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盧溝橋事件とは?きっかけや真相、場所など分かりやすく簡単解説

盧溝橋事件とは1937年、中華人民共和国北京市郊外に架かる盧溝橋という橋で、日本軍と中国軍とが戦闘になった事件です。この事件が結果的に、1945年まで続いた日中戦争の始まりとなってしまいました。

盧溝橋

盧溝橋事件はなぜ起こったのでしょうか?

実は、勃発当初から多くの謎を孕んでいた事件でした。想像を絶する数の犠牲者を出した日中戦争の発端という重要な事件であるにも関わらず、未だに歴史学者の中でも様々な説が出されているのです。中には日本軍による自作自演ではないかとの説もあります。

この記事では、これまでに出されている盧溝橋事件の真相に迫る説を紹介するとともに、事件の背景や結果についても触れていきます。

盧溝橋事件とは何なのか?といった説明から、事件当日の動き、盧溝橋事件とよく間違われる柳条湖事件、上海事変の解説もしていきますので、この記事を最後まで読めば、盧溝橋事件の全体像が掴めるはずです。どうぞ最後までお付き合いください。

盧溝橋事件とは

日本軍と中国軍の衝突事件

「盧溝暁月」の石碑

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、1937年7月7日夜に北京郊外の盧溝橋付近で起こった、中国北部駐屯日本軍部隊と中国第29軍との衝突事件です。

盧溝橋は永定河に架かる橋です。「東方見聞録」で有名な13世紀のイタリア人商人マルコ・ポーロが渡ったことでも知られる橋であることから、盧溝橋事件は英語で “Marco Polo Bridge Incident”、もしくは “Battle of Marco Polo Bridge” といった呼び方をされることもあります。

また、以前は「盧溝橋」を「蘆溝橋」という表記もされていましたが、中国政府によって1981年に「盧溝橋」という表記に統一されました。これは盧溝橋に立っている、清時代の皇帝・乾隆帝がここで月見を楽しんだという「盧溝暁月」と書かれた石碑の表記を尊重して、決定されたそうです。

盧溝橋事件の経緯

7月7日

盧溝橋事件での日本軍・中国軍の動き

7月7日22時30〜40分ごろ、夜間演習をしていた日本軍第八中隊で、突如数発の実弾が発射された音と光が確認されます。清水中隊長は兵士を集めると、志村菊次郎という兵士が行方不明になっていることが分かりました。清水中隊長は第三大隊本部へ報告の伝令を出すとともに、志村の捜索と応戦の準備に入ります。

志村は20分後に隊に戻りました。この空白の20分間は、道に迷った、もしくは用便を済ませていたという説があります。しかし本部に志村が帰隊したという報告はされないままでした。

清水中隊長からの報告が一木清直大隊長に届いたのが、日付が変わる直前の頃でした。一木大隊長はすぐさま牟田口廉也連隊長に連絡します。河邊旅団長が出張で不在であった当時、牟田口は旅団を動かす権限を持つ人物でした。

7月8日

一木清直大隊長

日付が変わってすぐ、牟田口連隊長は一木大隊長に盧溝橋への出動を命じます。そして赤藤憲兵分隊長に中国側の動向を探らせます。

午前0時20分、松井特務機関長が牟田口連隊長より報告を受けます。特務機関とは、諜報・謀略などを行っていた組織です。

午前1時45分、松井特務機関長は事件拡大防止のため、現地に代表を派遣することを提案します。

午前2時3分、一木大隊長が清水中隊長と合流し、ここで志村の帰隊を確認します。しかし、部隊長からはこの一件について中国と交渉するように指示があったので、まずは一文字山付近を占領してから中国側との交渉に入るべきという一木大隊長の判断で、一文字山占領に向けて行動が開始されます。

午前2時20分、特務機関も志村の無事を確認します。しかし日本軍の演習を邪魔して不法に発砲したのは皇軍に対する最大の恥辱であるとし、中国側との交渉に臨むことになりました。

午前2時30分、赤藤憲兵分隊長よりの調査報告が牟田口連隊長のもとに届きました。その結果牟田口は、この一連の出来事は中国側の計画的行為ではなく、盧溝橋付近の局所的突発事件と判断するに至ります。

午前3時25分、再び発砲音が聞こえますが、誰を狙ったものかは定かではありません。

午前3時半、日本と中国の事件調査団が現地へ向けて出発します。

午前4時20分、牟田口連隊長が一木大隊長へ戦闘開始命令を出します。不法発砲した中国軍に鉄鎚を加えて皇軍の威武を示すべきだとの判断で出された命令でした。戦闘が始まるも、5時ごろ砲撃は一旦中止されます。

午前5時30分、再び戦闘が始まり、日本軍と中国軍の全面衝突となりました。

午前7時半、激しい戦闘は収束します。しかし、しばらくは散発的な戦闘が続きました。

盧溝橋事件の背景と結果

盧溝橋事件が勃発した原因

義和団事件に対して派遣された八カ国連合軍

そもそも、なぜ中国に日本軍が駐留していたのでしょうか?

