卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】

卑弥呼は、日本という国ができ始めたころ、つまり今から2000年近く前の時代に「邪馬台国」というクニに存在していたと言われる、倭国(当時の日本)の国王です。卑弥呼は当時の魏という国、現在の中国と関係を持ち、親魏倭王の金印、銅鏡百枚、刀や真珠など数多くの貴重なものを頂いていました。

さらに卑弥呼は鬼道と呼ばれる、占いなどの術も得意で、卑弥呼が亡くなった後には国をしっかりと治められないほどに卑弥呼は鬼道を用いた国の統治に成功していたと言います。

卑弥呼

卑弥呼は生まれた年も亡くなった年も、墓についても、どんな顔であったかについても全くわかっていない、そんな謎の多い人物です。彼女は邪馬台国に住み、倭国を鬼道により統治していた、という情報しか存在しない程です。

しかもその情報は「魏志倭人伝」という、卑弥呼が存在していた時代に中国に存在した魏という国が編纂した書物にしか記載されておらず、卑弥呼に関する情報だけでなく邪馬台国の場所に関する情報に関しても詳細は記載されておらず、大まかな情報しかありません。

しかし、その「魏志倭人伝」のおかげで卑弥呼が魏に使いを派遣、いわば朝貢を行っていて、かつ邪馬台国の政治はヤマト政権のように租税が存在し、卑弥呼の弟が実権を握る政治を呪術面で卑弥呼がサポートしていたということも知ることができます。限られた情報ではありますが、人物性に関してはある程度のことはわかる、そんな人物です。

今回は、そんな卑弥呼の魅力に惹かれ学校の勉強を忘れて関連書物を読み漁った筆者が解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

卑弥呼とはどんな人?

名前卑弥呼
誕生日不明
生地不明
没日不明(242~248年頃)
没地不明
配偶者未婚
埋葬場所諸説あり(後に記述)
子女台与(卑弥呼死去後、国を治める)

卑弥呼の生涯をハイライト

卑弥呼像

卑弥呼の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
  • 鬼道をもって大衆をまとめる
  • 何度か新羅に使者を派遣する
  • 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
  • 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
  • 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明

卑弥呼が書かれていた書物「魏志倭人伝」とは?

「魏志倭人伝」とは、当時中国にあった国、魏が著した書物で、その「魏志」の中の「倭人」に関する伝えが記されている部分を「倭人伝」と呼びます。

魏志倭人伝

この書物には、

  • 倭人とは、帯方郡(当時の朝鮮にあった中国の一部)から南東に海を渡ったところにある国の人々
  • 卑弥呼は邪馬台国に居住している
  • 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いを行って国を治めていた
  • 卑弥呼に夫はいなく、弟が国家統治の助けをしていた
  • 卑弥呼が死去した際には、倭人が直径百余歩にも及ぶ大きな塚(古墳)を作った

等の卑弥呼に関する事柄が詳細に記載されています。

卑弥呼に関する中国の書物は幾つか存在しますが、邪馬台国に関して詳細に記述された書物は世界中を見てもこれのみであり、卑弥呼が存在し、邪馬台国という国があったという唯一の証拠です。

卑弥呼の時代の倭国はどんな様子だった?

争いが絶えず、常に騒乱が起きていた

卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていました。「魏志倭人伝」によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。

しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。

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卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」ってどんな国?

邪馬台国の場所や政治は?

邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。魏志倭人伝には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。

邪馬台国の政治には古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。また、男子はみな身体に入墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。

卑弥呼はなぜ魏に使いを送ったの?

当時卑弥呼は、「朝貢」という形で魏に使いを送っていました。近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは「その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する」という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。

やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。

卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を治めていた

卑弥呼は鬼道を使えたという記録も

卑弥呼は「鬼道」という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。しかし「鬼道」という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。

一番の有力説としては、鬼道を「呪術」と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。

人前に一切姿を見せない秘密主義

秘密主義

卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。

そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。

お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬

箸墓古墳

卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。

卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。

卑弥呼の功績

功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」

卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。この史実を元に卑弥呼が倭国の王であるという知らしめを全国民へと広げることにも成功したのでした。

親魏倭王の金印

一方で「日本書紀」を執筆した本居宣長は「『魏志倭人伝』に記載されている、卑弥呼が魏へ使者を派遣し、金品を授かり、倭王としての称号を得たという内容は受け入れられない」と批判しています。当時、倭国よりもはるかに高度な文明をもっていた魏が朝貢国の策略に騙され、金印や銅鏡を与え、倭国の王としての太鼓判を押すことはあり得ないと結論づけたのでした。

