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【年表付】ココシャネルはどんな人物・生涯だった?名言や映画、本まで紹介

ココ・シャネルは、本名をガブリエル・シャネルといい、世界的有名ブランド「CHANEL」の創立者で20世紀を代表するファッションデザイナーです。かつてココ・シャネルは、今では当たり前となっている、パンツスタイルや黒を普段着に取り入れるなど、当時の女性のファッション大きく変えました。

シャネルが生きた時代は、まだ19世紀のファッションが色濃く残っていて、コルセットのドレスや装飾の多いデザインが主流でした。彼女は、それまでのデザインとは違う「シンプルでシックな」ファッションを生涯をかけて作り上げ、今では伝説のデザイナーと呼ばれています。

ココ・シャネル

シャネルの目指したファッションは、普遍的で変わらないスタイルでした。彼女の残したスタイルとはブランドのアイテムの事ではなく、黒のワンピース、ショルダーバック、ジャージー素材の服など、今も街の中で見かけるものばかりで、女性のファッションに大きな功績を残しました。

シャネルのスタイルは、女性が社会に進出していく激動の時代の中で、女性に自由を与えるものであったとも言えます。27歳で自分の店舗を持ってから87歳で生涯を終えるまで、ファッション界において第一線で活躍し続けました。そんなシャネルの女性として自立した生き方や情熱的な言葉に刺激を受け、数多くの本や映画を見続けてきた私が、シャネルについて解説していきます。

ココ・シャネルとはどんな人物か

名前ガブリエル・シャネル
誕生日1883年8月19日
没日1971年1月10日
生地フランス
メーヌ=エ=ロワール県
ソーミュール
没地フランス パリ
配偶者なし
埋葬場所スイス
ローザンヌボワ=ド=ボー

ココ・シャネルの生い立ち

ココ・シャネルの故郷フランスソーミュールの街並み

シャネルは1883年8月19日、フランスのメーヌ=エ=ロワール県のソーミュールで、5人兄弟の2番目として生まれました。シャネルが12歳の頃、もともと体の弱かった母親が結核を患い病死。母の死後、行商人であった父親に捨てられたシャネルは、姉のジュリアと共に孤児院に預けられ貧しい幼少期を過ごしました。

孤児院での生活は厳しく質素なものでしたが、シャネルはここで裁縫を学ぶことになります。その経験が、その後の仕事に繋がったと言われていますが、シャネル本人が孤児院での生活や幼少期の真実を語ることはありませんでした。

18歳で孤児院を出たシャネルは、フランスの中央に位置するムーランに場所を移します。シャネルは、芸能界に憧れをもち歌手を目指していたこともありますが、その頃から「ココ」の愛称で呼ばれるようになったと言われています。

ココ・シャネルの性格

激しい性格から火山のような性格と言われることも…

幼少期を恵まれない環境で過ごしたシャネルは、その思いをバネに成功への道を切り開いていきます。そんな、シャネルは自身でも「傲慢さは私の性格の鍵」というほどに、傲慢できつい性格だったと言われています。シャネルのいう傲慢さとは、人を見下すような態度を指すのではなく、他人に厳しくする以上に自分に厳しく、自立した強い女性でいることでした。

また、恋多き女性であったシャネルは、常に女性としてのエレガントさを忘れることはありませんでした。恋愛においては、「強さを隠し弱さを楽しむことは駆け引き」と話していたとのエピソードもあり、強さと同時に女性らしいエレガンスな性格を持ち合わせていました。

いずれにしても、シャネルは自分の性格をよく理解しており、仕事・恋愛とその場面で最大限自分の力を引き出す方法を知っていました。

ココ・シャネルの恋人たち

シャネルとアーサー・ボーイ・カペル

シャネルは生涯、結婚することはありませんでしたが、恋多き人生を歩みました。恋人の中には、画家のピカソや、作曲家のストラヴィンスキーなど有名な人物の名もありますが、シャネルが深く愛したとされる2人を紹介します。

シャネルの生涯の恋人と言われる人物に、イギリス人実業家のアーサー・ボーイ・カペルがいます。カペルに出会ったのが26歳の時。カペルはシャネルの才能に惹かれ高く評価し、その才能をサポートすべく、店舗を広げていくための資金援助もしていました。後にカペルは他の女性と結婚をしますが、それでも彼との関係は続き、カペルが自動車事故で亡くなる1919年まで続きました。

