卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】

卑弥呼は、日本という国ができ始めたころ、つまり今から2000年近く前の時代に「邪馬台国」というクニに存在していたと言われる、倭国(当時の日本)の国王です。卑弥呼は当時の魏という国、現在の中国と関係を持ち、親魏倭王の金印、銅鏡百枚、刀や真珠など数多くの貴重なものを頂いていました。

さらに卑弥呼は鬼道と呼ばれる、占いなどの術も得意で、卑弥呼が亡くなった後には国をしっかりと治められないほどに卑弥呼は鬼道を用いた国の統治に成功していたと言います。

卑弥呼

卑弥呼は生まれた年も亡くなった年も、墓についても、どんな顔であったかについても全くわかっていない、そんな謎の多い人物です。彼女は邪馬台国に住み、倭国を鬼道により統治していた、という情報しか存在しない程です。

しかもその情報は「魏志倭人伝」という、卑弥呼が存在していた時代に中国に存在した魏という国が編纂した書物にしか記載されておらず、卑弥呼に関する情報だけでなく邪馬台国の場所に関する情報に関しても詳細は記載されておらず、大まかな情報しかありません。

しかし、その「魏志倭人伝」のおかげで卑弥呼が魏に使いを派遣、いわば朝貢を行っていて、かつ邪馬台国の政治はヤマト政権のように租税が存在し、卑弥呼の弟が実権を握る政治を呪術面で卑弥呼がサポートしていたということも知ることができます。限られた情報ではありますが、人物性に関してはある程度のことはわかる、そんな人物です。

今回は、そんな卑弥呼の魅力に惹かれ学校の勉強を忘れて関連書物を読み漁った筆者が解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

卑弥呼とはどんな人?

名前卑弥呼
誕生日不明
生地不明
没日不明(242~248年頃)
没地不明
配偶者未婚
埋葬場所諸説あり(後に記述)
子女台与(卑弥呼死去後、国を治める)

卑弥呼の生涯をハイライト

卑弥呼像

卑弥呼の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 鬼道をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明

卑弥呼が書かれていた書物「魏志倭人伝」とは?

「魏志倭人伝」とは、当時中国にあった国、魏が著した書物で、その「魏志」の中の「倭人」に関する伝えが記されている部分を「倭人伝」と呼びます。

魏志倭人伝

この書物には、

  • 倭人とは、帯方郡(当時の朝鮮にあった中国の一部)から南東に海を渡ったところにある国の人々
  • 卑弥呼は邪馬台国に居住している
  • 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いを行って国を治めていた
  • 卑弥呼に夫はいなく、弟が国家統治の助けをしていた
  • 卑弥呼が死去した際には、倭人が直径百余歩にも及ぶ大きな塚(古墳)を作った

等の卑弥呼に関する事柄が詳細に記載されています。

卑弥呼に関する中国の書物は幾つか存在しますが、邪馬台国に関して詳細に記述された書物は世界中を見てもこれのみであり、卑弥呼が存在し、邪馬台国という国があったという唯一の証拠です。

卑弥呼の時代の倭国はどんな様子だった?

争いが絶えず、常に騒乱が起きていた

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていました。「魏志倭人伝」によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。

しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

卑弥呼の時代はどんな時代?近年わかってきた真実に迫る!【出来事、経済、文化なども紹介】

卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」ってどんな国?

邪馬台国の場所や政治は?

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。魏志倭人伝には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

邪馬台国の政治には古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。また、男子はみな身体に入墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

卑弥呼はなぜ魏に使いを送ったの?

当時卑弥呼は、「朝貢」という形で魏に使いを送っていました。近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは「その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する」という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。

やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を治めていた

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も

卑弥呼は「鬼道」という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。しかし「鬼道」という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

一番の有力説としては、鬼道を「呪術」と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

人前に一切姿を見せない秘密主義

秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬

箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。この史実を元に卑弥呼が倭国の王であるという知らしめを全国民へと広げることにも成功したのでした。

親魏倭王の金印

一方で「日本書紀」を執筆した本居宣長は「『魏志倭人伝』に記載されている、卑弥呼が魏へ使者を派遣し、金品を授かり、倭王としての称号を得たという内容は受け入れられない」と批判しています。当時、倭国よりもはるかに高度な文明をもっていた魏が朝貢国の策略に騙され、金印や銅鏡を与え、倭国の王としての太鼓判を押すことはあり得ないと結論づけたのでした。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」

邪馬台国

卑弥呼が倭国の国王として即位するまでの間、40年から70年に渡って内乱が続いていました。男の首長たちが国王の座を狙っての覇権争いを繰り広げていたのです。その最終章で一際大きな内乱が起こり、このことに懲りた人々が卑弥呼を女王として君臨させたのでした。

卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術を用いて世をうまく治め、卑弥呼が国を統治している間は争いが起こらずに平穏な日々が続いたそうです。しかし、卑弥呼の亡き後は再び男の国王が誕生し、以前のように内乱の絶えない世の中になりました。

