日本文学013]

「たけくらべ」「にごりえ」「大つごもり」など樋口一葉の代表作と日記をまとめた文庫本です。井上ひさしの解説付き。代表作を一気読みできるので、一葉ワールドにどっぷり浸れます。

現代語で読むたけくらべ (現代語で読む名作シリーズ)

完全に現代語に訳した「たけくらべ」です。本当は一葉の文体を味わうのがおすすめですが、古典的文章を読むのは敷居が高いのものです。まずは、ストーリーを楽しんでから、原文にチャレンジするのも良いかもしれません。

おすすめ動画

樋口一葉・たけくらべ

「たけくらべ」原文の朗読です。雅な和文脈の文章は、本来は声に出して読んで聞いて楽しむものなので、上手な朗読で一葉の文体を味わってみるのもおすすめです。

大つごもり(樋口一葉) 朗読

「大つごもり」の朗読です。格調高い朗読で聞くと、今ひとつ意味のわからないところがあっても、日本語の響が楽しめます。

おすすめ映画

にごりえ

「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」をオムニバス形式で映画化した作品です。キャストは文学座の久我美子・淡島千景・杉村春子。モノクロ映画が、一葉ワールドの叙情性を引き出します。

関連外部リンク

樋口一葉についてのまとめ

樋口一葉といえば、5000円札の肖像という印象が強いかと思います。短い人生の大半をお金がないことに苦しみ、一葉というペンネームにも、達磨太師が乗ったという葦の葉にかけて「お葦(銭)がない」という意味を込めた一葉でした。その一葉が紙幣の顔になったのですから、皮肉というほかありません。

一葉は近代文学の黎明期、まだ小説という形式について多くの作家が試行錯誤していた時代に職業作家として「小説」を書いた、数少ない女性の一人です。古典文学、和歌の素養をベースに、典雅な文体を用いながら、下層社会に生きる人々と彼らを取り巻く社会の矛盾を写実的にえぐり出しました。

自らも社会の諸矛盾と闘った24年の短い生涯は、鮮やかな花火のような輝きを放っています。言文一致の文体に馴染んでしまった私たちにとって、一葉の文体に壁を感じる人も多いかと思います。でも一度声に出して一葉の作品を音読し、その響きを味わってみることをおすすめします。

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