【伝説の歌手】尾崎豊の生涯・年表まとめ【家族や死因、代表曲やアルバムまで紹介】

さまざまなアーティストから楽曲がカバーされている

Mr.childrenらが参加したトリビュートアルバム「”BLUE” A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI」

尾崎豊は亡くなった後もさまざまなアーティストに影響を与え続けています。楽曲もカバーされていて、没後12年が経った2004年には「BLUE」「GREEN」の2枚のトリビュートアルバムが発売されました。

特に「I LOVE YOU」は世界各国でカバーされていて、カバー曲まで含めた総売り上げは全世界で1000万枚にのぼるといわれています。

死因は肺水腫

肺水腫で亡くなる

尾崎豊は1992年4月25日に26歳の若さで亡くなっています。その日の朝方、泥酔状態になっている尾崎を近所の住民が発見しました。体に傷が多数見つかるなど、ただごとではないと状態だったので、病院へと運ばれました。

病院で治療を受け、一旦自宅へと戻りますが、容体が急変し再度病院へ運ばれます。その後大学病院へと搬送されますが、治療の甲斐なく息を引き取ってしまいます。司法解剖によると死因は肺水腫でした。そして、この肺水腫の原因が覚醒剤(メタンフェタミン)の大量服用によるものと考えられています。

尾崎豊の功績

功績1「初の野外単独ライブで26000人の動員」

大阪球場ライブのチケット

尾崎豊は1985年8月初の屋外単独ライブとなる「大阪球場ライブ」を開催します。「米軍キャンプ」から始まり、「ダンスホール」「卒業」「I LOVE YOU」「シェリー」など数々の名曲を歌い上げました。

尾崎の魂を削るような歌い方はこのころから見られており、最終的には声がかすれてしまうようなライブも見受けられるほどです。この大阪球場ライブでは26000人もの観客が押し寄せました。

功績2「一夜限りの復活ライブでは56000人の動員」

東京ドーム公演で56000人を動員

覚醒剤取締法違反にて逮捕後、1988年6月にはテレビにて復帰を果たし、「太陽の破片」を歌います。尾崎の人気は逮捕後もとどまることを知らず、ファンは尾崎のライブを待ち望んでいました。9月にはアルバム「街路樹」が発売され、オリコンチャートで2位を記録するなど尾崎の復活を印象づけています。

そして、9月12日に東京ドームで一夜限りの復活ライブ「LIVE CORE」が開催されます。このライブには56000人もの観衆が押し寄せました。尾崎人気健在を改めて認識するイベントとなったのです。

功績3「死後にリリースされた『OH MY LITTLE GIRL』がミリオンヒット 」

OH MY LITTLE GIRL

尾崎の死から約2年後の1994年1月21日にシングル「OH MY LITTLE GIRL」が発売されます。最終的に107万枚の売り上げとなり、尾崎のCDの中では最も売れた楽曲となりました。フジテレビ系のドラマ「この世の果て」に起用されたことも人気の後押しをしています。

また2001年公開の映画「LOVE SONG」では「Forget-me-not」とともに主題歌として起用、2014年には映画「ホットロード」の主題歌として使用されています。現在でもカラオケランキングで100位以内に入るなど長期にわたって愛されている名曲です。

尾崎豊の名言

「自分で何かやりたいなと思ったとき、やっぱり最初に言葉があった。」

「I LOVE YOU」の「きしむベッドの上で優しさを持ち寄り」などはとても17歳が考える歌詞だとは思えません。素晴らしい言葉の表現力の持ち主ですよね。

音楽を通じてシンガーソングライターとして人々に感動を与えて来た尾崎らしい名言です。

「僕は生きていくこと自体、誰もが意味あることをなしているんだと思うし、そういったものに結論がつかない限り、僕は愛っていうものを信じて歌っていく人間でありたい。」

「僕が僕であるために」という曲では「正しいものはなんなのか、それがこの胸に分かるまで」という歌詞があり、「人はそれぞれ何が自分に意味があることか」模索しながら生きているのだということを教えてくれます。

「人と人との愛情は揺らぐことはない」と歌い続けた尾崎は生涯、愛だけを信じていたのかもしれません。

「なんか親って、大人ってそうやって臭いものにすぐ蓋をかぶせて物事をわかったような気になろうとしてるけど、本当はそうじゃないと思うんだ。もっと大切なことってあると思うんだ。」

「15の夜」や「卒業」などの曲では若者が大人に対して感じる理不尽さなどを歌っていますが、その思いがこの言葉に現れているような気がします。

「卒業」では「先生、あなたはか弱き大人の代弁者なのか、俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか」という歌詞があり、尾崎は常に弱い者の気持ちを代弁していたからこそ、多くの人にその歌詞が響いたのかもしれません。

尾崎豊にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「尾崎の死の直後、オリコンチャートを尾崎の歌が独占」

尾崎の死後のオリコンチャート。
赤文字が尾崎の楽曲

1992年に尾崎が亡くなった直後、彼のCDやアルバムが急激に売れる現象が起こりました。彼の死から1ヶ月後のオリコンチャートでは、アルバム部門でTOP10のうち6作品が尾崎のCDで埋められています。

TOP10に入ったのは1位「放熱への証」、4位「回帰線」、5位「十七歳の地図」、6位「LAST TEENAGE APPEARANCE」、7位「壊れた扉から」、9位「誕生」です。そして14位には「街路樹」がランクインしています。尾崎の与えた影響の大きさがよくわかるランキングです。

都市伝説・武勇伝2「高校の教科書に『15の夜』が載っている」

15の夜

尾崎がライブで欠かさずに歌っていた名曲です。「盗んだバイクで走り出す、行先もわからぬまま」という歌詞は、いまだに口ずさめば誰もが尾崎の歌だと気づくキャッチーなフレーズとなっています。

当時は過激な歌詞が議論を呼びましたが、数十年の時を経て、高校の教科書に載る名曲となっています。

この歌は、当時14歳の尾崎が友達から、「中学校の教師に反抗し、家出を敢行した」という話を聞いて、その経験に基づいて作詞されています。そのため、もともとは「14の夜」になる予定でしたが、語呂が良いため「15の夜」になったそうです。

ちなみに「盗んだバイク」で走り出したのは尾崎ではなく、友人だということが後日談でわかっています。

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