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ウォルトディズニーの人生・年表まとめ【名言や子孫、死因まで解説】

ウォルト・ディズニーは、世界で最も成功したアニメスタジオ「ウォルト・ディズニー・カンパニー」の創始者です。現在ウォルト・ディズニー・カンパニーは世界第2位の収益を誇る複合企業で、映画・音楽・演劇・出版など幅広いエンタメジャンルを取り扱っております。

また、ディズニー作品を取り扱った世界最大のテーマパーク「ディズニーランド」の創立や、世界中から愛されているキャラクター「ミッキーマウス」の生みの親など、世界中の子供達に多大なる影響を与えた人物として知られています。

ウォルト・ディズニー

彼は、元々はアニメーターであり、アカデミー賞において個人受賞最多記録保持者でもあります。彼が生み出した多くのキャラクター達は、世界中の子供達から愛されており、現在も「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」といった新たなキャラクター達を生み出しております。

現在のカンパニーの元になった「ディズニー・ブラザーズ社」も小さな販売会社としてスタートしました。しかし、度重なる失敗と成功を重ね、現在、ディズニーの名は世界中から注目される大企業へと成長しました。では、ウォルトディズニーはどのような人生を歩み、現在の大企業へと成長したのでしょうか。

この記事では、アニメーターであり実業家でもあったウォルトディズニーの生涯や残した作品、エピソードについて、幼少期からディズニー作品を見て育った筆者がご紹介いたします。

目次

ウォルトディズニーとはどんな人物か

名前ウォルター・イライアス・ディズニー
誕生日1901年12月5日
没日1966年12月15日
生地アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
没地アメリカ合衆国カリフォルニア州バーバンク
配偶者リリアン・バウンズ
埋葬場所フォレストローン・メモリアルパーク・グレンデール

ウォルトディズニーの生涯をハイライト

ミッキーを描くディズニー

はじめに、ウォルトディズニーの生涯を簡単にご紹介いたします。

彼の父、イライアス・ディズニーはアメリカ最大規模の貨物鉄道を運営するユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員で、母のフローラ・コールは教師でした。ウォルトの幼少期は、何回も転居を繰り返しながら過ごしており、その中で動物や自然と触れ合うことで、後のディズニーのキャラクター達に繋がっていきました。

第一次世界大戦の際、フランスで衛生兵を勤めた後、アメリカへ帰国し、兄の紹介で広告会社へデザインの仕事を担当することになりました。この時に、相棒となるイラストレーター、アブ・アイワークスと出会います。その後、アイワークスと共に、「ミッキーマウス」「シリーシンフォニー」といったアニメーション作品を手掛けます。

その後、ウォルトは自身の理想を叶える場所として「ディズニーランド」の設立を計画し、1955年に開業しました。これが、後のディズニーリゾートへと繋がります。そして、第2のディズニーランドとして「ディズニーワールド」を計画するも肺癌のため65歳で逝去いたしました。

ウォルトディズニーの家族構成・子孫

ダイアン・ディズニー・ミラー

ウォルトの父親であるイライアス・ディズニーはアメリカ最大規模の貨物鉄道を運営するユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員であり、農業や様々な事業に手を出すも上手くいかず、その影響でアメリカ各地を転々としておりました。母であるフローラ・コールは教師をしていたそうです。

兄は3人おり、中でも密接な関係だったのは、共に「ディズニー・カンパニー」を創業した3番目の兄であるロイ・O・ディズニーです。妻であるリリアン・マリーとはスタジオ内で出会い、結婚しました。その娘であるダイアン・ディズニー・ミラーはコンサートホールや博物館の設立に尽力いたしました。

ウォルトディズニーの故郷

ミズーリ州マーセリン

ウォルトディズニーはシカゴ出身ですが、4歳半の時に叔父の暮らしていたミズーリ州マーセリーンへとやってきました。この地はウォルトにとって思い出深い土地であり、家の近くにあった納屋や木などで遊び、自然や動物に触れていたことが後の作品活動に繋がりました。

マーセリーンには現在、ウォルトのホームタウンミュージアムが設立され、幼少期の暮らしなどを知ることが出来ます。また、ディズニーランド内にある「メインストリートUSA」はこの町のメインストリートがモチーフになっていて、ディズニーファンにとって聖地のひとつとなっております。