1900年、列強の中国進出に反対して起きた、義和団という中国民衆の秘密結社による暴動事件 “義和団事件” に対し、中国にいる自国の外交官や居留民を救出する名目で、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストリアは北京へ軍隊を派遣します。

その後調印された北京議定書で、中国は外国の守備兵を駐留させることを認めたのです。盧溝橋付近にいた日本軍は、在留邦人の保護のために編成された、支那駐屯軍と呼ばれるものでした。

満州事変の事後処理として1933年に結んだ日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)の段階で、関東軍や軍中央部の一部では、華北を国民党政権の影響力が及ばない地帯にしたいと考えていました。そこを中国本土進出のための足掛かりにしたいと考えていたのです。

そのため1935年以降、日中軍事停戦協定の非武装地帯に、日本の傀儡政権ともいえる冀東防共自治政府を成立させます。そして中国国民政府から切り離す工作、通称 “華北分離工作” を進めていきます。

当時中国では蒋介石が指導する国民党と、毛沢東が指導する共産党の内戦が続いていました。しかし、日本の華北進出の強化に危機感を抱き、1936年の西安事件をきっかけに、国共合作・抗日民族統一戦線へと向かうことになります。日中間の緊張は大いに高まっていました。

盧溝橋事件の結末

蒋介石

7月8日以降、時折戦闘が勃発しつつも、停戦に向けた話し合いが続きました。11日、現地で停戦協定が成立します。しかし日本政府は、当初は戦線不拡大の方針であったものの、陸軍や政府の強硬派の意見に押され、停戦協定が結ばれた11日に華北への派兵を決定するのです。

中国側も、日本政府の強硬姿勢によって抗戦の気運を高めていきます。7月17日には、蒋介石が “最後の関頭” と呼ばれる応戦の決意表明をしました。それを受けて日本の華北制圧への動きはさらに加速することになります。7月28日、北京・天津地帯に対する日本の総攻撃が始まりました。

日中戦争へと発展した経緯

上海海軍特別陸戦隊

当初は中国北部だけの北支事変でしたが、8月9日、上海陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵1名が中国保安隊に射殺される事件が起きます。第二次上海事変です。これをきっかけに、13日には日中両軍の戦闘が勃発しました。日本は上海派遣軍を編成するだけでなく、杭州・南京への空爆も行い、瞬く間に戦線が拡大していきます。

結果的には、この第二次上海事変が日中全面戦争への道を決定づけるものとなりました。日中戦争は戦争の開始を示す宣戦布告や最後通牒などがない中で展開したため、明確な始まりはありませんが、盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変が日中戦争の端緒を開いたというのが、今日では定説となっています。

1930年代の日中関係

柳条湖事件から満州事変へ

柳条湖事件

1931年に起きた柳条湖事件は、盧溝橋事件と間違える人がとても多い事件です。

柳条湖事件は、盧溝橋事件より前の1931年9月18日夜に起きた、関東軍が南満州鉄道線路を奉天郊外の柳条湖で爆破した事件です。関東軍はこれは中国軍の行為と主張して報復のための軍事行動に出ます。その結果、満州事変へと発展していくのです。

柳条湖事件に関しては、石原莞爾や板垣征四郎らが立てた計画に基づいて行われた謀略事件であったことが、現在は史料からわかっています。ただ事件勃発当時は国民へ真相は知らされず、全てが公になったのは戦後のことでした。

満州は日露戦争以来、重工業発展のための資源供給地であり、またソ連に対する戦略拠点としても重要視され、”日本の生命線” と呼ばれていました。しかし中国は、列強諸国に与えていた権益の回復に乗り出していたため、日本は危機感を募らせていきます。

また、柳条湖事件を計画した石原莞爾は、近い将来に日米間で世界最終戦争が起こると主張していた人物です。そのためにも満州は日本の重要な補給地であるとして、満州を占領すべく強引な既成事実を作ってしまおうと満州事変を計画したのです。

石原莞爾

石原莞爾も板垣征四郎も、満州を占領して日本の領土にするつもりでした。しかし国際関係を気にする軍内部の反対もあって、親日政権樹立へと方針を変え、清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を迎え、新国家樹立を目指します。これが1932年3月の「満州国」建国宣言へとつながるのです。

満州事変は、1931年9月の柳条湖事件から1933年5月に結ばれた日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)までの、日本による侵略戦争を指します。

