30年戦争の詳しい経緯
30年戦争は大きく4段階に分かれていて、全ての戦いに全ての国が参加していたというわけではありません。ここで、30年戦争の詳しい経緯を見ていきましょう。
1618~1623年:ベーメン・プファルツ戦争
ベーメン・プファルツ戦争は1618~1622年に起こります。ことの発端はベーメンの新しい皇帝に就任したハプスブルク家出身のフェルディナンドが熱心なカトリック教徒で、他の貴族たちにカトリックの信仰を強要した事から始まります。それまで、プロテスタントを信仰していた貴族たちは不満が溜まり、国内は二分化しプロテスタント側の貴族が皇帝代官を王宮の窓から落としたプラハ窓外投擲事件が起こりました。
これをきっかけにベーメン国内はカトリック側の貴族とプロテスタント側の貴族たちで内乱が発生し、1920年には白山の戦いでカトリック側が勝利を収めました。内乱が起こるとカトリック側には同じくハプスブルク家の所領があるスペイン、プロテスタント側にはオランダが支援を行い国際戦争に発展します。この時オランダは独立をかけてスペインとオランダ独立戦争の真っ最中だったという事情もありました。
また、この時フランスはカトリック側に間接的に味方をしています。また、この時の戦いでベーメンの反乱視力は処刑されて、ベーメンはハプスブルク家の所領となりました。
そして、この戦いをきっかけにフランスの政治家リシュシューはオランダとイングランド、スウェーデン、デンマークと対ハプスブルク同盟を結びます。
1625~1629年:デンマーク・ニーダーザクセン戦争
デンマーク・ニーダーザクセン戦争は別名グランビュンデン戦争とも呼ばれ、1620~1639年に起こります。ベーメン・プファルツ戦争の真っ只中、イタリアの最北部でアルプスの山中に位置している都市バルテリナはスイスの州であるグラウビュンデンに従属していました。しかし、オーストリアとスペインを最短距離で繋がれる都市だったのでハプスブルク家に狙われてしまい、1620年にカトリック側であるスペイン軍に占拠されます。バルテリナではその後もフランスやスペインの奪い合いが続き、最終的には1639年のミラノ講和でグラウビュンデンごとスペインの従属になりました。
その頃ドイツのニーダーザクセンでは1625年にデンマークの国王が勢力拡大のために、イギリスとオランダの資金援助を受けてプロテスタントを擁護する形で戦争に介入します。ここで起こったのが、カトリック側の皇帝軍とデンマーク軍のニーダーザクセン戦争です。デンマーク軍は当初スウェーデン軍や傭兵軍と一緒に進軍していましたが、度重なる仲間割れで単独で皇帝軍に挑むこととなり、敗北しました。その後は1629年のリューベックの和議でデンマークは帝国への介入ができなくなってしまいます。
また、イギリスは当初は戦争に介入していたものの、手を組んでいたフランスと仲違いを起こして、宣戦布告しフランスとスペインを敵に回してしまいました。これらの経緯には政治を執り行っていた初代バッキンガム公の失策が関わっていて、バッキンガム公の死後は1629~1630年にフランス及びスペインと和解し30年戦争から離脱しています。
1630~1635年:スウェーデン戦争
スウェーデン戦争は1630~1635年間の間に起こったスウェーデンと神聖ローマ帝国皇帝軍の戦争です。当時スウェーデンの力は強大で北ヨーロッパのにあるバルト海の覇権を握っていました。しかし、度重なる戦争で領地と影響力を強めていた皇帝軍は、傭兵であるヴァレンシュタインにバルト海・大西洋提督に任命したため、この地位が揺らぎ始めることになります。これを危惧したスウェーデンはフランスの支援を得て30年戦争に参加し皇帝軍を撃破します。
スウェーデン軍はマクデブルクの戦いやブライテンフェルトの戦いなどで皇帝軍に圧倒的勝利を収めますが、国王の死亡により士気が落ちてしまいます。さらに新しく即位した女王がまだ幼いことからプロテスタント側の諸侯も分裂状態に陥りました。これを危惧したスウェーデン宰相は1633年に南ドイツの複数の帝国とハイブロン同盟という軍事同盟を結び、フランスもこれに参加します。
また、この一年後にヴァレンシュタインは独断でスウェーデンと和睦を結んだことを理由に、謀反を疑われ暗殺されました。
その後、皇帝軍は暗殺と同じ年の1934年にネルトリンゲンの戦いで、スウェーデン・プロテスタント諸侯の同盟軍に勝利し南ドイツを手に入れます。そして一部の南ドイツ諸侯とカトリックの強制の撤回と諸侯同士の同盟禁止を交換条件として1635年にプラハ条約を結びました。
1635~1648年:フランス・スウェーデン戦争
フランス・スペイン戦争は1635~1648年の間に起こります。それまでのフランスは各国に資金援助などをしていたものの戦争の表舞台に立つことはありませんでした。しかし、その当時にはフランスの周囲の国はほぼハプスブルク家の支配下となっていたので、フランスのブルボン家は自分たちの権威と国土を守るためにも参戦せざるを得ません。こうしてフランスは1631年にハプスブルク家所領のロレーヌ地方のいくつかの都市とアルザスを奪取して、スペインに宣戦します。
また、スウェーデン軍は1638年に皇帝軍に宣戦し、4つの軍はドイツの各地に分散して戦いを繰り広げました。これがフランス・スウェーデン戦争です。1638年には皇帝軍はヴィットストックの戦いでスウェーデンに敗北し、戦争はプロテスタント側が有利になります。
さらに、スペイン軍もフランスとの戦いに敗れるたことや、ポルトガルが独立したことによる反乱が原因で戦争どころではなくなってしまいます。そこで1940年ごろから皇帝軍は和平に向けて話し合いを行うようになりますが上手くいかずに、1642年のブライテンフェルトの戦いで更に敗北を重ねます。そして、1644年ごろようやく両国が話し合いの場に立ち、1948年にウエストファリア条約が結ばれました。また、この間にも何度か戦争が行われますが、皇帝軍とスペイン軍はどの戦争にも敗北したため、ウエストファリア条約はフランスやスウェーデンに有利な条件で結ばれたという事情があります。
三十年戦争の重要な人物
非常に複雑に入り乱れた三十年戦争ですが、主要な人物を把握しておくとかなり歴史が分かりやすくなります。ここでは、三十年戦争の重要な人物を紹介します。
フェルディナント2世
神聖ローマ帝国の皇帝で、三十年戦争を引き起こした人物です。幼少からイエズス会の教育を受けたことから、カトリックの保守と拡大に尽力しました。そのためプロテスタントの反乱があるかもしれないなか、「プラハ窓外放擲事件(そうがいほうてきじけん)」を受け兵をボヘミアに派遣しています。
城山の戦いでは勝利し、ボヘミアのプロテスタントの勢力に打撃を与えました。しかし強硬な行動から各地の諸侯の反発を招き、フランスによる反ハプスブルグ同盟が組まれてしまいます。
フェルディナント2世は反ハプスブルク勢力と戦い、一時期は優勢であったもののスウェーデン軍の抵抗や、フランスの本格参戦により劣勢となっていきます。結局戦局を打破できないまま1637年に崩御しました。