1941年 – 58歳「真珠湾攻撃」
ハワイ攻撃の立案
1月7日、五十六は及川古志郎海軍大臣に書簡を送り、ハワイ攻撃を進言しています。「戦備ニ関スル意見 覚」と題された手紙には、対英米戦を想定した戦備、訓練、作戦方針、開戦時に採るべき主作戦計画要項が書かれていました。真珠湾にいる米軍を航空部隊で強(奇)襲し、初日に勝敗を決する覚悟で臨むという作戦です。
五十六はこの真珠湾攻撃案を、第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎にも伝えています。そしてこの作戦を実行するためにはどういう方法をとるべきか案を出すように話しています。大西は五十六と同じ航空主兵論者でした。神風特別攻撃隊を創った一人として知られ、のちに「特攻の父」とも呼ばれます。
2月、大西は第一航空戦隊参謀であった源田実に作戦計画案を作るよう依頼し、源田の素案に大西が手を加え、3月初旬に五十六へ提出されます。そして連合艦隊司令部の首席参謀、黒島亀人らによって成案され、4月10日に軍令部へ提出されます。
源田実は戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、戦後は航空自衛隊に入り、ブルーインパルスを創設します。東京オリンピックで空に五輪の輪を描く案を出したのは源田実です。
連合艦隊司令部の首席参謀であった黒島亀人は、この大西案を成案にするために裸で部屋に篭っていたと言われています。部屋を出るときにはシャツを着せるよう従卒が気にかけていたほど、変人ぶりは有名でした。日露戦争で活躍した奇人、参謀の秋山真之を意識していたのではないかとの説もあります。
五十六は、黒島が変わった物の見方をする点を気に入り、傍に置いていました。しかしこの黒島重用に関しては、批判的な意見もあります。
黒島は連合艦隊首席参謀時代から、体当たり攻撃(のちの特攻)の案を出していました。真珠湾攻撃でもその話が出ましたが、五十六は、兵が帰ってこられない作戦は認められないとして一蹴しています。五十六の死後、黒島は軍令部第二部長に就任しますが、これが海軍特攻の契機になったとも言われます。黒島は、五十六の下にあってこその参謀だったのかもしれません。
世界で初めて空母を主体とした艦隊の誕生
4月10日、連合艦隊が再編成され、第一航空艦隊が誕生します。統一されていなかった航空兵力の指揮系統を一本化し、艦隊司令長官の元に集めたのです。世界的に見ても、航空戦力の重要性がようやく一部に理解されようかという時代で、日本はその先駆けとなる航空艦隊を作りました。
司令長官には南雲忠一、参謀長には草鹿龍之介、航空参謀に源田実が就任します。南雲忠一は水雷を極めた軍人ではありましたが、航空に関しては素人同然だったようです。しかし海軍の”年功序列”によって航空艦隊司令長官になります。航空作戦に関しては実質的に参謀の源田実が仕切っていました。
連合艦隊の再編成は、真珠湾攻撃のために行われたものではありませんでしたが、結果的にハワイを攻撃するのに最適な機動部隊が誕生することになりました。五十六の真珠湾攻撃作戦は、一歩現実味を帯びることになります。
日ソ中立条約
4月、松岡洋右外務大臣は、ソ連のモロトフ外相と日ソ中立条約を締結します。領土保全・不可侵と中立友好を定めました。日本は南進政策を固めていたことと、ソ連はドイツと日本の両面攻勢を避ける目的で締結されました。この条約によりアメリカは、日本が南進政策を進めることに一層警戒するようになります。
南部仏印進駐
7月2日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」に基づき、7月28日に南部仏印進駐が始まりました。
