プラトン(前427~前347)は、古代ギリシア時代のソクラテスの弟子である哲学者です。地球上初めて「アカデメイア」という大学を作り、哲学という分野を広めた人物。プラトンの前にも哲学者はいましたが、彼が初めて大学を作ったことで、多くの有名な哲学者が生まれました。
彼はソクラテスという哲学者を師匠にもち、亡くなるまで「美」や「善」とは何か、理想の国にするには何が必要なのかを考え続けます。彼が作った大学は、その後900年も学びの場所として開かれていました。
彼は「善」や「美」、理想の国家とは何かについて考え続けた人です。彼は政治の名門一家に生まれ、同じく自身も政治家を目指していました。しかし、ソクラテスという哲学者に会ったことで、哲学者の道を歩むことになります。
1回目のシケリア旅行の後、プラトンは前述のアカデメイアを設立しました。卒業生の中には、西洋最大の哲学者と言われたアリストテレスなどがいます。その後、2回シケリアに旅行に行き、その生涯を終えるまで教職に励みました。
また、彼は多くの著作を出しており、代表作は『国家』や『饗宴』などです。彼の作品の多くが問答法という読みやすい書き方がされています。
今回は哲学を日々研究する筆者がプラトンの人物像について分かりやすく解説していきます。
プラトンとはどんな人?
名前 | プラトン |
---|---|
本名 | アリストクレス |
誕生日 | 紀元前427年5月21日 |
生地 | 古代ギリシャ アテナイ アイギナ島 |
没日 | 紀元前347年 |
没地 | 古代ギリシャ アテナイ |
配偶者 | なし |
埋葬場所 | 不明 |
プラトンの本名は?
プラトンの名前は哲学に触れると必ず聞くでしょう。じつは、「プラトン」というのは本名ではなく、あだ名です。本名は「アリストクレス」と言います。なぜプラトンと呼ばれるようになったかというと、それは彼の体躯が関係しています。
彼はとても立派な体格をしており、横に広い胸幅がありました。それを見たレスリングの先生が、「幅広い」という意味を持つ「プラトン」で彼を呼んだのが始まりです。
その後、あだ名がそのまま定着し、後世へと伝えられます。これには様々な説があり、額が広かったからや、名前が長かったからとも言われています。
プラトンがこれまでに出した作品は?
プラトンが書いた著作のほとんどが、問答法(対話篇)という形式を使っています。問答法とは、複数の人物との会話文だけで構成された文章のことです。すべて話し言葉で書かれているので、読みやすいという利点があります。
プラトンは多くの作品をこの問答法という形で残し、現在もその作品が現存していています。以下は、彼が書いた作品の数々です。
- 初期対話篇(30代頃)
- 『エウテュプロン』
- 『ソクラテスの弁明』
- 『クリトン』
- 『カルミデス』
- 『ラケス』
- 『リュシス』
- 『エウテュデモス』
- 『イオン』
- 『メネクセノス』
- 『クテュロス』
- 『ゴルギアス』
- 『メノン』
- 中期対話篇(40歳~50歳半ば)
- 『饗宴』
- 『パイドン』
- 『国家』
- 『パイドロス』
- 後期対話篇(50歳半ば以降)
- 『パルメニデス』
- 『テアイテトス』
- 『ソピステス』
- 『ポリティコス』
- 『ティマイオス』
- 『クリティアス』
- 『ピレボス』
- 『法律』
- 『エピノミス(法律後編)』
真偽が分かれている作品:書簡集(プラトンが書いた13通の手紙をまとめたもの、本物と偽物が混ざっている)
彼が書いた作品のほとんどに、師であるソクラテスが登場します。それだけ、彼の存在はプラトンにとって大きかったのでしょう。
プラトンが提唱した「イデア論」とは?
イデア論とはプラトンが最も重要視していた考え方です。例えば、完全な三角形を書くとしましょう。私たちが実際に書いた三角形を原子レベルにまで拡大していくと、ギザギザな線になっていることがわかります。
そもそも私たちは、生まれたときから完全な三角形など、見たこともなければ聞いたこともありません。しかし、私たちの頭の中には完全な三角形が思い浮かべられます。
プラトンは私たちの頭の中には、完全な三角形というものを無意識に知っていると考えました。その頭の中に浮かぶ完全なものを「イデア」と名づけ、花や木、犬など、すべてにイデア(完全な形)があると考えました。そして、プラトンはこのイデアだけでできた世界(イデア界)があると思いつきます。
さらに、物だけではなく「正義」や「美」などにもイデアがあり、なかでも「善」のイデアは最高のイデアであるとプラトンは結論づけました。つまりイデア論とは、すべての物や概念に完全な形があり、イデア界という完全な世界があるということです。
プラトンの師「ソクラテス」と弟子「アリストテレス」とは?
プラトンに関わりの深い人物として、ソクラテスとアリストテレスが上げられます。師のソクラテスは、プラトンの人生に大きな影響を与えた人物です。彼は政治家を目指していましたが、民主派がソクラテスに行ったことを知り、哲学者としての道を歩み始めます。
アリストテレスは、アカデメイアの出身でプラトンの弟子です。彼はプラトンのイデア論とは真逆の考えを持っており、現在は「万学の祖」と言われています。考え方が違っていても、それを許容するプラトンは心の広い人だったのでしょう。
プラトンの名言は?
「目は心の窓である。」
「人間の最も基本的な分類として、
”知を愛する人”
”勝利を愛する人”
”利得を愛する人”
という3つの種類がある。」
「親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。」
プラトンの人物相関図
プラトンにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「国王に理想の国家を語ったら奴隷された」

