泉鏡花の簡単年表
明治六年の政変が起こったこの年、11月4日に石川県金沢市下新町の泉家長男として鏡太郎が生まれました。この故郷である金沢の風景や、母親との思い出は後年の鏡花の作品に多大な影響を与えております。
当時、金沢専門学校、のちの第四高等学校へ進学するために勉強していた鏡花でしたが、友人の下宿先で尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」と出会い、文学を志すようになりました。
この年の10月19日に、牛込にあった尾崎紅葉邸へ弟子入りを志願しに赴き、無事に許され、尾崎紅葉の弟子となりました。
1892年5月に、処女作「冠弥左衛門」にて文壇デビューを果たしました。しかし、評価は低く、打ち切り間近まで行ったのですが、師匠である紅葉に新聞社を説得してもらい、なんとか完成にまでこぎつけました。
この年、父親である政次が逝去し、一家の生計が苦しくなりました。しかし、鏡花は文筆で食べていくことを決め、実用書の編纂などをしながら生活をしておりました。
雑誌「文芸倶楽部」にて掲載されたこの短編作品二つは、高い評価を貰い、鏡花にとって文壇の出世作となりました。
師匠・紅葉の付き添いで硯友社の新年宴会にて、芸者の伊藤すゞと知り合いました。これが、のちに妻となる泉すゞとの出会いでした。
春陽堂書店から刊行された雑誌「新小説」に掲載された「高野聖」。この作品は、様々な方面から絶賛され、泉鏡花の代表作であり、幻想小説の代表作となりました。
この年の1月に、すゞと同棲を始めます。ところが、4月に病床であった紅葉から、同棲しているすゞと別れるように叱責され、別離をしました。しかし、10月に紅葉が逝去し、再び同棲を始めました。
同居していた祖母が亡くなり、さらには胃腸病が悪化したため、都内から逗子へと転居しました。逗子へは3年前にも静養に訪れていて、この時の静養も3年半ほどかかりました。
やまと新聞に掲載された長編小説「婦系図」。この作品は、様々なメディア化もされていて、なかでも舞台に演劇においては新派名狂言の代表作となりました。
大正期に入ると戯曲に興味を持ち、「夜叉ヶ池」、「海神別荘」、この4年後に刊行された「天守物語」と併せて、「幻想戯曲三部作」と呼ばれております。また、このころには映画にも興味を持っておりました。
泉鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎など有志が集まり、鏡花全集の編集が始まりました。また、この年に、すゞと入籍を果たします。
これまでの文筆活動が認められ、帝国芸術院会員として認定されました。
この年の7月に最後の作品、「縷紅新草」を中央公論に掲載。その後、体調を崩し、9月7日午前2時45分頃、東京市麹町区下六番町の自宅にて逝去しました。
泉鏡花の具体年表
1873年 – 0歳「泉家の長男として誕生」
彫金師の家で生まれる。
泉鏡花は1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生まれました。本名は鏡太郎と言い、兄弟には妹2人と弟1人がおりました。妹2人は母の死後、養子に出され、弟はのちに「泉斜汀」と名乗り文筆家になるも大成せず、徳田秋声が大家をしていたアパートへ転がり込んだという逸話が残っております。
父親・泉清次は加賀藩代々に伝わる彫金師(ちょうがねし)でした。彫金師とは、現在で言うアクセサリーなどを手掛ける職人の事を言います。母親・鈴は加賀藩お抱えの能楽・葛野流の大鼓師(おおかわし)の娘でした。
1883年 – 9歳「母が病気のため逝去」
母・鈴の逝去
次女であるやゑを出産後、母・鈴は産褥熱のために、29歳で逝去いたします。このことは、鏡花にとって強い衝撃を与えたと同時に、深い悲しみを残すこととなりました。
鏡花全集に記述されている自筆年譜には「明治十六年十二月母、年二十九にして。……」と記されています。また、この他にも母から貰ったウサギの水晶を生涯の宝物とし、大事にしておりました。それだけ、母親を大事にされていたのだなという事が伺えますね。
1889年 – 16歳「尾崎紅葉の作品を読み、小説家を志す」
尾崎紅葉「二人比丘尼 色懺悔」を読み、小説家を志す。
金沢専門学校(第四高等学校)を目指し、私塾にて英語を学んでおりました。結果は不合格となり、進学することはかないませんでした。その頃、友人の下宿先で尾崎紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」を読み、鏡花は衝撃を受け、その後、貸本などで小説を読み漁り、自分も小説家になることを志します。
1891年 – 18歳「尾崎紅葉の弟子になるため上京」
尾崎紅葉の弟子になるために上京
憧れであった尾崎紅葉の弟子になるため、1890年に金沢から上京いたします。しかし、自筆年譜には「予て崇慕渇仰したる紅葉先生たらむとのみ志ししが、ながく面接の機なく、荏苒一箇年間。巷に迷ひ、下宿を追はれ、半歳に居を移すこと十三四次。」とあります。