アメリカは報復措置として、在米日本資産凍結、対日石油輸出の全面禁止を実施します。イギリス、オランダ、中国もこれに追随し、いわゆるABCD包囲網(America,Britain,China,Dutchlandの頭文字)で対日経済封鎖を行ったのです。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、これは大打撃でした。経済的な理由で屈服するよりは、アメリカと戦争して事態を打破したいという軍部の主張が高まり始めます。
戦争回避の手立て
対米戦争一直線のように見える事態ではありましたが、昭和天皇も近衛文麿首相も、あくまで日米関係の改善を望んでいました。そのため、駐米大使野村吉三郎が4月より日米交渉を進めています。しかし南部仏印進駐により、この交渉も暗礁に乗り上げていました。
五十六も対米戦の立案もする一方で、戦争を回避することを考えていました。対米戦反対派の米内光政を軍令部総長にする方策です。しかし米内光政は1940年に首相指名された際、予備役に編入しており、現役復帰をするのは難しいという事情がありました。
五十六は、対米戦の方向で動きつつも、戦争が回避できればいつでも軍を反転させて帰る覚悟で臨むことになります。
真珠湾攻撃案が採用されるまで
五十六とは別に、海軍軍令部では6月頃から作戦計画の立案をしていました。「漸減邀撃作戦」と呼ばれる、戦艦を中心とする海戦で、太平洋でアメリカ艦隊を叩きのめすという作戦です。
これは日露戦争でロシア艦隊を撃滅した時の戦法でした。ある意味、海軍はあの時の勝利体験から逃れられずにいたとも言えます。しかし、日露戦争の日本海海戦の時とは違い、太平洋は広く、またアメリカを待っていてはいつになるかわからないという問題がありました。
一方、五十六の提示した真珠湾攻撃については、危険すぎるとして反対する者が多くいました。日本海軍にとって虎の子とも言える空母を全て失うことの危惧はもちろん、そもそもこのような奇襲作戦が成功するのかと不安視する声が多かったのです。
9月、五十六は極秘裏にハワイ作戦特別図上演習を行います。第一航空艦隊は戦果を挙げるも空母全滅という判定結果でした。この時五十六は、南雲艦隊長官に、実戦ではこのように全滅することはないと声をかけています。
しかしこの演習結果から、第一航空艦隊の首脳部は、作戦反対の意思を強くします。10月3日、草鹿龍之介と大西瀧治郎が代表して五十六の元へ直談判へ行きました。真珠湾攻撃はあまりにも投機的すぎること、それよりも米航空兵力が増強されているフィリピン航空撃滅作戦を行いたいと伝えます。
五十六は、日本本土が焦土となることを防ぐためには、ハワイ作戦はどうしても実行しなくてはいけないと、断固たる決意を伝えます。この五十六の姿を見て、大西はもはや実行以外にないと腹を決めます。草鹿も五十六の信念を受け入れ、従うことを誓うのです。
対米戦が始まったら東京は何度焦土と化すだろうかと、五十六はかなり早い段階から危惧していました。真珠湾攻撃以降も五十六はハワイ攻略作戦にこだわりますが、その背景にはアメリカの日本本土爆撃を避けたい五十六の思いがあったようです。
10月5日、草鹿は南雲長官に談判の様子を伝え、ハワイ奇襲作戦の実行へ向けて計画の完成を目指します。この段階で連合艦隊としての方針はハワイ攻撃と決まったのです。
一方、軍令部は依然としてハワイ攻撃を容認していませんでした。10月9日、五十六は首席参謀の黒島亀人を軍令部に派遣します。
黒島は、「この案が採用されなければ、山本長官は連合艦隊司令長官の職を辞すると伺っている」と伝え、この恫喝に永野修身軍令部総長が屈する形でハワイ奇襲作戦は正式採用となりました。
ハワイ奇襲作戦の問題と相前後して、10月6日海軍首脳会議が開かれていました。及川海相など海軍省側と、軍令部側の永野修身総長らが対米戦に対する海軍の意見を話し合いました。この時点でも海軍としては陸軍の開戦論には反対する方針だったのです。戦争をすれば負けるというのが海軍の共通認識でした。