第1回シケリア旅行の時のことです。プラトンはシュラクサイ(イタリア南部の都市)の僭主(王様のこと)ディオニュシオス1世に、理想の国家についての話をしました。しかし、ディオニュシオス1世はその話が気にくわなかったようで、彼を奴隷として売りとばしてしまいます。
そして、アイギナ島(現在はエギナ島)で売られてしまうところを、キュレネ人のアンニケリスが20ムナーで彼を買ってくれました。その後、アンニケリスはプラトンをアテナイにいる友人の元に返してくれます。この時に支払われた20ムナーは、巡り巡ってアカデメイア設立に使われました。
また、プラトンの友人が彼を20ムナーで買い、アテナイに送還したとも言われています。今後の話から考察すると、アンニケリスに買われたという説が根強く広まっています。
都市伝説・武勇伝2「レスラーとしても有名だった」


当時の富裕層の家では、文武両道が当たり前でした。王家の一族の家に生まれたプラトンも、文武両道を目指し、学業とスポーツに励みます。彼はその大きな体格を生かし、レスリングを行っていました。
とても強かったらしく、イストミア大祭りに出場したり、オリュンピュア大祭とネメア大祭で優勝したとも言われています。実際に優勝したかは定かではありませんが、強かったというのは確かなのでしょう。
また、前述でも説明しましたが、「プラトン」というあだ名で呼び出したのは、彼のレスリングの師匠だったそうです。そして、リングネームとして使われていました。もし、彼がソクラテスに出会わなかったら、プロレスラーの道に進んでいたのかもしれません。
プラトンの略歴年表
プラトンの生涯具体年表
紀元前427年 – 0歳「プラトン政治一家の家庭に生まれる」
王族の血筋に生まれる
紀元前427年5月に、プラトンはアテナイから20キロほどあるアイギナ島に誕生します。彼は、アテナイ最後の王コドロスの血筋を引く一族の三男に生まれました。彼の家族構成は以下の通りです。
- 父:アリストン
- 母:ペリクティオネ
- 姉or妹:ポトネ
- 兄:グラウコン
- 兄:アデマントス
- 義父:ピュリンランペス
- 異父弟:アンティポン
兄については15歳以上も歳が離れていたことが分かっていますが、どちらが長男なのかは分かっていません。また、父アリストンはプラトンが2~3歳の頃に亡くなっており、母ペリクティオネはピュリンランペスと再婚しています。そして、異父弟のアンティポンが生まれました。
20歳ごろにソクラテスと出会う


