特攻隊の最期を見送った人の証言
国や家族を守るために出撃した特攻隊員たちですが、出撃前には色々な思いを抱えている人が多くいました。ここでは特攻隊員の最期を見送った人の証言を5つ紹介していきます。
日本の敗戦を確信している隊員
特攻作戦の建前は志願制であったものの、実態は志願兵のいない状態でした。そのために海軍兵学校の士官に、特攻隊員になることを命令したそうです。そして特攻命令を受けた方は、
「日本もお終いだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんて…。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に500㎏爆弾を命中させて還る自信がある」
文春オンライン
といったといいます。このように自分から志願したわけでなく、志願しろと命じられたから志願しただけだと元隊員の証言でわかっているのです。
自由主義者の死と語った隊員
特攻隊員の遺書の中でもとりわけ有名なものに、上原良司隊員の手記があります。上原さんは22歳に沖縄で戦死していますが、手記には以下のように綴られていました。
「自由の勝利は明白な事だと思います。明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます。唯願はくは愛する日本を偉大ならしめられんことを国民の方々にお願いするのみです」
Wikipedia
上原さんの手記には、日本が同盟を結んでいる枢軸国(ドイツ・イタリア)のファシズムに反対する内容が書かれていました。この遺稿は当時報道班員だった男性が、思いつめた様子だった上原さんに紙と鉛筆を渡し書いたものだそうです。その時書かれたこの遺稿が、戦後「きけわだつみの声」に掲載されました。
出撃前に失神する隊員もいた
当時特攻隊の機種を整備する整備兵をしていた男性は、親しくなっていた隊員が特攻機に乗る直前に失禁し、その後失神してしまったのを見たといいます。こういったことは珍しいことではなかったといい、男性は隊員の顔を叩いて目を覚まして飛行機に乗せたと話しています。100%死ぬとわかっている作戦に立ち向かう特攻隊員の悲痛が伝わるエピソードです。
家族を思う言葉が多く残っている
特攻隊員の方の遺書が残っていますが、ほとんどは「天皇陛下万歳」ではなく、家族・特に母親への感謝の言葉がほとんどです。映画などで特攻隊員が最後に、「天皇陛下万歳」や「お母さん」と呼んで突入していたというシーンがあります。しかし当時日本軍は機上音声通信機ではなくモールス信号を使用していたために、本当の最後の言葉はわかっていません。それでも遺書の言葉を見る限り、多くの人は家族のことを思って飛び立っていたのではないでしょうか。
呪いの言葉を残していたという話も
特攻隊員の中には、「帝国海軍を恨む」と発信してきた特攻機もあったといいます。また離陸後に司令部の建物を銃撃して飛び立った機もあったそうです。生き残った隊員の証言では、出撃が決まった時は敬礼しますが、夜になるとすすり泣く声が聞こえてきたといいます。
そして夕食も食が進まず残す人も多く、整備兵に回していたという話もあるのです。想像にはなりますが、敗戦が濃厚になった戦況で特攻命令を出す司令部を呪いながら出撃した隊員も多かったのかもしれません。
恐ろしい
めちゃくちゃ悲しい
一生忘れずに、戦争のないの日本になってほしい。
こりゃひどいw
せめてもう少し勉強してから書いてください。
特攻隊が死ぬ瞬間の様子とは?即死だった?→そもそも特攻を語るのに視点がこれですかw