卑弥呼は、日本という国ができ始めたころ、つまり今から2000年近く前の時代に「邪馬台国」というクニに存在していたと言われる、倭国(当時の日本)の国王です。卑弥呼は当時の魏という国、現在の中国と関係を持ち、親魏倭王の金印、銅鏡百枚、刀や真珠など数多くの貴重なものを頂いていました。
さらに卑弥呼は鬼道と呼ばれる、占いなどの術も得意で、卑弥呼が亡くなった後には国をしっかりと治められないほどに卑弥呼は鬼道を用いた国の統治に成功していたと言います。
卑弥呼は生まれた年も亡くなった年も、墓についても、どんな顔であったかについても全くわかっていない、そんな謎の多い人物です。彼女は邪馬台国に住み、倭国を鬼道により統治していた、という情報しか存在しない程です。
しかもその情報は「魏志倭人伝」という、卑弥呼が存在していた時代に中国に存在した魏という国が編纂した書物にしか記載されておらず、卑弥呼に関する情報だけでなく邪馬台国の場所に関する情報に関しても詳細は記載されておらず、大まかな情報しかありません。
しかし、その「魏志倭人伝」のおかげで卑弥呼が魏に使いを派遣、いわば朝貢を行っていて、かつ邪馬台国の政治はヤマト政権のように租税が存在し、卑弥呼の弟が実権を握る政治を呪術面で卑弥呼がサポートしていたということも知ることができます。限られた情報ではありますが、人物性に関してはある程度のことはわかる、そんな人物です。
今回は、そんな卑弥呼の魅力に惹かれ学校の勉強を忘れて関連書物を読み漁った筆者が解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
卑弥呼とはどんな人?
名前 | 卑弥呼 |
---|---|
誕生日 | 不明 |
生地 | 不明 |
没日 | 不明(242~248年頃) |
没地 | 不明 |
配偶者 | 未婚 |
埋葬場所 | 諸説あり(後に記述) |
子女 | 台与(卑弥呼死去後、国を治める) |
卑弥呼の生涯をハイライト
卑弥呼の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 出生は不明だが、40年続いた倭国大乱の後、189年前後に卑弥呼と呼ばれる女子が倭国の王として即位
- 鬼道をもって大衆をまとめる
- 何度か新羅に使者を派遣する
- 232年に倭国が新羅に侵入し、新羅の王都である金城を包囲、しかし、新羅の抵抗に遭い、1000人以上の倭軍の兵士が亡くなる
- 238年から239年に卑弥呼直属の家来・難升米を魏に派遣し、金印と銅鏡100枚を皇帝から授かる
- 242年から248年の間に卑弥呼死去、死因は不明
卑弥呼が書かれていた書物「魏志倭人伝」とは?
「魏志倭人伝」とは、当時中国にあった国、魏が著した書物で、その「魏志」の中の「倭人」に関する伝えが記されている部分を「倭人伝」と呼びます。
この書物には、
- 倭人とは、帯方郡(当時の朝鮮にあった中国の一部)から南東に海を渡ったところにある国の人々
- 卑弥呼は邪馬台国に居住している
- 卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる占いを行って国を治めていた
- 卑弥呼に夫はいなく、弟が国家統治の助けをしていた
- 卑弥呼が死去した際には、倭人が直径百余歩にも及ぶ大きな塚(古墳)を作った
等の卑弥呼に関する事柄が詳細に記載されています。
卑弥呼に関する中国の書物は幾つか存在しますが、邪馬台国に関して詳細に記述された書物は世界中を見てもこれのみであり、卑弥呼が存在し、邪馬台国という国があったという唯一の証拠です。
卑弥呼の時代の倭国はどんな様子だった?
卑弥呼の時代の倭国は、大変荒れていました。「魏志倭人伝」によると、当時の倭国は卑弥呼が即位するまで男性が代々王の座を受け継いでいたところ統治が上手くいかず、倭国の中で大変な騒乱が起こっていました(倭国大乱)。
しかし、倭国の中の邪馬台国から卑弥呼が即位すると、鬼道などを用いることで倭国の情勢は安定し、中国にも朝貢を行っていました。卑弥呼の死後一度男性の王を立てると再び騒乱が起こりましたが、卑弥呼の後継者たる女性の国王を立てると、安定したのです。
卑弥呼の時代はどんな時代?近年わかってきた真実に迫る!【出来事、経済、文化なども紹介】
卑弥呼が治めていた国「邪馬台国」ってどんな国?