ウォルトディズニーが影響を与えた人物

手塚治虫

ディズニーの作ったアニメーションは世界中の様々な人物に影響を与えました。その中でも、とりわけ有名なのが「マンガの神様」こと手塚治虫です。手塚治虫は映画好きでディズニーの作品を繰り返し好んで見ていました。中でも、「バンビ」は朝から晩まで100回ほど映画館に通って見ていました。

他にも、手塚の作品である「メトロポリス」には、「ミキマウス・ウォルトディズニーニ」という学名のミッキーに似たネズミが登場します。また、現在は絶版となってしまいましたが手塚治虫の描いたウォルトディズニーの伝記漫画というのも存在しておりました。それだけ、ディズニーに対して強い憧れを持っていたのですね。

ウォルトディズニーの功績

功績1「ディズニーカンパニーの設立」

ウォルトディズニーカンパニー

現在、メディア複合企業としてコムキャストに次ぐ世界第2位の大企業になっているウォルトディズニーカンパニー。それを創業したのが、名前にも入っているウォルト・ディズニーです。1923年に創業した「ウォルト・ディズニー・スタジオ」をはじめ、様々な会社が併設されております。

有名なのは、アニメ部門の「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」を制作した「ピクサースタジオ」。映画部門の「アベンジャーズ」などを制作した「マーベル・エンターテイメント」などがあります。また、著作権が厳しい事でも有名で、それに関する法律の中に「ミッキーマウス保護法」と呼ばれる法律も存在します。

功績2「ディズニーリゾートの設立」

東京ディズニーランド

日本で一番有名な遊園地と言えば「東京ディズニーランド」ですよね。ディズニーランドを含むディズニーパークは現在、全世界に5か国27か所に渡って展開しております。様々なキャラクターやアトラクション、イベントなどが開催され、「夢の国」として多くの人たちを楽しませております。

この夢の国を設立するきっかけとなったのは、娘と共に遊園地を訪れた際、親だけがベンチに座っている光景を見て、親子で楽しめる場所を建設してみたい、という思いからディズニーランドという壮大な夢を見るようになったと言われております。

功績3「ミッキーマウスの誕生」

ミッキーマウス

世界でもっとも有名なネズミことミッキーマウス。ミッキーは、ウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスの手によって生み出されたキャラクターです。ミッキーの誕生以前にも2人は「しあわせウサギのオズワルド」というキャラクターを手掛けていました。

しかし、契約上のトラブルにより、このキャラクターは別の会社へと権利を買い取られてしまいました。そこで生まれたのが、このミッキーだったのです。ちなみに、ウォルトは「モーティマー」と名付けようとしていましたが、妻であるリリアンに反対、逆にミッキーと名付けるように提案されました。

ウォルトディズニーの名言

ディズニーランドが完成することはない。世の中に想像力がある限り進化し続けるだろう。

ディズニーランドは完成するのではなく、常に進化を続けているテーマパークであるという意味の言葉です。その名の通り、ディズニーランドは毎年、様々な手法で来場者を楽しませてくれる仕掛けを作ってくれます。

夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる。いつだって忘れないでほしい。すべて一匹のねずみから始まったということを。

ミッキーマウスから始まり、様々なキャラクター達を生み出したウォルトディズニースタジオに向けた言葉です。小さなきっかけから大きな夢を掴めるという希望にあふれた意味を持っています。

夢見ることができれば、それは実現できる。

ウォルトディズニーの中でもっとも有名な言葉で、「人を楽しませたい」という夢を追いかけ続けたウォルならではの言葉ですね。
夢を持っている人ならば、何か行動することで実現に近づくかもしれません。

ウォルトディズニーにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ミッキーマウスにはもう一人の親がいた!アブ・アイワークス」

アブ・アイワークス

1919年に、カンザスシティでウォルトと出会ったグラフィックアーティストであり、後にアニメーターとしてウォルトの事業を支えるパートナーとなります。ウォルト共に制作した作品として、実写とアニメを融合した「アリスコメディシリーズ」や「ミッキーの短編映画」などがあり、ミッキーのもう一人の生みの親でもあります。

