山本五十六はどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因、映画や本などの関連作品も紹介】

山本五十六にまつわる逸話

逸話1:「モナコのカジノで勝ちすぎで出入り禁止になる」

ギャンブルに強かった五十六

山本五十六記念館には、彼が愛用したギャンブルグッズが展示されていますが、五十六の博打好きは有名でした。好きを通り越してとにかく強く、博打に関する名言も多く残っています。

軍艦購入費の一部をカジノでなくした部下のために、五十六は自らモナコへ行き、その費用を取り返したそうです。2、3年遊ばせてくれたら戦艦の1〜3隻作る金ができると豪語していたと言われ、モナコのカジノ協会では山本五十六を日本人で初めて出入り禁止にしました。

逸話2:「愛人とのデートには薔薇の花束」

薔薇の花束をもって逢瀬に

山本五十六には愛人が何人かいたと言われています。中でも芸者であった河合千代子とは太平洋戦争中もたくさんの手紙をやり取りがあったようで、現在もその一部の書簡が残っています。

千代子とのことではドラマのような話が伝わっています。薔薇の花束に「この花びらが散るころを見ていて」と意味深な言葉を添えて贈り、千代子は開戦のニュースを薔薇の花が落ちる様を見ながら聞いたとか。戦時下でも五十六はメガネにマスク姿で変装して千代子との逢瀬を楽しんだとか。

山本五十六の簡単年表

1884年
五十六が生まれる

五十六は旧長岡藩士高野貞吉の六男として誕生しました。父が56歳の時の息子だったので「五十六」と名づけられます。

1901年
海軍兵学校に入る

海軍兵学校で、生涯の友となる堀悌吉と出会います。

1905年
日露戦争で負傷

日本海海戦に参加し、戦闘で左手の指2本を失いました。

1916年
山本家の養子に入る

旧長岡藩家老、山本帯刀の養子になり、「山本五十六」となります。

1919年
駐在武官としてアメリカ視察

英語の習得に加え、アメリカの資源、産業を見て回ります。1926年にも大使館付武官としてアメリカに赴任しました。

1934年
連合艦隊司令長官に就任

連合艦隊司令長官に任命され、対米戦について検討を始めます。

1940年
日独伊三国同盟反対

海軍首脳者会議で日独伊三国同盟に反対するも、意見は通りませんでした。

1941年
真珠湾攻撃

連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃の指揮をとります。

1942年
ミッドウエー海戦

ミッドウエー海戦を指揮するも、機動部隊を全滅させてしまいます。

1943年
ブーゲンビル島上空で撃墜

前線視察のためラバウルから出発した五十六の乗る航空機は、アメリカ軍に暗号を読まれて待ち伏せされ、撃墜されました。

山本五十六の生涯年表

1884年 – 1歳「旧長岡藩にて生まれる」

現在の新潟県長岡市

旧長岡藩士高野貞吉の六男として誕生する

五十六は4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町に生まれました。父は高野貞吉といい、高野家は代々長岡藩で儒家として活躍していました。母はミネ(峰子)といい、戊辰・北越戦争に従軍して戦死した高野貞通の実子で、貞吉は婿養子でした。

五十六の名前の由来は、貞吉が56歳の時の子供だったことからきています。この時、ミネは45歳でした。

1890年 – 7歳「小学校入学」

小学校に通う

米百俵の逸話で知られる長岡町立阪之上小学校

4月、五十六は長岡町立阪之上小学校に入学しました。この学校は米百俵の逸話で知られています。佐久間象山門下の小林虎三郎が、戊辰戦争で赤貧状態にあった長岡藩に寄贈された米百俵を、今食べるよりも売ったお金で人を育てるべきだと主張し、設立された國漢学校を前身としています。

小学生時代はとにかく負けず嫌いだったようで、「なんでも食べると言っても、鉛筆は食べられないだろう」とからかわれると、鉛筆にかじりついたという逸話が残っています。

聖書と英語との出会い

五十六が4〜8歳頃、長岡にはアメリカン・ボードの宣教師H.B.ニューエルが住んでおり、五十六は長岡教会の日曜学校に通っていました。ニューエルに出会い、聖書に触れたことで、五十六は信仰の道には進まなかったものの、キリスト教を深く理解するようになりました。聖書は手元に置いていたようで、山本五十六記念館には英文で書かれた五十六の新約聖書が遺されています。