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

皇室の祖先神であり、この日本を築き上げたとされる天照大神(天照大御神)ですが、天照大神は女性であるとされており、また、須佐之男命(スサノオノミコト)と月読命(ツクヨミ)という弟がいたことから、伝記に記載されている卑弥呼の状況と重なります。

天照大神

あくまで伝説ですから100%そうであると言い切ることはできません。しかし、日本の国史である古事記・日本書紀にそのような記載があるとわかってしまったからには、何か関係があるのではないかと考えてしまいます。

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説

神功皇后

第14代天皇である仲哀天皇の皇后であり、日本初の摂政であるとされている神功皇后ですが、実はこの人物が卑弥呼なのではないかという説もあります。魏志から卑弥呼に関する記述を引用して、日本書紀では神功皇后と卑弥呼が関連するのではないかと推測させる記述があるのです。

江戸時代まで長い間その説が有力であると信じられていましたが、実は時間の隔たりがありました。卑弥呼が活躍していたのは3世紀前半であったのにも関わらず、神功皇后の夫である仲哀天皇のご時世はだいたい4世紀であると推測されているのです。この説は時系列が曖昧であるので、現在では少数説とされています。

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

箸墓古墳 全景

生まれた年も亡くなった日も不詳な卑弥呼ですが、その埋葬場所である古墳の場所もわかっていません。そんな中、日本最古級の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説があります。これは箸墓古墳の築造年代が不明であったために提唱されていました。

しかし、卑弥呼の没日が242~248年とされているにも関わらず、箸墓古墳の成立年代は3世紀末から4世紀前半とする説が有力となってきていることから、時系列にずれがあることにより、こちらの説は少数説とされています。また、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の古墳の規模・様式とも差異があるのです。

都市伝説3「卑弥呼の死と皆既日食が関係している?」

卑弥呼は242年から248年の間に亡くなったとされていますが、247年から248年にかけて皆既日食が起こったことと卑弥呼の死を関連づける研究結果を日本の天文学者たちが発表しています。

皆既日食

247年の3月と248年9月に北部九州で皆既日食が起こったことが指摘されており、研究者たちは247年の皆既日食で魔力の弱まった卑弥呼が殺され、248年の皆既日食で卑弥呼の代わりに男の国王が即位したと結論づけました。

しかし、現代の綿密な測定によると、邪馬台国の付近では皆既日食ではなく部分日食に留まっていることが分かっており、卑弥呼と皆既日食との関係性は都市伝説程度に収まっています。

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

女王に就任する

正確な情報は存在しませんが189年頃に卑弥呼が邪馬台国の女王となりました。それ以前は男性の王が国を統治していましたが、国内で内乱が続き、卑弥呼を立てることで治まったといいます。

232年「新羅侵入」

新羅への侵入

232年、倭国は新羅に侵入し、新羅の王都であった金城を包囲しました。しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」

239年、卑弥呼は初めて自らの家来を魏に送ります。この時派遣された人物が難升米という人物であり、彼は魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜りました。これにより、魏より倭国の女王であることを承認してもらったのです。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」

親魏倭王の印綬を受け取る

240年、前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れました。この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜ったのです。

247年「狗奴国との戦い」

247年、邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まりました。この時卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

240~249年頃卑弥呼が亡くなりました。これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を派遣し、新羅を火攻めにしました。この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

卑弥呼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

卑弥呼‐真説・邪馬台国伝‐

漫画という特徴を最大限に活用した本。卑弥呼が卑弥呼になる前からの生涯を、喜劇的な場面も交えながら面白くストーリーが展開していきます。今までの卑弥呼のイメージを払拭し、新たな「卑弥呼観」が生まれるかもしれません。

【真説】日本誕生Ⅰ卑弥呼は金髪で青い目の女王だった!

題名が独創的であるように、本の中身も独創的です。今までの卑弥呼に対する思い、考え、概念全てが覆され、自分の中の卑弥呼が変わります。しかし本に説得力があるので、納得も容易にでき、かつ価値観の変化を楽しむこともできます。

学習漫画 日本の伝記 卑弥呼 邪馬台国のなぞの女王

まさかの子供向けの学習漫画、と驚くかもしれませんが、やはり学習漫画はわかりやすく簡潔に書かれているという点で、卑弥呼という人物を広く浅く素早く知ることができます。一度この本を手に取って読んでから、さらに深堀している書物を読む、というのも良いのではないでしょうか。

卑弥呼をよく知れるおすすめ本6選【伝記から評伝、漫画まで】

おすすめの動画

【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀

この動画は、まず邪馬台国がどのような国であったかを広く簡潔に紹介し、動画の中盤から、題名にもある卑弥呼と邪馬台国の関係性を、卑弥呼が神功皇后であるという説の観点から考察しています。卑弥呼の人物性・生涯・彼女自身の謎をサッと学ぶことのできる動画です。