ですが、ウォルトのアニメ制作のやり方に不満を持ち、ディズニースタジオを退職し、自らのスタジオである「アイワークススタジオ」を設立します。その後、スタジオが倒産すると特殊技師として再びディズニーカンパニーへ戻り、テーマパーク事業などにも携わりました。

都市伝説・武勇伝2「ミッキーの幻の兄弟!キャラクター・オズワルド」

オズワルド

1927年、ミッキーが誕生する以前にウォルトとアイワークスの手によって誕生した「オズワルド・ザ・ラッキーラビット」というキャラクターがいます。ミッキーの原点ともいうべきキャラなのですが、実は所有権を巡りウォルト側と配給元であるユニバーサルピクチャーズと対立が起きてしまいました。

その結果、オズワルドの版権はユニバーサル側に譲渡され、さらにはウォルトのスタジオのアニメーターも引き抜かれるという事件が起こりました。その後、オズワルドの版権がディズニーに戻ったのは2006年、実に78年ぶりの帰還だったのです。現在ではミッキーと共演することもあり、ファンにも愛される存在となりました。

ウォルトディズニーの簡単年表

1901年 - 0歳
ウォルト・ディズニーの誕生

ウォルト・ディズニーはイリノイ州シカゴで生まれました。しかし、両親の仕事の影響で叔父のロバートの暮らしていたミズーリ州マーセリーンへと転居いたします。

1910年 - 9歳
カンザスシティーへ転居

父の農業失敗により、カンザスシティーへ転居することとなりました。この頃に、ウォルトはカンザスで新聞配達のバイトを始めると同時に、イラストを描いて人を喜ばせることへ興味が出てきた時期でもありました。

1918年 - 16歳
第一次世界大戦、赤十字社としてフランスへ

第一次世界大戦中、ウォルトは通っていた高校と美術学校を退学し、陸軍へと志願しました。しかし、年齢が足りなかったことから、赤十字社の衛生兵として、フランスで医療に従事することとなりました。

1919年 - 17歳
カンザスシティーの広告会社に入社

フランスから帰国後、単身カンザスで新聞の漫画仕事に就くも、生活の苦しい日々を送ってました。そこで、兄の紹介により、広告会社へ入社いたしました。その社内で、アブ・アイワークスと出会います。

1920年 - 19歳
独立しデザイン会社を設立

広告会社を退社し、アイワークスと共に「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を設立します。しかし、ウォルトはカンザスフィルムに雇用され、会社はそのまま倒産してしまいました。

1921年 - 20歳

ウォルトはカンザスフィルムを退社後、アイワークスらアニメーター数人と共に、アニメ会社「Laugh O’Gram Studio」を設立。童話を中心としたアニメを制作するも、配給元が破綻してしまい、そのまま資金のやりくりなどで破産してしまいました。

1923年 - 21歳
会社が倒産しハリウッドへ

「Laugh O’Gram Studio」が倒産し、ウォルトは再起を図るためハリウッドへと移住しました。そこで、兄であるロイと共に「Laugh O’Gram Studio」時代に製作した「アリスコメディシリーズ」を販売する会社として、「ディズニー・ブラザーズ社」を立ち上げました。

1925年 - 24歳
リリアンと結婚

実写とアニメが融合した「アリスの不思議の国」がヒットし、その過程でアニメ制作を再び手掛けることとなった「ディズニー・ブラザーズ社」は「ウォルト・ディズニー・スタジオ」を併設します。そのスタジオ内の秘書として働いていたリリアンと出会い、1925年に結婚いたします。

1927年 - 26歳
「しあわせウサギのオズワルド」がヒット

興行師チャールズ・ミンツの仲介により、ユニバーサル・ピクチャーズ配給の元、新作アニメの依頼が舞い込んできました。ウォルト達は、「しあわせウサギのオズワルド」というウサギのキャラクターを考案し、子供たちの間で大ヒットとなりました。

1928年 - 27歳
オズワルドの版権とミッキーマウスの誕生

翌年、契約更新の際、ミンツは法外な手数料を要求。これを拒否するとスタジオからアニメーターを引き抜き、さらにはオズワルドの版権もユニバーサル側へ取り上げてしまいました。苦境に立たされたウォルトですが、新たなキャラクターを生み出しました。それが、ミッキーマウスです。