邪馬台国は、卑弥呼が居住していた倭国の都の国のことを指します。魏志倭人伝には当時の朝鮮半島にあった国から邪馬台国に至る道程が記されていますが、それによれば、邪馬台国は朝鮮半島から東に1000里ほど海を渡ったところにあったとされています。
邪馬台国の政治には古代日本と同じように租税や賦役の制度が存在していました。また、男子はみな身体に入墨を施し、髪型も男子は髷、女子はざんばら髪のように特殊な風俗感もありました。
卑弥呼はなぜ魏に使いを送ったの?
当時卑弥呼は、「朝貢」という形で魏に使いを送っていました。近世の日本でも朝貢貿易を時代がありましたが、朝貢とは「その周辺の国の中で最も権力のある国に対して周辺諸国が貢物を献上する」という意味を指します。これは、権力のある国に対して貢物を献上してその返礼を受けることで外交秩序を築くという目的があります。
やはり自分の国が外国から攻められてしまっては大変ですから、朝貢することで外交を築き上げようと卑弥呼は思ったのです。
卑弥呼は占い「鬼道」を使って国を治めていた
卑弥呼は「鬼道」という呪術的なものを使って国を治めていたことは有名な話です。しかし「鬼道」という言葉は書物上の記述にすぎないため、その言葉が具体的にどんなものを指しているのかには諸説あります。道教と関係があるのではないか、邪術ではないか、はたまた神道ではないか…。
一番の有力説としては、鬼道を「呪術」と解すことで、卑弥呼はシャーマン(超自然的存在)であり、男性が行う政治を霊媒者として補佐していたのではないか、という考えがあります。これによれば邪馬台国は政治と神事の二元的な政治が行われていたということになり、その後の古代日本政治にもつながるのです。
人前に一切姿を見せない秘密主義
卑弥呼は女王に君臨すると、部屋の中にこもるようになり、そこで鬼道を操っていました。人前には一切姿を見せず、会うのは実の弟と、食事を運ぶ給仕1人だけだったと伝えられています。
そのため、女王となってから卑弥呼を見た人は極端に少なかったようです。また、卑弥呼の住む宮殿は楼観(物見櫓のようなもの)や城柵で囲まれており、建物内に入ることができる人も限られていました。
お墓の大きさは150m!100人の奴婢を殉葬
卑弥呼は240年代に亡くなった説が有力であるとされていますが、卑弥呼が亡くなった際、約150mの大きさにもなる墓が造設されたという記述があります。この時代は埴輪が導入される前であったので、卑弥呼の埋葬とともに奴婢100人ほどを一緒に殉葬しました。
卑弥呼が埋葬されたとされる墓は大きな塚であり、円墳や前方後円墳のような形をしていたのではないかと推測されていました。これらの情報をもとに奈良県桜井市の「箸墓古墳」が卑弥呼の墓なのではないかという説が挙げられています。
卑弥呼の功績
功績1「魏に使いを送り、金印や銅鏡100枚などを授かる」
卑弥呼は238年に自らの臣下である難升米を魏へと派遣しました。この際に魏の王様から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授けられます。この史実を元に卑弥呼が倭国の王であるという知らしめを全国民へと広げることにも成功したのでした。
一方で「日本書紀」を執筆した本居宣長は「『魏志倭人伝』に記載されている、卑弥呼が魏へ使者を派遣し、金品を授かり、倭王としての称号を得たという内容は受け入れられない」と批判しています。当時、倭国よりもはるかに高度な文明をもっていた魏が朝貢国の策略に騙され、金印や銅鏡を与え、倭国の王としての太鼓判を押すことはあり得ないと結論づけたのでした。
功績2「70年以上に続いていた王座を巡る戦争を終わらせた」
卑弥呼が倭国の国王として即位するまでの間、40年から70年に渡って内乱が続いていました。男の首長たちが国王の座を狙っての覇権争いを繰り広げていたのです。その最終章で一際大きな内乱が起こり、このことに懲りた人々が卑弥呼を女王として君臨させたのでした。
卑弥呼は鬼道と呼ばれる呪術を用いて世をうまく治め、卑弥呼が国を統治している間は争いが起こらずに平穏な日々が続いたそうです。しかし、卑弥呼の亡き後は再び男の国王が誕生し、以前のように内乱の絶えない世の中になりました。
卑弥呼にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「卑弥呼は日本の神様、天照大神である」説
皇室の祖先神であり、この日本を築き上げたとされる天照大神(天照大御神)ですが、天照大神は女性であるとされており、また、須佐之男命(スサノオノミコト)と月読命(ツクヨミ)という弟がいたことから、伝記に記載されている卑弥呼の状況と重なります。