功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」

邪馬台国

卑弥呼が倭国の国王として即位するまでの間、40年から70年に渡って内乱が続いていました。男の首長たちが国王の座を狙っての覇権争いを繰り広げていたのです。その最終章で一際大きな内乱が起こり、このことに懲りた人々が卑弥呼を女王として君臨させたのでした。

卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術を用いて世をうまく治め、卑弥呼が国を統治している間は争いが起こらずに平穏な日々が続いたそうです。しかし、卑弥呼の亡き後は再び男の国王が誕生し、以前のように内乱の絶えない世の中になりました。

卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説

皇室の祖先神であり、この日本を築き上げたとされる天照大神(天照大御神)ですが、天照大神は女性であるとされており、また、須佐之男命(スサノオノミコト)と月読命(ツクヨミ)という弟がいたことから、伝記に記載されている卑弥呼の状況と重なります。

天照大神

あくまで伝説ですから100%そうであると言い切ることはできません。しかし、日本の国史である古事記・日本書紀にそのような記載があるとわかってしまったからには、何か関係があるのではないかと考えてしまいます。

都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説

神功皇后

第14代天皇である仲哀天皇の皇后であり、日本初の摂政であるとされている神功皇后ですが、実はこの人物が卑弥呼なのではないかという説もあります。魏志から卑弥呼に関する記述を引用して、日本書紀では神功皇后と卑弥呼が関連するのではないかと推測させる記述があるのです。

江戸時代まで長い間その説が有力であると信じられていましたが、実は時間の隔たりがありました。卑弥呼が活躍していたのは3世紀前半であったのにも関わらず、神功皇后の夫である仲哀天皇のご時世はだいたい4世紀であると推測されているのです。この説は時系列が曖昧であるので、現在では少数説とされています。

都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説

箸墓古墳 全景

生まれた年も亡くなった日も不詳な卑弥呼ですが、その埋葬場所である古墳の場所もわかっていません。そんな中、日本最古級の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説があります。これは箸墓古墳の築造年代が不明であったために提唱されていました。

しかし、卑弥呼の没日が242~248年とされているにも関わらず、箸墓古墳の成立年代は3世紀末から4世紀前半とする説が有力となってきていることから、時系列にずれがあることにより、こちらの説は少数説とされています。また、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の古墳の規模・様式とも差異があるのです。

都市伝説3「卑弥呼の死と皆既日食が関係している?」

卑弥呼は242年から248年の間に亡くなったとされていますが、247年から248年にかけて皆既日食が起こったことと卑弥呼の死を関連づける研究結果を日本の天文学者たちが発表しています。

皆既日食

247年の3月と248年9月に北部九州で皆既日食が起こったことが指摘されており、研究者たちは247年の皆既日食で魔力の弱まった卑弥呼が殺され、248年の皆既日食で卑弥呼の代わりに男の国王が即位したと結論づけました。

しかし、現代の綿密な測定によると、邪馬台国の付近では皆既日食ではなく部分日食に留まっていることが分かっており、卑弥呼と皆既日食との関係性は都市伝説程度に収まっています。

卑弥呼の生涯歴史年表

189年「卑弥呼、女王となる」

女王に就任する

正確な情報は存在しませんが189年頃に卑弥呼が邪馬台国の女王となりました。それ以前は男性の王が国を統治していましたが、国内で内乱が続き、卑弥呼を立てることで治まったといいます。

232年「新羅侵入」

新羅への侵入

232年、倭国は新羅に侵入し、新羅の王都であった金城を包囲しました。しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。

239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」

239年、卑弥呼は初めて自らの家来を魏に送ります。この時派遣された人物が難升米という人物であり、彼は魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜りました。これにより、魏より倭国の女王であることを承認してもらったのです。

240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」

親魏倭王の印綬を受け取る

240年、前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れました。この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜ったのです。

247年「狗奴国との戦い」

247年、邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まりました。この時卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。

240~249年「卑弥呼死去」

240~249年頃卑弥呼が亡くなりました。これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。

287年「倭軍が新羅に攻め入る」

当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を派遣し、新羅を火攻めにしました。この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。

卑弥呼の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

卑弥呼‐真説・邪馬台国伝‐

漫画という特徴を最大限に活用した本。卑弥呼が卑弥呼になる前からの生涯を、喜劇的な場面も交えながら面白くストーリーが展開していきます。今までの卑弥呼のイメージを払拭し、新たな「卑弥呼観」が生まれるかもしれません。

【真説】日本誕生Ⅰ卑弥呼は金髪で青い目の女王だった!

