山本五十六はどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因、映画や本などの関連作品も紹介】

1934年 – 51歳「大角人事」

堀悌吉

第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉

五十六は9月7日、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉における日本代表に任命されます。9月20日、横浜を出発し、アメリカ経由でイギリスに向かいました。

この交渉は、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約が間もなく期限切れになることから、その後をどうするかというものでした。日本政府の方針は、航空母艦や主力艦の全廃と各国が兵力量の共通最大限を決めるというものでしたが、これはどの国も受け入れられるものではなく、会議は決裂します。

12月、日本はワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、ロンドン海軍軍縮条約については1936年1月に脱退しています。

堀悌吉の失脚

ロンドンにて会議の予備交渉に当たっていた五十六に、堀悌吉の現役引退、予備役編入の知らせが舞い込んできます。

いわゆる”大角人事”と呼ばれるこの一件は、海軍内の艦隊派と条約派の対立から起こりました。艦隊派とは主に軍令部にいた強硬派で、条約派とは主に海軍省側の、ロンドン海軍軍縮条約を受け入れる一派です。

軍令部は、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約で意見が通らず不満を募らせていましたが、総長伏見宮博恭王が艦隊派の後ろ盾となり、条約派と呼ばれる人たちを予備役に編入させたのです。

堀悌吉は条約派の筆頭のような立場でした。予備役に編入されたのは堀悌吉以外に、軍政家として知られた山梨勝之進や東郷平八郎の信任が厚かった谷口尚真など、対米戦回避を主張した人たちでした。そのため、この大角人事は対米戦開戦の要因の一つとも言われます。

五十六自身の考えは条約派ではありましたが、一時は艦隊派と間違えられたこともあるほど、立場を明確にはしていなかったようです。しかし親友であった堀悌吉の予備役編入に気力を失ったようで、この頃の五十六の手紙には気落ちした言葉が多く見られます。

1935年 – 52歳「休養と復活の一年」

戦艦大和

長岡で休養

2月12日、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉から戻った五十六は、9ヶ月ほどを失意のうちに過ごしています。本音では条約継続を望んでいなかった政府にとって、条約交渉を熱心に取り組んでいた五十六は、疎まれる存在になっていたようです。

一時は海軍を辞めようとも思っていたようですが、堀悌吉の説得で止まります。しばらくは長岡に戻り、静養する日々でした。母校の阪之上小学校で演説をした記録も残っています。「緊張するばかりでなく余裕も必要」「静謐な環境で勉学に励むべし」といった、軍人らしくない話もしたようです。

海軍航空本部長

12月2日、海軍航空本部長に任命されます。五十六は、これからの国防の主力は航空機になるとし、航空主兵論を唱え、艦政本部と意見を戦わせました。当時、艦政本部は新戦艦建造を計画していましたが、大艦巨砲主義時代は終わると五十六は見通していたのです。

結局、1936年7月に新戦艦建造が決定します。のちの戦艦「大和」と「武蔵」です。この2艦の建造費を、五十六の主張通りに航空機や空母の建造に使っていたなら、日米戦争の経過はかなり違っていたかもしれません。

1936年 – 53歳「海軍次官就任」

二・二六事件の中心・栗原安秀

二・二六事件

1936年2月26日、陸軍皇道派青年将校によるクーデターが起こります。軍部独裁政権を樹立し、昭和維新を断行、内外の危機を打開するという目的で首相官邸、警視庁、朝日新聞社などを襲撃したのです。

時の首相は海軍大将であった岡田啓介でした。五十六は米内光政とともに岡田の救出に当たります。この時に米内光政は横須賀鎮守府司令長官でしたが、反乱軍に対する対応が水際立ったもので、五十六は米内の手腕を高く評価したと言われています。

日独防共協定

日独防共協定

11月25日、日本とドイツは共産主義の拡大を阻止するために共同防衛措置を規定しました。付属の秘密協定では、ソ連を仮想敵国とした対策を講じています。

これを1937年11月に発展させ、日独伊三国防共協定とし、イギリスとフランスに対する枢軸体制を強化しました。のちの日独伊三国軍事同盟の母体です。

海軍次官就任

12月1日、五十六は海軍次官に就任します。海軍大臣であった永野修身が五十六の才を買って次官に推薦したと言われています。海軍次官は軍政を担う海軍省のトップ、海軍大臣の直下にいるポストです。

五十六は政治的影響力を持つ次官で、なおかつ人気があったことから、五十六の海軍次官時代は黒潮会という海軍省の記者クラブの会員が増えたと言われています。記者クラブの会員たちとの食事の席では、得意の逆立ちなどを披露して場を盛り上げたようです。