なお、柳条湖事件から第二次世界大戦の終結までをまとめて、”十五年戦争” という呼び方をすることもあります。しかし日中軍事停戦協定から盧溝橋事件までの期間は日中間で戦闘行為がなかったことから、”十五年戦争” という表現は学問的に不正確という説も有力です。

上海事変とは

第一次上海事変

上海事変も盧溝橋事件と混乱する人が多いですが、これは第一次と第二次があり、どちらも日本軍と中国軍の武力衝突です。第二次上海事変は盧溝橋事件後の1937年8月13日に起きたもので、前述した通り、中国との戦線拡大のきっかけとなり、南京事件へと突き進んでいくことになりました。

第一次上海事変は、1932年1月28日、日本人僧侶が殺害されたのを機に日本軍と中国軍が戦闘になったものです。中国軍の頑強な抵抗が続き、日本軍は海軍陸戦隊(上海の租界を警備するための、海軍による陸上戦闘部隊)に加えて陸軍部隊も増援に入る激戦となります。しかし列強が日本の侵略行為に非難の声を上げたこともあり、5月5日には停戦に至ります。

この事変は戦後になって、日本軍による謀略であったことが明るみになりました。柳条湖事件以降、満州に注目していた列強の視線を逸らすのが目的で計画され、板垣征四郎が中国人を買収し日本人僧侶を襲わせたのです。

第一次上海事変は、日本が国際的な孤立を大きく深める局地戦争であったという点に注目しましょう。この戦闘で上海市街は大きな被害を受けました。上海はイギリスやアメリカなどの租界地であったこともあり、日本は国際的な非難に晒されることとなります。そして1933年3月に日本は国際連盟脱退を通告する事態に至るのです。

盧溝橋事件の真相

日本軍による自作自演という説

盧溝橋事件を報じる7月10日の新聞

盧溝橋事件が日本軍による自作自演であったという説は根強くあります。その根拠として、まずは柳条湖事件や第一次上海事変が謀略であったことが挙げられるでしょう。盧溝橋事件についても同様のことと疑うのも納得できます。

次に、7月7日は軍事演習の最終日であり、謀略に都合の良い日取りであったとも言われます。また、演習を指揮していた人物が、盧溝橋の中国軍を目標に軍事演習を繰り返していたという証言をしていることも、日本軍による謀略説を裏付けているとされています。つまり、軍事演習は奇襲攻撃の練習をしていたと捉えられたわけです。

結論から言うと、現在においても真相ははっきりしていません。7月7日の最初の発砲音がどこから、誰に向けられたものだったのかが分からないためです。

盧溝橋事件の真相として、日本軍の自作自演であったという説以外に2つの説も挙げられています。

まずは中国共産党の計画的犯行説です。日本軍と主に戦っていた中国軍というのは、共産党軍ではなく国民党軍でした。中国共産党にとっては、日本と国民党が戦って共倒れになってくれれば有り難いという意図があったというのです。実際に毛沢東は、盧溝橋事件の翌日に、即時開戦を呼びかける檄文を蒋介石に送っています。

毛沢東と蒋介石

もう一つは、盧溝橋事件が偶発的な事件であったという説です。中国軍と日本軍がそう遠くない場所で駐屯しており、軍事演習を行っていたわけですから、何かのきっかけで偶然発砲に至ってしまう状況も、想像することはできます。

ただし、どの説も全て推測の域を出ない説であることは念頭におくべきです。そして、どんな理由であれ、盧溝橋事件が日中戦争へと発展してしまうきっかけになったことは事実ですので、そこから目を背けることはできません。

盧溝橋事件を指揮した牟田口廉也

牟田口廉也

盧溝橋事件を知りたいと少しでも調べ始めると、必ずといっていいほど出てくるのが牟田口廉也という陸軍軍人の名前です。牟田口連隊長が戦闘命令を出したことで盧溝橋事件は日中の軍事衝突となり、ひいては日中戦争につながったとして、牟田口を “愚将” と評する人も少なくありません。

牟田口廉也は陸軍大学校を卒業後、参謀としてのキャリアを築く予定の軍人でした。ところが二・二六事件で牟田口は出身地の関係からクーデターの支持グループと見なされ、支那駐屯軍の連隊長に “異動” させられてしまいます。そもそも前線での指揮経験がない牟田口が、盧溝橋に配置されたというこの状況が不幸の始まりでした。

盧溝橋事件に関して牟田口は手記を残しており、それを読むと牟田口が戦闘命令を出すに至る経緯がわかります。

牟田口は、盧溝橋での一件が中国の計画的犯行でもなく、局所的な突発事件であったことを認識していました。特務機関も、事態収束の方向で動いていました。しかし、近年の日本軍に対する中国軍の敵対行為は許すわけにいかない、大いなる鉄鎚を加えるべきだとして、戦闘開始命令を出したというのです。