そしてもう一人、1920年シャネルが37歳の時、詩人のルヴェルディに出会います。シャネルは男性としてもルヴェルディを愛していましたが、詩人としての才能を評価し尊敬していました。恋人としての関係が終わってからも、30年以上深い友情関係は続いていきました。

ココ・シャネルのファッションに対する考え

代表的なシャネルスーツを着る映画「ココ・シャネル」主演のシャーリー・マクレーン

シャネルのファッションは、「シンプル・着心地がよい・無駄がない」の3点が基本と言われています。彼女はそれまでの、コルセットで腰を締めたドレスと過度に装飾のついた帽子といった、とても動きやすいものとは言えなかった女性のファッションに疑問を抱いていました。

女性の社会進出が進んだ時代の流れの中で、シンプルでかつ着心地の良いシャネルのスタイルは、女性のニーズにマッチし浸透していったのです。

彼女は流行によって変わっていくものをモードと捉え、「モードではなく、私はスタイルを作り上げたの」という言葉を残しました。この言葉の通り、シャネルは変わらず残り続けていくスタイルを作り上げ、現在でもそのスタイルは多くの女性に受け入れられ続けています。

ココ・シャネルの功績

功績1「ジャージー素材の使用【窮屈なドレスからの解放】」

ジャージー素材が広まる前、1900年代始めのヨーロッパの女性のスタイル

今では当たり前となったジャージー素材ですが、シャネルが初めて女性のファッションに取り入れました。当時、主に靴下やスポーツウェアなどに使われていたジャージー素材は、動きやすく丈夫で、安価で手に入れられました。シャネルのジャージー素材のドレスは、それまでの体を締め付けるようなシルクやサテンのドレスとは正反対とも言えるものだったでしょう。

ジャージー素材のドレスの誕生は、第一次世界大戦が始まったことがきっかけでした。当時、新しい店舗を開店した地に、上流階級の女性が疎開してきたことをビジネスチャンスと捉え、ジャージー素材を買い占め洋服を量産し始めます。戦後、女性が労働に従事することが増えたこと、高級素材が手に入りにくくなったこともあり、シャネルのジャージー素材の服は瞬く間に人気となりました。

功績2「リトルブラックドレス【黒をシックな色として広める】」

リトルブラックドレスのスタイル

現在も高い人気を誇るリトルブラックドレスですが、1920年頃に発表され「黒」をシックな色として広めることになりました。それまで黒は喪服にしか用いられておらず、黒のドレスを普段使いすることは世の中を驚かせる出来事でした。シャネルは、オペラを鑑賞していた女性たちの色とりどりのドレスを見て、全ての女性に黒を着せると誓ったと言われています。

無駄のないシンプルさこそエレガントであると考えていたシャネルは、リトルブラックドレスを黒の単色使い、ドレスの装飾も減らしたシンプルなデザインに仕上げました。発表された当時は、華やかな装飾のドレスが主流だったのに対し、貧相なスタイルというという批判もあったそうです。「黒はすべての色に勝る」という言葉も残したシャネルの思いは、批判などなかったかのように今でも受け継がれています。

功績3「香水CHANEL No.5【100年近く愛され続ける香り】 」

シャネルの香水No.5

シャネルと言えば「No.5」がイメージに浮かぶほど世界的に有名な香水で、1921年シャネルが38歳の時に発表されました。当時の香水は、上流階級の女性が使うような単一の花の香りのもの、夜の女性が使うような何種類も香りを合わせたものの二つが主流で、一般の女性が使う香りはあまり出回って居ませんでした。香水に強いこだわりを持っていたシャネルは、一般の女性が使える日常使いの香水を求めていました。

「No.5」という名前は、出されたサンプルには番号が振られておりその中の5番目を気に入ったこと、5という数字がシャネルにとって特別なものであったことから名付けられたと言われています。

「No.5」はマリリン・モンローの「寝るときはシャネルのNo.5を5滴」という発言によって、1950年代にブームが再熱しました。その後も、有名女優が広告に起用されるなど、現在に至るまで100年近く変わらずに愛され続けています。

ココ・シャネルの名言

翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすために、どんな障害も乗り越えなさい。
If you were born without wings, do nothing to prevent them from growing.