「卑弥呼」踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】エグスプロージョン

この動画では、卑弥呼がどのような人物であったかを、ダンスを取り入れた音楽の中で簡潔に説明しています。しかし、説明と言っても結局は謎の多い人物でありましたので、それを笑いに変えて結局は何が言いたいのかわからないという芸風のいわばお笑い動画となっています。

おすすめの映画

卑弥呼

この映画は、卑弥呼の人物としての物語を語った唯一の映画となっています。しかし内容は歴史的に述べられているものではなく、どちらかというとその風俗性を無理矢理映画にしたように感じるストーリーです。当時の風俗を知る分には十分に素晴らしい映画です。

関連外部リンク

  • 卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある
  • 邪馬台国と卑弥呼とは〜天照大神との関連性と卑弥呼の可能性〜

卑弥呼についてのまとめ

卑弥呼という人物については伝記が少なく、さらには古事記・日本書紀も卑弥呼の時代から数百年経ってから著されたために卑弥呼に関する記述が曖昧であるという状況の中で、卑弥呼は謎が多い人物とされています。

しかし、邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述や、諸説存在する学説から卑弥呼の人物性を推測することに卑弥呼の面白さがあるのです。鬼道によって倭国を治めていたといっても、その鬼道が何なのか、卑弥呼が即位しただけで戦乱が治まったといっても、具体的に何をして治まったのか、そのような記述のない事柄に関して想いを馳せることに意味があるのです。

この記事をきっかけに、卑弥呼に関してさらなる学説や書物を読んで学んで頂きたいと思います。

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九州の田舎人

「火の国」の名(ちょっと休憩)

『矢部風土記』という書物があります。江戸時代後期に熊本県矢部地方の伝説・伝承を集めたものです。その中に面白い挿話があります。「景行天皇が九州に巡幸した際に、椎葉村と矢部(山都市)の境の国見岳(1,739m)に登り国見をした際に、遠くの方に山(多分阿蘇山)から火が出ているのを見て、その国を火の国と名付けた」というものです。これが、本当の熊本の「火」の国のゆらいを表したものと思います。この場合景行天皇が九州全体を見て国見をするという話が『記紀』にはありませんので、実際は何らかの事情で抜けている可能性があります。
『日本書紀』には、景行天皇が八代(やしろ)県豊村で不知火の火を見たことから火の国と名付けたという話があります。『肥前国風土記』では肥君(ひのきみ)らの祖健緒組(たけおくみ)が土蜘蛛(つちぐも)を討伐した時、八代(やしろ)郡の白髪山で宿泊した時に、大空に火があり、ひとりでに燃え、しだいに降下しこの山に燃えついた。このことを崇神天皇に報告すると、「天から火が下ったのだから、火の国とよぼう」との話があります。これらの話に、『矢部風土記』の伝承も加えると、より熊本が「火の国」としての印象が強くなるでしょう。

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九州の田舎人

大国主命(おおくにぬしのみこと)

出雲の国譲りで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)は亡くなられ出雲大社として祀られた時に、その御殿が西に向けられて建てられています。土井ヶ浜遺跡の頭骨の向きが西北西であり、山東半島を故郷とする人々だったのではないかと考えられていますが、同様にこの方の本来の出身地が西側の「大人国」であったのではないかと思われます。大国主命の父親の名前は、『日本書紀』では「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」という意味が分からない不思議な名前になっていますが、言葉で伝わったものを漢字で表わした際に、意味が違ってきたものと思われます。ワザとかも知れません。 
『粟鹿大神元記』は、戦後に発見された古記録で、『記紀』より古い和銅元年(708年)に但馬国朝来(あさご)郡の神部勅根(みわべのあたいねまろ)によって書かれた古書です。ここに書かれている神名は本来の形を表していると云われています。
ここに大国主命の父親の名前として、「天布由伎奴(あめのふゆきぬ)」の名が出てきます。「ふ」と「ゆ」がはっきりと分かれています。つまり「天の府壱岐主神」が本来の名前であったものでしょう。
ちなみに「ゆき」は『万葉集』にも「壱岐(ゆき)の海人(あま)」とあるように、昔の島の読み方です。つまりこの壱岐国のあるいは大人国の支配者であり、その子の名前に出身地の「大」が付けられているように考えられます。

