30年戦争はなぜ長期化したのか
30年戦争はその名の通り、1618年から1648年まで30年という長い時間をかけてようやく決着がつきました。ただの宗教戦争や、カトリックによるプロテスタントの弾圧だけであれば、戦争の中心にあった神聖ローマ帝国はカトリックが圧倒的な優位にあったので他国の介入が無ければ国内での内乱で済むはずでした。それでは、なぜ30年戦争は終結するのに30年もかかったのか、その理由を見ていきましょう。
ハプスブルク家とブルボン家の対立
30年戦争が周辺国を巻き込むに至った理由には、当時ヨーロッパ諸国で有力な力を持っていた名門貴族のハプスブルク家とブルボン家の対立が挙げられます。
戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。
ハプスブルク家はの周辺国と結婚をして各地に血族を増やすことで自分たちの領地を広げることに成功した貴族で、後にこのような言葉が残されています。政略結婚による勢力の拡大は当時の貴族や王族の中では、珍しいことではありませんでしたが、ハプスブルク家はこの政略によって強大な権力を維持していました。
30年戦争時には戦争の中心となったオーストリア大公国の皇帝はハプスブルク家出身で神聖ローマ帝国の皇帝を兼務しています。さらに、ハプスブルク家は婚姻戦略でスペインやハンガリーにも影響力がありました。
これに脅威を抱いたのが当時のフランスで強い力を持っていたブルボン家です。フランスは神聖ローマ帝国とスペインに挟まれていたため、実質的にハプスブルク家に包囲されていた形になります。そのため、ハプスブルク家の勢力拡大を抑えるためにも、カトリックを信仰している国でありながらプロテスタントに味方しなければならないという事情があったのです。
周辺国による覇権争い
30年戦争当時、神聖ローマ帝国の実権を握っていたハプスブルク家は他国であるベーメン王国やハンガリーにも領地を持っていて実質的な支配権を握っていました。しかし、当時のヨーロッパは封建制度を利用していて皇帝が全ての土地を治めるのではなく、その土地の領主が独立で土地を治めるという手法を取っていて国境も明確ではありません。そのため、神聖ローマ皇帝の支配力が弱く、広い国土で影響力を維持するのが難しかったのです。
神聖ローマ皇帝はこの状態を打破して影響力を強めるために、プロテスタントの弾圧を行い皇帝の権力を高めようとしました。そこで、力を強めていく皇帝に危機感を抱いた他の領主たちがプロテスタントに味方するようになります。
このような事実から権力を強化していくハプスブルク家に危機感を抱いたのはフランスのブルボン家だけではなかったことが分かります。また、1624年にはフランスを仕掛け人としてイギリス、オランダ、スウェーデン、デンマークは対ハプスブルク同盟を結んでいました。
周辺国の傭兵業
30年戦争の戦いで主力を担ったのはカトリック側もプロテスタント側も国民ではなく、傭兵軍でした。傭兵とはお金で雇われた兵士たちのことで、当時のヨーロッパでは穀物を栽培する土地の少ない国や貧しい国では若い男性が出稼ぎのために傭兵を務めることが多かったという事実があります。
さらに、中世ヨーロッパでは封建制度を利用していたので皇帝は直接国民を戦争に駆り出すことができず、領主の配下の騎士たちによる軍に依存するしかないという事情がありました。そのため、戦争を行うにしても動員できる人員に限りがあり、それをカバーするには傭兵を雇うしかなかったという事情があります。
しかし、この傭兵を使った戦争は一見国民に被害が及ばないようにも思えますが、実際には戦場での傭兵による略奪行為や農民の虐殺が横行し、主戦場となったドイツの農村や都市が荒廃してしまうという問題がありました。さらに、お金を稼ぐために戦争に参加しているので、戦争が終わってしまうと失業してしまい、収入減が絶たれてしまうので戦争が終結しても傭兵たちには何のメリットもありません。このような理由から、30年戦争が終わってしまうと困る人が居たことが戦争を長引かせる原因の一つとして挙げられます。
また、30年戦争終了後にドイツの人口が2/3まで減少したのは、傭兵による略奪行為も原因の一つです。
30年戦争が後世に残した影響
三十年戦争を終結させるため、ウェストファリア会議によって決議された「ウェストファリア条約」が結ばれました。ウェストファリア条約によって形成された体制を「ウェストファリア体制」と呼ばれ、ヨーロッパの国々で多くの取り決めが行われたのです。内容は賠償金の詳細や独立の承認などですが、主だったものは以下になります。
- オランダ・スイスの独立
- フランス・スウェーデンがドイツ領の一部を獲得
- 諸侯が独立した領邦となり、主権国家が認められることとなり、神聖ローマ帝国は解体
- 新教徒・カルヴァン派の信仰が認められる
ハプスブルグ家の勢力下でありながら中立を守った功績が認められスイスは独立、同時にオランダも独立を果たします。結果ハプスブルグ家の勢力を弱めてしまう結果となり、かわりにフランスのブルボン家が台頭し始めました。
また当時は領主がそれぞれの土地を治める封建制度だったヨーロッパの政治体制が主権国家体制となり、国と国同士が対等となることによって内政不干渉になり他の君主が別の国の政治に干渉できなくなりました。そのためいくつもの連邦に別れていたドイツは主権が認められたことにより、神聖ローマ帝国は名前だけの国となってしまったのです。
そして宗教戦争だった三十年戦争は、カトリック以外の宗派を認めるという方向で帰結しています。結果的にカトリック勢力の影響力が低下することとなりました。これらにより国と国同士の境界がはっきり別れてしまい、神聖ローマ帝国の衰退がはっきりと決定づけられてしまったのです。