1932年 - 31歳
短編映画「花と木」を制作し、アカデミー賞を受賞

「ミッキーマウスシリーズ」が大ヒットし、新たなシリーズとして「シリーシンフォニー」というアニメシリーズの制作に着手し、その中の一つ、「花と木」という作品は第5回アカデミー賞短編アニメ賞を受賞しました。

1937年 - 36歳
「白雪姫」が公開

グリム童話が原作の長編アニメーション。制作に4年の歳月と160万ドルを掛けた大作「白雪姫」が公開されました。この作品は当初の不安を振り切り、公開が始まると瞬く間に大ヒットし、結果的に6100万ドルの収益を上げる大ヒット作となりました。

1941年 - 40歳
太平洋戦争勃発、プロパガンダ映画の作成

太平洋戦争に突入し、ディズニースタジオは、軍と協力体制を取り、国主導のプロパガンダ映画をいくつか制作いたしました。

1954年 - 53歳
ABCテレビにて「ディズニーランド」が放映

ウォルトが司会を務めるテレビ番組「ディズニーランド」が放映を開始されました。この番組はウォルトが構想した「ディズニーランド」設立のための資金を確保するための番組でありました。

1955年 - 54歳
ディズニーランド開業

1955年7月17日、カリフォルニア州アナハイムに世界で最初のディズニーランドがオープンしました。ウォルトもオープンセレモニーに出席し、喜びのスピーチを行いました。

1964年 - 63歳
「メリー・ポピンズ」の公開

ディズニーカンパニー製作のミュージカル映画。この作品は、アカデミー賞13部門にノミネートされ、主演女優賞を含む5部門を受賞し、ゴールデングローブ賞、グラミー賞などにも輝いた作品です。

1965年 - 64歳
ディズニーワールドの設立を発表

ウォルトはディズニーランドの成功を受け、自社ブランドの拡大などを狙いに、フロリダ州オークランドにランドよりも規模の大きい「ディズニーワールド」の設立を発表しました。

1966年 - 65歳
肺がんによる肺炎のため逝去

しかし、その開業に向けた準備中、ウォルトは肺癌による肺炎のため、ディズニーワールドの開業を見ることなくバーバンク市内の病院にて満65歳で逝去しました。その後、弟の遺志を継ぎ兄のロイがこのプロジェクトを主導し、1971年10月1日にディズニーワールドが開業しました。

ウォルトディズニーの年表

1901年 – 0歳「ウォルトディズニーの誕生」

ウォルトディズニー・ファミリー・ミュージアム

シカゴにてウォルト・ディズニーが誕生

イリノイ州シカゴの地でウォルトディズニーは誕生しました。本名は「ウォルター・イライアス・ディズニー」で、先祖はアイルランドからの移民であったことが分かります。父であるイライアス・ディズニーはユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員を退職後、カリフォルニア州で金鉱探し等の事業をしておりました。

しかし、母であるフローラが教師だったため、様々な場所へ転々と移住しておりました。ちなみに、ウォルトと父は疎遠な関係であり、1920年代に事業成功後も父は冷ややかな態度であったため、そこまで交流はなかったそうです。30年代に入ると、ウォルトは両親のために豪邸をプレゼントしました。

幼少期を過ごしたマーセリーン

その後、一家で叔父のロバート・ディズニーが住むミズーリ州マーセリーンへ引っ越し、その地で農業を始めることになりました。しかし、結果的には失敗し、数年後にはまた引っ越すこととなります。ですが、ウォルトにとってマーセリーンで過ごした思い出は後の映画製作などに影響を与えました。

インタビューの際、このマーセリーンの道や兄弟で遊んだリンゴの巨木や納屋等が思い出に残っており、ディズニーランド内の「メインストリートUSA」はマーセリーンのメインストリートがモチーフになっております。また、畑の近くには鉄道が走っていて、ウォルトが鉄道好きになるきっかけとなりました。

1918年 – 17歳「赤十字社として第一次世界大戦に従事」

赤十字社

第一次世界大戦とウォルト

1914年、サラエボ事件が発端となり、第一次世界大戦が勃発。この頃、ディズニー一家はシカゴへと舞い戻り、ウォルトは地元のマッキンリー高校に入学しておりました。家計を支えるため、朝の4時半から新聞配達に勤しみ、放課後、再び配達するという生活をしておりました。