あくまで伝説ですから100%そうであると言い切ることはできません。しかし、日本の国史である古事記・日本書紀にそのような記載があるとわかってしまったからには、何か関係があるのではないかと考えてしまいます。
都市伝説・武勇伝2「卑弥呼は天皇の妻、神功皇后である」説
第14代天皇である仲哀天皇の皇后であり、日本初の摂政であるとされている神功皇后ですが、実はこの人物が卑弥呼なのではないかという説もあります。魏志から卑弥呼に関する記述を引用して、日本書紀では神功皇后と卑弥呼が関連するのではないかと推測させる記述があるのです。
江戸時代まで長い間その説が有力であると信じられていましたが、実は時間の隔たりがありました。卑弥呼が活躍していたのは3世紀前半であったのにも関わらず、神功皇后の夫である仲哀天皇のご時世はだいたい4世紀であると推測されているのです。この説は時系列が曖昧であるので、現在では少数説とされています。
都市伝説・武勇伝3「卑弥呼の墓は箸墓古墳である」説
生まれた年も亡くなった日も不詳な卑弥呼ですが、その埋葬場所である古墳の場所もわかっていません。そんな中、日本最古級の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか、という説があります。これは箸墓古墳の築造年代が不明であったために提唱されていました。
しかし、卑弥呼の没日が242~248年とされているにも関わらず、箸墓古墳の成立年代は3世紀末から4世紀前半とする説が有力となってきていることから、時系列にずれがあることにより、こちらの説は少数説とされています。また、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の古墳の規模・様式とも差異があるのです。
都市伝説3「卑弥呼の死と皆既日食が関係している?」
卑弥呼は242年から248年の間に亡くなったとされていますが、247年から248年にかけて皆既日食が起こったことと卑弥呼の死を関連づける研究結果を日本の天文学者たちが発表しています。
247年の3月と248年9月に北部九州で皆既日食が起こったことが指摘されており、研究者たちは247年の皆既日食で魔力の弱まった卑弥呼が殺され、248年の皆既日食で卑弥呼の代わりに男の国王が即位したと結論づけました。
しかし、現代の綿密な測定によると、邪馬台国の付近では皆既日食ではなく部分日食に留まっていることが分かっており、卑弥呼と皆既日食との関係性は都市伝説程度に収まっています。
卑弥呼の生涯歴史年表
189年「卑弥呼、女王となる」
正確な情報は存在しませんが189年頃に卑弥呼が邪馬台国の女王となりました。それ以前は男性の王が国を統治していましたが、国内で内乱が続き、卑弥呼を立てることで治まったといいます。
232年「新羅侵入」
232年、倭国は新羅に侵入し、新羅の王都であった金城を包囲しました。しかし軽騎兵率いる新羅王の前に倭軍は太刀打ちできず、千人もの捕虜と死者を生んだといいます。
239年「卑弥呼、難升米を初めて魏に派遣」
239年、卑弥呼は初めて自らの家来を魏に送ります。この時派遣された人物が難升米という人物であり、彼は魏から「親魏倭王」と書かれた金印と銅鏡100枚を皇帝から賜りました。これにより、魏より倭国の女王であることを承認してもらったのです。
240年「帯方郡より使者が倭国に訪れる」
240年、前年の派遣の返答として、魏の使いが倭国を訪れました。この時卑弥呼は皇帝からの詔書や正式な印綬を賜ったのです。
247年「狗奴国との戦い」
247年、邪馬台国と敵対していた倭人の国、狗奴国との戦が始まりました。この時卑弥呼は載斯や烏越を帯方郡に派遣し戦の開始を報告。一方で魏は張政を倭に派遣、239年に初めて派遣された難升米に詔書や黄幢を授与しました。
240~249年「卑弥呼死去」
240~249年頃卑弥呼が亡くなりました。これにより男性の王が即位しますが、ここで再び内乱が起き、その後卑弥呼の後継者である壱与という女性が即位することで治まったと言います。
287年「倭軍が新羅に攻め入る」
当時倭国は食料に困窮していたため、新たな土地を探そうと新羅に郡を派遣し、新羅を火攻めにしました。この時新羅兵を千人程度捕虜としたと言われています。
卑弥呼の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
卑弥呼‐真説・邪馬台国伝‐
漫画という特徴を最大限に活用した本。卑弥呼が卑弥呼になる前からの生涯を、喜劇的な場面も交えながら面白くストーリーが展開していきます。今までの卑弥呼のイメージを払拭し、新たな「卑弥呼観」が生まれるかもしれません。
【真説】日本誕生Ⅰ卑弥呼は金髪で青い目の女王だった!