1896年 – 13歳「中学校入学」

長岡中学校に通う

志郡立長岡中学校の創設に関わった三島億二郎

五十六が入学した古志郡立長岡中学校は、前身が1872年創立の長岡洋学校です。旧長岡藩の復興のため、将来の人材育成を目的に建てられた学校で、佐久間象山の門下生であった三島億二郎が創立に関わっています。

五十六は中学生時代、野村貞という伯父の影響を受け、海軍軍人を志すようになります。野村貞は戊辰・西南戦争に従軍し、日清戦争で抜群の武功を挙げました。旧長岡藩出身者で初の海軍将官であり、旧薩摩藩出身者が多い海軍において堂々と振る舞うその姿にも憧れたのかもしれません。

また、甥にあたる高野力が病死したことも、軍人を目指すきっかけになったとも言われています。両親が、「病弱で軍人への夢が果たせなかった高野力に代わって、五十六が立派な軍人になってくれたら」と話したことが生涯のトラウマだったという説です。

1901年 – 18歳「海軍兵学校」

堀悌吉との出会い

前から2列目、左から3番目が 堀悌吉 、5番目が五十六

3月に長岡中学校を卒業後、12月16日に海軍兵学校へ入学し広島県江田島へ向かいます。五十六は32期生で、200名中2番で入校しました。同期には、生涯の友となる堀悌吉のほか、嶋田繁太郎(太平洋戦争時の海軍大臣)、吉田善吾(五十六の連合艦隊司令長官の前任者)、塩沢幸一(養命酒製造を手がける塩沢家の息子)がいます。

1904年11月14日、卒業生192名中11番で海軍兵学校を卒業しました。

1904年 – 21歳「海軍軍人としてのスタート」

バルチック艦隊の戦艦オスリャービャ

日露戦争開戦

2月、日本海軍による仁川・旅順港奇襲攻撃で日露戦争が始まります。

海軍としては、旅順のロシア艦隊を叩くことが目標でした。2月と3月に旅順港閉塞作戦を実施、そして8月にはロシア旅順艦隊、ウラジオストック艦隊との交戦が行われ、旅順艦隊の殲滅に成功しました。甚大な犠牲を払い、旅順は1905年1月2日に陥落します。

ロシアは10月、ヨーロッパにいたバルチック艦隊を旅順へ差し向けました。喜望峰を周って日本海へたどり着くのは7ヶ月後になります。

1905年 – 22歳「日露戦争で負傷」

装甲巡洋艦「日進」

「日進」の乗組員となる

1月3日、装甲巡洋艦「日進」の乗組員となります。当時「日進」は連合艦隊司令部直率となっていた第一艦隊の第一戦隊に組み込まれていました。

5月27日、日本海軍とバルチック艦隊が激突し日本海海戦が起こります。五十六の乗り込んでいた「日進」は、第一戦隊の最後尾にいました。しかし”東郷ターン”と呼ばれる一斉回頭で日進は一時先頭を進むことになり、多数の砲撃を浴びたのです。

これにより、「日進」は多くの死傷者が出ます。五十六もその一人で、左手の人差し指と中指を失い、右下腿部に大やけどを負います。

五十六本人は砲撃によって怪我を負ったと話していますが、指の怪我に関しては砲身の自爆の可能性も指摘されています。長時間砲撃を続けると、砲身自体が焼けて、硬度が衰えて自爆することがあるのです。この時に五十六が着ていた、血痕の後が生々しい軍服が、長岡市の如是蔵博物館に遺されています。

1910年〜1911年 – 27〜28歳「海軍大学校(乙種)入学」

海軍三羽烏が出会う

12月、海軍大学校(乙種)に入学します。海軍大学校の乙種は、高等科へ進む前の教養課程です。五十六はのちに海軍大学校の甲種にも通います。

1911年5月、海軍大学校乙種を卒業したその日に海軍砲術学校高等科に入学し、12月に卒業しています。その後は海軍砲術学校教官兼分隊長、海軍経理学校教官となりました。

この時の同僚が、五十六と”肝胆相照らす仲”とも言われた米内光政です。教官時代は同じ部屋で生活していたようです。また、学生として井上成美もいました。後に対米戦争回避のために動いたこの三人は、「海軍三羽烏」「海軍省トリオ」とも呼ばれるようになります。

1913年 – 30歳「両親の他界」

両親が相次いで亡くなる

父と母を亡くす

2月21日、父である高野貞吉が85歳で亡くなります。母ミネも夫の看病で体調を崩しており、五十六は夏季休暇を利用して帰省し付き添っていましたが、夫の後を追うようにミネも68歳で他界します。