シャネルの生い立ちは、決して恵まれていたとは言えないものでしたが、自ら強い意志で人生を切り開いて成功を収めました。生まれた環境が恵まれていない、生まれ持った才能がないからとあきらめるのではなく、それを乗り越えるために行動してこそ、希望していた未来につながるという強いメッセージが込められています。

シンプルさこそ、真のエレガンスの鍵
Simplicity is the keynote of all true elegance.

シャネルは自身の過去から、裕福な家庭に生まれ育ち夫の富で着飾る上流階級の女性を好んでおらず、豪華な宝石やドレスを身につけることがエレガントではないと捉えていました。

シンプルな装いだからこそ際立つ、女性らしい仕草や動き、過度に装飾しないその謙虚さこそがシャネルの求める真のエレガントさでした。彼女のエレガントという概念は今も多くの女性に支持され、シャネルに憧れる女性も多いのでしょう。

その日、ひょっとしたら、運命の人と出会えるかもしれないじゃない。その運命のためにも、できるだけかわいくあるべきだわ。
You never know, maybe that’s the day she has a date with destiny. And it’s best to be as pretty as possible for destiny.

恋多き女性で、少女のような気持ちを大切にしていたシャネルらしい言葉のひとつです。言葉のままですが、いつ運命の人に会えるかは分からない、だからこそいつでも最高の自分でいることで運命を手に入れられる。シャネルは一流と言われる数々の男性と関係を持ちましたが、そういった人たちを惹きつける魅力を持ち続ける努力を怠ることはありませんでした。

上記を含め、さらに他の名言を以下の記事で紹介してるので、こちらも合わせてご覧ください。

ココ・シャネルの名言10選!具体的なエピソードや発言の意味を解説

ココ・シャネルの人物相関図

ココ・シャネルにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「英国の公爵からのプロポーズを断った?」

シャネルと恋人関係にあった第2代ウェストミンスター公爵 ヒュー・グローヴナー

シャネルの恋人の一人に、イギリス貴族のウェストミンスター公爵がいます。シャネルが40歳の頃に出会い、それから10年ほど2人の関係は続きました。ウェストミンスター公はヨーロッパで一番の大富豪とも言われ、彼と結婚したいと願う女性も多く、誰もがふたりの華やか関係に憧れを抱きました。

世間でも結婚の噂が流れ、公爵からプロポーズを受けたシャネルですが、この申し入れをあっさりと断ります。後に、どうして結婚しなかったのか聞かれたシャネルは「公爵夫人はたくさんいるけれど、ココ・シャネルは私一人しかいないから」と話しています。公爵夫人の一人になるのではなく、ココ・シャネルとしてそれまで築き上げた自分のスタイルを貫くことを選んだのです。

都市伝説・武勇伝2「シャネルはナチス政権と関わりがあった?」

第二次世界大戦中、占領されたパリの様子

シャネルは、第二次世界大戦中にドイツの占領下にあったパリで、ナチスのスパイとして協力していたと言われています。

シャネルがナチスに協力した理由としては、自身の安全確保と、長年に渡る香水のNo.5の所有権を巡る争いに決着をつけるためでもありました。当時、No.5の所有権はユダヤ人のヴェルテメール兄弟の運営するパルファム・シャネルが持っていました。ナチスによってユダヤ人の経営する会社が押収される中で、この所有権を自身のものにしよう考えたのです。

結果は、ヴェルテメール兄弟が先手を打ち、所有権はシャネルのものにはなりませんでした。また戦後は、ナチスに協力していたことからフランス国内で追い詰められ、シャネルはスイスへと亡命しています。

都市伝説・武勇伝3「愛煙家だったことが映画のポスターに影響?」

タバコを吸うココ・シャネル

シャネルは愛煙家だったことで有名ですが、後世に彼女を描いた映画の中でもヘビースモーカーである様子が再現されています。

2009年に上映された映画「ココ・アヴァン・シャネル」は、当初その広告ポスターにシャネルを演じた主演のオドレイ・トトゥがタバコを持った姿を採用していました。しかし、フランスの交通機関は喫煙禁止で、法律でも広告に喫煙姿を乗せることが禁止されていたため、公共交通機関からポスターが撤去される事態になります。

