十字軍をわかりやすく解説!遠征の目的や経緯、与えた影響も紹介

第8回十字軍(1270年)

ルイ9世
出典:Wikipedia

第7回十字軍の後、エルサレム奪還を諦めきれずにいたルイ9世は再度十字軍を編成します。第8回十字軍と呼ばれる遠征軍は、1270年にイスラム教徒が支配するチュニジアを攻撃しました。

しかし、暑さや飲み水の劣悪さによって病気が蔓延。しまいには、ルイ9世が病死する事態になりました。その後は、ルイ9世の弟・シャルル・ダンジューがキリスト教徒の保護や賠償金を条件としてチュニジアと和睦しました。

第9回十字軍(1271年~1272年)

エドワード1世
出典:Wikipedia

イスラム王朝マルムーク朝は、5代目スルタン・バルバイスの代で勢いを増し、1268年には十字軍国家の1つであるアンティオキア公国を滅ぼしました。その勢いのまま、残りの十字軍国家やアッコをバルバイスは攻撃します。

1271年、バルバイスの勢いを止めるために、エドワード1世はシャルル・ダンジューと共にアッコへ向かいました。これが、中世最後の大規模な十字軍と呼ばれている第9回十字軍です。

バルバイス
出典:Wikipedia

エドワード1世は、バルバイスに対して勝利を収めました。しかし、十字軍内で対立が起こっていたため、エルサレム奪還までは進めずにいました。そんな時に、エドワード1世は暗殺者の襲撃で重傷を負ってしまいます。

その後、エドワード1世がアッコを去ったため、第9回十字軍は解散となりました。戦果を挙げてはいたものの、マムルーク朝の勢いを削ぐことはできませんでした。

アッコの陥落
出典:Wikipedia

第9回十字軍以降、十字軍は来なくなり、結果1289年に十字軍国家のトリポリ伯国が滅亡。1291年にエルサレム王国の首都アッコが陥落したことで、十字軍はエルサレムの十字軍国家や立場を完全に失いました。

十字軍がもたらした影響

十字軍は9度に渡る遠征の末、エルサレム奪還という悲願を果たせずに終わりました。しかし、約200年に渡る遠征で十字軍は3つの影響をヨーロッパ諸国に与えました。

  • 影響①:教皇権威の衰退と国王権力の発展
  • 影響②:東方貿易で経済の発展
  • 影響③:イスラム文化やビザンツ文化の流入

それぞれの影響を詳しく解説します。

影響①:教皇権威の衰退と国王権力の発展

十字軍の失敗は国王の権威を向上させた

教皇の権力は度重なる十字軍遠征の失敗により、衰退していきました。また、十字軍に参加していた騎士や貴族たちも勢力を失っていきました。その代わりに、国王が騎士たちの領土を支配。次第に力を強めていきました。

また、命を懸けて十字軍を率いたこともあり、民衆や兵士からの信頼を勝ち得ていきました。結果、教皇たちを主体とした封建制度が崩壊し、絶対王政の時代へと転換していきました。

影響②:東方貿易で経済の発展

ヴェネツィア
出典:Wikipedia

十字軍遠征をきっかけに、地中海を中心とした東方貿易が盛んになりました。東方貿易で、イタリアはヴェネツィアを出港地としてイスラム商人と交易。香辛料や絹織物が輸入されました。

イタリアは東方貿易で得た品々を、陸路を通してヨーロッパ諸国にもたらします。その結果、イタリアを中心に商業と貨幣経済の発展のきっかけになりました。

影響③:イスラム文化やビザンツ文化の流入

12世紀ルネサンスでは、騎士の恋愛や武勲をテーマにした騎士道物語が盛んになった

十字軍遠征を通して、イスラム文化やビザンツ文化がヨーロッパに流入しました。異文化の書物や哲学により、ヨーロッパでは新しい文化が出来上がっていきます。その文化的発展は、12世紀ルネサンスと呼ばれています。

このルネサンスでは、ゴシック様式建築の始まりや吟遊詩人の流行が起こりました。また、12世紀ルネサンス無くして、14世紀に起こったルネサンスは起こらなかったと言われています。それほど、イスラム文化はヨーロッパの文化発展に影響を与えたと言わざるを得ません。