学校内では学級新聞の漫画を担当するなど、イラストへの情熱を見せておりました。その内容は、愛国主義に沿った作品でした、アメリカがこの戦争に参加することを表明すると、ウォルトは通っていた高校と美術学校を退学し、陸軍へと志願するのでした。

赤十字社としてフランスで医療に従事。

しかし、年齢が足りず、赤十字社としてフランスにて負傷した兵士の治療にあたる衛生兵として、フランスへ出征しておりました。この時に、描いたイラストなどが兵士などに好評で、帰国後、イラストの仕事に就きたいと考えるようになりました。

その後、新聞社へ漫画の仕事を請け負いましたが上手くいかず、生活も苦しい日々を過ごしておりました。そこへ、地元の銀行に就職していた兄から広告会社で、デザインの仕事を紹介されそこへ入社します。この広告会社で、ウォルトの仕事の相棒となるアブ・アイワークスとの出会いを果たします。

1922年 – 21歳「ハリウッドにて「ディズニー・ブラザーズ社」を創業」

ハリウッド

「Laugh O’Gram Studio」設立

ウォルトは会社を退職後、アイワークスと共にデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を設立します。しかし、ウォルトは設立早々にカンザスフィルムにアニメーターとして雇用され、この会社はすぐに倒産してしまいました。

カンザスフィルムではアイワークスと共にアニメーション制作を手伝い、アニメへ興味を持つようになりました。そして、1920年には、カンザスフィルムから独立し、個人事務所を設立。その後、アニメ制作の事業を拡大し、数人のアニメーターを集め、「Laugh O’Gram Studio」を設立しました。

「Laugh O’Gram Studio」倒産とハリウッドへ

「Laugh O’Gram Studio」では「シンデレラ」など童話をモチーフにしたコミカルな作品を手掛けておりました。しかし、配給元が倒産してしまい、会社も破産状態で製作が中断してしまいました。この時にパイロット版として、アニメと実写を合成した「アリスの不思議の国」を製作しました。

スタジオ倒産後、ウォルトは再起を図るべく、映画産業の本場であるハリウッドへと移住しました。この地でウォルトは、「アリスの不思議の国」の続編製作を手掛ける会社として兄のロイと共に「ディズニー・ブラザーズ社」を立ち上げます。ロイは主に経済面からウォルトの事業をサポートしました。

1927年 – 26歳「「幸せウサギのオズワルド」がヒット」

スタジオの繁栄と結婚

実写とアニメを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気作となり、4年に渡り作品を制作いたしました。その後、軌道に乗ったブラザーズ社は新人アニメーターを雇用し、本格的なアニメスタジオを併設、「ディズニー社」として本格的に始動することとなりました。

この時期に、ウォルトは「ディズニー・スタジオ」内の「インク&ペイント」という部署で働いていた秘書のリリアン・バウンズと出会い、1925年に結婚いたします。その後、長女のダイアンを出産し、幼女のシャロンと共に仲良く暮らしておりました。

「幸せウサギのオズワルド」

1927年に、興行師のチャールズ・ミンツの紹介によりユニバーサル・ピクチャーズからの配給権を得ることになりました。この時に生まれたのが、「幸せウサギのオズワルド」というキャラクターです。この作品は実写無しのフルアニメーション作品で、合計で26本製作されました。

コミカルな動きが多く、親しみやすい姿をしていたオズワルドは、第2作目の「トロリー・トラブルズ」の公開を皮切りに、子供たちの間でヒットし、ディズニーのヒットキャラクターとなりました。ちなみに、第1作目の「かわいそうなパパ」は未公開になっております。

1928年 – 27歳「オズワルドを巡るトラブルとミッキーの誕生」

ユニバーサルピクチャーズ

オズワルドを巡るトラブル

1928年、ウォルトは制作費の値上げなどの条件交渉を行うため、ユニバーサルへと出向きました。しかし、ミンツとユニバーサルはこれに応じず、さらには「制作費を下げないとアニメーターを引き抜く」という厳しい条件を突き付けられたのでした。