題名が独創的であるように、本の中身も独創的です。今までの卑弥呼に対する思い、考え、概念全てが覆され、自分の中の卑弥呼が変わります。しかし本に説得力があるので、納得も容易にでき、かつ価値観の変化を楽しむこともできます。
学習漫画 日本の伝記 卑弥呼 邪馬台国のなぞの女王
まさかの子供向けの学習漫画、と驚くかもしれませんが、やはり学習漫画はわかりやすく簡潔に書かれているという点で、卑弥呼という人物を広く浅く素早く知ることができます。一度この本を手に取って読んでから、さらに深堀している書物を読む、というのも良いのではないでしょうか。
おすすめの動画
【衝撃】日本の消された空白の150年。卑弥呼と邪馬台国、謎の四世紀
この動画は、まず邪馬台国がどのような国であったかを広く簡潔に紹介し、動画の中盤から、題名にもある卑弥呼と邪馬台国の関係性を、卑弥呼が神功皇后であるという説の観点から考察しています。卑弥呼の人物性・生涯・彼女自身の謎をサッと学ぶことのできる動画です。
「卑弥呼」踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】エグスプロージョン
この動画では、卑弥呼がどのような人物であったかを、ダンスを取り入れた音楽の中で簡潔に説明しています。しかし、説明と言っても結局は謎の多い人物でありましたので、それを笑いに変えて結局は何が言いたいのかわからないという芸風のいわばお笑い動画となっています。
おすすめの映画
卑弥呼
この映画は、卑弥呼の人物としての物語を語った唯一の映画となっています。しかし内容は歴史的に述べられているものではなく、どちらかというとその風俗性を無理矢理映画にしたように感じるストーリーです。当時の風俗を知る分には十分に素晴らしい映画です。
関連外部リンク
- 卑弥呼は神功皇后だと日本書紀にはある
- 邪馬台国と卑弥呼とは〜天照大神との関連性と卑弥呼の可能性〜
卑弥呼についてのまとめ
卑弥呼という人物については伝記が少なく、さらには古事記・日本書紀も卑弥呼の時代から数百年経ってから著されたために卑弥呼に関する記述が曖昧であるという状況の中で、卑弥呼は謎が多い人物とされています。
しかし、邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述や、諸説存在する学説から卑弥呼の人物性を推測することに卑弥呼の面白さがあるのです。鬼道によって倭国を治めていたといっても、その鬼道が何なのか、卑弥呼が即位しただけで戦乱が治まったといっても、具体的に何をして治まったのか、そのような記述のない事柄に関して想いを馳せることに意味があるのです。
この記事をきっかけに、卑弥呼に関してさらなる学説や書物を読んで学んで頂きたいと思います。
邪馬台国の人々の寿命
『魏志倭人伝』で「その人は寿考、或いは百年、或いは八、九十年。」とあるのは、中国の例を見てくると平均という意味ではなく、そこにいる方の最高齢の方に百年あるいは八、九十年の人がいるという意味です。
漢の時代の地方行政の報告書を「集簿」と呼びますが、「八〇歳以上と六歳以下の人数、九○歳以上と七○歳以上の受杖人の人数」を地方の行政官は調べあげて報告するようになっており、倭国に赴いた使者も、これらを報告したと思われます。
伊湾漢墓は江蘇省連雲市で見つかったものですが、そこから出土した1号牘(とく)から出土した「集簿」では、下記のような数字が挙げられています。
1. 男子:706,064人、女子:688100人
2. 年80以上:33,871人、6歳以下:262,588人
3. 年90以上:11,670人、年70以上受杖:2,823人
高齢者が意外と多い気がします。倭国でも同様な人口比だったでしょう。ちなみに受杖人とは、国家に功労があった方でその証として杖を頂いた方です。
『魏志倭人伝』の文章について、「寿命というものは人々の平均を表しており、百年というのはあり得ない」、あるいは「倍歴」だと主張される方が多いですが、古代中国や多分日本でも寿命という時は、その地域の最高齢の方の年齢を謂っていたと思います。
天の岩屋戸
「天の岩屋戸」での真っ暗闇の世界の出現の出来事は、日食が原因でしょうか。
247年3月24日の皆既日食は、九州の西方海上から中国大陸にかけて18時25分から32分にかけて見られました。248年9月5日は日の出前の5時30分頃から能登から東北を通り、本州の東に抜けます。邪馬台国・卑弥呼とはまるで関係ありません。