縁のない紅葉に会うわけにもいかず、友人の所を転々と下宿していたそうです。この当時、履歴書などといったものはほぼありませんからね。
1892年 – 19歳「尾崎紅葉の弟子となる」
尾崎紅葉の弟子となる
ようやく決心がつき、ついに牛込にある紅葉の邸宅へと赴き、弟子入りを志願し、無事に快諾されました。このことを、自筆年譜では「志を述ぶるや、ただちに門下たることを許され、且つ翌日より玄関番を承る。十九日午前と覚ゆ。これより衣食煙草ともに、偏に先生の恩恵による。」と記されています。
この日から、紅葉の原稿整理や雑用などをこなし、紅葉の信頼を得ていきました。また、この年の12月に自宅が大火に見舞われたため、一度帰郷しております。
1893年 – 20歳「処女作『冠弥左衛門』を京都日出新聞にて連載」
処女作「冠弥左衛門」
この年の5月に、1878年に起こった「真土事件」をテーマにした作品「冠弥左衛門」を京都日出新聞に連載、鏡花の文壇デビュー作となりました。しかし、作品の評価は低く、一時は打ち切り寸前のところまでいったそうです。自筆年譜にはこのようにつづられております。
「うけざる故を以て、新聞当事者より、先生に対し、其の中止を要求して止まず、状信二十通に余る。然れども、少年の弟子の出端(でばな)を折られむをあはれみて、侠気励烈、折衝を重ねて、其の(完)を得せしめらる。」
紅葉の仲介が入り、打ち切りにはならず、指導してもらいながら完結させることが出来ました。他にも作品を発表し、「活人形」「金時計」を発表。また、脚気のために一時故郷へ帰り、京都・北陸など様々な場所へ訪れた経験を活かした作品「他人の妻」を発表しました。
1895年 – 22歳「初期の傑作「夜行巡査」「外科室」を発表」
「夜行巡査」「外科室」を発表
前年に父を亡くし、生活が苦しくなるなど不幸が続いていた鏡花。家系を支えるため、実用書の編纂などをしながら文筆活動をしておりました。そして、この年に雑誌「文芸倶楽部」にて「夜行巡査」と「外科室」を発表しました。
この2作は高い評価を得ることが出来、坪内逍遥らはこの小説を「観念小説」として位置づけしました。この成功により、鏡花は文壇での地位を築くことが出来ました。
1899年 – 27歳「伊藤すゞとの出会い」
硯友社の新年会にて伊藤すずと知り合う
尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案などによって発足した「硯友社」の新年会の会合に参加した鏡花は、神楽坂の芸者であった伊藤すずと知り合います。この、翌年の6月から同棲を始め、のちに二人は結ばれることとなります。
また、この年には「湯島詣」という作品を春陽堂から発表しております。
1900年 – 28歳「代表作『高野聖』」
「新小説」から「高野聖」を発表。
1900年2月、春陽堂書店の文芸雑誌「新小説」に掲載された短編「高野聖」。この作品は、高野山の僧侶が体験した不思議な出来事を旅の若者に語るという作品で、鏡花特有のテンポ間のある会話から独特の幻想的描写まで、いろんなものが詰め込まれた1作となっております。
この作品について、当時は島崎藤村らの自然主義文学が主流となっていた中で、異彩を放つ作品として鏡花は注目の的になります。「高野聖」をきっかけに、鏡花は「幻想文学」というジャンルを築き上げていきました。
1903年 – 31歳「師匠・尾崎紅葉が逝去」
師匠尾崎紅葉・逝去
この年の1月にはすゞと共に牛込神楽町へと同棲を始めていました。しかし、紅葉はこの交際を許さず、4月には別離するべしと叱責をし、やむなく別れることとなりました。
しかし、胃がんを患っていた紅葉は10月30日に逝去されます。自筆年譜には「これより前(さき)、「薬草取」は、換菓編の一篇にして、同葉、皆ともに先生の病床に呈したるなり。先生、筆を枕に取りて、尚ほ章行の句読を正したまひたり」と記述されております。
死の間際まで作品と向き合っていた師匠・紅葉を偲び、硯友社の同人と共に、葬式を取り仕切りました。また、この後にすゞとの同居を再び始めております。
1905年 – 33歳「静養のため逗子へ転居」
これまで同居していた祖母が2月に亡くなり、7月には胃腸病が悪化したため、都内の住居から逗子へと転居いたします。このころの暮らしについて、自筆年譜では「一夏の仮すまひ、やがて四年越の長きに亘れり。殆ど、粥と、じゃが薯を食するのみ。」と質素なものであったと記述されています。
一方、文筆活動は止まらず、この年には「銀短冊」の連載、「春昼」の草案といった活動を行っておりました。
1907年 – 35歳「やまと新聞にて「婦系図」を連載」
やまと新聞に「婦系図」を連載
1907年に発表された「婦系図」は、芸者であるお蔦と翻訳官の早瀬主悦(ちから)の悲恋を描いた物語で、自身のすゞとの恋愛経験が基になっている作品です。初版刊行した翌年には、新派の役者たちにより舞台が上演されております。これ以来、新派の代表作として、度々上演される作品となりました。