そして、ミンツの工作によりアニメーターが引き抜かれ、ウォルトがスタジオへ出向くと、アイワークスと助手の数人のみがスタジオに残っているという散々な状況でした。この一件により、オズワルドはユニバーサル側の物となり、2008年にディズニー側へ版権が戻されるまで、実に78年もの時間を擁しました。

ミッキーマウスと「蒸気船ウィリー」の公開

ウォルトは再起を図るべく、新たなキャラクターの制作に着手しました。その中で、これまでの作品に登場した「ネズミ」の敵キャラクターに着目し、ウォルトの原案の元、アイワークスがデザインなどを担当したキャラクター「ミッキー・マウス」が誕生しました。

その後、演出をウォルトが担当し、動きなどをアイワークスが担当する短編映画が制作されました。そして、トーキー映画の手法で制作されたミッキーのスクリーンデビュー作「蒸気船ウィリー」は好評を博し、今や世界的に有名なキャラクターへと成長を遂げました。

1932年 – 31歳「「花と木」でアカデミー短編アニメ賞を受賞」

花と木

シリー・シンフォニーシリーズ

ウォルトは「ミッキーシリーズ」に続く新たな短編アニメとして「シリー・シンフォニー」というシリーズを製作しますこのシリーズが誕生した裏には、編曲を担当したカール・スターリングと議論になった際に、音楽重視のシリーズを作ることで妥協したと言われています。

このシリーズには、有名な「三匹の子ブタ」やドナルドダックのデビュー作である「かしこいメンドリ」などがあります。また、カラー映画「花と木」は第5回アカデミー短編アニメ賞を受賞しました。

アイワークスとの別れ

この時期、ウォルトは事業拡大のため新人アニメーターを養成するアートスクールをスタジオ内に開講し、新しい技術などを教え込みました。ですが、新しいアニメーションを模索するあまり、周囲との衝突も度々起きておりました。

その結果、パートナーであるアイワークスが実業家パット・パワーズの誘いに乗り、ディズニー社を退社しアイワークスタジオを設立することになりました。しかし、アイワークス・スタジオはヒット作に恵まれずに倒産、様々な製作を経て、1940年代にディズニー社へ特殊効果技師として戻りました。

1937年 – 36歳「白雪姫の公開」

白雪姫

「白雪姫」の公開

1937年、グリム童話が原作の長編アニメーション「白雪姫」を公開しました。この作品は、4年の歳月と150万ドルという大規模な労力によって製作された作品です。ですが、当時は短編アニメが主流の時代であり、この作品に対し「ディズニーの道楽」と心無い言葉を投げかける人もいたそうです。

そして、映画館で公開されると瞬く間にヒットし、6100万ドルを記録するアニメ史に残る傑作となりました。この作品が日本で公開されたのは戦後の1950年の事で、漫画家である手塚治虫は「本作は50回以上見た」と回想しております。

大規模な従業員ストライキ

「白雪姫」の成功により、さらに事業の拡大を目論んだウォルトは1940年に「ピノキオ」「ファンタジア」といった作品を製作しました。しかし、第2次世界大戦の煽りを受け、ヨーロッパ市場が閉鎖されてしまい、「ファンタジア」は興行的に失敗に終わってしまいました。

さらに、簿給で労働していたアシスタントたちの不満が溜まり、1941年にはスタッフによる大規模なストライキが2か月にわたって行われました。このストライキはウォルトが南米旅行中に自体は妥結しました。それは、ディズニー社へ軍事干渉が行われたことです。

1941年 – 40歳「太平洋戦争勃発、プロパガンダ映画の制作」

空軍力の勝利

太平洋戦争

1941年12月8日に開戦した太平洋戦争。12月8日には真珠湾攻撃が決行されたことを受け、国内産業は戦時体制への協力を求められることになりました。映画産業にも協力が求められ、中でも、大衆に支持を受けていたディズニーはプロパガンダ映画の製作を行いました。

この背景には、ピノキオやファンタジアの失敗により借金を抱えていたため、それを返済するために映画の製作に乗り出した、という事象が存在します。結果として、この映画は成功を収め、経営も立て直すことが出来ました。