1916年 – 33歳「「山本」五十六の誕生」

山本帯刀(義路)とされる肖像画

旧長岡藩士山本帯刀の養子になる

9月20日、五十六は元長岡藩家老山本帯刀(義路)の養子となり、家督を相続します。山本帯刀は、長岡藩家老河井継之助と共に戊辰北越戦争で新政府軍を翻弄した人物です。

帯刀は戦の最中捕えられ、23歳という若さで斬首されました。先に戦死していた河井継之助と共に北越戦争の首謀者とされ、家名断絶となっていました。しかし明治になって赦免になり、山本家を再興しようと、優秀な五十六が後継に推されたようです。

1918年 – 35歳「礼子との結婚」

山本五十六と妻・礼子

旧会津藩士の娘を娶る

海軍兵学校時代からの親友、堀悌吉の勧めで、三橋礼子(レイ、禮子)を妻に迎えます。旧会津藩士三橋康守の三女で、23歳でした。

この結婚についてはいろいろな逸話が伝えられています。五十六が自分の経歴や長所・短所を書き出した手紙を礼子に送ったとか、結婚前に三橋家に行き、服を脱いで日露戦争で負った傷跡を見せた上で、この結婚を承知してくれるか確認に行ったとか。

結婚しても公務が忙しくて妻子は放ったらかしになるかもしれないし、公務には口を出して欲しくないので、それを約束してくれたら結婚して欲しいと伝えたという話もあります。

1919年〜1920年 – 36〜37歳「米国駐在」

1919年のアメリカ

米国駐在武官となる

1919年4月5日、アメリカ駐在武官に任命され、5月20日に横須賀を出発しました。アメリカでは語学習得の目的でハーバード大学に留学しましたが、出席したのはたった2日間で、アメリカの実地見学に多くの時間を割きました。石油の重要性を認識していたので、油田の調査も行っています。

また、五十六が航空に注目するようになったのも、この頃からのようです。1914〜1918年まで続いた第一次世界大戦には航空機が登場し、戦争の様相が大きく変わっていました。アメリカ駐在中、五十六は、海軍軍備には航空が必須と強く意識するようになります。

1921年 – 38歳「ワシントン会議に参加」

ワシントン会議

ワシントン海軍軍縮条約の締結

5月5日、アメリカより帰朝の命令を受け、7月19日に帰国します。

11月12日にはワシントン軍縮会議に海軍側随員として参加しました。ワシントン会議は欧米や日本が海軍力を拡大させるために行っていた建艦戦争を止めるためのもので、各国の主力艦の比率を規定し、戦艦保有を制限しました。ここで決められたワシントン体制により、東アジア・太平洋地域の安定が図られました。

1924年 – 41歳「航空に転科」

空母「鳳翔」

日本の航空発展に向けた活動

3月に欧米視察から戻った五十六は、海軍省の副官の話がありましたが断り、9月には霞ヶ浦航空隊所属となります。12月には副長に任命されました。この時に副長付となったのが三和義勇です。

航空整備の必要性を唱えていた五十六でしたが、航空機に関する知識も技術も持ち合わせていませんでした。すでに40歳を過ぎているにも関わらず、五十六はここで航空の学習に多くの時間を割きます。人を育てるには自らがやって見せなければならないという五十六の信念が伝わってきます。

空母といえば1922年に完成した「鳳翔」一隻しかありませんでした。1923年3月5日に日本人が初めて着艦に成功していますが、空母への着艦は現在でもかなりの技量を必要とする難しいものです。当時は着艦できる搭乗員は天才だけだとされていました。

しかし、着艦が天才しかできないのであれば、戦力になりません。五十六は、搭乗員の多くが着艦できるように、訓練方法を改善し始めました。

1925年〜1926年 – 42〜43歳「アメリカ赴任」

霞ヶ浦航空隊跡地

大使館付武官に任命

1925年12月1日、アメリカ在勤帝国大使館付武官に任命され、1926年1月21日、横浜を出発しました。この際、五十六の教え子ともいうべき霞ヶ浦航空隊は、五十六の乗船している「天洋丸」上空を飛び、爆撃訓練を演じて見送っています。

五十六には人を魅了するカリスマ的な側面がありました。異例ともいうべき航空隊の見送りが行われれた例を見ても、五十六が後輩たちに慕われていたことがよくわかります。

アメリカ滞在中は、石油や自動車、航空機などの視察を行い、この経験がのちに対米戦の戦略を練る際の材料となりました。1926年11月15日に帰国命令が出され、1927年3月5日に日本へ戻っています。