しかし永野だけはその意見が揺らいでいました。どうにか勝てるかもしれないという根拠なき思いがあったのです。及川海相が、陸軍と喧嘩になる覚悟で撤兵交渉をするという発言をすると、「それはどうかな」と否定的な声をあげ、海軍は不戦を明言できなくなりました。
東条英機内閣発足
10月に入ると、日米交渉は”デッドロック”に至ります。そのため陸軍は、対米戦を開始すべしと要求し始めます。近衛文麿首相は、アメリカが要求している日本軍の中国からの撤兵を陸軍に求めますが、全く聞き入れられません。このような事態に近衛文麿は政権を投げ出してしまいました。
代わって組閣したのは東条英機でした。現役の軍人による内閣発足に、アメリカは日米交渉の妥結見込みがないと考えるようになります。
開戦へ秒読み段階に入る
11月1日と2日に行われた政府連絡会議で、開戦準備と対米交渉を並行して進めること、12月1日までに交渉妥結に至らなければ、戦争に突入することが決められます。
11月5日、永野軍令部総長は五十六に対し、作戦命令を下しました。連合艦隊は出撃準備を命じます。
13日、連合艦隊の各艦司令官、参謀長、作戦参謀を集めて最後の会議を行いました。この席で五十六は、対米交渉成立となったら、即刻引き上げるように命じています。南雲長官が、一旦出撃してから引き返すことなどできないと言うと、「100年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁止する。即刻辞表を出せ。」と言い放ったといわれています。
11月17日、大分の佐伯湾に真珠湾攻撃参加の機動部隊が集結し、五十六の長官訓示が行われました。
真珠湾攻撃は奇襲であるため、作戦計画の秘匿が絶対でした。機動部隊の艦船は、日時をずらして出港し、11月22日に択捉島単冠湾に集結します。五十六は機動部隊に参加せず、山口県柱島に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」にいました。
開戦決定
12月1日、御前会議が行われました。奇襲攻撃が12月8日と決まります。開戦が決定し、五十六は東京へ向かいました。12月3日には天皇に拝謁しています。
最期の別れを告げる
上京中、五十六は親しい人々にそれとなく別れを告げています。12月2日には親友、堀悌吉と会っています。3日には自宅へ戻り、家族との最期の時を過ごしました。
堀悌吉には、五十六は以前から手紙で心情を伝えていました。10月11日の手紙には、自分の意思とは逆の、開戦の方向に向かっていることについて、「誠に変なもの」で、「之も命というものか」と述べています。
真珠湾攻撃
12月2日、連合艦隊司令部は山本五十六司令長官名で機動部隊に「新高山登レ一二〇八」を打電します。これは、12月8日午前0時を期して戦闘を開始せよという命令の暗号文です。12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)、攻撃機の発艦が始まりました。
五十六は柱島に停泊していた「長門」の作戦室にいました。無線電信室から「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」の報告が届きます。真珠湾奇襲第一撃は成功したのです。
この第一撃で真珠湾に停泊中のアメリカ艦艇の多くを撃沈させ、爆破していましたが、石油タンクやドック施設はほとんど無傷でした。そのため、第二撃を求める声も多くありましたが、南雲長官は攻撃を指示しませんでした。
連合艦隊司令部でも、敵信の傍受から真珠湾でのアメリカ軍が混乱に陥っていることがわかったため、五十六から南雲へ攻撃指令を出すべきではないかという意見も挙がりました。しかし五十六は南雲に任せると答え、きっと南雲はまっすぐ帰るだろうと呟いたといわれています。
遅れた最後通牒
真珠湾攻撃の際に五十六が神経を尖らせていたのは、アメリカへ「対米覚書(最後通牒)」を手渡すタイミングでした。真珠湾攻撃は奇襲攻撃であるものの、”法にかなう奇襲”でなくてはならず、そのためには真珠湾攻撃の前にアメリカ国務長官へ最後通牒が手渡されなければならないからです。