プロパガンダ映画の製作

戦時中にも「ダンボ」「バンビ」といった長編アニメーションの製作は続けられ、その傍らに政府によるプロパガンダ映画が数本製作されました。その中でも、1943年に公開された「空軍力の勝利」はアニメと実写を合成した作品で、日本本土へ空軍による爆撃を行うという過激な内容の物でした。

この作品に影響を受けたイギリス海軍の将校により、「ディズニーボム」という兵器が生み出されたという逸話が残っております。また、「総統の顔」という作品では枢軸側の主要人物を皮肉った描写が登場するなど、ファンタジーとかけ離れた作品がいくつか存在します。

1950年 – 49歳「「シンデレラ」の公開」

シンデレラ

「シンデレラ」の公開

「白雪姫」以降なかなかヒット作に恵まれなかったディズニー。「ピノキオ」や「バンビ」もヒット作とはならず、会社の負債も400万ドルほど抱えておりました。その中で、終戦後の1945年から構想段階にあったシャルル・ペローの童話「シンデレラ」の製作に取り掛かりました。

原作にない動物のキャラクターや、ミュージカル仕立てのシーンなどを盛り込んだ本作は大ヒットし、2億6千万ドルほどの興行収入を得ることが出来ました。ウォルトは生前、この作品を一番好きな作品であると公言しておりました。これは、ウォルト自身がシンデレラのような人生を歩んでいたから、という考察がされています。

「ディズニーランド」の構想

この時期になると、ウォルトは新たな事業をスタートさせようとします。それが、「親子で楽しめるテーマパークの開業」でした。きっかけとなったのは、娘たちを遊具で遊ばせている時に、自分だけがベンチに座って見ているという現状に気づき、親子で楽しめる場所を造るべきでは、と考えたことからでした。

ウォルトは、手始めにスタジオのあるロサンゼルスのバーバンクに「テーマパーク建設計画」を提出しました。しかし、騒音などの問題から却下されてしまいます。そこで、ウォルトはカリフォルニア州アナハイムに広大な土地を購入し、由芽への第一歩を踏み出したのでした。

1954年 – 53歳「テレビ番組「ディズニーランド」が放映」

ウォルトとディズニーランド図

テレビ番組「ディズニーランド」

大規模な建設のため、莫大な資金を集めるための手段として、ウォルトはABCテレビにて「ディズニーランド」という番組を放映しました。この番組では、「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」という4つの国から一つをピックアップし、関連した内容を紹介するという紀行番組のようなテイストでした。

この番組は日本でも放映され、1958年から72年までの期間、日本テレビ系列で放映されました。この番組の成功により、ディズニーランドの資金を確保したディズニー社は1955年のディズニーランド開業の模様を生中継で放映しました。

1955年 – 54歳「ディズニーランド開業」

「わんわん物語」の公開

わんわん物語

1937年に、ディズニー・スタジオに所属していたジョー・グラントが原案を描いたラブストーリー。当初は浮浪者と貴婦人の恋物語という内容だったのですが、ウォルトがグラントの自宅を訪れた際に見た愛犬のスケッチを気に入り、犬の物語にしてみてはどうかと提案いたしました。

その後、意見の相違によりグラントはディズニー社を退社、このプロジェクトは別スタッフたちの手によって行われました。本作は、93.6万ドルの興行収入を記録、日本でも2回公開され、合計で4億円ほどの興行収入を記録しました。

ディズニーランド開業

ディズニーランド内のブロンズ像

1955年7月17日、カリフォルニア州アナハイムに世界初の「ディズニーランド」が開業いたしました。ウォルトは建設中、毎日この土地を訪れ、子供目線になってアトラクションなどをチェックし、建物などの配置を変更したという逸話が残されております。それだけ、このプロジェクトへの思いが強かったのでしょう。

開業セレモニーにはカリフォルニア州知事などが訪れ、来訪者の中には後の大統領であるロナルド・レーガンの姿もありました。この模様は番組「ディズニーランド」にて生中継され、全米に届けられました。開業後、様々なトラブルに見舞われながらも、1年で入場客数は400万人を突破いたしました。

1964年 – 63歳「「メリー・ポピンズ」の公開」

メリーポピンズ

「メリー・ポピンズ」

原作はパメラ・L・トラヴァースの児童文学。1934年から1988年の長期にわたって連載された人気シリーズで、バンクス夫妻の4人の子供達とその家庭教師であるメアリー・ポピンズの日常を描いた作品。2004年からはミュージカルとして上演され、日本でも2018年に上演されております。

