プラトンの人物相関図
プラトンの師「ソクラテス」
ソクラテスは西洋哲学の創始者として有名な哲学者で、プラトンの師匠です。プラトンは彼から、問答法や無知の知など哲学者としての姿勢を学びました。また、ソクラテスの死をきっかけに哲学者としての道を歩んだりと、プラトンの人生に大きな影響を与えています。
ちなみにソクラテスは本を執筆しなかったため、現代に残っている彼についての情報はすべてプラトンの著書によるものです。
プラトンの弟子「アリストテレス」
アリストテレスは「万学の祖」と呼ばれている哲学者で、プラトンの弟子です。彼はプラトンが設立したアカデメイアで哲学を学び、プラトンのイデア論とは真逆の理論を発展させました。
真逆の理論を発展させたことから、師弟関係は冷え切っていたのではないかと思ってしまいます。しかし、関係は極めて良好で、プラトンはアリストテレスのことを「学校の精神」と評し、教師として指導を任せていたこともあったそうです。
プラトンにまつわる逸話
逸話1「国王に理想の国家を語ったら奴隷された」
第1回シケリア旅行の時のことです。プラトンはシュラクサイ(イタリア南部の都市)の僭主(王様のこと)ディオニュシオス1世に、理想の国家についての話をしました。しかし、ディオニュシオス1世はその話が気にくわなかったようで、彼を奴隷として売りとばしてしまいます。
そして、アイギナ島(現在はエギナ島)で売られてしまうところを、キュレネ人のアンニケリスが20ムナーで彼を買ってくれました。その後、アンニケリスはプラトンをアテナイにいる友人の元に返してくれます。この時に支払われた20ムナーは、巡り巡ってアカデメイア設立に使われました。
また、プラトンの友人が彼を20ムナーで買い、アテナイに送還したとも言われています。今後の話から考察すると、アンニケリスに買われたという説が根強く広まっています。
逸話2「レスラーとしても有名だった」
当時の富裕層の家では、文武両道が当たり前でした。王家の一族の家に生まれたプラトンも、文武両道を目指し、学業とスポーツに励みます。彼はその大きな体格を生かし、レスリングを行っていました。
とても強かったらしく、イストミア大祭りに出場したり、オリュンピュア大祭とネメア大祭で優勝したとも言われています。実際に優勝したかは定かではありませんが、強かったというのは確かなのでしょう。
また、前述でも説明しましたが、「プラトン」というあだ名で呼び出したのは、彼のレスリングの師匠だったそうです。そして、リングネームとして使われていました。もし、彼がソクラテスに出会わなかったら、プロレスラーの道に進んでいたのかもしれません。
プラトンの略歴年表
ギリシャのアテナイ最後の王コドロスの末裔として、政治一家の三男に生まれました。2人の兄と、1人の妹か姉がいたとされています。
三十人政権の独裁により、あらぬ罪を着せられたソクラテスが処刑されてしまいます。それを目の当たりにしたプラトンは政治の道を諦め、哲学者になります。
プラトンはエジプト、イタリア、シケリア島を歴訪します。この訪問で、ピュタゴラス派のアルキュタスと交流を持ち、当時20歳だったディオニュシオス1世の娘婿ディオンと出会います。
シケリア旅行から帰ったプラトンは、アテナイの北西郊外にアカデメイアを設立します。特に数学に力を入れた授業を行っていました。
ディオンの懇願により、ディオニュシオス2世に政治について指導することになったプラトンは、再びシチリアに渡ります。
ディオニュシオス2世の強い懇願により、またシケリアの地を踏むことになったプラトンですが、今度は政争に巻き込まれてしまいます。しかし、アルキュタスの助けでなんとかアテナイに帰還しました。
プラトンは哲人統治を目指していました。しかし、その夢に一番近かったディオンが暗殺されたことにより、彼の夢は叶わぬものとなります。
哲人統治の夢が叶わなくなったプラトンは、アカデメイアの教育と、自身の著作に力を入れます。そして、80歳で亡くなりました。