この牟田口の判断は非難されて然るべきですが、陸軍や政府の強硬派はもとより、言論機関なども当時は同じ論理で軍事行動拡大を唱えていました。その点も見過ごしてはいけません。

インパール平和資料館

牟田口廉也が酷評される理由として、盧溝橋事件の端緒を開いたことのほかに、太平洋戦争の中でも最も無謀な作戦として知られる、インパール作戦の司令官であったことも挙げられます。

インパール作戦とは、1944年3月に開始された、ビルマからインドへの日本軍による侵攻作戦です。作戦の計画段階から無謀すぎると多くの反対があったものを押し切って実行し、弾薬不足と飢餓のために戦死者3万人、病死者2万人を出して7月に作戦は中止されました。

注目すべきは、インパール作戦も盧溝橋事件と同じく、牟田口の上司に河邊正三がいたという点です。盧溝橋事件当時、河邊は出張していて不在であったので、事後報告として後日牟田口から話を聞くことになりましたが、河邊はもはや何を言っても仕方がないと思ったのか、牟田口に対して無言を貫きます。

インパール作戦も、計画段階で多くの軍司令部の反対が叫ばれる中で、河邊だけが牟田口の作戦を支持しました。そして実行されます。牟田口が例え “愚将” であったとしても、その上司が牟田口を抑えることができていたならば、歴史は大きく違っていたかもしれません。

「ひぐらしのなく頃に」で注目される盧溝橋事件

盧溝橋事件は、ゲームやアニメ、映画などメディアミックスで展開された「ひぐらしのなく頃に」という作品でも注目されました。

「ひぐらしのなく頃に」は、雛見沢村という架空の村を舞台に起こるミステリーを描いたもので、そこで流行る “雛見沢症候群” という風土病がトリックとして出てきます。この病にかかると極度の不信感に襲われ、惨劇に発展してしまうという設定です。

この作品の中では、雛見沢症候群を発症していた兵士が日本軍にいたため、最初の発砲事件を起こし、盧溝橋事件に至ったとされています。

これはもちろんフィクションです。しかし、不安に駆られて発砲した兵士の銃声が盧溝橋事件のきっかけになってしまったという説を、実際に唱えている人もいます。「ひぐらしのなく頃に」がこれだけ話題になったのは、リアリティとフィクションの絶妙なバランスが多くの人を魅了したからと言えるでしょう。

盧溝橋事件に関する本

近代日本と軍部 1868-1945

戊辰戦争や西南戦争で、旧幕府軍だけでなく新政府側も多くの同郷の人々の犠牲を払い、成立したのが明治政府でした。明治政府の首脳部はその痛みも理解していたはずなのに、なぜ軍部は暴走してしまう結果になったのか?長らく疑問に思っていました。この本はそんな疑問の解決に最適でした。

日中戦争を考える上で、その一時期だけの軍部の様子を切り取っても、表面的な理解しかできません。遠回りなようですが、まずは歴史の流れを知ることが、盧溝橋事件や日中戦争を理解するには不可欠だと感じます。

華北駐屯日本軍――義和団から盧溝橋への道

日中戦争に焦点を当てた本は多く出版されていますが、盧溝橋事件の背景となる、日本軍が中国に部隊を駐屯させることになった状況を解説しているという点で珍しく、とても興味深いものでした。また、地図も載っているので、中国の地理にあまり詳しくなくても理解しやすいです。

盧溝橋事件について詳しく知りたいと思うなら、まずはぜひこの本を一読することをおすすめします。

牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか

牟田口廉也については最初から否定的なイメージで見てしまう人が多いですが、この本はそういった先入観抜きに牟田口を扱っている点が良かったです。結果的に牟田口を「愚将」だと評価するにせよ、知識を得た上での判断が大切だと思います。

また、組織にとって人事がいかに重要かという話も出てきますが、これはどんな社会においても応用できる話です。例えば新撰組は、局長が近藤勇で、副長を土方歳三が務めたからこそ、強い組織になったと言われています。歴史は失敗から学ぶべきことが多い学問だと感じます。

盧溝橋事件に関するまとめ

いかがでしたか?盧溝橋事件のことが少しでも掴めたでしょうか?

日本の近現代史はややこしい時代ですが、太平洋戦争前後は特に理解が難しく、学校の歴史の授業でもあまり深く学ぶ時間が取れないため、よく分からないという人が多いかもしれません。

しかし盧溝橋事件は、日中戦争の発端でもあり、今でも中国との関係を考える上では外せないものです。中国では七七事変と呼ばれ、7月7日は盧溝橋事件が起こった日と意識して過ごす人も多くいます。

単なる歴史上の事件の一つとしてだけではなく、今の自分たちにも関係がある地続きの歴史と捉えて考える人が増えていくと、これからの中国との関係性にも新しい道が見えてくるかもしれません。

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