十字軍をわかりやすく解説!遠征の目的や経緯、与えた影響も紹介

第5回十字軍(1218年~1221年)

ホノリウス3世
出典:Wikipedia

1217年、ローマ教皇ホノリウス3世の呼びかけに、オーストリア公レオポルト6世とエルサレム国王ジャン・ド・ブリエンヌが応じました。これが、第5回十字軍となります。

2人は、エルサレム奪還のためにはエジプトを攻略する必要があると考え、エジプトの港ダミエッタを攻撃します。投石機による攻撃で、戦いは十字軍優勢に進んでいました。しかし、教皇使節ペラギウスが到着したことで雲行きが怪しくなってきます。

レオポルト6世
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十字軍の猛攻にイスラム王朝アイユーブ朝のスルタンであるアル=カーミルは、十字軍にエルサレム領を返還することを条件に和睦を申し出ました。ジャン達はこの条件を飲もうとしますが、ペラギウスは拒否。これをきっかけに内部対立が勃発しました。

その結果、レオポルト6世は帰国し、ジャンは占拠したダミエッタを巡った対立に怒りを示し、帰国しました。残ったペラギウスは、援軍のフリードリヒ2世を待ちつつ戦います。

ジャン・ド・ブリエンヌ
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結局、フリードリヒ2世は来ないまま、ペラギウス率いる十字軍はアイユーブ朝の捕虜になります。そして、ダミエッタの返還を条件に釈放されました。また、第5回十字軍を最後に教皇主導の十字軍は終わりを迎えました。

第6回十字軍(1228年~1229年)

フリードリヒ2世
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第6回十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を主体とした遠征軍です。フリードリヒ2世は第5回十字軍に出向かなかったことから、十字軍を起こす前に破門されていました。そのため、第6回十字軍は、『破門十字軍』とも呼ばれています。

また、この十字軍は他の十字軍と大きく違い、戦争ではなく交渉でエルサレムを奪還しました。フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルを悩ませていた兄弟間の争いとモンゴル軍の脅威を交渉材料に利用。1229年に、両者はエルサレムを分割することを条件とした10年間の休戦協定を結びました。

アル=カーミル(右)フリードリヒ2世(左)
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平和的にエルサレムを奪還したフリードリヒ2世は、エルサレム王に就任します。しかし、グレゴリウス9世はフリードリヒ2世に対して十字軍を派遣。これを撃退したフリードリヒ2世は1230年に破門を解かれました。

第7回十字軍(1248年~1249年)

ルイ9世
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1244年、アイユーブ朝によってエルサレムが陥落しました。これに対してエルサレム王フリードリヒ2世を始めとする西ヨーロッパの王たちは、他のことで忙殺されており、十字軍に関心を示しませんでした。

そんな中、熱心なキリスト教信者フランス国王ルイ9世がエルサレム奪還に名乗りを挙げました。それが第7回十字軍です。

ルイ9世は、1248年に弟のトゥールーズ伯アルフォンスやシャルル・ダンジューを率いて、エジプト攻略を目指します。理由としてエルサレムを奪還して、安定させるためにはエジプトの攻略が先決と考えたからでした。

シャルル・ダンジュー
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しかし、1250年にマンスーラの戦いで奴隷身分出身の軍人で構成されたマムルークに敗北。ルイ9世は捕虜となりました。その後の解放交渉の際に、クーデターによってアイユーブ朝からマムルーク朝に変わります。そのマムルーク朝との交渉で、40万リーブルという莫大な身代金を払ったことで釈放されました。

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3 COMMENTS

匿名

悲惨な十字軍
十字軍の歴史は悲惨な出来事に満ちており、この出来事から目をそらし、歴史を語ることは不可能です。ここで書かれている十字軍の歴史は、表面的な教科書の年表暗記に似たことのみ述べられていますので、十字軍の歴史的真実に迫ることはまったく出来ておらず残念です。日本の教科書にも記載があります。
十字軍に関する悲惨な出来事は数多くありますが、重要なことの一つは残虐行為が各地で行われたこと、そしてもう一つは少年十字軍です。残虐行為については、ユダヤ人やモスリムにどうこうした、あるいは逆に十字軍がどうなったかなど、たくさんの事例が記録に残っています。これは余りに悲惨・残酷なことばかりで、私は述べたいとは思いません。
しかし少年十字軍については、少し述べたいと思います。主に出来事が二つあります。フランスとドイツですが、同じ1215年に起こった民衆運動です。12才~15才の少年たちが熱狂しエルサレムを目指す十字軍になろうとしたものです。1101年や1147年の十字軍にも子供の群れが現れたと記録があります。そのような土壌があったのでしょう。
フランスのケースでは、少年エティエンヌが「神の手紙」を神から手渡されて、聖地回復をするようお告げがあったと人々に説いて回り、それに感化された少年少女らが少年十字軍を結成したものです。自分たちが行けば、異教徒が改心すると信じて、数千人から2万前後の少年少女が集まったようです。
武器も食料もない中、地中海にまでたどり着いたもの、それ以上は進めず少年らは元来た道を引き返しますが、一部の少年は親切な商人の助けで船に乗り込むものの難破して多くがなくなり、また残された者たちは奴隷として売られる運命となります。近代の歴史の中ではアフリカからの黒人奴隷が話題になりますが、地中海沿岸地域の白人はアラブの奴隷商人に浚われ奴隷になった人々が百万人ほどいたと言われていますが、その先駆け的なものでしょう。白人は高い値段で取引されたようです。結局故郷に戻れた少年は、わずかだったようです。

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匿名

もう一つのケースは、ドイツのラインラントで羊飼いをしていたニコラスという少年が、「約束された奇跡」が起こると触れ回り、『ジェノバの年代記』では約7,000名と言われる少年少女を集め、やはり地中海を目指します。アルプスを越えて地中海のジェノバにたどり着きますが、『ケルンの年代記』によると多くの少年が空腹と渇きにより亡くなったようです。ジェノバで約束していたような海が割れる現象もなく失望し、大半は引き返しますが、残りはピザを目指しますが法王の説得で、やっと故郷に引き返すことになります。しかし一部は残り、奴隷商人に売られたと言われています。中世では途中で食料を得ることは困難で、たとえ戻る選択をしても、多くの少年が命を落としたものと思います。このニコラスという少年の父親は、逮捕され処刑されています。
これらの話は、19世紀に啓蒙主義者やプロテスタントによる「カトリックは悪」というプロパガンダで細部が拡大され広まったものも多いと言われており、本来の真実とは違った部分もあるかも知れません。
しかし13世紀の年代記でも、多くの子供たちが大勢でエルサレムを目指した南下したこと自体は書き残されており、それ自体は真実でしょうが、アレキサンドリアだとか奴隷商人という話は、付け加えられているかも知れません。また、中世における少年とされている「Puer」がもう少し幅広い層を示しているとも言われています。また実は貧困層の人々であり、よりよい新天地を目指して移動した「巡礼団」として捉える人もいます。いずれにしても、ヨーロッパの中世が、如何に貧しい環境にあったかを示したものでしょう。

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匿名

申し訳ありません。文中の1215年は1212年の間違いでした。うっかりタイプミスしました。

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