しかしワシントンの日本大使館は、この覚書の重要性を認識しておらず、覚書が書かれた電報が届いたのが土曜日だったこともあり、大使館員たちは覚書の清書もせずに帰宅してしまったのです。
五十六が最後通牒を手渡すよう指示していたのが12月7日13時で、その30分後に真珠湾では第一弾投下を予定していました。しかし準備が間に合わず、野村駐米大使がハル国務長官に最後通牒を手渡したのは14時20分。14時5分の時点でハル国務長官はすでに日本軍のハワイ攻撃を知っていました。
五十六は、真珠湾攻撃によってアメリカ国民の戦意を削ごうとしていましたが、アメリカへの最後通牒が遅れたがために、真珠湾攻撃は騙し討ちと化し、逆にアメリカ国民の戦意を盛り上げてしまったのです。「リメンバー、パールハーバー」の合言葉のもと、アメリカ議会は対日戦を決議しました。
五十六の望む「早期決戦、早期講和」の道は、初っ端から崩れつつありました。
次期作戦計画
本来、海軍の作戦立案は軍令部が行っていました。しかし真珠湾攻撃に関しては五十六が強硬に主張して実行を承諾させます。結果的にその作戦が当たってしまい、これ以後連合艦隊の作戦計画が軍令部でスムーズに受け入れられるようになります。
日本海軍は作戦を第一段と第二段に分けて考えていました。第一段攻撃は真珠湾攻撃、フィリピン、マレー、香港などの攻略で、1942年3月に完了予定でした。南方の資源確保が目的です。
第二段攻撃についてはミッドウエー攻略などは内示されていましたが、具体的に決まっておらず、これを詰める必要がありました。
12月9日、五十六は次期作戦計画案としてセイロン島攻略、ハワイ攻略、オーストラリア北部進攻、ミッドウエー島攻略の4つの作戦について研究を命じます。
五十六は、ハワイ攻略によってアメリカの戦意を喪失させ、戦争を終わらせることを考えていました。ハワイ攻略のためには、日本とハワイの間にあるミッドウエー島の占領が不可欠だったのです。
1942年 – 59歳「運命のミッドウエー海戦」
暗号解読
1月20日、ポートダーウィン沖で沈没していた日本の潜水艦がアメリカによって引き上げられました。この潜水艦に残されていた暗号関係書類がアメリカの手に渡り、これ以降、日本の暗号は解読されるようになります。
作戦の対立
海軍軍令部の方針は南方資源地帯の確保が最優先でした。そのためにアメリカとオーストラリアの分断作戦を主張していました。オーストラリアはアメリカの足場であったからです。
一方、連合艦隊司令部はハワイ攻略を計画していました。五十六は軍令部を納得させるため、フィジー・サモア・ニューカレドニア諸島の攻略も作戦に組み入れ、案を提出します。それでも軍令部は受け入れず、最終的には「五十六が職をかけて案を通す」という態度で連合艦隊案が決定しました。
五十六はあくまでハワイ攻略のためのミッドウエー攻撃というスタンスであり、ミッドウエーを具体的にどう攻めとるかについては首席参謀の黒島亀人に任せていました。しかしこの作戦案は、敵の調査を怠ったまま成案した、信じられないものでした。海軍の勝利が続き、驕りがあったのです。
ドーリットル東京空襲
4月18日、五十六の恐れていた事態が起こりました。アメリカ航空母艦から発進した爆撃機により、日本本土が空襲を受けたのです。東京、名古屋、神戸などで550名近い死傷者がでます。民間人の犠牲者もいたことから、日本国民の動揺は大変なものでした。
この空襲を受けて五十六は、アメリカ本土空襲を行います。アメリカも日本も、相手の本土を空襲することで国民は沸き立ったため、この戦いは戦意の昂揚のためのものでもありました。
五十六はハワイ攻略を急ごうと考えます。
珊瑚海海戦
第二段作戦としてポートモレスビー攻略作戦を展開中、アメリカ機動部隊と、南洋部隊であった第四艦隊、MO(ポートモレスビー)攻略部隊が交戦したのが、5月7・8日に起きた珊瑚海海戦です。空母を中心とした機動部隊が、飛行機による攻撃で互いの艦艇を打つという世界初の空母決戦でした。