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九州の田舎人

水深測量と潮汐

秦や漢の時代は河川から始まり沿岸での船の通行が頻繁に行われてくるようになり、この時問題となるのが河や海の水深でした。安全に航行できなければ、どうしようもない訳です。
そこで船には、測深錘や水鉈という重い金具とひもを結び水面下に下ろして水深を測りました。測量の単位は、人が両手を広げた托(たく)で1.5mの長さです。単位長さのタッグをこの紐につけ、それで水深を測ります。測量の左辺が水を示すサンズイがあるのは、そこから測量が始まったことを示しています。
そして航海の発展と水深測量の結果で、潮の潮汐活動がだんだんと分かるようになってきました。海が浅い場所では浅瀬・暗礁での座礁の危険性が大きく、また港への出入りには海の高さが関係しています。必然的に潮汐の知識が要求されてきます。前漢時代、枚乗(ばいじょう、~前140)は著書『七発』で、潮汐と月齢の関係を説明するような「8月の望」の大潮のことを述べています。
後漢になると、王充(おうじゅう、27-97)は潮汐の成因理論を作っています。著書の『論衡』の書虚篇に、「涛之起也、膸月盛哀」(潮の満ち退きは、月の満ち欠けによって大きかったり小さかったりするのであって、潮の満ち退きはいつも同じではない)ということ考えにいたり、月と潮汐の関係を科学的に示しています。紀元1世紀には潮汐表も作られていました。これを使い船は潮をうまく利用をして航海をしていたようです。潮の流れに乗れれば、船を進めるのが容易ですし、港に入ることも容易になります。後漢の光武帝の時代に、馬援将軍は航海の安全を期するため「潮信碑」を作り、渡海する人に潮の満ち引きが分かるようにしたと云われています。
『魏志倭人伝』の時代に、中国あるいは帯方郡から来た船は水深を測量し、帰路の安全を図り、潮の流れの変化をみて、航海の安全を図っていたと思われます。

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陸行の日数

『魏志倭人伝』での末盧国(呼子)から邪馬台国の横の国斯馬国(都城)までの陸行での一月とは、どのようなものだったでしょう。
これは、末盧国から奴国までが600余里(6日)であり、この奴国から邪馬台国の横の斯馬国までの20ヶ国分20日をその陸行に加えて、移動日が合計26日となります。
 古代の中国では、往亡日(おうもうにち)というのがあり、1年間に12日、旅行や婚姻、建築などを忌み禁じています。出掛けるのに凶の日は、正月寅、二月巳、三月申、四月亥、五月卯、六月牛、七月酉、八月子、九月辰、十月未、十一月戌、十二月丑の日にあたります。日本では、正月7日目、二月14日目などという日を定めています。まあ現代の私達からみるとそこまでしなくてもと感じることがありますが、古代の人は真剣にそれを守ったようです。
 古代中国には、その他方位や星の方角による吉凶等もあり、旅行するのは大変でした。このため恐らく1月に4日ほどは、移動できない日があったと思われます。そうすると、旅行日は26日+4日で、30日となり丁度一月となります。

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陸の運搬手段

日本では古代から陸での運搬手段には背負子(しょいこ)が使われていました。以前伊都国歴史博物館で展示されていたことがあり、その時に拝見した記憶があります。各地でこの背負子に使われた木材が出土しています。
 当時の道路は、対馬国の「道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。」であり、末盧国の「草木茂盛(もせい)し行くに前人(ぜんじん)を見ず。」という状態でしたので、長い棒に二人で荷物を吊るして運ぶ方法は無理であり、やはり背負子を使ったものと思います。
末盧国(呼子)から伊都国のルート上の松浦川の横に中原遺跡があり、ここから背負子が出土しています。ここでの背負子が魏使の移動に使われたのかも知れません。勿論九州縦断にも使われたのは当然です。
日向地方では、背負子を「カルイ」と呼びました。また運搬具に網を編んで袋としたもの(カガリ)や、背負子に袋を付けたもの(カレコ)などもありました。
背負子で銅鏡を運ぶとすると、20cm径位のものが重ねやすく、運びやすかったでしょう。

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末盧国(呼子)から伊都国までのルート

末盧国の呼子から伊都国までの魏使が通ったであろうルートを検討してみました。呼子から東南方向に下り、中原地区の近くの松浦川の渡河が可能な地点で渡河をし(唐津より少し南側です)、そこから古墳の多い陸を通り現在の玉島川を遡り、七山村平野から荒川峠を北側に向け越え、二丈深江の辺りで東方向に道をとり、伊都国に入るルートが最適ルートと考えています。
『延喜式』の道路を取る案もありますが、後に切り開かれたルートで、『魏志倭人伝』の時代のルートとしては、この案は採用出来ません。それにしても、陳寿は『魏略』にはなかった陸行をわざわざ加えているのが、興味深いところです。荒川峠付近からに二丈町を望む景色は、海と山のアンサンブルが素晴らしく、この景色を紹介するため、わざわざ末盧国から陸路を取ったのではないかと疑われるほどです。
古代の人は、荒ぶる峠の神を畏敬し、峠を越える際何らかのものを手向けていました。この風習は江戸時代まで続いていたようです。荒川峠には土器散布地あり、人びとは土器を割り、それを捧げと思われます。

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不明21ヶ国の比定(その2)

