盧溝橋事件の真相
日本軍による自作自演という説
盧溝橋事件が日本軍による自作自演であったという説は根強くあります。その根拠として、まずは柳条湖事件や第一次上海事変が謀略であったことが挙げられるでしょう。盧溝橋事件についても同様のことと疑うのも納得できます。
次に、7月7日は軍事演習の最終日であり、謀略に都合の良い日取りであったとも言われます。また、演習を指揮していた人物が、盧溝橋の中国軍を目標に軍事演習を繰り返していたという証言をしていることも、日本軍による謀略説を裏付けているとされています。つまり、軍事演習は奇襲攻撃の練習をしていたと捉えられたわけです。
結論から言うと、現在においても真相ははっきりしていません。7月7日の最初の発砲音がどこから、誰に向けられたものだったのかが分からないためです。
盧溝橋事件の真相として、日本軍の自作自演であったという説以外に2つの説も挙げられています。
中国共産党の計画的犯行説
まずは中国共産党の計画的犯行説です。日本軍と主に戦っていた中国軍というのは、共産党軍ではなく国民党軍でした。
盧溝橋事件で日本と戦ったのは、中国国民党と言って、1919年に孫文が結党しました。孫文の死後、1928年に蒋介石を主席とした国民政府が誕生しています。一方の中国共産党は毛沢東が創立党員だったことで有名です。現在も中国では事実上、中国共産党の一党独裁が続いています。
この2つの党は1920年代と40年代に2度の内戦をしています。その結果、国民党は台湾に移転しました。現在の中国と台湾の関係を見てもわかるように、対立は解消されていません。
中国共産党にとっては、日本と国民党が戦って共倒れになってくれれば有り難いという意図があったというのです。実際に毛沢東は、盧溝橋事件の翌日に、即時開戦を呼びかける檄文を蒋介石に送っています。
驚いて発砲したのが事件の真相?
事件のきっかけとなった数発の実弾。最初に撃ったのは、中国の国民党革命軍第二十九軍の兵士だったと言われています。理由は、日本軍が演習中に発射した軽機関銃の音に驚いたからだと言われています。
第二十九軍は1933年の長城抗戦で日本軍に破れていますが、その後は河北省に進出して、兵力を増やしています。国民党は第二十九軍に中堅将校を投入して、抗日の気運を保っていましたが、それだけでなく、中国共産党の幹部たちまでが第二十九軍で活動しており、日本に対して様々な事件を起こしていました。
確かにきっかけは驚いて発砲したことでしたが、日本軍と第二十九軍が近くで駐屯していたら、遅かれ早かれこのような事件が起きたのかもしれません。
ただし、どの説も全て推測の域を出ない説であることは念頭におくべきです。そして、どんな理由であれ、盧溝橋事件が日中戦争へと発展してしまうきっかけになったことは事実ですので、そこから目を背けることはできません。
事件が発覚したのは兵士1名のトイレが原因?
盧溝橋事件には、日本軍の兵士がトイレに行ったことが大きく関係していると言われています。
7月7日午後10時40分頃に、実弾が撃ち込まれた後に、兵士が1名行方不明になったことで騒ぎが大きくなりました。
先程も紹介しましたが、行方不明になった兵士の名前は志村菊次郎。彼は部隊の中で命令を伝達する伝令という役割でした。実弾を打ち込まれた直後に兵士の無事を点検したところ、志村が行方不明になっていることが発覚したのです。
実弾を撃ち込まれ、しかも日本兵が1人犠牲になっているかもしれない、こう考えて日本軍は中国軍に応戦しましたが、実は志村がトイレに行っていただけだったため、20分後には発見されています。
トイレで20分は長いように感じるかもしれませんが、屋外にきちんとしたトイレがあるわけでもなく、現代の私たちが想像できない苦労があったのでしょう。
志村発見の知らせはなぜか部隊の大隊長には届かず、日本は中国に反撃を続け、後に盧溝橋事件と呼ばれることになりました。盧溝橋事件の原因は兵士がトイレに行ったことではなく、伝達の不手際が原因だったのかもしれません。
盧溝橋事件の結果とその後の影響
盧溝橋事件の結末
7月8日以降、時折戦闘が勃発しつつも、停戦に向けた話し合いが続きました。11日、現地で停戦協定が成立します。しかし日本政府は、当初は戦線不拡大の方針であったものの、陸軍や政府の強硬派の意見に押され、停戦協定が結ばれた11日に華北への派兵を決定するのです。
中国側も、日本政府の強硬姿勢によって抗戦の気運を高めていきます。7月17日には、蒋介石が “最後の関頭” と呼ばれる応戦の決意表明をしました。それを受けて日本の華北制圧への動きはさらに加速することになります。7月28日、北京・天津地帯に対する日本の総攻撃が始まりました。
日中戦争へと発展した経緯
当初は中国北部だけの北支事変でしたが、8月9日、上海陸戦隊の大山勇夫中尉と水兵1名が中国保安隊に射殺される事件が起きます。第二次上海事変です。これをきっかけに、13日には日中両軍の戦闘が勃発しました。
日本は上海派遣軍を編成するだけでなく、杭州・南京への空爆も行い、瞬く間に戦線が拡大していきます。
結果的には、この第二次上海事変が日中全面戦争への道を決定づけるものとなりました。日中戦争は戦争の開始を示す宣戦布告や最後通牒などがない中で展開したため明確な始まりはありませんが、盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変が日中戦争の端緒を開いたというのが、今日では定説となっています。
日本悪しか言わない。 盧溝橋事件は共産党の罠でしょう。
国民党と日本軍を争わせ、漁夫の利を得るための工作です。中国人、朝鮮人ともに嘘つきの裏切り者です。 通種事件の鬼畜ぶり、それを南京事件と世界に宣伝しました。
人食いのシナ人、戦後もおそらく8000万人の人を殺した、それを食いました。
日中戦争も大東亜戦争も嵌められた戦争です。