蕪村×夏の俳句
御手討の夫婦なりしを衣替
季語
衣替(初夏)
鑑賞
ストーリー性のある俳句ということで有名なこの句は、御手討ちという異様な状況からはじまります。手討とは「主君が不始末のあった家来を自ら惨殺すること」をいいます。
夫婦の片方または双方が主君の縁者で、許されざる恋仲だったのかもしれません。そこから「衣替」という局面に転換します。この歌舞伎さながらの場面転換をになうのが「しを」の二文字です。
結果として、二人は許され、衣替ができたねというハッピーエンドを迎えました。
絶頂の城たのもしき若葉かな
季語
若葉(初夏)
鑑賞
城郭というものは、ふしぎなもので、敵兵を阻むための物理的な構造であると同時に、精神的な安堵も与えてくれるものです。身近に城郭を見て育ったという方には、よくわかる実感ではないでしょうか。
この句もそんな心持を「たのもしき」といっています。添えられているのは「若葉」。これからぐんぐん成長していく木々の緑が、城郭の漆喰や甍のコントラストに映えています。
「絶頂」も効いており、非常に勢いを感じる句です。
夏河を越すうれしさよ手に草履
季語
夏河(三夏)
鑑賞
蕪村を語る上でどうしても外せず選にいれました。だれにも語ることのない幼少期の記憶をもつ蕪村にとって、たった一つ自身の支えとしたのが母のルーツでした。
与謝という姓も母の故郷から名づけたほどです。この句は、その母の故郷・丹後で詠まれたとされています。
草履を手にもち、素足となって河を渡る爽快感を、とてもつよく感じることのできる句です。
さみだれや仏の花を捨に出る
季語
さみだれ(仲夏)
鑑賞
さみだれといえば、芭蕉「五月雨をあつめて早し最上川」、蕪村「さみだれや大河を前に家二軒」が両者の比較として用いられます。
しかしここも敢えてこちらの句を選びました。降りしきる雨の中を花を捨てる、という寂寥感のつよい句です。「仏の花」とは仏壇に供えていた花でしょう。亡くなったのは誰でしょうか。
愛しい想いがつよいほど、長くつづく慟哭……その悲嘆にさえ、雨は降り注ぎつづけています。
石陣のほとり過けり夏の月
季語
夏の月(三夏)
鑑賞
蕪村俳句の面白さの一つは、古典からの着想や故人とのコラボレーションを盛んにおこなっていることです。
この句は、「三国志」において諸葛孔明が小石を積んで陣をつくり、呉軍を窮地に陥れたくだりをモチーフにしています。その石陣のほとりをゆくとき、空には夏の月があった、という句です。
暑い日の夜に涼しさを与えてくれる「夏の月」ですが、孔明の石陣近くで見上げる月はいっそう涼しく感じられることでしょう。
飯盗む狐追うつ麦の秋
季語
麦の秋(初夏)
鑑賞
新見南吉の童話『ごんぎつね』の最後のシーンを彷彿する句です。
新見南吉は、童話作家として有名ですが、詩や俳句、短歌についても造詣が深く、半田第二尋常小学校卒業の答辞に「たんぽぽの いく日ふまれて けふの花」という句を詠んでいます。
新見南吉が、この蕪村の句から『ごんぎつね』を着想したのかどうか定かではありませんが、その可能性は大いにあったと考えられます。
もう少し、簡潔にまとめてほしい。
狐火の俳句の考察が面白かったです。参考になりました、ありがとうございます。