都市伝説④:ブルースリーの家系は霊に苦しめられていた?
ブルースリーの家系は、昔から霊に取り憑かれ若くして亡くなるという呪いがかけられていたと噂されています。そのため、ブルースリーの両親は若くして長男を失ったことから、ブルースリーを女の子の名前で呼んでいたそうです。
このような都市伝説がささやかれるようになった背景には、ブルースリーの息子も若くして亡くなったことが要因にありました。
都市伝説⑤:20年後に息子も事故死でこの世を去る
ブルースリーの息子であるブランドンリーは、ブルースリーの息子として知られているだけでなく、20代で大役を担うなどこれからの活躍を期待された人物でした。しかし、1993年にブランドンリーは映画『クロウ/飛翔伝説』の撮影中、俳優のマイケル・マッシーに放った銃弾で命を落とします。
28歳で亡くなったということもあり、同じく若くして亡くなったブルースリーのことも踏まえて、ブルースリー一家の呪いが起こったのではないかという噂も誕生しました。
このブランドンリーの事故死には不可解な点が存在しています。それは空砲と言われていた銃に弾が入っていたこと。このことから、ブルースリーに恨みを持った人物が、銃に細工をしたのではないかと言われています。
ブルースリーの生い立ち
ここからは、ブルースリーの生い立ちを紹介します。生まれてから亡くなるまでの32年間、ブルースリーはどのように生きてきたのでしょうか。次のトピック別に振り返ってみましょう。
- 幼少時代
- 香港からアメリカへ
- アクションスターになる
- 死亡
幼少時代
ブルースリーは、1940年にサンフランシスコの中華街の病院で誕生しました。父は俳優の李海泉。そのため、生後3ヶ月あたりで映画『金門女』に出演を果たし、ブルースリーの映画出演はここから始まります。
第二次世界大戦が終戦し、その前に香港に帰国していたブルースリーは8歳の頃から子役として映画出演を果たします。また、この頃から武術を学び始めました。1953年にブルースリーが13歳になると、詠春拳の使い手であるイップ・マンに師事。5年間修行に打ち込みました。
香港からアメリカへ
ブルースリーは何不自由なく育ったことが要因で、日々喧嘩に明け暮れます。そして、俳優の不良息子という悪名が付けられました。ブルースリーの将来を心配した父は、ブルースリーに単身渡米を指示。ブルースリーは、シアトルに移り住みました。
アメリカでは、新聞配達のバイトをしながら高校卒業資格を得た後に、ワシントン大学哲学科に通います。それと並行で振藩國術館を開いて、中国武術の指導も行っていました。
振藩國術館の生徒は日本人や黒人、白人と国籍や人種を問わず在籍していました。この頃、ブルースリーは振藩國術館の生徒で同じ大学に通っていたリンダ・エメリーと結婚。結婚後には大学を中退し、道場経営に専念します。また、ブルースリー自身で編み出した武術である截拳道(ジークンドー)もこの頃に創始しました。