ココ・シャネルはどんな人?生い立ち・年表まとめ【死因や性格、功績も紹介】

ココ・シャネルの名言

翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすために、どんな障害も乗り越えなさい。
If you were born without wings, do nothing to prevent them from growing.

シャネルの生い立ちは、決して恵まれていたとは言えないものでしたが、自ら強い意志で人生を切り開いて成功を収めました。生まれた環境が恵まれていない、生まれ持った才能がないからとあきらめるのではなく、それを乗り越えるために行動してこそ、希望していた未来につながるという強いメッセージが込められています。

シンプルさこそ、真のエレガンスの鍵
Simplicity is the keynote of all true elegance.

シャネルは自身の過去から、裕福な家庭に生まれ育ち夫の富で着飾る上流階級の女性を好んでおらず、豪華な宝石やドレスを身につけることがエレガントではないと捉えていました。

シンプルな装いだからこそ際立つ、女性らしい仕草や動き、過度に装飾しないその謙虚さこそがシャネルの求める真のエレガントさでした。彼女のエレガントという概念は今も多くの女性に支持され、シャネルに憧れる女性も多いのでしょう。

その日、ひょっとしたら、運命の人と出会えるかもしれないじゃない。その運命のためにも、できるだけかわいくあるべきだわ。
You never know, maybe that’s the day she has a date with destiny. And it’s best to be as pretty as possible for destiny.

恋多き女性で、少女のような気持ちを大切にしていたシャネルらしい言葉のひとつです。言葉のままですが、いつ運命の人に会えるかは分からない、だからこそいつでも最高の自分でいることで運命を手に入れられる。シャネルは一流と言われる数々の男性と関係を持ちましたが、そういった人たちを惹きつける魅力を持ち続ける努力を怠ることはありませんでした。

上記を含め、さらに他の名言を以下の記事で紹介してるので、こちらも合わせてご覧ください。

ココ・シャネルの名言10選!具体的なエピソードや発言の意味を解説

ココ・シャネルの人物相関図

ココ・シャネルにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「英国の公爵からのプロポーズを断った?」

シャネルと恋人関係にあった第2代ウェストミンスター公爵 ヒュー・グローヴナー

シャネルの恋人の一人に、イギリス貴族のウェストミンスター公爵がいます。シャネルが40歳の頃に出会い、それから10年ほど2人の関係は続きました。ウェストミンスター公はヨーロッパで一番の大富豪とも言われ、彼と結婚したいと願う女性も多く、誰もがふたりの華やか関係に憧れを抱きました。

世間でも結婚の噂が流れ、公爵からプロポーズを受けたシャネルですが、この申し入れをあっさりと断ります。後に、どうして結婚しなかったのか聞かれたシャネルは「公爵夫人はたくさんいるけれど、ココ・シャネルは私一人しかいないから」と話しています。公爵夫人の一人になるのではなく、ココ・シャネルとしてそれまで築き上げた自分のスタイルを貫くことを選んだのです。

都市伝説・武勇伝2「シャネルはナチス政権と関わりがあった?」

第二次世界大戦中、占領されたパリの様子

シャネルは、第二次世界大戦中にドイツの占領下にあったパリで、ナチスのスパイとして協力していたと言われています。

シャネルがナチスに協力した理由としては、自身の安全確保と、長年に渡る香水のNo.5の所有権を巡る争いに決着をつけるためでもありました。当時、No.5の所有権はユダヤ人のヴェルテメール兄弟の運営するパルファム・シャネルが持っていました。ナチスによってユダヤ人の経営する会社が押収される中で、この所有権を自身のものにしよう考えたのです。

結果は、ヴェルテメール兄弟が先手を打ち、所有権はシャネルのものにはなりませんでした。また戦後は、ナチスに協力していたことからフランス国内で追い詰められ、シャネルはスイスへと亡命しています。

都市伝説・武勇伝3「愛煙家だったことが映画のポスターに影響?」

タバコを吸うココ・シャネル

シャネルは愛煙家だったことで有名ですが、後世に彼女を描いた映画の中でもヘビースモーカーである様子が再現されています。

2009年に上映された映画「ココ・アヴァン・シャネル」は、当初その広告ポスターにシャネルを演じた主演のオドレイ・トトゥがタバコを持った姿を採用していました。しかし、フランスの交通機関は喫煙禁止で、法律でも広告に喫煙姿を乗せることが禁止されていたため、公共交通機関からポスターが撤去される事態になります。