——ここから蘇の範囲となります——
華奴蘇名(かなそな)国 = 阿蘇市(阿蘇黄土(酸化第二鉄)産地、「かな」は「金」)
呼邑(かお)国 = 河陽(南郷谷)
蘇奴(そな)国 = 高森、馬見原(蘇は阿蘇全体の地名、幅・津留遺跡)
対蘇(つそ)国 = 草部(蘇陽峡を挟んだ蘇奴の対岸)
姐奴(しゃな)国 = 高千穂(椎屋谷が土着鬼八の根拠地)
——ここから日向の範囲となります——
不呼(うか)国 = 岡富(延岡五ヶ瀬川北岸)
好古都(おかた)国 = 臼杵郡刈田(かった)郷、あるいは阿賀多(延岡五ヶ瀬川南岸、旧英多郷)
弥奴(みな)国 = 美々津(「延喜式」美弥(みね)駅)
都支(たし)国 = 佐土原町田島(「延喜式」当磨(たいま)駅)
伊邪(いや)国 = 宮崎(イザナギ、イザナミの根拠地、伊勢の地名から発生)
巳百木(いわき)国 =岩瀬(泉姫が景行天皇を向えた岩瀬川)
斯馬(しま)国 =嶋津(都城の旧名。島津名の発祥地))

つまり帯方郡から、水行10日(帯方郡~呼子、1万里)+陸行(5日+1日+20日=27日≒30日(1月))となり、『倭人伝』の記述通りです。この斯馬国の近くに邪馬台国があります。邪馬台(やまだい)国の名前は都城盆地の「山田」として残っています。

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不明21ヶ国の比定(その1)

21ヶ国の記述は「次○○国」となっていますが、この「次」というのは当時の軍事用語で「1泊して次に向う」という意味です。「新漢語林」では、主に順序をつけると宿泊するという二つの字義が載せられています。
従ってこれらの国々が勝手な場所に別々にあるのではなく、1日行程の範囲で連続したルート状につながっていることを表しています。勿論その到着点は『倭人伝』に「次に奴国あり、此れ女王国の境界の尽くる所」とあるように奴国ですが、原文では邪馬台国からの順番となっていますので、それを終点からとして逆方向で考えてみました。

奴(な)国 = 福岡市中南部、春日
烏奴(おな)国 = 大野城(旧大野郷)
支惟(きい)国 = 基山町一帯(「延喜式」での基肄郡)
巴利(はぎり)国 = 杷木(「延喜式」の杷伎駅、原、針摺などの地名が派生)
躬臣(くし)国 = 玖珠(日田)
邪馬(やま)国 = 八女
鬼奴(きな)国 = 玉名(日本書紀の「玉杵名(たまきな)」の略称)
為吾(いが)国 = 山鹿(為の音は湯、温泉郷)
鬼(き)国 = 菊池郡(旧城野郷で、木乃の地名あり)

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邪馬台国の方向

女王国の方向は帯方郡より南となっており、その位置を決める重要な要素です。しかし女王国を九州と考えた場合、この南という方向は20度ほど東側に傾くことになります。古代中国においては、どの程度までの方向のブレが許されていたのでしょう。
漢を中心とした地理誌ですと、洛陽が中心となり、そこからそれぞれの目的地への方位、距離が示されています。『続漢書』郡国志五に載る南方の諸国での位置関係を示すと、次のようになります。雒陽は洛陽のことです。(城数、人口等は省略)
● 南海郡 武帝置。雒陽南七千一百里。(東へ約20度)
● 蒼梧郡 武帝置。雒陽南六千四百一十里。
● 鬱林郡 秦桂林郡,武帝更名。雒陽南六千五百里。
● 合浦郡 武帝置。雒陽南九千一百九十一里。(真南)
● 交趾郡 武帝置,卽安陽王國。雒陽南萬一千里。(西へ約15度)
● 九眞郡 武帝置。雒陽南萬一千五百八十里。
● 日南郡秦象郡,武帝更名。雒陽南萬三千四百里。
これを見ると、交趾郡(西へ約15度)から南海郡(東へ約20度)の範囲に収まっています。そのことから、帯方郡からみた九州の東へ約20度傾斜は、ほぼ範囲内として良いと思われます。
そして帯方郡から南方向に向かい、会稽東治の東に向かう交差した箇所に、邪馬台国はあります。

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九州の田舎人

京藤一葉様

私が離れた後も、いくつか指摘させて頂いた内容を、何らかの形で一葉さんのブログに反映して頂けるかも知れないという淡い期待を持っていました。一葉さんの姿勢である「レキシルでは新たな発見も踏まえながらも王道の情報を入念に調べ上げてご紹介できたらと思います。」と記されているにもかかわらず、そういう姿勢が見られないのは残念です。
私は後期高齢者として、そう長く調査や研究が出来る体力はありません。そこで、語り残したものを紹介させて頂き、万が一このコメント類を発見された方の邪馬台国感が向上されることを望みたいと思います。邪馬台国については、いろいろな方がそれなりの案を述べられていますが、それらがいかにお粗末なものかが、ご理解出来ると思います。他のブログでもそうですが、一葉さんが本当の歴史の深みや楽しみを見つけて頂けることを望みます。

