第2回十字軍(1147年~1149年)
1145年、十字軍国家の1つだったエデッサ伯国は、イスラム王朝ザンギ―朝の初代長・ザンギ―に奪われました。その報告を受けて、当時のローマ教皇エウゲニウス3世はエデッサ伯国奪還のための十字軍を編成。これが第2回十字軍です。
この十字軍は、1147年にルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世を中心に軍が構成され、目的であるエデッサ伯国奪還へ向かいました。しかし、肝心のエデッサ伯国へは向かわず、十字軍は聖地エルサレムで巡礼をしていました。つまり、第2回十字軍は聖地エルサレムへの巡礼を目的とした遠征軍だったのです。
聖地巡礼しただけで大きな戦果を挙げずにいたため、第2回十字軍は聖書に登場する聖都ダマスカスの奪還を最終目的にしました。ただ、ダマスカスはエルサレムと同盟関係にあった国。十字軍は、それを承知でダマスカスを包囲しました。
その結果、ダマスカスはザンギ―朝と協力関係になり、十字軍は撤退を余儀なくされます。こうして、第2回十字軍は何の戦果も挙げることなく解散しました。
第3回十字軍(1189年~1192年)
1187年、イスラム王朝アイユーブ朝のサラディンが起こしたヒッティーンの戦いで、エルサレムが奪われます。この事態に教皇グレゴリウス8世はエルサレム奪還のために十字軍を呼びかけます。第3回十字軍となった今回は、イングランドの獅子心王リチャード1世やフランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加しました。
1189年にフリードリヒ1世の軍が出発。イスラム教徒が治めるイコニウムを占拠しました。しかし、1190年にフリードリヒ1世が事故死したことをきっかけにフリードリヒ1世が率いた軍は壊滅しました。
その後、1191年にフィリップ2世とリチャード1世は海路でパレスチナに到着。2人はパレスチナの中心都市であるアッコを包囲戦で占拠しました。ところが、フィリップ2世とリチャード1世が対立したことで、リチャード1世のみでサラディンと戦うことになりました。
リチャード1世はエルサレム奪還のため、サラディンと何度か戦いました。しかし、度重なる戦いによる疲労とエルサレムを奪還できない不満から、1192年にサラディンと休戦協定を結びます。
この協定で、アッコはエルサレム王国の支配下となり、エルサレムはイスラム政権が統治する形となりました。この後、リチャード1世が帰国し、第3回十字軍は解散しました。
第4回十字軍(1202年~1204年)
第4回十字軍は、1198年にローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけました。この呼びかけにシャンパーニュ伯ティボー3世やブロワ伯ルイ1世といったフランス貴族たちが応えました。
これまでの十字軍と違い、第4回十字軍の目的はエルサレム奪還ではなく、イスラム教徒の本拠地エジプトを攻撃することでした。また、海路で攻めることを決めていたので、その輸送をヴェネツィアに依頼します。
しかし、十字軍に参加する人数が予定より少なく、ヴェネツィアに支払う資金が不足していました。そのため、1202年にキリスト教を信仰するハンガリーを攻略し、資金を得る暴挙に出ました。これに怒ったインノケンティウス3世は、第4回十字軍を破門します。しかし、後の弁明により、破門が解かれました。
そして、その後に訪れた東ローマ帝国を亡命したアレクシオス4世の依頼で、多額の報酬を得るために東ローマ帝国を攻撃。1203年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、ラテン帝国を建国しました。
このように本来の目的から逸脱し、コンスタンティノープルを略奪や殺戮の限りを尽くした上で占拠。その地でラテン帝国という新たな国を築いたことから、第4回十字軍は『最も悪名高い十字軍』として知られています。
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申し訳ありません。文中の1215年は1212年の間違いでした。うっかりタイプミスしました。
もう一つのケースは、ドイツのラインラントで羊飼いをしていたニコラスという少年が、「約束された奇跡」が起こると触れ回り、『ジェノバの年代記』では約7,000名と言われる少年少女を集め、やはり地中海を目指します。アルプスを越えて地中海のジェノバにたどり着きますが、『ケルンの年代記』によると多くの少年が空腹と渇きにより亡くなったようです。ジェノバで約束していたような海が割れる現象もなく失望し、大半は引き返しますが、残りはピザを目指しますが法王の説得で、やっと故郷に引き返すことになります。しかし一部は残り、奴隷商人に売られたと言われています。中世では途中で食料を得ることは困難で、たとえ戻る選択をしても、多くの少年が命を落としたものと思います。このニコラスという少年の父親は、逮捕され処刑されています。
これらの話は、19世紀に啓蒙主義者やプロテスタントによる「カトリックは悪」というプロパガンダで細部が拡大され広まったものも多いと言われており、本来の真実とは違った部分もあるかも知れません。
しかし13世紀の年代記でも、多くの子供たちが大勢でエルサレムを目指した南下したこと自体は書き残されており、それ自体は真実でしょうが、アレキサンドリアだとか奴隷商人という話は、付け加えられているかも知れません。また、中世における少年とされている「Puer」がもう少し幅広い層を示しているとも言われています。また実は貧困層の人々であり、よりよい新天地を目指して移動した「巡礼団」として捉える人もいます。いずれにしても、ヨーロッパの中世が、如何に貧しい環境にあったかを示したものでしょう。
悲惨な十字軍
十字軍の歴史は悲惨な出来事に満ちており、この出来事から目をそらし、歴史を語ることは不可能です。ここで書かれている十字軍の歴史は、表面的な教科書の年表暗記に似たことのみ述べられていますので、十字軍の歴史的真実に迫ることはまったく出来ておらず残念です。日本の教科書にも記載があります。
十字軍に関する悲惨な出来事は数多くありますが、重要なことの一つは残虐行為が各地で行われたこと、そしてもう一つは少年十字軍です。残虐行為については、ユダヤ人やモスリムにどうこうした、あるいは逆に十字軍がどうなったかなど、たくさんの事例が記録に残っています。これは余りに悲惨・残酷なことばかりで、私は述べたいとは思いません。
しかし少年十字軍については、少し述べたいと思います。主に出来事が二つあります。フランスとドイツですが、同じ1215年に起こった民衆運動です。12才~15才の少年たちが熱狂しエルサレムを目指す十字軍になろうとしたものです。1101年や1147年の十字軍にも子供の群れが現れたと記録があります。そのような土壌があったのでしょう。
フランスのケースでは、少年エティエンヌが「神の手紙」を神から手渡されて、聖地回復をするようお告げがあったと人々に説いて回り、それに感化された少年少女らが少年十字軍を結成したものです。自分たちが行けば、異教徒が改心すると信じて、数千人から2万前後の少年少女が集まったようです。
武器も食料もない中、地中海にまでたどり着いたもの、それ以上は進めず少年らは元来た道を引き返しますが、一部の少年は親切な商人の助けで船に乗り込むものの難破して多くがなくなり、また残された者たちは奴隷として売られる運命となります。近代の歴史の中ではアフリカからの黒人奴隷が話題になりますが、地中海沿岸地域の白人はアラブの奴隷商人に浚われ奴隷になった人々が百万人ほどいたと言われていますが、その先駆け的なものでしょう。白人は高い値段で取引されたようです。結局故郷に戻れた少年は、わずかだったようです。