1937年 – 54歳「日中戦争に巻き込まれる」

パナイ号

米内光政の海軍大臣就任

2月2日、林銑十郎内閣が発足します。五十六は海軍大臣に米内光政を推薦するよう、前任の海相永野修身に働きかけ、実現させました。米内は海軍大臣の職を、第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣(1939年8月30日総辞職)まで担います。

10月20日、井上成美が海軍省軍務局長に就任します。米内光政、井上成美、そして五十六の”海軍三羽烏”が揃いました。

日中戦争勃発

1931年の満州事変以来、日中間の対立は激化していましたが、1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に発展します。これは陸軍が始めた戦争で、海軍は賛同していたものではなかったようですが、五十六は日中戦争収束への行動は起こしていません。

1937年 日中戦争勃発

しかし海軍も上海で海軍大尉が射殺された事件をきっかけに戦闘を始めます。8月13日、第二次上海事変が起こると、翌日から海軍航空隊による中国本土への空襲が始まります。中国奥地の軍拠点を爆撃する、”渡洋爆撃”とも呼ばれる往復二千キロに及ぶこの長距離爆撃は、大きく報道されました。

五十六は海軍次官として外交問題に携わります。12月12日に起きたパナイ(Panay、パネーとも呼ばれる)号事件もその一つです。パナイ号事件とは、中国揚子江に停泊していたアメリカ砲艦パナイ号を、日本海軍機が爆撃して沈没させた事件でした。

12月は日本軍による南京攻略戦が行われていました。そのため日本は12月8日に第三国の人たちに対し、南京から立ち退くように申し入れをしています。しかし中国軍の中には、揚子江沿岸で交戦地域外へ脱出する外国船を隠れ蓑にして撤退するものもいて、日本軍による誤認砲撃が起きていました。

パナイ号事件もその一つで、アメリカでは日本が故意に攻撃したのではないかと報道され、対日感情が悪化します。しかし日本海軍の砲撃に巻き込まれ、日本陸軍にも死傷者が出ていることから、五十六は駐日アメリカ大使への謝罪と事件検証結果の報告を早急に行い、事態を収束させます。対米戦を回避したい五十六の意思が見て取れる対応です。

1938年 – 55歳「日独伊三国同盟交渉」

日独伊三国軍事同盟締結に反対

井上成美

第一次三国同盟の交渉が始まったのは、1938年夏頃でした。イギリス・フランスとの対立を深めていたドイツは、日独伊防共協定をイギリス・フランスも対象にした軍事同盟にしようと日本に働きかけます。これに対し陸軍は積極的な姿勢を見せますが、海軍は断固反対したのです。

海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、海軍省軍務局長井上成美の三人は、日独伊三国同盟を結べば、アメリカとイギリスを相手に戦争が始まることは確実で、戦争をすれば負けると明言していました。対米戦となれば海軍が主軸なので、負けるとわかっている戦争を認めるわけにはいかなかったのです。

この陸海軍の対立は、世間にあまり知られていませんでした。しかし五十六は海軍次官という立場上、記者と話す場が多く、同盟締結反対を常に言い続けていたため、陸軍や右翼から目をつけられることになります。暗殺の危険がささやかれるようになったのはこの頃で、遺書も残していました。

1939年 – 56歳「連合艦隊司令長官」

ノモンハン事件

1939年 ノモンハン事件

5月、満州国とモンゴル人民共和国との国境で、日ソ両軍の武力衝突が起きます。この戦闘で日本は死傷者約2万人という壊滅的な打撃を受けました。陸軍はこの敗戦から、ドイツがソ連を牽制してくれる日独伊三国軍事同盟の締結を渇望するようになります。

日米通商航海条約の破棄通告

日米通商航海条約の破棄によって、日本とアメリカの貿易関係が途絶えました。これは、日中戦争を続ける日本へのアメリカの抗議の表れでもあります。五十六たちは、石油などの資源を輸入に頼っている日本が戦争を始めたところで、貿易が断たれてしまえば実質的に戦えなくなると警鐘を鳴らしていました。しかし貿易が断たれ、それが徐々に現実味を帯びてきます。

この一件により、資源を東南アジアに求めるしかないと南進論が主張されるようになります。

独ソ不可侵条約

8月、ドイツとソ連が、相互不可侵、第三国との交戦時における他方の中立維持などを規定した独ソ不可侵条約を締結します。

1939年 独ソ不可侵条約

ソ連を仮想敵国として定めた日独防共協定の存在があるにも関わらず、なぜこんな事態に陥るのかと、当時の首相平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という言葉を残して総辞職しました。

独ソ不可侵条約が結ばれた背景には、日本が海軍の反対で日独伊三国軍事同盟を結べなかった一件がありました。ドイツは、ヨーロッパで戦争が起きた際、太平洋方面の英米海軍勢力抑止として日本に期待を寄せていました。そこで日本との同盟を望んだのです。