本作を映画化する際、ウォルトは原作者のトラヴァースに映画科を申し込むも幾度となく拒否されました。この制作背景の模様は、2013年に公開された「ウォルトディズニーの約束」という作品で描かれております。その後、1964年に公開されるとその年の第37回アカデミー賞で最多13部門にノミネートされ、主演女優賞を含む5部門を受賞しました。

1966年 – 65歳「肺がんによる肺炎のため逝去」

フロリダ・ディズニーワールド

ディズニー・ワールド構想

1959年に、ディズニー社は2つ目のディズニーランドを建設することを発案しました。この時、ディズニーランドの来場者は、土地的に近い西海岸からの来客が多く、東海岸からの来客は少ないという上京でした。そこで、ウォルトは東海岸のフロリダ州オーランドに目をつけ、この地にランドよりも広大な「ディズニーワールド」を建設することを発表しました。

このワールド内にウォルトは、孫たちが安心して暮らせる近未来型の都市というコンセプトの「EPCOT」という未来都市計画を発案しました。ちなみに、EPCOTは現在もワールド内の一つのエリアとして存在します。

肺がんによる肺炎のため逝去

ジャングルブック

しかし、このころからウォルトは肺癌を患い、闘病生活を送っておりました。その中で、一度だけスタジオを訪れた際、スタッフたちはウォルトの病状の深刻さを痛感しました。そして、帰り際、いつもは「See You(またな)」と言っていたところ、「Good-bye(さよなら)」と言い残しました。

そして、1966年12月15日バーバンク市内の病院で、肺癌による肺炎のためウォルトはその人生に幕を下ろしました。翌年、遺作となった「ジャングル・ブック」が公開され、この作品は大きな反響を呼び、興行収入205.8万ドルを記録しました。

ウォルトディズニーの関連作品

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創造の狂気・ウォルトディズニー

ウォルト・ディズニーについて描かれた伝記。全618ページと大ボリュームですが、上記で記述した以外の作品や周辺の人物との関係性など事細かに描かれている一冊です。

表には描かれない闇の部分についての記述があるのも特徴的です。

ウォルトディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版

ウォルトディズニーの生涯について書いた伝記。兄であるロイとの関係性などが多く描かれていて、作品の設定や裏話なども記述されているディズニーファン必読の1冊です。

角川まんが学習シリーズ まんが人物伝 ウォルト・ディズニー

角川書店から刊行されている「まんが人物伝シリーズ」の1冊。子供向けの可愛らしいイラスト共に、その人物の偉業などを丁寧に描いた内容となっております。

コラムなども充実していて、子供でも読みやすい1冊となっております。

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トゥモローランドについて語るウォルト・ディズニー

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ウォルト・ディズニーの約束

パメラ・L・トラヴァースとウォルト・ディズニーの「メリー・ポピンズ」の制作秘話を描いた映画。
タイトルにウォルトの名前が記載されておりますが、この映画の主人公はトラヴァースです。

この映画では、芸術家としてのウォルト・ディズニーの一面が垣間見えます。

シンデレラ

ウォルト自身、一番好きな作品と公言した作品。2015年には実写映画化もされました。

ちなみに、ウォルトが好きなシーンはシンデレラのドレスアップのシーンだそうです。

メリー・ポピンズ

上記の「ウォルト・ディズニーの秘密」内で製作された映画。

2018年には54年ぶりとなる続編の「メリー・ポピンズ リターンズ」が公開されました。

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ウォルトディズニーについてのまとめ

ウォルト・ディズニーというと夢の国を作った創造者としての一面と、愛国主義など政治的な暗い一面を併せ持った人物というイメージがありました。

しかし、その生涯を調べたことで、本質的に人を喜ばせることが好きな人物であったというのを感じました。彼の遺志を継いだディズニースタジオは今もなお、様々な作品を生み出し続けております。

また、多くの人が非日常を味わえる「夢の国」の魅力に惹かれる理由が少しだけ分かりました。これからも、ウォルト・ディズニーが生み出したエンターテイメントを家族や友人と共に楽しめる、平和な世の中でありたいですね。

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