人気アクションスターになる
1966年には、アメリカのロングビーチ国際空手選手権大会で詠春拳の演武をしたフィルムが目にとまり、テレビ番組『グリーン・ホーネット』の準主役カトー役に任命されます。『グリーン・ホーネット』をきっかけに、ハリウッド俳優の武術指導を請け負いました。また、映画やテレビ番組のゲスト出演も増加しました。
1970年になると、レイモンド・チョウが興したゴールデン・ハーベストと1本1万香港ドルで契約します。そして、1971年に公開された『ドラゴン危機一髪』が大ヒットし、ブルースリーは一躍香港のトップスターとなりました。
3作目の『ドラゴンへの道』の公開前に、自身でコンコルド・プロダクションを興します。さらに、1作目『ドラゴン危機一髪』2作目『ドラゴン怒りの鉄拳』3作目『ドラゴンへの道』すべて大ヒットし、ゴールデン・ハーベストは香港最大の映画会社となりました。
1973年頃になると、ワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まります。ブルースリーは、以前提案した『燃えよ!カンフー』が没になったこともあり、エキストラへの武術指導や脚本や撮影に詳細な意見を出しました。
死亡
1973年7月20日、ブルースリーは頭痛を訴え、愛人のベティ・ティン・ペイの家で横になっていました。この日は、『燃えよドラゴン』の撮影のために中断していた『死亡遊戯』の打ち合わせを1日かけて行っていたため、ブルースリーは疲労困憊でした。
その際に、ティン・ペイが処方されていた鎮痛剤を飲んだブルースリーは、昏睡状態に陥ります。異変に気が付き、かかりつけ医を呼んだものの、意識不明の状態でした。そして、搬送先のクィーン・エリザベス病院で死亡が確認されました。
32歳の若さで亡くなったブルースリーの死は、多くのファンに衝撃を与えたことは言うまでもありません。
ブルースリーの有名作品3選
ここからはブルースリーを知るうえで欠かせない下記3つの有名作品を紹介します。
- ドラゴン危機一髪
- ドラゴンへの道
- 死亡遊戯
ドラゴン危機一髪
『ドラゴン危機一髪』は1971年に公開されました。ブルースリーがゴールデン・ハーベストと契約した第1作目で、当時の映画興行記録を塗り替える大ヒット作となりました。
撮影当時はジェームス・ティエンを主役とした作品でした。しかし、ブルースリーの圧倒的な存在感により、準主役から主役に抜擢。脚本も書き換えられました。
このことから、ブルースリーを一躍人気にした代表作でもあります。ちなみに、脚本変更後にはジェームス演じる役は、途中で殺害されてしまうこととなりました。
ドラゴンへの道
『ドラゴンへの道』は1972年に公開されました。ブルースリーが興したコンコルド・プロダクションの第1作品でもあり、監督・脚本・武術指導・主演をすべてブルースリーが担った作品でもあります。
この作品は香港映画で初めてローマで撮影されています。また、最後に見せるブルースリーとチャック・ノリスとの死闘は、ブルースリー作品でもトップクラスの白熱さ。筆者もブルースリー作品の中で、この戦いだけは記憶に残っています。
死亡遊戯
『死亡遊戯』は1978年に公開されました。ワーナー・ブラザースとの合作『燃えよドラゴン』の撮影を優先したため、この作品は1972年にクライマックスのアクションシーンのみを残して撮影中断していました。
そして、1973年にブルースリーが亡くなったことにより、未完となってしまいます。しかし、5年後にユン・ワーやユン・ピョウをブルースリーの代役として起用し、完成させました。
この作品は日本ではヒットしたものの、世界ではヒットしませんでした。
ブルースリー死因に関するまとめ
ブルースリーの死因については未だに不可解な点が多く、公式で発表された脳浮腫がブルースリーの直接の死因となったのか疑問が残ります。ここまで多くの考察や憶測が存在するのは、死因が不明なだけでなくブルースリーが香港のトップスターであったこともあるかと思います。
ただ、ブルースリーが死亡当時の脳が普段の大きさより大きかったのは事実。その事実だけで考えてみても、ブルースリーが死亡した要因となったのは脳腫瘍だったと言うまでもありません。
この記事を通してブルースリーの死因に興味や関心を持っていただけたら幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。