1914年 – 42歳「『日本橋』を発表」
装画家である小村雪岱と組み「日本橋」を発表
描きおろし小説として千章館から刊行された作品。装画家であった小村雪岱と組み、これ以降、鏡花作品の挿絵等を担当するようになりました。小村は、鏡花との出会いについて、「泉鏡花先生のこと」という随筆にてこのように述べております。
「文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。」
鏡花という人間を近くで見てきたが、世間で言われているほど変人ではなく、マイペースに生きているからこそ、あのような作品が出来上がる、と評しております。
1920年 – 48歳「映画に興味を持つ」
芥川龍之介、谷崎潤一郎らと知り合う
この時期、鏡花は映画に興味を持ち、それがきっかけで同じく作家の谷崎潤一郎、芥川龍之介などと知り合います。この後、鏡花は芥川龍之介の葬儀に参列し、「泉鏡花全集」の編纂に携わってくれたことなどについて、自筆年譜にて記述しております。
この年、雑誌「婦女界」にて「伯爵の釵」の連載を開始しております。
1925年 – 52歳「泉鏡花全集の編纂が始まる」
有志による泉鏡花全集
この年、春陽堂より泉鏡花全集が刊行されることが発表となりました。編纂の手伝いには、泉鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、芥川龍之介、小山内薫らが編纂委員として参加し、2年後の1927年に全25巻・無事に完結いたしました。
また、この年に、すゞと入籍を果たし、晴れて夫婦となることが出来ました。
1928年 – 55歳「九九九会が発足」
鏡花を囲む会「九九九会」が発足
仲の良かった里見弴と水上瀧太郎が発起人となり、鏡花を囲む会として「九九九会」が発足いたしました。この九九九会の由来は、会費を十円出すと一銭のおつりが戻ってくることにちなみ、この名前になったそうです。会員には小村雪岱、鏑木清方、岡田三郎助など、様々な芸術家が参加しておりましたこの会の模様は、「九九九会小記」として記述されております。
1939年 – 65歳「泉鏡花・逝去」
泉鏡花・逝去
この年の7月に、雑誌「中央公論」に「縷紅新草」を掲載。これが、泉鏡花の最後の作品となりました。7月下旬には体調が悪化、そして9月7日午前2時45分頃、東京市麹町区下六番町の自宅にて逝去しました。
この最後の作品である「縷紅新草」について、三島由紀夫は全集の解説にて「あんな無意味な美しい透明な詩をこの世に残して死んでいった鏡花と、癌の日記を残してしんだ高見順さんと比べると、作家というもののなんたる違い!もう「縷紅新草」は神仙の作品だと感じてもいいくらいの傑作だと思う。」と、評価しております。
泉鏡花の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
高野聖・歌行燈
泉鏡花の代表作である「高野聖」と「歌行燈」がセットになった1冊。鏡花作品の入門編として非常に読みやすい2作となっております。
天守物語
泉鏡花の戯曲の一つである「天守物語」。戯曲は小説とは違い、舞台の台本のように物語が展開するので、場面が想像しやすいので小説より読みやすいと思います。
現代語訳版 泉鏡花
鏡花の作品の言葉遣いは古い言い回しの物が多く存在します。そこも魅力の一つなのですが、やはり物語の意味などを理解するために、現代語訳で読み始めてみるのもいいかもしれませんね。
泉の本を他にも紹介していますので、こちらの記事をご覧ください。
おすすめの動画
高野聖(ラジオドラマ版)
「高野聖」のラジオドラマ。小説を読むのとはまた違う想像力を働かせながら、物語を楽しむことが出来ます。
外科室(ラジオドラマ版)
「外科室」のラジオドラマ版。こちらも、短編のため、集中して聞きやすい作品となっております。
おすすめの映画
日本橋
1956年に公開された泉鏡花原作の映画。「犬神家の一族」などを手掛けた市川崑さんが監督を務めた作品で、美しいようで世間から蔑まれている芸者の世界と、市川さん特有の映像表現など、いろんな要素が入り混じった一作となっております。
関連外部リンク
泉鏡花についてのまとめ
現代文学において、今もなお「幻想文学」を日本に根付かせた人物として、読書好きの間では高い知名度を誇る文豪・泉鏡花。
最近では、「文豪ストレイドッグス」や「文豪とアルケミスト」などで、主要キャラの一人として描かれ、一般層にも知名度を広げつつあります。短編小説などでは、幻想的な部分が注目されがちですが、その根底には母親への寂しさや、女性への愛情など、生々しい感情の部分があったのではないかと思います。
上記で紹介したエピソード以外にも、まだまだ面白いエピソードなどがあります。この記事をきっかけに、幻想的かつ独特な鏡花作品に触れてみてはいかがでしょうか。