それは火山により起こされたものであることは明確です。私もそれに遭遇した経験があります。火山の噴火が起きると、空一面が雲に覆われ、地上は闇に閉ざされます。
1984年私がバンドンに駐在していた時でした。朝起きると真っ暗闇で、とっくの昔明るくなっていなければならない時間なのに真っ暗闇で一体何が起きたのか分からなくていたら、メイドが近くのバンドンの西にあるガルングン火山が爆発したというニュースをラジオが伝えていたと知らせてくれました。朝食を終えて暗闇の中を事務所の方にライトを付けたジープで向っていたら、空から灰のようなものがフワフワ落ちてきて、フロントガラスにたちまち積り始めました。それをワイパーで除きながら進んでいくと、灰が路上に積もり始めるととともに、徐々にではあるが空が明るくなってきました。事務所に着いた時は、それでもまだ夕方のような明るさで、机の上の灰を下にかき落としたことを覚えています。
一大国
『魏志倭人伝』では、壱岐の島を「一大国」と表していて海北の島々には「一大率」が置かれたとされています。しかし「一大」は「一支(いき)」の間違いであろうと考えられる研究者が殆どですが、私は以前紹介させて頂いた『淮南子』に示された「大人国」から来たものと考えます。陳寿は、『魏略』で「一支国」としてあったものを、『魏志倭人伝』では「一大国」に替えています。それなりの理由があったものと思います。
「大人国」は、「貫いて」という言葉が島々を刺し抜いていく状態を示しているように、対馬や壱岐の島々のことを示しています。紀元前2世紀から後1世紀頃にかけて長崎県の西部、佐賀県北部、奴国(博多)、壱岐、対馬、韓国の南部には赤色の糸島式祭祀土器が分布しており、これらの地域が一つにまとまった国であったと思われます。これらの国を総称して「大人国」といい、壱岐の島は一大国だったと考えられます。『魏志倭人伝』の時代は、これより2世紀後になりますが、まだ「大人国」の時代の記憶が残っていて、「一大国」という表現になったと思われます。
対馬の形
対馬をみると、南北に長い島で、真ん中の浅茅湾で狭くなっていて、くびれがみられます。縦状の北の島状は上県(かみあがた)郡で、同じく縦状の南の島は下県(しもあがた)郡で、これが何故「方四百余里四方」と四角い形で表現されているのでしょう。不思議です。これは1辺が400里の正方形という意味です。
この理由は、中世までに描かれたどの古地図をみても、対馬は地図では横長の浅茅湾を上と下の島が「コの字」の形をして挟むように描かれていて、西海岸の村は挟まれた浅茅湾の上下に描かれているためです。
この謎を早稲田大学の黒田智さんが解かれています。「地図上の浦と現在の地名を照らし合わせてみたところ、東海岸と浅茅湾にはたくさんの浦がきわめて正確に記載されている一方で、西南海岸の浦は順番も場所もいい加減に書かれていました。地図の製作者にとっては、東海岸と浅茅湾だけが重要だったらしいのです」と書かれています。
どうも古代の航海者は、東海岸を通って航海することを常としており、西側の情報が少なく、対馬を「コの字」になった楕円形のように思っていたようです。
無アクセント地帯
方言の基礎は、日本では弥生時代に出来たと云われています。方言には、語彙、音韻など様々なファクターがありますが、その中でもアクセントは長い年月をかけても型の明瞭さを維持すると云われていますし、弥生時代の勢力図を表しています。
九州の分布図をみると、北九州と豊前・豊後では中国地方と同じ東京式アクセントが行われていて、かってこの地域が出雲の勢力圏にあったことを示しています。また島原半島、熊本沿岸部や鹿児島では特殊なアクセントが行われています。これは狗奴国と投馬国として生きる肥人と隼人が、本来同じ南方系等の同じ人種であることを示していると思われます。これらの地域は、女王国あるいは邪馬台国の範囲からは除かれます。
もっとも重要なのは長崎北部、奴国、阿蘇の山岳地域、日向の海岸地域から都城にかけての九州の中間部では、崩壊アクセントか曖昧アクセント地域になっていることです。その原因は明瞭な別々のアクセント基があったが、弥生末の戦乱による混乱と統一国家樹立でその基礎を失ったものと言うことが出来るでしょうし、地域間の交流が部族に関係なく行われたことによる崩壊とも考えられます。