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九州の田舎人

卑弥弓呼
卑弥呼がどんな人かについて大事なものを忘れていましたので、追加させて下さい。卑弥弓呼に一つの手がかりがあります。
蚕に関する布目順郎氏『絹の東伝』に弓の弦を鳴らす躬桑礼(きゅうそうれい)の話が紹介されています。
 「弓は「別に矢を使わなくても、弦を弾くだけで神秘的で大きな音が出るところから、害獣や害鳥を追い払うのに呪(まじな)いにも使われるようになった。これが鳴弦(めいげん)といわれる作法である。わが国では、弦(つる)打ちといわれる」と書かれていた。この躬桑礼は、后妃が自ら桑を摘むもので、春蚕(はるこ)が始まる時に行われる儀式です。」布目氏は、これを描いたものとして、中国の戦国時代の四川省成都(せいと)百花潭(ひゃっかたん)中学10号墓出土の銅壺と魏晋(ぎしん)時代の甘粛省嘉峪(かよくかん)の新城公社で発見された画像塼(がぞうせん)を紹介されています。
四川省の銅壺には、高松塚古墳壁画に描かれたような衣装を身につけた人々が多く見られます。また甘粛省の画像塼には、鳴弦する子供や弓を持たないが鳴弦の恰好だけをしている子供が描かれています。鳴弦をするのは、男の子の役割と思われます。現在の日本の宮中にもこの儀式が残っています。このことから「卑弥弓呼」の中の「弓」は、この鳴弦からきているのではないかと考えます。
張政一行の一人が、卑弥呼の名前の由来を知り、「ぐ」という言葉に蚕(桑)での「弓(ぐ)」を当て、男性の王の身分を得た人物であることを表したのではないかと思います。逆にこの字は、卑弥呼自身も蚕に関する名前であることを証明してもいます。
 姫は、本来は女性のことを意味していず、単に蚕ということだけを意味していたものが、後にそれらをつくるのが女性であることから、女性のことを指すようになったように思えます。

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九州の田舎人

京藤一葉様
邪馬台国と卑弥呼について、現在分かっている範囲のことを、簡単にまとめて述べさせて頂きました。本当はまだまだお伝えしたいことはありますが、これ以上ご迷惑をおかけするのは本意ではありませんので、ここで止めさせて頂きます。大変ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。コメント欄は有難うございました。
邪馬台国を含む歴史については、私は専門ではありませんでしたので、間違いもあるでしょう。皆さんがより真摯に向き合い、真実に迫られることをお祈りします。
最後に一葉さんの書かれた232年の記事を含め新羅侵入については、以前慶州の周辺を何回も現地で調査し侵入方法等を調査しました。勘でしかありませんがもう少し時代が下がるのではないかと思います。

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九州の田舎人

卑弥呼の墓
卑弥呼の墓の場所については、今まで日本国中で探されたと思いますが、確かなものは何もありません。しかし、ここに不屈の研究家がいて、その想像を超えた長期間に渡る努力により、その場所が判明しました。卑弥呼(天照大神)が生まれ育った、宮崎市から少し中に入った瓜生野(うりゅうの)と呼ばれる場所です。
 この研究家は、日高祥(しょう)さんと言います。上北方に住んでおられます。以下は、日高祥氏の著書『史上最大級の遺跡、日向神話再発見の日録』を参考にしています。
 私も日高氏とともにこの場所に立ち、これが卑弥呼の墓であることを確信しましたので、今この弥生式墳丘墓(前方後円墳形)を紹介できることを嬉しく思います。この山は、古来笠置(かさご)山と呼ばれて来ていましたので、日高氏は笠置山墳丘墓と名付けました。この全貌からは、最古級の前方後円墳の可能性があります。
笠置山墳丘墓は、後円部が72.1mで、前方部が72.4mであり、全長で145.5m(魏の100歩)の非常に大型の前方後円墳です。2段目の後円部は、直径が32.0mです。
 加えて墳丘墓の西南側の道路工事をしていた際に、多数の土壙墓が発見されました。最初に4号土壙墓が発見されましたが、30cm掘ると多数の土器片が現れ、この土器片は祭祀時と思われます。土壙の長さは2.57m、幅1.20m、深さ1.20mで、中に約95cmの鉄剣が1本と鉄の鏃2個、鐵飾りなどが入れられていました。「副葬品から見ると、これ等は着装したまま埋められていることがわかる。」とも書かれています。
その後も多数の土壙墓が発見されています。この土壙墓の総数は、まだ発掘されていないものを加えると、土壙墓区で最低105基を超えることが推定され、また直ぐ横の王宮区(もがり部)では、20基以上の土壙墓が見つかっています。総合すると130基ほどになると思われます。
また特殊建築物を囲う柵がずっと西方に続いていて、この柵の内側に柱穴があります。「この建物は四角形で東西283センチ、南北295センチで小さいが、柱穴は平均29センチの大きなもので、中央に柱があり、北西側に南北1メートル。東西80センチの炉があ」り、「火をたやさないほど燃やし続け」られていたようで、「もがりや」の建物とみられます。
笠置山墳丘墓は生目1号墳と同じように山を削るように作られており、卑弥呼が高齢になった際に生まれ故郷に墓を作りたいとして、生前から作られていたものでしょう。この場所は古くより伊勢と呼ばれていた場所で、墓の横には五十鈴川が流れています。