十字軍に関するまとめ

今回は、そもそも十字軍とは何なのか、その特徴を結成された目的や遠征の概要も交えわかりやすく解説しました。

9回に及ぶ十字軍で、エルサレム奪還を果たしたのは、第1回と第6回でした。それ程、イスラム教からのエルサレム奪還は難しかったことがうかがえます。また、時代を経ていく毎に、エルサレム奪還に意欲的ではなくなったとも考えられます。

その要因には、ヨーロッパ諸国が豊かになったことにより、エルサレム奪還に関心がなくなったことがありました。それでもエルサレム奪還に意欲的な人物たちが奪還に挑みますが、最終的にエルサレム周辺の十字軍国家まで失ったので、後味の悪い結果になったのは言うまでもありませんね。

この記事を通して十字軍に興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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3 COMMENTS

匿名

悲惨な十字軍
十字軍の歴史は悲惨な出来事に満ちており、この出来事から目をそらし、歴史を語ることは不可能です。ここで書かれている十字軍の歴史は、表面的な教科書の年表暗記に似たことのみ述べられていますので、十字軍の歴史的真実に迫ることはまったく出来ておらず残念です。日本の教科書にも記載があります。
十字軍に関する悲惨な出来事は数多くありますが、重要なことの一つは残虐行為が各地で行われたこと、そしてもう一つは少年十字軍です。残虐行為については、ユダヤ人やモスリムにどうこうした、あるいは逆に十字軍がどうなったかなど、たくさんの事例が記録に残っています。これは余りに悲惨・残酷なことばかりで、私は述べたいとは思いません。
しかし少年十字軍については、少し述べたいと思います。主に出来事が二つあります。フランスとドイツですが、同じ1215年に起こった民衆運動です。12才~15才の少年たちが熱狂しエルサレムを目指す十字軍になろうとしたものです。1101年や1147年の十字軍にも子供の群れが現れたと記録があります。そのような土壌があったのでしょう。
フランスのケースでは、少年エティエンヌが「神の手紙」を神から手渡されて、聖地回復をするようお告げがあったと人々に説いて回り、それに感化された少年少女らが少年十字軍を結成したものです。自分たちが行けば、異教徒が改心すると信じて、数千人から2万前後の少年少女が集まったようです。
武器も食料もない中、地中海にまでたどり着いたもの、それ以上は進めず少年らは元来た道を引き返しますが、一部の少年は親切な商人の助けで船に乗り込むものの難破して多くがなくなり、また残された者たちは奴隷として売られる運命となります。近代の歴史の中ではアフリカからの黒人奴隷が話題になりますが、地中海沿岸地域の白人はアラブの奴隷商人に浚われ奴隷になった人々が百万人ほどいたと言われていますが、その先駆け的なものでしょう。白人は高い値段で取引されたようです。結局故郷に戻れた少年は、わずかだったようです。

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匿名

もう一つのケースは、ドイツのラインラントで羊飼いをしていたニコラスという少年が、「約束された奇跡」が起こると触れ回り、『ジェノバの年代記』では約7,000名と言われる少年少女を集め、やはり地中海を目指します。アルプスを越えて地中海のジェノバにたどり着きますが、『ケルンの年代記』によると多くの少年が空腹と渇きにより亡くなったようです。ジェノバで約束していたような海が割れる現象もなく失望し、大半は引き返しますが、残りはピザを目指しますが法王の説得で、やっと故郷に引き返すことになります。しかし一部は残り、奴隷商人に売られたと言われています。中世では途中で食料を得ることは困難で、たとえ戻る選択をしても、多くの少年が命を落としたものと思います。このニコラスという少年の父親は、逮捕され処刑されています。
これらの話は、19世紀に啓蒙主義者やプロテスタントによる「カトリックは悪」というプロパガンダで細部が拡大され広まったものも多いと言われており、本来の真実とは違った部分もあるかも知れません。
しかし13世紀の年代記でも、多くの子供たちが大勢でエルサレムを目指した南下したこと自体は書き残されており、それ自体は真実でしょうが、アレキサンドリアだとか奴隷商人という話は、付け加えられているかも知れません。また、中世における少年とされている「Puer」がもう少し幅広い層を示しているとも言われています。また実は貧困層の人々であり、よりよい新天地を目指して移動した「巡礼団」として捉える人もいます。いずれにしても、ヨーロッパの中世が、如何に貧しい環境にあったかを示したものでしょう。

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匿名

申し訳ありません。文中の1215年は1212年の間違いでした。うっかりタイプミスしました。

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