この地域には、奴国から南に下った魏使が邪馬台国に至る際に通過した、北部九州の国々や21ヶ国がぴったりその中に入ります。つまり女王国あるいはその連合国家の地域ということになります。
吉野ケ里
吉野ケ里遺跡は、佐賀県の東部にあり、弥生時代における非常に重要な遺跡です。しかし魏の使者はこの地に寄りませんでした。それには理由があります。
『後漢書東夷伝』の西暦107年の記事に「安帝永初元年、倭国王師升等生口百六十人を献じ、請見を願う」とあります。これが吉野ケ里の記事です。
『後漢書』では「倭面上国王師升」とあり、『通典』では「倭面土(地)国王師升」とあることから、この「倭の面土」というのが地名を表していると思われます。この「面土」というのは、上古音や中古音では「メタ」と発音するのが一般的です。そしてそれは、佐賀の目達原(めたばる)あるいは米多(めた)郷とある吉野ケ里であることは確かでしょう。
吉野ヶ里遺跡では、防御柵が壕の外側に設けられるという異常な環濠、内郭がありますが、ここに生口が厳重な監視のもと収容されていたと思われます。160人程度の人たちを収容するに丁度良い広さがあり、出入りをチェックするゲートもあります。
160人の生口を後漢に送るとすると、戦だけでは足りず近隣のどこかから人さらいのようにして無理やり集めるしかなかったと思います。結果として泣き叫ぶ160人の生口を贈られた王朝は、この面土国に好感を持たなかったと思います。それはその見返りが歴史書に記載されていないことから分かります。漢王朝の怒りを買い、そしてそれがこの面土国の衰退に繋がっていったのではないでしょうか。
狗古智卑狗
「狗古智卑狗」については、『倭名類聚抄(和名抄)』に「くくち(久々知)」が「菊池」に注釈されるとして、熊本県北部の菊池地方の豪族のことだとされる方が多いようです。
しかし「狗」と「古」では音が違い、「くくち」と綴ることは不可能です。これは「狗奴国の古智(こち)彦」とするのが素直な解釈でしょう。「卑狗」は「彦」です。
狗奴国が九州の西側の熊本県中部・南部~鹿児島県北部に位置していたと考えると、「古智(こち)」はこの南側の地域に多い「川内」地名との関連が考えられます。
《八代市》敷川内(しきがわち)、《芦北町》大川内、道川内、川内、添川内、榎川内、鷹川内(たかごうち)、桑川内、榎木川内、《球磨村》河内谷、大川内、添川内、《水俣市》:宝川内、小野川内、招川内(まんば)、《伊佐市》小川内、大口小川内、石井川内、《山江村》内河内谷、内川内谷、《出水市》下大川内、上大川内、白木川内、《いちき串木野市》河内、《阿久根市》鶴川内、上川内、《薩摩川内市》戸川内、上川内、川内(せんだい)川、《姶良市》西川内、松川内、浦川内
呼び方の「かわうち/かわち/こち」は、状況に応じて簡単に変化があるものであり、この川内(河内)地名がある範囲が「狗古智卑狗」=「狗川内彦」が支配していた地域であり、この人物が狗奴国を代表する官となったのではないでしょうか。
帯方郡からの使者の船
南インドの崑崙船は、戦国時代頃から中国の沿岸に姿を見せはじめ、紀元前112年に漢に滅ぼされた南越には崑崙船の造船所があったと言われています。それを参考に中国船自体の改良が行われ、広州の造船所で作られた船は崑崙船クラスでした。
3世紀、東南アジアから帰国した康泰の『呉時外国伝』(『太平御覧』巻769、舟部2)には、扶南国の船(崑崙船)が記録されています。「扶南国は木を伐って船をつくる。(木は)長さ12尋(約23m)、広さは肘6尺(約3m)となり、頭尾は魚に似て、鉄鑷(てつじょう。毛抜き状の鉄板)を以って露装す。大なるは百人を載す。人は長短の橈(かい)と篙(さお)各々1あり。頭より尾に至り、面に50人あり。或は42人、船の大小に従う。」かなり大きな船で、小さな船しか知らない倭人は、この船を見て度肝を抜かれたと思われます。帆は、大型のものが2反ありました。
漢代に入ると船には面白い特徴がみられるようになります。船を魚になぞえ、必ず「目玉」を船の先に描いていることです。邪馬台国時代の使者の船では、それが見られたでしょう。
不明21ヶ国
斯馬国以下のいわゆる不明21ヶ国については、陳寿が引立てられた張華の『博物志』に載せてあったあいまいなものをそのまま記載した、あるいは特定する力がなく無視している研究者が殆どです。しかしこの21ヶ国の位置を知ることが、この邪馬台国の旅程問題を解決する最も重要なポイントです。