結果、アメリカも日本も空母を喪失、損傷しており、どちらが勝ったとは言えないものの、日本にとっては航空機とともにベテラン搭乗員を多く失う手痛い一戦でした。ここで失った戦力は、ミッドウエー海戦でも投入される予定のものだったからです。
しかし日本軍は、珊瑚海海戦が善戦した戦いであったとし、さらに慢心していきます。そしてミッドウエー海戦へと進んでいくのです。
ミッドウエー海戦
5月5日、ミッドウエー海戦に関する命令が発令され、25日に連合艦隊と南雲機動部隊幹部で最終打ち合わせが行われました。五十六はミッドウエー攻略が主目的ではなく、アメリカ機動部隊撃滅が真の目的と考えていましたが、五十六の真意を南雲が理解していたかどうかは定かではありません。
27日、南雲が率いる第一機動部隊は広島湾を出撃しました。ミッドウエー海戦は150隻の艦艇、1000機以上の飛行機、そして参加将兵の数は10万人という史上稀な大作戦でした。五十六はこの大部隊を指揮官として率い、5月29日、柱島を出港しています。
この作戦は実は最初から失敗していました。アメリカは日本の暗号を解読し、連合艦隊の動きを知っていただけではなく、ミッドウエー島攻略に出向くこともわかっていました。
6月4日、大本営から五十六の元に、敵機動部隊らしきものがミッドウエー方面に行動中の兆候ありとする情報が届きます。五十六は黒島に、無線封止中ではあるものの、機動部隊の南雲に転電すべきか相談しますが、南雲の乗艦する「赤城」もこの情報を傍受しているはずだから必要ないと答えています。しかし実際には、「赤城」は空母のため艦橋が低く、電報を受信できていなかったのです。
機動部隊にとって欠かせない情報であったにもかかわらず、伝えられずに南雲は5日から作戦を実行に移していきます。
第一攻撃隊はミッドウエー上空に到達し、基地の施設への爆撃を開始します。しかし滑走路の破壊は不十分だったので、第二次攻撃を「赤城」司令部に打電します。そのため艦上攻撃機につけていた艦艇攻撃用の魚雷から、陸上攻撃用の爆走に転換する作業に入ります。
一方、暗号解読により日本軍の動きを読んでいたアメリカ軍は、日本の空母に奇襲をかけようと突き進んでいました。南雲は空母襲来の報に接すると慌てて魚雷装備の再転換を指示します。
そんな中、ミッドウエー島攻撃を終えた第一次攻撃隊が戻ってきます。甲板に並んでいた兵装転換直後の第二次攻撃機を格納庫へ下さなければなりません。甲板は大混乱に陥りました。
アメリカ艦上攻撃機は、日本の機動部隊を見つけ、攻撃態勢に入ります。日本の零戦隊はアメリカ戦隊を撃墜し、空母も魚雷を逃れるための操艦を続けますが、「赤城」「蒼龍」「加賀」の三空母は奇襲を受け、火災がおきます。戦闘不能になったため、南雲は「長良」に移乗しました。
「大和」にいた五十六の元に「赤城」火災の知らせが入ると、五十六は南雲部隊の雷撃機が発艦しているかどうかを確認しようと黒島に話します。雷撃機さえあれば、敵空母の撃沈も可能だったからです。
しかし黒島はまたしても五十六の意見を聞き入れませんでした。黒島は、雷撃機は予定通り発艦しているだろうと答えたのです。実際は五十六の予想が当たっていました。空母は米軍の爆撃で甲板に待機していた攻撃機の燃料に引火、大火災を起こし、反撃の暇はなかったのです。
唯一残った空母「飛龍」は、攻撃隊を発進、魚雷を命中させアメリカ空母「ヨークタウン」を撃沈します。しかし「飛龍」も、アメリカ空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の急降下爆撃機の襲撃を受け、戦闘能力を失います。
「飛龍」は自沈し、日本海軍は空母4隻を失ったのです。重巡洋艦「三隈」も沈没、損失した航空機は250機にのぼり、「ヨークタウン」を撃沈した友永丈市をはじめとする有能な搭乗員100名も含め、約3500名が戦死しています。6月5日のことでした。