題名が独創的であるように、本の中身も独創的です。今までの卑弥呼に対する思い、考え、概念全てが覆され、自分の中の卑弥呼が変わります。しかし本に説得力があるので、納得も容易にでき、かつ価値観の変化を楽しむこともできます。

学習漫画 日本の伝記 卑弥呼 邪馬台国のなぞの女王

まさかの子供向けの学習漫画、と驚くかもしれませんが、やはり学習漫画はわかりやすく簡潔に書かれているという点で、卑弥呼という人物を広く浅く素早く知ることができます。一度この本を手に取って読んでから、さらに深堀している書物を読む、というのも良いのではないでしょうか。

卑弥呼をよく知れるおすすめ本6選【伝記から評伝、漫画まで】

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【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀

この動画は、まず邪馬台国がどのような国であったかを広く簡潔に紹介し、動画の中盤から、題名にもある卑弥呼と邪馬台国の関係性を、卑弥呼が神功皇后であるという説の観点から考察しています。卑弥呼の人物性・生涯・彼女自身の謎をサッと学ぶことのできる動画です。

「卑弥呼」踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】エグスプロージョン

この動画では、卑弥呼がどのような人物であったかを、ダンスを取り入れた音楽の中で簡潔に説明しています。しかし、説明と言っても結局は謎の多い人物でありましたので、それを笑いに変えて結局は何が言いたいのかわからないという芸風のいわばお笑い動画となっています。

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卑弥呼

この映画は、卑弥呼の人物としての物語を語った唯一の映画となっています。しかし内容は歴史的に述べられているものではなく、どちらかというとその風俗性を無理矢理映画にしたように感じるストーリーです。当時の風俗を知る分には十分に素晴らしい映画です。

関連外部リンク

  • 卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある
  • 邪馬台国と卑弥呼とは〜天照大神との関連性と卑弥呼の可能性〜

卑弥呼についてのまとめ

卑弥呼という人物については伝記が少なく、さらには古事記・日本書紀も卑弥呼の時代から数百年経ってから著されたために卑弥呼に関する記述が曖昧であるという状況の中で、卑弥呼は謎が多い人物とされています。

しかし、邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述や、諸説存在する学説から卑弥呼の人物性を推測することに卑弥呼の面白さがあるのです。鬼道によって倭国を治めていたといっても、その鬼道が何なのか、卑弥呼が即位しただけで戦乱が治まったといっても、具体的に何をして治まったのか、そのような記述のない事柄に関して想いを馳せることに意味があるのです。

この記事をきっかけに、卑弥呼に関してさらなる学説や書物を読んで学んで頂きたいと思います。

78 COMMENTS

九州の田舎人

再度

ほんの小さなことですが、投馬(つま)国は、和名抄に「都萬」とある地名を探せば見つかるはずです。この国は、ちゃんと薩摩半島にあります。基本的なベースを間違えなければ、必ず答えがあります。日本書紀には、天照大神が卑弥呼であることが明確に描かれています。ぜひ連絡ください。おかしな人間ではありません。(Tel:080-5285-1948)

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九州の田舎人

京藤一葉様

簡単に邪馬台国のことを紹介して頂き、有難うございます。邪馬台国は日本に残るロマンの最たるものでしょう。私も挑戦し、その答えを導き出すことが出来ました。荒唐無稽な内容ではないですので、一度ご覧ください。(080-5285-1948)

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埴岡寂諦

note,com ペンネーム  卑弥呼の父

卑弥呼ファン集まれー集まれー!!

 さーて、1800年前の歴史!!
 わたし、その時生きていたんでしょうか―。??
 
 みなさん、民俗学の柳田國男先生は、ご存じでしょうねー。
 その「故郷」の話をします。
 こんな古代史に興味をもつなんて、みなさん変わっていますよねー。!!
 これからは、みなさんのことも「変人さん」と呼んでいいですかー。??
 えへへへー。
 前置きは、この位にしておいて、さてさて、何から入りましょうかねー??
 まず、この地に伝えられている「卑弥呼」とみられる。と私の考えている想像をお見せしましょうかねー。
 みなさん、パソコンで「神積寺・鬼追い・写真」で検索してみてくださいねー。
 金色の羽織を着た「山の神」と呼ばれる「鬼」。
 これが「卑弥呼」魏志倭人伝「少有見者」、「女王になってから誰とも会わなかった。

アドレス
sakurako_sakurako0131@yahoo.co.jp

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京藤 一葉

> るるさん

ありがとうございます!
まだまだ書けていない情報も多いので、追記・更新していきます^^

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レキシル編集部

> 都市伝説好き様

確かにその通りですね・・・!
まだまだわかっていないことがたくさんあるのが魅力を倍増している気がしています。

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