結果的には他のものに変更されたそうですが、シャネルのヘビースモーカーがこのような形で注目を集めるのは、伝説のデザイナーと言われる彼女だからこそのエピソードです。

ココ・シャネルの簡単年表

1883年 - 0歳
フランスのソーミュールに生まれる

シャネルは、フランスのメーヌ=エ=ロワール県のソーミュールに、5人兄弟の2番目として生まれました。母親は体が弱く12歳で亡くなり、その後父親に捨てられ18歳まで孤児院で生活をすることになります。

1903年 - 20歳
エティエンヌ・バルサンとの出逢い

ムーランのカフェ・コンセールで歌手を目指していた頃、エティエンヌ・バルサンに出逢います。繊維業の息子であり裕福であったバルサンの愛人として過ごす中で、上流階級の人々との交流を深めていくことになりました。

1909年 - 26歳
生涯の恋人アーサー・ボーイ・カペルとの出逢い

この年、バルサンの友人の一人でもあった、アーサー・ボーイ・カペルに出逢い関係を持ち始めます。資産家でイギリスの上流階級であったカペルは、シャネルにパリのアパルトマンを用意しそこに住む事になります。

1910年 - 27歳
帽子店「シャネル・モード」を開く

カペルの経済的支援を受け、パリの中でもファッションの中心地であったカンボン通り21番地に帽子店「シャネル・モード」を開店します。この年、シャネルは婦人帽子職人としてのライセンスも取得しました。

1914年 - 31歳
第一次世界大戦、ジャージー素材のドレスの誕生

この年、第一次世界大戦が勃発します。前の年に、ドーヴィルにブティックを開業していたシャネルはジャージー素材の洋服を手掛けており、この戦争がその作成により一層力を入れるきっかけになりました。

1921年 - 38歳
初めての香水「No.5」の発売

シャネルで初めての香水「No.5」が発売されます。「No.5」という名前や、発売が5月5日だったことも、シャネルにとって幸運の数字であった「5」にちなんで選ばれました。はじめは上流階級を中心に広まっていきますが、多くの女性に受け入れられ成功を収めました。

1923年 - 40歳
ウェストミンスター公爵との出逢い

シャネルはこの年に、後にイギリスの首相となるウィンストン・チャーチルや、貴族、王族で運営される、英国貴族の社交界に加わることを認められます。そこでウェストミンスター公爵と出逢うことになり、2人は恋人関係になっていきます。この頃、多くのシャネルスタイルが生み出されました。

1939年 - 56歳
第二次世界大戦、ブティック閉店と従業員の解雇

第二次世界大戦が勃発します。シャネルは戦争が始まると間もなく、アクセサリーや香水部門など一部のブティックのみを残してその他の作業場などを閉めました。この時に解雇された従業員は約3000人と言われています。

1945年 - 62歳
告発を恐れ、スイスへ亡命

第二次世界大戦中にナチスに協力していたことに対する告発を逃れるため、スイスへ亡命します。この前年、シャネルはパリ解放の後に逮捕されますが数時間で解放されています。この解放にはイギリスのチャーチル首相が関わっていたと言われています。

1954年 - 71歳
カムバック第一回目のコレクションの発表

この年の2月5日に、カムバック第一回のコレクションを発表しました。シャネルがファッション界から身を引いてから約15年が過ぎており、戦後最初のこのコレクションは酷評を受けます。この頃ファッション界では、クリスチャン・ディオールのニュールックが人気を博していました。

1971年 - 87歳
パリにて最期を迎える

1月10日に長く過ごしていたホテル・リッツで最期を迎えます。前日には、いつも通りに仕事をこなしていましたが、友人との食事を終えたあと気分が悪くなり早めに休んだシャネルは、そのまま目を覚ますことはありませんでした。

ココ・シャネルの年表

1883年 – 0歳「フランスのソーミュールに生まれる」

幼少期を過ごした孤児院のあったフランスのオーバジーヌ

シャネルの生い立ちと、歌手を夢見た若きシャネル

シャネルは、フランスのソーミュールに生まれます。5人兄弟の2番目で、姉と妹、2人の弟がいました。12歳の時に母親が病死し、その後父親に捨てられフランスのオーバジーヌにある孤児院で幼少期を過ごしました。この孤児院で、シャネルは裁縫を学び後の仕事に繋がっていくことになります。

18歳になると孤児院を出なければいけなかったため、フランスのムーランという町のカトリック寄宿学校に預けられました。舞台に立つことを夢見ていたシャネルは、ムーランの「ラ・コンド」というカフェ・コンセールで歌を歌うこともありましたが、歌唱力が評価されずなかなか舞台での仕事を得ることが出来ませんでした。その頃、このムーランでエティエンヌ・バルサンに出逢います。