五十六のいた「大和」を旗艦とした連合艦隊は、南雲機動部隊の後方約555キロの位置にいたため、救援に駆けつけることはできませんでした。「赤城炎上」の報告を聞いた時、五十六は渡辺専務参謀と将棋を指していたと言われます。
「飛龍」被弾と火災の知らせを聞き、五十六は6月6日に作戦の中止を命じました。参謀の黒島は、ミッドウエー海戦敗戦の原因は南雲と草鹿にあると批判的でしたが、五十六は全ての責任は自分にあると言い、南雲と草鹿も処罰せず、新設した第三艦隊に所属させました。
これ以後、五十六はハワイ攻略という自らの作戦を主張することもなく、軍令部の作戦指示通りに動くことになります。それは、自らが望む形での和平交渉の道が断たれたこと、敗戦は避けられないという結末を予期していた故の、五十六の気力を失った姿だったのかもしれません。
ガダルカナル作戦開始
ミッドウエー海戦の次に五十六が立ち向かったのはガダルカナル作戦でした。海軍軍令部は、ガダルカナルに基地を設営しようとしていました。
ガダルカナル島の戦いは死者2万人(餓死者1万5000人)ともいわれる大きな犠牲を払ったことはよく知られていますが、そもそも陸軍がガダルカナル島にいるアメリカ軍が偵察部隊だと思い込んでいたことが悲劇の始まりでした。五十六は、ガダルカナルのアメリカ機動部隊の上陸作戦は偵察でなく本格的なものであり、陸軍の見立ては間違っていると考えていたようですが、ミッドウエー海戦の敗戦以来、五十六が軍令部に意見をすることはなくなっていました。
南太平洋海戦
陸軍のガダルカナル島上陸作戦を成功させるため、海軍も支援に動きます。8月16日、南雲が率いる第三艦隊が日本を出発、五十六も「大和」で17日に出撃しました。この日五十六は故郷に「あと百日の間に小生の余命は全部すり減らす覚悟に御座候」と伝えています。
南雲の機動部隊は8月24日、第二次ソロモン海戦に臨みます。この頃戦艦「大和」で、トラック島から出撃する航空機や駆逐艦に帽子を振りながら見送る五十六の姿が目撃されています。9月、五十六は「若人ら 死出の名残の一戦を 華々しく戦ひて やがてあと追ふわれなるぞ」という一文を書いていますが、五十六の死の覚悟が垣間見えるようになります。
10月26日、ガダルカナル島飛行場を占領するため、南太平洋海戦が行われます。連合艦隊の、五十六の最後の勝利となった戦いとして知られていますが、日本軍の損害も甚大でした。
確かにこの海戦でアメリカの空母を殲滅し、一時は稼働空母が全滅しましたが、それと引き換えに日本も空母を失っただけでなく、零戦を含む航空機100機余りとともに、100名以上の熟練パイロットを失います。
1943年 – 60歳「五十六の最期」
ガダルカナル島撤退作戦
1942年12月31日、御前会議でガダルカナル島からの撤退が決まりました。撤退作戦は連合艦隊が行います。五十六は、兵士を一人でも多く連れて帰ると宣言し、あらゆる艦艇を使って、手段を尽くして行うことになりました。
2月に駆逐艦で撤退作戦を行い、1万1000人の兵士を連れて帰っています。アメリカ軍は日本軍の撤退に全く気づかず、数日後ようやく日本兵が全くいないことを知ったと記録にあります。
第三段作戦
海軍では軍令部主導の第三段作戦が進んでいました。五十六は、戦線を縮小すべきと考えていたようですが、軍令部は第二段までの積極的展開作戦をやめ、ビスマルク諸島、ソロモン群島、ニューギニアの占領地区死守を目標としていて、戦線は拡大したままでした。
「い」号作戦
連合艦隊は、空母の艦載機と基地の航空兵力で、ガダルカナル島とニューギニアのアメリカ軍戦力を叩く「い」号作戦を行います。
五十六は4月3日にトラック島からラバウルに入り、7日に作戦が開始されました。16日に作戦が終了するまで、五十六は日々攻撃に行く機体を直立の姿勢で見送り、帽子を振り続けたと言われています。そして4月18日、五十六は前線視察に赴くのです。
