坂本龍馬の姉「坂本乙女」ってどんな人?性格や龍馬に与えた影響とは?

龍馬の姉といえば、なぜ乙女なのか?

姉が3人いた龍馬ですが、「龍馬の姉」と言われると大抵の人がイメージするのは、やはり「乙女ねぇやん」でしょう。

そのイメージはやはり、「龍馬のエピソードに、乙女が登場する頻度がやたらと高い」ことと「”坂本乙女”という人物自体のインパクトが凄まじい」という部分に起因しているのだと思います。

龍馬のエピソードへの登場だけを例に挙げても、

  • ほとんど母代わりとして、幼い龍馬を養育した
  • 足相撲で龍馬を負かし続けた
  • 泣く龍馬を「それでも男か!」と叱りつけた

という幼少期のエピソードから、

  • 『江戸の剣術道場で腕前を褒められた』という自慢を、手紙にして乙女に送った
  • おりょうとの結婚について、乙女に相談の手紙を送った
  • そもそも龍馬が送った手紙のほとんどが乙女に宛てたもの

という成長してからのエピソードまで、龍馬の生涯への登場に事欠きません。

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龍馬が非常に乙女の事を慕っていたことがわかるエピソードですが、若干彼にはシスコン(マザコン?)のような部分があったのかもしれません。

ともかく、「龍馬の姉=乙女」という認識は、歴史に残るエピソードからも読み取れるため、ある意味で間違ってはいない認識だと言えるでしょう。

坂本乙女が龍馬に与えた影響は?

これに関しては、もはや「ほとんど全て」と言っても過言ではないかと思います。

「三つ子の魂百まで」ということわざがあるように、乙女の存在が幼い龍馬に与えた影響が、とても大きなものだったというのは間違いありません。

とりわけ武芸の分野では、乙女が龍馬に与えた影響が顕著です。龍馬が「北辰一刀流免許皆伝」の強者だというのは、龍馬に少し興味を持った大半の方が知っている事ですが、実はこの免許皆伝は、剣術ではなく薙刀術の免許だったというのはご存知でしょうか。

薙刀を得意とする乙女から武芸の基礎を習った龍馬ですので、もしかすると彼は、刀よりも薙刀の方が得意な人物だったのかもしれません。

他にも、家族に結婚の相談をしたり、やたらと筆まめだったり、そもそもその時代にしては異質な性格だったりと、乙女と龍馬の一致点を挙げていくと、もはやきりがないとすら言えるでしょう。

政治や権威といった既存の枠組みにとらわれずに、もっと大きな世界を見て、日本という国そのものを動かした坂本龍馬と、「女は貞淑であれ」という既存の価値観にとらわれず、肝の据わった価値観を押し通して坂本龍馬という英傑を育て上げた坂本乙女。

もしかすると乙女が龍馬に与えた最も大きな影響は、「既存の枠組みにとらわれない自由な価値観」なのかもしれません。

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坂本乙女とおりょうの関係性は?

坂本龍馬に大きく影響を与え、彼のエピソードには生涯を通じて度々名前が挙がる乙女ですが、龍馬の妻であるおりょうとの関係については、実は詳しいことがわかっていません。

龍馬の妻・おりょう

一般的には「不仲だった」と言われがちな乙女とおりょうですが、おりょうは晩年に「乙女さんにはとても親切にしてもらいました」という懐古の言葉を残しているのです。

「乙女と不仲だったせいで、龍馬の死後におりょうは坂本家を追い出された」と、これまでの通説では言われていましたが、本当はおりょうと不仲だったのは、龍馬と乙女の兄と義姉である権平夫婦であり、乙女はむしろおりょうの事を気に入っていたとも言われています。

ただその一方で、「乙女が、龍馬とおりょうの結婚に反対していた」という証拠や、おりょうが晩年に「夫を亡くしてから本当に親切だったのは、勝海舟と西郷隆盛と寺田屋のお登勢さんだけだった」という言葉を残していることもあり、不仲説もまだ根強く残っている状態です。

筆者個人の考えですが、多くの男気溢れるエピソードを持つ乙女が、夫を亡くして未亡人となったおりょうを無下に扱うとは思えません。様々な解釈ができるのが歴史の面白い所ではありますが、個人的には一刻も早く真実を明らかにしてほしい部分だと思います。

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龍馬の死後、乙女はどうした?

龍馬の死の直前に夫と離婚し、坂本家に戻っていた乙女は、実家で龍馬の訃報を聞くことになりました。その際に乙女が何を言ったか、何を思ったかについては記録に残っておらず正確な部分はわかりませんが、子に先立たれた親のような嘆きがあっただろうことは間違いありません。

そして龍馬の死後、乙女は歴史の表舞台から忽然と姿を消しています。坂本家については、その後もおりょうとの関係などで度々歴史上に名を表しますが、その中に乙女の名前はほとんどなく、彼女の後半生は殆ど謎に包まれています。

その後、晩年の乙女は養子に迎えた坂本直寛と共に暮らし、名前を”独”と改めたと記録されています。

そして1879年8月、壊血病にかかった彼女は、そのまま帰らぬ人となりました。壊血病にかかった原因は、当時は死病であったこれらの感染を恐れて、野菜を全く食べなかったからだと言われています。

坂本龍馬の姉・坂本乙女に関するまとめ

坂本龍馬という大器を見事に育て上げたグレートマザー、坂本乙女。

気弱で泣き虫ないじめられっ子だった龍馬が、日本という国そのものを変えるまでに至るには、「乙女ねぇやん」の存在が何より重要だったと言えるでしょう。武芸も芸術も人柄も優れ、生涯にわたって全面的に龍馬の味方として彼を支えた乙女は、きっと龍馬にとっては何よりの支えだったのだと思います。ちょっと異様な数残る手紙の山が、その信頼関係の証左です。

「龍馬との足相撲」のエピソードなど、記事では紹介しきれなかったエピソードがまだ残っている人物でもありますので、興味を持った方はぜひとも調査して、「グレートマザー・坂本乙女」のエピソードに胸躍らせてみてください。

それでは、本記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました!

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