1903年 – 20歳「最初の恋人エティエンヌ・バルサンとの出逢い」

映画「ココ・アヴァン・シャネル」内でのシャネルの乗馬スタイル(オドレイ・トトゥ)

バルサンの愛人としての日々、乗馬とシャネルのパンツスタイル

シャネルの最初の恋人といわれるエティエンヌ・バルサンですが、2人の関係は愛人関係にありました。シャネルはバルサンから宝石やドレスなどを与えられ、不自由なく暮らしていくことが出来ました。その生活の中で上流階級の人々の生活を知り、交流を広めていくことになります。

競馬好きであったバルサンのもとで、シャネルは乗馬を学びかなりの才能を持っていました。当時は、女性が乗馬する際にはロングスカートにブーツを履くことが作法とされていましたが、シャネルは動きやすさを重視しパンツスタイルで乗馬しました。パンツスタイルは男性のスタイルとされた時代に、シャネルがパンツを履いたことは周りから驚かれますが、女性のパンツスタイルはここから始まったと言われています。

また、シャネルはバルサンの支援で帽子のアトリエを持ち、ファッション界へと進出していきます。

1909年 – 26歳「生涯の恋人アーサー・ボーイ・カペルとの出逢い」

シャネルの帽子をかぶった舞台女優のガブリエル・ドルジア

カペルとの恋愛とシャネルスタイルに繋がるヒント

シャネルが26歳の時、最も愛したと言われるアーサー・ボーイ・カペルに出逢います。バルサンの友人でもあったカペルとの関係を、「彼は私にとって、父であり、兄であり、家族そのものだった」と語っています。それほどまでに彼はシャネルにとって大切な人であり、彼もまたシャネルの才能を高く評価し支援をしました。

シャネルはカペルのファッションからもデザインのヒントを得ていたと言われています。カペルの服を借りて着ていたことや、男性の洋服の素材などに注目し、後のシャージー素材を取り入れるきっかけにも繋がりました。

27歳、帽子店「シャネル・モード」の開店

翌年27歳の時、カペルの出資を受けてパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」を開店します。当時、女性がお店を持つことや女性が自立して働くことが当たり前ではない時代でしたが、カペルはシャネルの才能や強い意志を受け入れ支援し続けました。

後にファッション界で成功したシャネルは、カペルに支援の金額を全額返金します。その時彼は、「おもちゃを与えたつもりだったのに、自由を与えてしまった」とシャネルに話したそうです。2人の関係はシャネルが36歳の時、カペルが自動車事故で亡くなるまで続きますが、シャネルの自立した人生の大きなきっかけを与えたことは間違いありません。

1914年 – 31歳「第一次世界大戦の勃発と成功への第一歩」

ブティックを出店したドーヴィルの景色

ドーヴィル出店と第一次世界大戦

第一次世界大戦が起こる1年前の1913年、シャネルはフランスのリゾート地であるドーヴィルにブティックを出店します。この出店も、カペルによる資金提供により実現しました。ドーヴィルのブティックでは、帽子だけでなくリゾート地ふさわしい豪華でありながらカジュアルな洋服を打ち出し、この頃から使用し始めていたのがジャージー素材でした。

出店の翌年、第一次世界大戦が勃発します。戦争の始まりと共に、パリから疎開のために上流階級の女性がこの地に押し寄せたことをきっかけに、ジャージー素材の洋服が受け入れられると確信したシャネルは量産を始めました。

ジャージー素材のドレスがアメリカのファッション誌に掲載される

1916年、シャネルのジャージー素材のドレスが、アメリカの「ハーパーズ・バザー」誌に掲載されます。ドレスが注目されたきっかけは、第一次世界大戦の影響が大きく関係していました。

戦争の影響で、それまでドレスに使われていたようなシルクやサテンの素材が不足していいたこと、女性の社会進出が進み動きやすい服装が求められたことが、シャネルのジャージー素材ドレスとニーズがマッチしたのです。これをきっかけに、高級ファンションに新しいジャージー素材が取り入れられるようになり、シャネル成功の第一歩となりました。