結果的には他のものに変更されたそうですが、シャネルのヘビースモーカーがこのような形で注目を集めるのは、伝説のデザイナーと言われる彼女だからこそのエピソードです。

ココ・シャネルの簡単年表

1883年 – 0歳
フランスのソーミュールに生まれる

シャネルは、フランスのメーヌ=エ=ロワール県のソーミュールに、5人兄弟の2番目として生まれました。母親は体が弱く12歳で亡くなり、その後父親に捨てられ18歳まで孤児院で生活をすることになります。

1903年 – 20歳
エティエンヌ・バルサンとの出逢い

ムーランのカフェ・コンセールで歌手を目指していた頃、エティエンヌ・バルサンに出逢います。繊維業の息子であり裕福であったバルサンの愛人として過ごす中で、上流階級の人々との交流を深めていくことになりました。

1909年 – 26歳
生涯の恋人アーサー・ボーイ・カペルとの出逢い

この年、バルサンの友人の一人でもあった、アーサー・ボーイ・カペルに出逢い関係を持ち始めます。資産家でイギリスの上流階級であったカペルは、シャネルにパリのアパルトマンを用意しそこに住む事になります。

1910年 – 27歳
帽子店「シャネル・モード」を開く

カペルの経済的支援を受け、パリの中でもファッションの中心地であったカンボン通り21番地に帽子店「シャネル・モード」を開店します。この年、シャネルは婦人帽子職人としてのライセンスも取得しました。

1914年 – 31歳
第一次世界大戦、ジャージー素材のドレスの誕生

この年、第一次世界大戦が勃発します。前の年に、ドーヴィルにブティックを開業していたシャネルはジャージー素材の洋服を手掛けており、この戦争がその作成により一層力を入れるきっかけになりました。

1921年 – 38歳
初めての香水「No.5」の発売

シャネルで初めての香水「No.5」が発売されます。「No.5」という名前や、発売が5月5日だったことも、シャネルにとって幸運の数字であった「5」にちなんで選ばれました。はじめは上流階級を中心に広まっていきますが、多くの女性に受け入れられ成功を収めました。

1923年 – 40歳
ウェストミンスター公爵との出逢い

シャネルはこの年に、後にイギリスの首相となるウィンストン・チャーチルや、貴族、王族で運営される、英国貴族の社交界に加わることを認められます。そこでウェストミンスター公爵と出逢うことになり、2人は恋人関係になっていきます。この頃、多くのシャネルスタイルが生み出されました。

1939年 – 56歳
第二次世界大戦、ブティック閉店と従業員の解雇

第二次世界大戦が勃発します。シャネルは戦争が始まると間もなく、アクセサリーや香水部門など一部のブティックのみを残してその他の作業場などを閉めました。この時に解雇された従業員は約3000人と言われています。

1945年 – 62歳
告発を恐れ、スイスへ亡命

第二次世界大戦中にナチスに協力していたことに対する告発を逃れるため、スイスへ亡命します。この前年、シャネルはパリ解放の後に逮捕されますが数時間で解放されています。この解放にはイギリスのチャーチル首相が関わっていたと言われています。

1954年 – 71歳
カムバック第一回目のコレクションの発表

この年の2月5日に、カムバック第一回のコレクションを発表しました。シャネルがファッション界から身を引いてから約15年が過ぎており、戦後最初のこのコレクションは酷評を受けます。この頃ファッション界では、クリスチャン・ディオールのニュールックが人気を博していました。

1971年 – 87歳
パリにて最期を迎える

1月10日に長く過ごしていたホテル・リッツで最期を迎えます。前日には、いつも通りに仕事をこなしていましたが、友人との食事を終えたあと気分が悪くなり早めに休んだシャネルは、そのまま目を覚ますことはありませんでした。

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10 COMMENTS

ことりん

とても分かりました。よかったです。
ここシャネルってこんなすごい人なんですね‼︎

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フクモトアイコ

わかりやすかったです!
ココ・シャネルの凄さがわかりました!

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樋口一葉

凄く分かりやすかったです!
私は、本を読むのが大好きで、本で読んだココ・シャネルのことをもっと知りたいと思ってここにたどり着きました。
私は歴史は苦手だけど、ココシャネルの話は面白いと思いました。

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