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九州の田舎人

卑弥呼が死に至る経緯
『魏志倭人伝』では、狗奴国との戦いを有利に進めるため、邪馬台国は使者を魏の都洛陽に派遣し、色々な工作を行ったようです。その結果「塞曹(さいそう)の掾史(えんし)、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭(こくゆ)す。卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬ずる者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。」
「檄」とは、「仲間を集めるためのふれぶみ」のことで、「告喻」とは、「広く一般人民に告げさとす」という意味です。恐らく邪馬台国の役人、兵士、一般の人々へ、宮殿内の広場に集まるようにお触れが出され、人々が集められたと思います。そこに一人の年取った壮年の方に手を引かれ、年老いた卑弥呼も出てきたと思います。そして、帯方郡から派遣されている役人の張政らが、皆の前で邪馬台国の至らないさまを激しい言葉で叱責したのでしょう。卑弥呼はそれで全てを悟ったと思います。
 この死の原因については諸説ありますが、既に老婆となっており国の最高指導者として全ての責任を持ってことに当たっていたことから、狗奴国との戦を有利に進めることが出来ず、檄まで作られ告喻されたことにより、その責めを負い、身を退けることに何のためらいも無かったと推察します。多分服毒し、それで一生を終えたと思います。

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九州の田舎人

先蚕儀礼
 古代の中国の王朝が重視した儀礼に、「先蚕儀礼」というのがあります。これは,一連の国家儀礼の一つで,民に養蚕を教えた人物(先蚕氏)を祭る儀礼です。この儀礼の大きな特徴は,ほぼ全てのの祭祀を皇帝が行うのに対して、唯一の皇后主宰を原則とする祭祀であるという点です。下記の文章は、新城理恵氏の「先蚕儀礼と中国の蚕神信仰」を参考にしています。卑弥呼が何故名前を「姫蚕」と名付けられた理由となるでしょう。
先蚕儀礼は「蚕」と「桑」と「祀先蚕」の三つの要素で構成されています。
(『周礼』巻2「天官」内宰条):(二月,詔して,后は女官と諸侯の夫人を率いて北郊で養蚕を始め,祭服を作る。)
『礼記』巻5「月令」):(三月,后妃は斎戒して東に向かい,自ら桑を摘む。(養蚕に従事する)婦女の身を飾ることを禁じ,他の仕事を省いて蚕事に専念させる。蚕事が成ると,繭を繰り,出来高を調べ,郊祀,宗廟の祭服に提供し,みだりに怠ったりしないようにする。)
(『礼記』巻14「祭統」):(王后は北郊で養蚕し,祭服を提供する。夫人は北郊で養蚕をし,祭服を提供する。)
これらは、「農は天下の元」という考えにおいて、皇帝の親耕と皇后の親桑とは,歴代王朝で推進された勧農政策の一環として始められたもので、皇后の被服管理は王朝行事の重要な要素であったと考えられる。
(『礼記』巻14「祭統」)(夫人は北郊で養蚕をし,祭服を提供する。三宮の夫人,女官を占って,吉となって者を蚕室で養蚕に入らせる。蚕の種を奉って,川で沐浴し,公桑で桑を摘み,風で乾かして,これを蚕に与える。)
卑弥呼は、将来重要な国の皇后としての役割を担うことを期待されており、そのため姫蚕(ひめこ)という名前を付けられたものと考えられます。日本においても、現在の皇室でも御養蚕が行われており、当時皇后であった美智子さまが紅葉山御養蚕所で春から夏にかけてたずさわっておいででした。

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九州の田舎人

卑弥呼
この時代の卑弥呼の呼び方としては、「ぴみか、ぴめか」というのが近いでしょうが、時の変化で「ぴ」が「ひ」、「か」が「こ」に変化し、私達の理解しやすい言葉「ひみこ、ひめこ」になっていったものでしょう。
「邪馬台国の会」第340回での安本美典さんの記述に下記のようなものがあります。
◇『播磨国風土記』では、「蚕(かいこ)」のことを、「蚕子(ひみこ)」といっている。 「蚕(かいこ)」のことを古語で、たんに「蚕(こ)」ともいうが、養蚕や機織(はたおり)には、女性がたずさわることが多いので、「蚕子(姫子)」といったのであろう。
◇「姫子」「比咩古」の音は、いずれも、「ひ(甲)め(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音に一致する。「姫子」は、古典にあらわれるひとつの熟語として、「卑弥呼」と完全に一致する。「卑弥呼」が、「姫子」であるとすれば、「姫」という語に、愛称または尊敬の「子」がついたものであろう。◇
これは私が25年前より述べ、安本さんにお伝えしていたものと同様の内容です
「卑弥呼」は職業的な名前ではなく、本名ではなかったかと思います。蚕の呼名を「蚕子」あるいは「姫蚕」と書いて「ひめこ」といいますが、この言葉が本名ではないでしょうか。
『日本書紀』には、高天原の話として「また大神(天照大神)は口の中に、蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕が出来るようになった」とあります。
口から糸を出して見せ驚かしている、悪戯っぽい乙女の顔が浮かんできますが、書紀の作者のなかで真相を知っているものが、分からないように暗示しているのかも知れません。
神に捧げる衣服を「神御衣(かんみそ、おんぞ)」と呼びますが、これは特別な巫女のみが織ることが出来るものです。この元は天照大神が自分の衣服を作っていたことに由来しており、その頃は庶民と似て自給自足の生活をしていたことを表しています。現在の伊勢神宮も、この自給自足の考えを引き継いでおり、儀式の意味を知るキーワードでしょう。
しかし、この名前には深い意味が含まれています。