明確な年月日は不明ですが、プラトンが20歳の頃に師のソクラテスと出会います。プラトンは悲劇を題材にした創作を賞に応募するため、ディオニュソス劇場に向かっていました。そこで、偶然ソクラテスが劇場の前で対話をしており、その教えを耳にしたプラトンは感銘を受けます。
その勢いのまま、彼は当時50歳半ばだったソクラテスに弟子入りを申し出たのです。その時、あまりの衝撃的な出会いにより、彼は自身が書いた原稿をそのまま火中に投げ入れたと言われています。
紀元前399年 – 28歳「ソクラテスが死んだことで、政治の道を諦める」
ソクラテスの死


当時アテナイは、三十人政権が国を収めていました。三十人政権とは、30人の僭主が国を統治している内政のことです。三十人政権のメンバーには、プラトンの叔父カルミデスや、母のいとこクリティアスもいました。
当初は新しい政治の形に期待を膨らませていたプラトンやアテナイの人たちでしたが、次第に独裁政権が敷かれるようになります。その被害に遭ったのが、ソクラテスです。彼は「若者をアテナイの神へ信奉させず、新たな神を信奉させた」というあらぬ罪を被せられます。
そして、その判決が覆ることはなく、彼は毒を飲んで亡くなりました。この出来事が、プラトンに政治に対し大きな失望を覚えたのは間違いないでしょう。王族の家系であったこともあり、彼は政治家を目指していましたが、ソクラテスの死という理不尽さを垣間見て、哲学者の道に進むことを決めます。
紀元前388年 – 39歳「第1回シチリア旅行」
ピタゴラス派のアルキュタスと出会う


ソクラテスの死後、メガラ(ギリシャ)に逃げたプラトンは、3度の従軍を経験します。その後、イタリア、エジプト、シケリアを訪れます。
イタリアでは、ピタゴラス派のアルキュタスと出会い友人になりました。後にこの出会いが、プラトンの危機を救ってくれます。さらに、エレア派とも交流を持ったと言われていますが、詳細は不明です。
青年ディオンと出会う
シケリア島(現在はシチリア)を訪れたプラトンは、当時の僭主ディオニュシオス1世に歓待を受けました。ディオニュシオス1世にはプラトンの教えは理解されませんでしたが、彼の娘婿であるディオンからは尊敬の念を向けられます。
プラトンにとっても、ディオンとの出会いは今後の出来事に大きく影響していきます。
紀元前387年 – 40歳「アカデメイア設立」
哲学を学ぶ大学を初めて作った


シケリア旅行から帰ったプラトンは、英雄アカデモスを祀るアテナイ北西部郊外の神域に、哲学を学ぶ場所としてアカデメイアを設立します。授業内容は、おもに算術や幾何学などで、入り口の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」という額が飾られていました。
アカデメイアは、およそ900年も開校し続け、アリストテレスなどの有名な哲学者を生み出します。
20ムナーの行方


プラトンの都市伝説で、彼が奴隷として売られた話をしましたね。その話には、じつは続きがあります。プラトンの友人は彼に20ムナーを返そうとしました。友人のためにお金を使わしてしまったのですから、当然の行いでしょう。
しかし、それを彼は受け取ろうとしませんでした。また、ディオンがそのお金を送ったとも言われていますが、アンニケリスは受け取らず、アカデメイアに隣接する庭園の購入に振り当てられたそうです。
紀元前367年 – 60歳「2回目のシケリア旅行」
ディオンに請われて再びシケリアに
シケリアでは、ディオニュシオス1世の息子であるディオニュシオス2世が僭主になっていました。しかし、ディオニュシオス1世は息子を隔離するような生活を送っていたため、息子には僭主としての能力が備わっていなかったのです。
そこで、かつて自分に多くの影響を与えてくれたプラトンに、ディオンは指導してくれるように頼みます。そして、プラトンは再びシケリアへと旅立ったのでした。
ディオンは反逆の罪を着せられ、プラトンは囚われの身に


