特攻隊が死ぬ瞬間の様子とは?即死だった?証言を元に徹底調査

「特攻隊員の最期の瞬間はどういったものだったのだろう」
「最期の瞬間特攻された方々はどういった気持ちだったのだろう」

世界中で多くの犠牲者を出した第2次世界大戦は日本も参戦し、「太平洋戦争」で多くの犠牲者が出ました。その中でも記憶に深く刻まれるのが神風特攻隊の存在であり、若い方たちの死は胸の痛むものがあります。

戦争を知っている世代は年々少なくなっていますが、若い世代の人にも知ってほしい内容といえるでしょう。この記事では特攻隊員たちが死ぬ瞬間どういった状況だったのか、特攻隊員の方々のエピソードや目撃した人の話などから解説していきます。

※この記事では事実を正確に伝えるために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な人は次のトピックを読む等の自衛をお願いいたします。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

神風特別攻撃隊(特攻隊)とは?

出撃する特攻隊
出典:Wikipedia

神風特別攻撃隊(特攻隊)とは、第二次世界大戦期に大日本海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊です。日本の劣勢が濃厚となっていた太平洋戦争末期、本土防衛のため沖縄を死守する目的で編成されました。

爆弾を取り付けた航空機は敵艦に向けて体当たりするために出撃し、敵艦に突入していたのです。特攻機は帰還を想定しない設計となっており、燃料は片道分しか積まれていませんでした。特攻隊が初めて編成されたのは、1944年のフィリピン戦線で空母を一隻撃沈した「敷島隊」です。ここで空母を沈めるという戦火をあげたために、特攻という作戦に拍車がかかっていったといいます。

訣別の水盃を交わす隊員
出典:Wikipedia

当初米軍は死を前提に体当たり攻撃をする日本軍に理解が及ばず、対処が遅れ日本側も戦果があがっていました。しかし次第に米軍も認知するとレーダーなどで防衛するようになり、敵艦にたどり着く前に打ち落とされることも多くなったそうです。

しかし劣勢を打開する手段として継続され、1945年4月6日に第1次攻撃から7月19日の第11次まで特別攻撃隊は編成されています。

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特攻隊員が死ぬ瞬間の様子とは?

戦艦に突撃しようとする特攻機
出典:Wikipedia

特攻隊員は死を覚悟のうえで、敵艦に体当たりしていました。そんな捨て身の攻撃をかける特攻隊員の最期の死ぬ瞬間はどういったものだったのか?わかる範囲で解説していきます。

多くは即死だった可能性が高い

ルソン島の戦いで命中直前の機
出典:Wikipedia

結論からいえば、「わからない」のが実情です。出撃した人はほとんど助かっておらず、どうだったのか憶測するしかないからといえます。新幹線の約2倍のスピードで急降下するために脱出は不可能であり、衝撃は相当なものであったことでしょう。

格闘技で失神したばあい、目の前が真っ暗になり気づいたら寝かされていたといった話を聞きます。理屈からいえば、衝撃により意識を失いそのまま絶命した可能性が高いと憶測されているようです。

中には即死ではない人もいた

撃墜されて浮いていたと思われる
出典:Wikipedia

アメリカ側の記録を見てみると、即死ではなかった人もいたようです。海に投げ出されて泳いでいる姿も記録動画に残っています。そして海に投げ出された後に、米軍によって射殺されるケースもありました。どのくらいの数があったのかは詳しくわかりませんが、米軍が特攻隊員を射殺する動画が残っています。

なお特攻隊員の間で「痛かろう いや痛くなかろう 議論なり」といった川柳が残っているのだそう。助かった人は少ないため詳しくわかりませんが、中には撃墜され海に落下し大怪我を負い、海で助からなかった人もおそらくいたのではといった話もあります。

奇跡的に助かった人も

殺された人もいたが中には助けられた人もいた
出典:Wikipedia

珍しいケースですが、即死せずにアメリカ兵に助けられた人もいたといいます。助けられた方は、沖縄海域において命中寸前で撃ち落され、機体から投げ出され海に浮かんでいたところを助けられたそうです。その方は戦後、自分の体験を講演で話していたという話もあります。

また太平洋戦争も末期になると、悪天候や整備トラブルで出撃するも引き返してきた隊員や、同じく物理的・心理的な理由から出撃出来なかった隊員も増えていました。そこでそういった隊員を集めた収容施設「振武寮」があったといいます。そこは何度も理由不明で返ってきた隊員を集めた場所だったといい、およそ50名程度がいたのだそう。

管理者の1人、倉澤少佐
出典:Wikipedia

戻ってきた隊員は「どうして生きて帰ってきたのか?」など、厳しい非難を受け暴行を受けていたそうです。戦後管理者の1人であった倉澤清忠少佐の話によると、「軍神となった特攻隊員が生きていることを隠す」のが目的だったといい、存在はほとんど知られていませんでした。そして終戦を迎え生き残った方の証言によると、軍人勅論を暗唱したり写経をしたりして過ごしていたそうです。

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2 COMMENTS

匿名

こりゃひどいw
せめてもう少し勉強してから書いてください。

特攻隊が死ぬ瞬間の様子とは?即死だった?→そもそも特攻を語るのに視点がこれですかw

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