邪馬台国の横に(次に)斯馬(しま)国があり、邪馬台国が南にあるとしたら、この21ヶ国は縦方向に北に向かって繋がっているはずです。そして当然のことですが、出発点を奴国にして逆に南に順序に従い下がれば、邪馬台国の位置も判明するはずです。
奴国の次に、烏奴国(おな国:大野)があります。次が支惟国(きい国:基山)です。このように南行すれば、最後に斯馬国(しま国:都城:島津の名前の発祥地)に至ります。倭人伝は非常に正確に当時の九州の地名を残しています。面白いのは、宮崎市は「伊邪国」ですが、伊邪ナギ、伊邪ナミがそこで活躍し天照大神をもうけた地であることから、自分達の名前としたと思われることです。
朝鮮半島の陸行
邪馬台国論争で、帯方郡からジグザグに韓半島を南下しこの狗邪韓国まで陸行した図を示す方がおられますが、私は韓国の南に長く住んでいたことがあり、その経験からはそれは不可能と思います。中世の朝鮮では、商売をする人が他の地域に移動することがまま行われていました。その時山に入る時に持っていける食料はせいぜい5日分であったようです。それが無くなるとそこで野垂れ死ぬ人が多く、村では無縁仏として葬られたという記録を拝見したことがあります
朝鮮半島の南部には小白山脈があり、高さが約1,000m近くあり、その中を往来することは非常に困難です。朝鮮半島の山は、岩と松だけで、水も食料を提供できる村もありません。古代では海を利用し移動するのは、安全で短期間で目的地に到達できる便利な方法でした。
対馬海峡の潮流
以前、韓国から連絡があり、釜山の潮流観測用のブイが流され、それが福岡県の神湊(こうのみなと)の沖の大島に着いて、それを大島の役場で保管しているので、回収する協力をして欲しいとの依頼がありました。そこで国の機関の担当者と一緒に大島に渡り、ブイを博多港に運び、無事にカメリアの定期船に載せて釜山に送り返すことが出来ました。釜山と大島の位置関係をみると、ブイは対馬海峡を直角に横断したことになり、対馬海流はどうなっているのか疑問に思いました。
実はこの海峡には、恒流(一定の方向に流れる対馬暖流の北流)と潮流(潮の干満による潮の流れ)の2つの流れがあり、これが航行の決定的要素になっています。潮の干満により潮の流れが、1日に2回北流したり、南流したりしています。日本海の方に北流することを「下(さ)げ潮(干潮)」、東シナ海の方に南流することを「上(あ)げ潮(満潮)」といいます。そのため古代では、とにかく目標に向かい直進するよう船を漕ぐことが求められました。
港でのチェック
中国からの船は、松浦の呼子に上陸します。そこでのチェックは国交を承認している国の符の有無を調べます。符は通行証です、使者はこれを持ち他国に赴きます。
また簡牘(かんとく)というものがあります。これは役人が出張時に用いるもので、誰々が何日にこうゆう目的でその地に赴くので、何日間の食料と経由地での宿泊先を用意して欲しいということが書かれた書簡です。魏の使者の場合、帯方郡の長である太守が書いたと思います。この正式文書がなければ、古代はどの国も食料が不足していますので、役人といえども旅行することは不可能でした。これを港で確認し、役人はそれを必要な先々の村に通知したと思います。しかし書体や字体が違うとか偽の署名がされているとかの問題もあったようです。人物さえ信頼されず、年齢とかその人物の特徴まで記したものもあります。役人は、それをそれまでの経験も踏まえて、厳重にチェックしていたでしょう。
万二千里
『淮南子』は、前漢の時代、淮南王の劉安(紀元前179年~前122年)が賓客方術の士数千人を招致し編纂した思想書です。この巻5時則訓に、「五方位。東方の極は、喝石(けっせき)山より朝鮮を過ぎ、大人の国を通って(貫いて)、東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野に至る。(中略)その地は、一万二千里ある。」とあります。榑木、青丘の樹木の野とは倭国を指します。この時に倭国が一万二千里の場所にあるということが初めて出てきます。この文章は、架空の世界を描いたものという方がおられますが、非常にリアルなものです。
「大人国」は、「貫いて」という言葉が島々を刺し抜いていく状態を示しているように、対馬や壱岐の島々のことを示しています。一大国の別の表現です。この一万二千里が、帯方郡から女王国への距離に使われています。慣用句的ではあるが、実際の距離に合っています。