1928年 – 45歳「航空本部」

空母「赤城」

海軍軍令部に出仕

アメリカから帰国後、五十六は3月15日より海軍軍令部に出仕しています。軍令部は、作戦目標を立てて立案する仕事をしています。平時では仮想敵国に対する作戦立案をする部署でした。

「赤城」艦長に任命される

12月10日、空母「赤城」の艦長になります。「赤城」は当時多段式空母で、航空機の重要性を認識していた五十六は、連日のように訓練に勤しみます。

1929年〜1930年 – 46〜48歳「ロンドン海軍軍縮会議随行」

ロンドン海軍軍縮会議

ロンドンへ出張

11月12日、ロンドン海軍軍縮会議全権随員としてロンドンへ行きます。ロンドン海軍軍縮会議とは補助艦に関する海軍軍備制限についての会議です。イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、日本が参加しました。

日本側の全権は首相経験もある若槻礼次郎、海軍大臣財部彪ら4名でした。五十六は随員という立場だったので発言権はありませんでした。

1930〜1933年 – 47〜50歳「本格的に航空に関わる」

ロンドン海軍軍縮会議

1月7日、ロンドン海軍軍縮会議の日英予備交渉が始まります。1月21日にはロンドン海軍軍縮会議が開会しました。4月22日ロンドン海軍軍縮条約が締結され、イギリス・アメリカ・日本の補助艦総保有比率が10:10:6.975と決まりました。

1921年のワシントン海軍軍縮会議においては主力艦保有比率が話し合われましたが、ロンドン海軍軍縮会議で扱われたのは、主力艦の護衛艦となる巡洋艦、駆逐艦、潜水艦についてでした。

浜口雄幸

この当時、日本は協調外交、軍縮の方針を打ち出していました。海軍部内で”艦隊派”と呼ばれる加藤寛治軍令部長は、対米7割の保有比率は確保したいと強硬に主張していましたが、政府に抑え込まれてしまいます。これに怒った艦隊派は、条約調印は統帥権干犯であると非難したのです。

統帥権とは、大日本帝國憲法において天皇大権として規定されている軍隊の作戦・用兵権のことです。これは、海軍であれば統帥機関である海軍軍令部の補佐の元に発動される権利で、政府も介入できないとされていました。

ただし兵力量の決定においては天皇の編制大権とされ、内閣の補弼事項だったのですが、艦隊派はそれを拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するものだとして、政府を攻撃します。

これには、時の内閣であった浜口雄幸内閣の協調外交に不満を抱く勢力も同調することになり、浜口雄幸首相は1930年11月、東京駅で狙撃されて重傷を負い、内閣総辞職に至ります。この一件で軍部は統帥権の独立を理由に軍事問題に対する政府の介入を拒み、勝手に行動するようになるのです。

海軍航空本部

堀越二郎

12月1日、海軍航空本部技術部長に就任し、2年10ヶ月の間、日本海軍航空機の発展に力を尽くしました。英米の艦上戦闘機よりも速い航空機の開発を目指します。これがのちに傑作機と言われた九六式艦上戦闘機です。零戦の愛称で知られる零式艦上戦闘機の生みの親、堀越二郎が設計に関わりました。

技術者から、艦上戦闘機の速力を上げると、現在ある航空母艦では飛行甲板の長さが足りず、離着陸できないと相談を受けると、航空母艦を飛行機の性能に合わせて改造するから問題ないと答えたという話があります。五十六の航空機に対する方針が、のちに零戦を生む下地を作ったとも言えるでしょう。

第一航空戦隊司令官

1933年10月3日、五十六は第一航空戦隊司令長官に任命されます。日本海軍の航空戦隊です。

軍令部の独立

1933年、海軍軍令部条例と省部事務互渉規定改定が行われています。これは、軍令部の権限強化を図るものでした。陸軍ではすでに軍事を司る参謀本部は陸軍省から独立していましたが、海軍では海軍省の元に軍令部が所属していました。これを陸軍と同様に軍令部を独立させようとしたのです。

この背景には、ロンドン海軍軍縮会議で軍令部の主張が通らなかった一件がありました。今後このような事態にならないために、軍令部が打った策だったのです。

陸軍は、参謀本部を独立させたために、すでに軍事に対する政治のコントロールが効かない状態になっていました。海軍も同様の状況にするのは良くないと、軍務部第一課長であった井上成美は断固反対しましたが、最終的には伏見宮博恭王が軍令部部長の職をかけて海軍大臣を押しきりました。

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