しかし同盟が難しいと悟り、ドイツはソ連との関係改善に進みました。ドイツにとって、対アメリカが重要課題であって、そこをクリアするためにはソ連との提携もやむを得ないという判断だったのです。

幸か不幸か、独ソ不可侵条約締結によって、日独伊三国軍事同盟交渉は一旦棚上げになります。

人事異動

吉田善吾

8月30日、五十六は連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令官に任命されます。”連合艦隊司令長官”という肩書きからすると栄転のようにも聞こえますが、これは海軍大臣だった米内光政が、五十六の身を案じて決めた人事でした。平沼騏一郎内閣総辞職を受けて、米内光政も海軍大臣の職を下りますが、後任は海軍兵学校時代の同期、吉田善吾が務めました。

五十六は吉田の元で次官を続けたかったようですし、海軍省内には五十六を海軍大臣に推す声もあったようです。しかしこのまま軍政側にいると五十六は暗殺されるという米内の懸念から、連合艦隊司令長官に任命されました。

吉田善吾は第二次近衛文麿内閣でも海軍大臣を務めます。吉田も三国同盟締結には反対していましたが、最終的には外相松岡洋右の巧みな言葉に説き伏せられ、同盟締結に同意します。しかし事態は吉田が懸念した通りの対米戦へと傾き、心痛から自殺未遂を図っています。

第二次世界大戦勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

9月1日、ドイツはポーランドへ侵攻を開始したため、ポーランドと条約を結んでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦を布告、第二次世界大戦が始まりました。

阿部信行内閣は大戦不介入を表明していました。また、ドイツの破竹の勢いに三国軍事同盟の機運が再度高まりを見せる中、昭和天皇が首班は陸軍からではなく海軍の米内光政をと望まれて組閣した米内光政内閣も(1940年1月16日成立)、軍事同盟には消極的で、大戦不介入方針を貫きます。

アメリカ・イギリスとの関係改善を図りますが、ドイツのヨーロッパでの快進撃に、国内は「バスに乗り遅れるな」が合言葉となって南進論(東南アジアを攻略して資源を得ると同時に、欧米に代わって日本が「大東亜共栄圏」を築くという説)が勢いを増します。陸軍の圧力で米内内閣は倒閣するのです。

1940年 – 57歳「日独伊三国軍事同盟締結」

海軍首脳会議

9月5日、海軍大臣吉田善吾が神経をすり減らして辞任、代わりに及川古志郎が就任します。この人選は、陸軍と協調できる海軍軍人という近衛文麿首相によるものでした。

日独伊三国軍事同盟締結の記念祝賀会

9月15日、及川海軍大臣により三国同盟について話し合う海軍首脳会議が行われます。五十六も会議に参加するために上京しました。

五十六は、同盟成立となれば必ず負けるとわかっている対米戦をすることになると言います。そして連合艦隊司令長官として、戦争するなら、勝つために航空戦力を充実すべきで、そのためには年月が要ること、そしてイギリスやアメリカからの資材が入らなくなったらどう戦うのかを問いました。

しかし及川は、この五十六の発言に明確な答えはせず、とにかく同盟に賛成してもらうとの一言で会議を終えてしまうのです。

五十六は海軍の政務からは離れているため、これ以上の意見具申はできなかったようです。また、伏見宮軍令部長が同盟締結に了承している以上、その部下となる司令長官の立場では強く異議を唱えられない海軍の組織的な問題もあったと考えられます。

9月27日、日独伊三国軍事同盟は締結されました。

近衛文麿との会談

五十六は近衛文麿に呼ばれて会見を行っています。日米戦争の見通しを聞きたかったようです。この時の五十六の返答はよく知られています。

近衛文麿

「それは是非やれと云われれば初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい。」

五十六としては、できる限り対米戦を避けて欲しいけれども、開戦してしまう場合は、最初のうちはどうにかするので、戦争は長引かせず、早めに政治的な決着をつけて欲しいという意図だったようです。

北部仏印進駐

9月23日、陸軍は北部仏印進駐を開始しました。仏印とはフランス領インドシナのことで、現在のベトナム、ラオス、カンボジアにあたります。仏印の鉄道はアメリカ・イギリス・フランスが支援する中国の蒋介石政権への援助物資ルートであったので、陸軍はこれを遮断することを考えたのです。また陸軍は、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)など南方資源地帯を占領したいと考えていて、北部仏印はその足がかりにしたいという目的もありました。

結局、北部仏印進駐はアメリカの猛反発を招きます。この4日後、日独伊三国軍事同盟が締結されたこともあり、アメリカとの対立は決定的なものになりました。

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