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高天原
高天原(たかまがはら)は、「高」が高所にあること、「天」が海人族の入植したこと、「原」が新開地を意味していると考えられます。伊邪那岐・伊邪那美の二神のいた宮崎市から、天照大神が統治を命じられた都城盆地一帯をみると、まさに高い場所という印象です。
この都城盆地には、高原(たかはる)、高崎、高木、高城、少し離れて高岡と、「高」の付く町名が並んでいますが、これは高天原と関係があるのかも知れません。江戸時代の『三国名勝図会』に「土俗伝え云、当邑を高原と号するは、高天原(たかまがはら)の略称なり」とあり、以前からこの地を高天原と伝えてきていたようです。
九州では、平坦な高台を「原(はる)」といいますが、本来霧島山麓に広がる小高く広い平地を、高原と呼んだことから来たかも知れません。高原は、高天原に一番近い名前です。
高崎町(たかさき:都城市)は、高天原の祭事(まつりごと)や居住される皇居(こうきょ)の地を崎と呼ぶことから高崎になったと伝えられています。
 高城町(たかじょう:都城市)は、『三国名勝図会』には「高城の名は皇都(こうと)の遺稿(いこう)なり」とあり、高城(たき)と呼ぶ地名もあります。
この「高」は、天照大神の相談役であり高天原の舵取り・主のような高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)にも関係しており、「高」という字が天孫族のシンボルだったと思われます

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九州の田舎人

天の安川
都城には、鹿児島県財部(たからべ)町、末吉(すえよし)町や三股町などから小河川が流れ込み、都城の中でそれらが合流し、北へほぼ南北方向に向け流れている1級河川の大淀川があります。大淀川は、都城では「竹之下川」、宮崎の跡江辺りでは「大川」、その下流部では「赤江川」と呼んだりしていて、地域の事情により名前が変化しています。
この大淀川に流れ込む河川をよくみると、まず市南部の金御岳の東側を通り北に流れている安久(やすひさ)川があります。この川の市街地に入ったところには、安久(やすひさ)や安留(やすとめ)という地名があります。
また西からは世界一の甌穴(おうけつ)群として有名な関ノ尾(せきのお)がある庄内川が入り込んできますが、川名となった庄内町があり、安永城跡があります。しかしこの庄内は、明治以前は安永(やすなが)と呼ばれていたものが改名して出来たようです。この城の南側を流れる庄内川は、明治以前は安永川と呼ばれていたようですし、この川が大淀川と合流する地点の山田町には、安原神社があります。
また高原町には、安丸(やすまる)という地名と大淀川に流れ込む安丸川があります。これらを鑑みると、これだけ「安」の地名を持つ大淀川は、昔は「安川」と呼ばれていたと考えて間違いないでしょう。神様が集まり会議する場に、最も相応しい堂々とした川です。

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九州の田舎人

投馬国
投馬国は、南にあり水行20日かかると『魏志倭人伝』にあります。この20日をどう考えるかが大きなポイントです。帯方郡から末盧国まで水行10日ですので、これを除くと後は「水行10日」が残ります。この残りの水行10日分については、外洋船を使ったものではなく、帆の使用がまだ一般的でなかった時代ですから、櫓で漕ぐ航海となったでしょう。漕ぐやり方で1日に行ける距離については、22kmから25kmです。
当時の航路をたどると丁度10日目に薩摩川内市の「京泊(きょうどまり)」に至ります。この地は可愛の山稜(えのみささぎ)や薩摩国府があった場所です。川内は「せんで」ともいい、古くは「千台」とも書かれ、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)が高城千台宮を築き、宮居した処と云われています。しかし重要なことは、この薩摩川内市のやや東南に『和名抄』における「鹿島郡都萬(万)郷」があったことです。この「都萬(つま、あるいはとま)」は明らかに「投馬」のことを指しています。
「と」と「つ」は通音であるため、「とま」が「つま」になり、これに接頭語「さ」が加わり「薩摩(さつま)」になったものでしょう。「さ」は、アイヌ語で山側に対する浜側を意味しており、現地の状況によく合っていると思います。

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