1923年 – 40歳「ウエストミンスター公爵との出逢いとシャネルのスタイル」

シャネルが愛用していたことから「シャネルツイード」と呼ばれるようにまでなった

ウェストミンスター公爵との華やかな関係とファッションへの影響

シャネルと英国貴族とのつながりは深いものでしたが、1923年にヨーロッパ一の大富豪とまで言われたウェストミンスター公爵と出逢い恋人関係になります。ウェストミンスター公爵と関係が続いた約10年の間に、リトルブラックドレス、ツイード素材のスーツなど数多くのシャネルスタイルが生まれます。

ウェストミンスター公爵との関係の中でシャネルスタイルに繋がるヒントを多く得ますが、中でも公爵のヨットの乗組員から影響を受けた、ボーダーのシャツにパンツを合わせたマリンルックは多くの女性から注目を集めました。

公爵のファッションからツイード素材を取り入れる

シャネルスーツにも使われているツイード素材ですが、ウェストミンスター公爵の着ていたコートやジャケットからヒントを得たと言われています。それまで、ツイードは男性のジャケットなどに使われるメンズ服の素材とされていました。

シャネルは、1928年にツイード素材を使ったスーツを発表しますが、この時初めて女性のファッションにツイード素材が取り入れられます。柔軟で軽いツイード素材で作られたスーツは実用性が高く、動きやすさを徹底的に追求したデザインは長くシャネルスタイルの定番として残り続けることになりました。

1939年 – 56歳「第二次世界大戦の勃発によりファッション界から身を引く」

クリスチャン・ディオールの発表したニュールック

戦争が始まり、絶頂期を迎えた事業を閉める

1935年シャネル52歳の時、手がけていた事業は絶頂期を迎えました。その4年後である1939年に第二次世界大戦が始まると、シャネルは突然アクセサリーや香水など一部のブティックを残しアトリエを閉めました。解雇された従業員は3000人以上にも及び、考え直すよう説得されてもシャネルが応じることはありませんでした。

理由は明らかになっておらす、シャネル自身は戦争を理由にしていますが、事業が絶頂期を迎える中で過酷な労働環境に従業員がストライキしたことに対する報復とも言われています。これをきっかけに、シャネルはカムバックするまでの約15年間、ファッション界から身を引くことになります。

戦後スイスへの亡命と新しいファッションへの危惧

1945年、長きにわたった第二次世界大戦が終戦します。この前の年、シャネルはナチス軍に協力していたということで逮捕されます。その時はチャーチル首相の計らいにより、わずか数時間で解放されていますが、終戦後は告発から逃れるためにスイスへ亡命しました。

シャネルがスイスに亡命している間、ファッション界ではクリスチャン・ディオールのニュールックが成功を収めます。かつての伝統的なシルエットを復活させたニュールックは、シャネルのスタイルとは正反対とも言えるファッションでした。シャネルはこれに対し危惧を抱きますが、戦争により活動をやめ亡命している身であった彼女が復活したのは、ニュールック発表された1947年から7年後になります。

1954年 – 71歳「ファッション界へのカムバック、酷評からの復活」

シャネルスーツを着る女優のロミー・シュナイダーとココ・シャネル

71歳でファッション界へカムバック、酷評を受ける

1954年、シャネルはファッション界にカムバックします。この時シャネルは71歳でした。ファッション界から身を引き約15年経っていたこともあり、復帰第一回目のコレクションで「シャネルスーツ」を発表しますが、パリではかつてのスタイルと何も変わらないと酷評を受けました。

一方、女性の社会進出が進んでいたアメリカでは、シャネルの実用的な「シャネルスーツ」が高く評価されます。復帰後3回目のコレクションを行う頃にはシャネルはかつての人気を取り戻し、生涯を終えるまでファッション界のトップに君臨しました。

ショルダーバックとバイカラーパンプスの誕生

カムバック翌年の1955年、今もCHANELの定番であるショルダーバッグ「シャネル2.55」を発表します。シャネルは1929年に、それまでのハンドバッグは片手がふさがれてしまうものだったことから、持ち手を長くしたショルダーバックを作成していました。シャネル2.55はかつてのバッグのデザインを一新したもので、チェーンの持ち手とキルティング風の見た目が特徴で、修道院での生活や乗馬を楽しんだかつての経験からインスピレーションを受け作成されています。

同じ年には、バイカラーのパンプスを発表し、つま先を黒にしたことで汚れを目立ちにくくするなど、実用性を考えたデザインで人気のアイテムとなりました。カムバック後も、シャネルのスタイルを象徴するアイテムを精力的に生み出しました。