海軍甲事件
五十六の視察は危険すぎると多くの司令官が反対しました。しかし五十六の意思は固く、強行することになります。
4月13日、五十六の巡視計画が前線に電報で送られます。五十六の行動予定が長文で綴られており、暗号を解読していたアメリカにとっては、願ってもない情報になりました。日本軍は、アメリカに暗号を読まれているとは考えていませんでしたが、それにしても長官の行動を仔細に電報で送ること自体、油断しすぎていると言わざるをえません。
アメリカ側には五十六の情報が筒抜けだったので、五十六襲撃を検討し始めます。しかし、五十六の搭乗機を撃墜することは、アメリカが暗号を解読していると日本に教えるようなものでした。また、五十六亡き後、もっと優秀な軍人が連合艦隊司令長官につけば、アメリカに不利になります。実際に五十六の搭乗機を撃墜すべきか、アメリカでも悩んだことが記録に残されています。
しかし山本五十六という人間が戦死することは、日本国民にとって大打撃となること、優秀な海軍軍人はほとんど戦死しており、五十六に代わって長官の座に就く人は恐れるに足らずという判断から、攻撃実行が決定されるのです。
4月18日6時、予定通り出発しました。一番機には五十六が乗り、二番機に宇垣纏参謀長、そして直掩として6機がつきました。
7時30分、15分後にバラレ到着予定と機長に知らされた頃、異変が起きます。アメリカ軍戦闘機24機に出くわし、五十六の乗る一番機は撃墜されるのです。炎と黒煙をあげてジャングルに落ちていく一番機を、二番機や直掩の零戦が絶望的な気持ちで見送りました。
ラバウルに残っていた渡辺安次参謀は、墜落現場付近へ長官捜索に向かおうとしますが、航空機の整備が間に合わず、スコールが激しいこともあって、捜索は19日朝になりました。
五十六を最初に見つけたのは陸軍でした。19日の夕方に発見し、五十六は座席に座ったまま、左手で軍刀を握り、右手はそこに添え、まるで「生けるがごとく」であったと言われています。
五十六の亡骸はトラック島に停泊中の連合艦隊旗艦「武蔵」に安置されていましたが、5月17日にトラック島から出港、21日に東京湾へ入りました。
国葬
五十六の死を公表することは国民に対するダメージも大きいと考え、軍はしばらく極秘扱いにしていましたが、5月21日に大本営発表として公表、6月5日に日比谷公園の特設斎場で国葬が行われました。葬儀委員長は米内光政でした。
5月21日、五十六は元帥に列せられます。
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関連外部リンク
- 山本五十六記念館公式サイト
- 如是蔵博物館
- 靖国神社 遊就館
- 長岡高校 記念資料館
- 長岡観光ナビ
- 大和ミュージアム(呉市海軍歴史科学館)
- 公文書に見る日露戦争
- 史料の中の軍人たちー知られざる素顔
- 戦史資料・戦史叢書検索
- NHK 戦争証言アーカイブス
山本五十六についてのまとめ
「戦争はよくないとわかっていながら、なぜ日本は戦争を起こしたのか?」子供の頃からの大きな疑問でした。勉強していくうちに関心を持ったのが、戦争に反対していたにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を計画、実行した山本五十六でした。
幼い頃は全く理解できなかった、五十六の矛盾を抱えた軍人人生も、私自身が年を重ねると納得できる部分も多くなりました。それと同時に、いくら戦争を避けようとしても、避けられなくなる事態が起こりうることに、決して他人事ではない恐ろしさも感じます。
山本五十六は博打が好きで、愛人もいて、決して聖人君子ではないが故に、とても興味深い人生です。五十六のあがき続けた足跡をたどりながら、太平洋戦争について、そしてなぜ戦争が起きてしまうのかを考えることができたら、五十六自身も草葉の陰で喜んでくれるのではないかと思います。