可について
魏志倭人伝に「方可四百余里」という表現があり、「四百余里ばかり」と訳されています。「余」があるのに「ばかり」では、何かおかしいです。古代中国での「可」の原義は、『新版、漢語林』では「呵・歌や河・柯・軻などのような、「かぎがたに曲がる」の意味を共有するものが多い」となっています。つまり四百余里四方という表現が本当です。倭の国の「周旋可五千余里」は、倭の地が五千里四方の島ですという意味になります。「可」の字は、直線での距離では使いません。戸数でも「余」と「可」が同居しています。「可七万余戸」ですが、これは締めくくるということで、そこまでで七万余戸ということで、邪馬台国全体の人口は、島々と九州全体で7万戸余りということです。
「次に〇〇国有り」
「次」という字は21ヶ国を挙げる時に使われています。この字は、最初軍隊用語として使われ「行軍途中での軍隊の小休止」、「泊まる」という意味であったものが、次第に物を順序つけて並べる意味が強くなります。つまり21ヶ国は、勝手な場所に別々にあるのではなく、1日行程の範囲で連続したルート状につながっていることを表しています。
『翰苑』は大宰府天満宮に伝世されていた唐の張楚金の撰、雍公叡の注の書物です。ここには、「邪は伊都に届(いた)り、傍(かたわ)ら斯馬(しま)に連なる」、「伊都(いと)国に到る。また南して邪馬台国に至る」とも書かれていて、伊都国の南側に邪馬台国が位置していることも述べられています。この途中の国々が21ヶ国です。
水行1日千里
道教経典の叢である『正統道蔵(しょうとうどうぞう)』の「太清金液神丹経(たいせいきんえきしんたんきょう)」や後漢丹陽の太守の万震が書いた『南州異物志』には、航海の距離について一日千里、一昼夜二千里と示されています。当時の航海記録は、ほぼこれに沿い書かれています。何昼夜航行したとかで距離を推定します。目的地に着けば、それで1日の航海が終わります。正確な距離は関係ありません。よく短里、長里で何kmとか唱える方がいますが、古代の人々はそんなことは考えていません。
船の速度については、船首に木片を海に落として、それが船尾にどの位で着くかで決めていましたが、速い遅いは感覚でした。
邪馬台国への旅程を探るには、古代の中国での旅行記(出張報告書)の2段階での記載方法が役に立ちます。古代中国では、まず(出発地)A~B~C~D~E(目的地)というように旅行した順番に風物等を記載します。その順番に従って距離や日数を示すので、分かりやすいですね。次に総括として、出発地Aから目的地Eが、どの方向にあり、どれだけ行った所にあるかを示します。
報告をもらった人の立場になると、いつの時代でもこの2段構成で全体像を掴みたいと思います。研究者と称する人が、連続式として奴国まで行ったあと投馬国に行き、それから邪馬台国に行くという永遠に長い行程を考えたり、伊都国から放射式に各国に向かうというような説を唱えるなどは、小学生のレベルであると分かります。
京藤一葉様
ご連絡がありませんでしたので、皆さんに本当の邪馬台国そして卑弥呼について知って頂ける機会が出来ませんでした。このブログには、まだ興味がある方々が来られています。そこで、この方達に邪馬台国について考える際のヒントを出して、皆さんが間違いなく邪馬台国に行きつけるように、時々コメント欄にヒントを書くことをお許し下さい。
今までの考古学者が以下におかしく、方向がずれ過ぎていたかが、掴んでもらえると思います。
とってもすごい人だよねー
わかる
徐福の上陸地について日本各地が候補にあがっていますが、その殆どの地が修験道の聖地です。本当は、大倉集古館と国立公文書館に保管されている2枚の地図にはっきりと明記されています。誰も調べないのがおかしいですね。
邪馬台国の件もそうです。中国の古代の旅行記の書き方、日本の古代の言葉、三国史の時代の船の水準等々、何故調べないのでしょう。それでは同じように百家争鳴となるのは当然です。私としてはこれをきちんと整理したうえで、邪馬台国の位置を探りました。魏の百歩(145m)の墓がある横には、約130人の殉葬慕があります。If you want to know that, please contact me. I’ll send you about an 100 pages of manuscript for free by e-mails.