ディオニュシオス2世に教育を施すうえで、それを気にくわなかった者たちがいます。それが、彼を良いように使っていた部下たちです。彼らは、プラトンをけしかけたディオンを排除しようと画策します。
そして、ディオニュシオス2世に、彼が謀反を企てているなどというデタラメなことを告げたのです。それを受けたディオニュシオス2世は、彼を小舟に乗せ、シケリア島から追い出します。ようするに、島流しですね。
そして、ディオンに請われてやってきたプラトンは、アクロポリスの城門内に護衛付きで移されます。実質、囚人のような扱いになったわけです。その後、ディオニュシオス2世は彼と話していくうちに、純粋に尊敬の念を覚えるようになりました。


ずっと教えを受けたいと思っていましたが、カタルゴとの戦争が再会されたために、やむなくアテナイに返すことになります。しかし、戦争が落ち着いたら再びシケリアを訪れるという約束を取り付けました。
この時、ディオンも国に戻すという約束もしましたが、あいにくそれが果たされることはありませんでした。
紀元前361年 – 66歳「3回目のシケリア旅行」
約束通りシケリアに来たプラトン、今度は政争に巻き込まれる


ディオンがシケリアの地を踏むことはありませんでしたが、約束通りプラトンは3度目のシケリアを訪れます。ディオニュシオス2世から歓待を受けたようですが、すぐに政争に巻き込まれてしまい、プラトンはアクロポリスの外にあるアルケデモスの屋敷に軟禁されてしまいました。
アテナイに帰れない状況が続き、プラトンは1回目のシケリア旅行で出会ったアルキュタスに助けを求めます。プラトンの助けに答え、アルキュタスはディオニュシオス2世を牽制しました。
そのおかげで、プラトンはアテナイへと帰ることに成功します。しかし、またもディオニュシオス2世の教育は失敗に終ってしまったわけです。
紀元前353年 – 74歳「ディオン暗殺により哲人統治の夢が終わる」
長年の夢だった哲人統治が叶わなくなる


プラトンは良い国家を作るためには、善のイデアを知った哲学者が王となるべきだと考えていました。つまり、多くの知識を知り尽くした者が統治者になることで、良い国家ができると思ったのです。この哲人統治については、彼が執筆した『国家』に詳しく書かれています。
それに最も近いと思われていたのが、ディオンでした。しかし、ディオンはディオニュシオス2世との内戦中に、カリッポスというアテナイ人の友人に暗殺されてしまいます。これにより、生涯のうちに哲人王が国をおさめる姿を見れる可能性がなくなりました。
紀元前347年 – 80歳「自身の著作と教育に力を入れて亡くなる」
亡くなるまで教育に力を入れていた
3回目のシケリア旅行から、プラトンがどのような生活をしていたのかについての記録は、残念ながらありません。ただ、高齢になっていたのもあり、アカデメイアの教育と著作に力を入れていたのは確かでしょう。
紀元前347年、ちょうど80歳になった年に、プラトンは亡くなりました。どのような死因かは分かっていませんが、おそらく病死か老衰だったでしょう。
プラトンの関連作品
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プラトンの代表作です。「正義」とは何かを国家という大きな枠組みで考え、どうすれば善い国になるのか、そのために必要なことは何かを述べており、イデア論についても書かれています。
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関連外部リンク
プラトンについてのまとめ
プラトンは、善い哲学者が増えるようにと、アカデメイアを設立しました。彼が生きている内に夢が叶うことはありませんでしたが、後世にプラトンの意思を継ぐ哲学者を多く輩出します。
彼の作品がおよそ2400年経った今も読まれているのは、それだけ彼の思想は現代でも通ずるところがあるのでしょう。これを機会に、ぜひプラトンに興味を持ってみてはいかがでしょうか。
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