「十字軍ってなに?何で遠征をしたの?」
「何度も遠征したみたいだけど、実際どれくらい遠征したの?」
十字軍は、11世紀から13世紀にかけて活躍した遠征軍です。全9回の遠征でヨーロッパ諸国に大きな影響を与えました。
そんな十字軍ですが、書籍等で調べてたものの、結成された目的や全9回に及ぶ遠征を行った理由がいまいち理解できない人は多くいますよね。
そこで、今回はそもそも十字軍とは何なのか、その特徴を結成された目的や遠征の概要も交えわかりやすく解説します。また、十字軍の主要人物や十字軍が世界に与えた影響も紹介するので、ぜひ参考にしてください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
十字軍とは?
十字軍は、ローマ教皇を中心に1096年からキリスト教徒で結成された遠征軍のことを指します。十字軍の主な目的は、異教イスラム教徒が支配する『聖地エルサレム』の奪還。その目的を果たすため、十字軍は約200年間で9回に及ぶエルサレム奪還の遠征を続けました。
そんな十字軍は、参加した兵士たちが胸に十字架の印を付けていたことから十字軍と名付けられました。
遠征の目的はエルサレム奪還
十字軍が奪還したがっていた目的地エルサレムは、イエス・キリストが処刑された後に、復活した地です。しかし、638年にはイスラム教徒の支配下に置かれていました。そのため、聖地を奪還するにあたり、兵士のみならず奪還に熱狂的な民衆も武器を持ちました。
十字軍の遠征は、キリスト教徒に多大な影響を与えた出来事と言っても過言ではないことがうかがえます。
十字軍が行った各遠征の概要
ここからは、十字軍が行った全9回に及ぶ遠征の概要を解説します。
- 第1回十字軍(1095年~1099年)
- 第2回十字軍(1147年~1149年)
- 第3回十字軍(1189年~1192年)
- 第4回十字軍(1202年~1204年)
- 第5回十字軍(1218年~1221年)
- 第6回十字軍(1228年~1229年)
- 第7回十字軍(1248年~1249年)
- 第8回十字軍(1270年)
- 第9回十字軍(1271年~1272年)
十字軍は9回に及ぶ遠征で聖地エルサレムは奪還できたのか、各遠征の概要を詳しく解説します。
第1回十字軍(1095年~1099年)
第1回十字軍は1095年にローマ教皇ウルバヌス2世を中心に、フランスや神聖ローマ帝国の兵士たちや民衆で結成されました。また、第一回十字軍が結成されるきっかけになった出来事は、イスラム王朝セルジューク朝に苦戦していた東ローマ帝国からの援軍要請でした。
ウルバヌス2世はこれを好機とし、イスラム教が支配するエルサレムの奪還を大義名分として立ち上がります。エルサレムの奪還という目的を持った十字軍の士気は高く、ドリュラエウムの戦いやのアンティオキア攻囲戦でイスラム軍に勝利しました。
そして1099年、レーモン4世やゴドフロワ・ド・ブイヨンに率いられた十字軍は聖地エルサレムの奪還に成功します。その後、シリアからパレスチナにかけての地中海東岸にエルサレム王国、トリポリ伯国といった4つの十字軍国家が誕生しました。
申し訳ありません。文中の1215年は1212年の間違いでした。うっかりタイプミスしました。
もう一つのケースは、ドイツのラインラントで羊飼いをしていたニコラスという少年が、「約束された奇跡」が起こると触れ回り、『ジェノバの年代記』では約7,000名と言われる少年少女を集め、やはり地中海を目指します。アルプスを越えて地中海のジェノバにたどり着きますが、『ケルンの年代記』によると多くの少年が空腹と渇きにより亡くなったようです。ジェノバで約束していたような海が割れる現象もなく失望し、大半は引き返しますが、残りはピザを目指しますが法王の説得で、やっと故郷に引き返すことになります。しかし一部は残り、奴隷商人に売られたと言われています。中世では途中で食料を得ることは困難で、たとえ戻る選択をしても、多くの少年が命を落としたものと思います。このニコラスという少年の父親は、逮捕され処刑されています。
これらの話は、19世紀に啓蒙主義者やプロテスタントによる「カトリックは悪」というプロパガンダで細部が拡大され広まったものも多いと言われており、本来の真実とは違った部分もあるかも知れません。
しかし13世紀の年代記でも、多くの子供たちが大勢でエルサレムを目指した南下したこと自体は書き残されており、それ自体は真実でしょうが、アレキサンドリアだとか奴隷商人という話は、付け加えられているかも知れません。また、中世における少年とされている「Puer」がもう少し幅広い層を示しているとも言われています。また実は貧困層の人々であり、よりよい新天地を目指して移動した「巡礼団」として捉える人もいます。いずれにしても、ヨーロッパの中世が、如何に貧しい環境にあったかを示したものでしょう。
悲惨な十字軍
十字軍の歴史は悲惨な出来事に満ちており、この出来事から目をそらし、歴史を語ることは不可能です。ここで書かれている十字軍の歴史は、表面的な教科書の年表暗記に似たことのみ述べられていますので、十字軍の歴史的真実に迫ることはまったく出来ておらず残念です。日本の教科書にも記載があります。
十字軍に関する悲惨な出来事は数多くありますが、重要なことの一つは残虐行為が各地で行われたこと、そしてもう一つは少年十字軍です。残虐行為については、ユダヤ人やモスリムにどうこうした、あるいは逆に十字軍がどうなったかなど、たくさんの事例が記録に残っています。これは余りに悲惨・残酷なことばかりで、私は述べたいとは思いません。
しかし少年十字軍については、少し述べたいと思います。主に出来事が二つあります。フランスとドイツですが、同じ1215年に起こった民衆運動です。12才~15才の少年たちが熱狂しエルサレムを目指す十字軍になろうとしたものです。1101年や1147年の十字軍にも子供の群れが現れたと記録があります。そのような土壌があったのでしょう。
フランスのケースでは、少年エティエンヌが「神の手紙」を神から手渡されて、聖地回復をするようお告げがあったと人々に説いて回り、それに感化された少年少女らが少年十字軍を結成したものです。自分たちが行けば、異教徒が改心すると信じて、数千人から2万前後の少年少女が集まったようです。
武器も食料もない中、地中海にまでたどり着いたもの、それ以上は進めず少年らは元来た道を引き返しますが、一部の少年は親切な商人の助けで船に乗り込むものの難破して多くがなくなり、また残された者たちは奴隷として売られる運命となります。近代の歴史の中ではアフリカからの黒人奴隷が話題になりますが、地中海沿岸地域の白人はアラブの奴隷商人に浚われ奴隷になった人々が百万人ほどいたと言われていますが、その先駆け的なものでしょう。白人は高い値段で取引されたようです。結局故郷に戻れた少年は、わずかだったようです。