1971年 – 87歳「パリで最期を迎える」

1970年のココ・シャネル

長年過ごしたパリで最期を迎える

最期までファッション界の第一線で活躍したシャネルは、この年の1月10日にパリのホテル・リッツで亡くなります。前日まで普段と変わらす仕事をしていましたが、友人との食事を終えたあと気分が悪くなったシャネルは早めに休みます。その時メイドに「人はこんな風に死ぬのよ」と自分の死を察したかのように語り、その後目を覚ますことはありませんでした。

パリのマドレーヌ寺院で行われた葬儀には、シャネルスーツを着たファッションモデルが参列し、本人の希望でシャネル自身もシャネルスーツ姿で埋葬さました。「創造できなくなったとき、それは私が終わるとき」という言葉を残しているシャネルは、最期まで自分のスタイルを貫き通したのです。

ココ・シャネルの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ココ・シャネルという生き方

シャネルの人生について時代ごとに章立てられ、コンパクトにまとめられている入門書としておすすめの一冊です。シャネルのブランドについても知ることが出来ますが、主に彼女の生き方について焦点が当てられています。女性の生き方について刺激を与えられる内容です。

女を磨くココ・シャネルの言葉

タイトルにもある通り、女性に響く60の言葉が集められたシャネルの名言集です。女性として自立して生きたシャネルは、恋愛、仕事、美、ファッションとどのジャンルにおいても現代の女性にも受け入れられる多くの言葉を残しました。シャネルの言葉の中から、自分を磨く気付きを得られる一冊です。

ココ・シャネルの「ネットワーク」戦略

この本は、シャネルの生涯を「ネットワーク理論」の切り口で書かれており、他の書籍とは違う面白さがあります。孤児院育ちのシャネルの成功の秘訣は人間関係にあったとして、シャネルの生涯について人脈の形成やその活用の仕方を中心に書かれています。図解なども多いので、分かりやすい内容になっています。

他にもシャネルにまつわる本を以下の記事で紹介していますので、ご覧ください。

ココ・シャネルをよく知れるおすすめ本10選【伝記や名言集、写真集まで】

おすすめの動画

ココ・シャネルーー女を磨く、9つの名言

シャネルの貴重な写真や映像、ファッションショーの様子と共に、9つの名言が紹介されています。名言を知りたいという方にもおすすめですが、実際のシャネルの映像や過去のファッションショーの様子見ることの出来る貴重な動画になっています。

The Spring-Summer Ready-to-Wear 2020 Show – CHANEL

2020年、シャネル春夏コレクションのショーの様子です。リトルブラックドレス、シャネルスーツ、そしてバイカラーのパンプスやショルダーバックなどの小物に至るまで、今の時代も変わらず残るシャネルのスタイルを見ることが出来ます。

おすすめの映画

ココ・アヴァン・シャネル

アメリで有名なオドレイ・トトゥ主演の、シャネルがデザイナーとして成功するまでの半生が描かれた映画です。エチエンヌ・バルサンやアーサー・カペルとの恋愛を中心にストーリーが展開していきますが、ファッションにも注目して見る事をおすすめします。シャネルの功績に繋がるきっかけが、随所に再現されています。

ココ・シャネル

第二次世界大戦後にカムバックした頃のシャネルが主人公として描かれた、シャーリー・マクレーン主演の映画です。晩年のシャネルが過去を振り返りながら、ストーリーが進んでいきます。シャネルのスタイルに関するエピソードが多く、デザイナーとしてのシャネルを知りたいという方にはこちらの映画がおすすめです。

関連外部リンク

ココ・シャネルについてのまとめ

時代の転換期において、ファッションを通して女性を自由に導き、ファッションのみならず彼女の生き方そのものが今なお愛され続けるココ・シャネル。シャネルの自由で自立した生き方の裏側には、誰よりも自分に厳しく、何があっても信念を持ち続ける強さがありました。

CHANELは高級ブランドというイメージが強かったのですが、ココ・シャネルという人物や彼女のスタイルを知れば知るほど身近なものに感じる不思議な感覚がありました。

ファッションデザイナー、実業家、一人の女性として様々な顔を持つシャネルの魅力を、この記事から少しでも感じ取って頂ければ幸いです。

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