盧溝橋事件とはなに?トイレが原因?きっかけや場所、真相を簡単に解説

盧溝橋事件を指揮した牟田口廉也

牟田口廉也

盧溝橋事件を知りたいと少しでも調べ始めると、必ずといっていいほど出てくるのが牟田口廉也という陸軍軍人の名前です。牟田口連隊長が戦闘命令を出したことで盧溝橋事件は日中の軍事衝突となり、ひいては日中戦争につながったとして、牟田口を “愚将” と評する人も少なくありません。

牟田口廉也とはどんな人物か

牟田口廉也は多磨霊園に葬られている
出典:Wikipedia

牟田口廉也は陸軍大学校を卒業後、参謀としてのキャリアを築く予定の軍人でした。ところが二・二六事件で牟田口は出身地の関係からクーデターの支持グループと見なされ、支那駐屯軍の連隊長に “異動” させられてしまいます。

そもそも前線での指揮経験がない牟田口が、盧溝橋に配置されたというこの状況が不幸の始まりでした。

盧溝橋事件に関して牟田口は手記を残しており、それを読むと牟田口が戦闘命令を出すに至る経緯がわかります。

中国軍への見せしめのつもりだった

牟田口は、盧溝橋での一件が中国の計画的犯行でもなく、局所的な突発事件であったことを認識していました。特務機関も、事態収束の方向で動いていました。

しかし、近年の日本軍に対する中国軍の敵対行為は許すわけにいかない、大いなる鉄鎚を加えるべきだとして、戦闘開始命令を出したというのです。

この牟田口の判断は非難されて然るべきですが、陸軍や政府の強硬派はもとより、言論機関なども当時は同じ論理で軍事行動拡大を唱えていました。その点も見過ごしてはいけません。

牟田口の上司にも責任があった

インパール平和資料館

牟田口廉也が酷評される理由として、盧溝橋事件の端緒を開いたことのほかに、太平洋戦争の中でも最も無謀な作戦として知られる、インパール作戦の司令官であったことも挙げられます。

インパール作戦とは、1944年3月に開始された、ビルマからインドへの日本軍による侵攻作戦です。作戦の計画段階から無謀すぎると多くの反対があったものを押し切って実行し、弾薬不足と飢餓のために戦死者3万人、病死者2万人を出して7月に作戦は中止されました。

注目すべきは、インパール作戦も盧溝橋事件と同じく、牟田口の上司に河邊正三がいたという点です。盧溝橋事件当時、河邊は出張していて不在であったので、事後報告として後日牟田口から話を聞くことになりましたが、河邊はもはや何を言っても仕方がないと思ったのか、牟田口に対して無言を貫きます。

インパール作戦も、計画段階で多くの軍司令部の反対が叫ばれる中で、河邊だけが牟田口の作戦を支持しました。そして実行されます。牟田口が例え “愚将” であったとしても、その上司が牟田口を抑えることができていたならば、歴史は大きく違っていたかもしれません。

盧溝橋事件についてよく分かる本

「ひぐらしのなく頃に」で注目される盧溝橋事件

盧溝橋事件は、ゲームやアニメ、映画などメディアミックスで展開された「ひぐらしのなく頃に」という作品でも注目されました。

「ひぐらしのなく頃に」は、雛見沢村という架空の村を舞台に起こるミステリーを描いたもので、そこで流行る “雛見沢症候群” という風土病がトリックとして出てきます。この病にかかると極度の不信感に襲われ、惨劇に発展してしまうという設定です。

この作品の中では、雛見沢症候群を発症していた兵士が日本軍にいたため、最初の発砲事件を起こし、盧溝橋事件に至ったとされています。

これはもちろんフィクションです。しかし、不安に駆られて発砲した兵士の銃声が盧溝橋事件のきっかけになってしまったという説を、実際に唱えている人もいます。「ひぐらしのなく頃に」がこれだけ話題になったのは、リアリティとフィクションの絶妙なバランスが多くの人を魅了したからと言えるでしょう。

近代日本と軍部 1868-1945

戊辰戦争や西南戦争で、旧幕府軍だけでなく新政府側も多くの同郷の人々の犠牲を払い、成立したのが明治政府でした。明治政府の首脳部はその痛みも理解していたはずなのに、なぜ軍部は暴走してしまう結果になったのか?長らく疑問に思っていました。この本はそんな疑問の解決に最適でした。

日中戦争を考える上で、その一時期だけの軍部の様子を切り取っても、表面的な理解しかできません。遠回りなようですが、まずは歴史の流れを知ることが、盧溝橋事件や日中戦争を理解するには不可欠だと感じます。

華北駐屯日本軍――義和団から盧溝橋への道

日中戦争に焦点を当てた本は多く出版されていますが、盧溝橋事件の背景となる、日本軍が中国に部隊を駐屯させることになった状況を解説しているという点で珍しく、とても興味深いものでした。また、地図も載っているので、中国の地理にあまり詳しくなくても理解しやすいです。

盧溝橋事件について詳しく知りたいと思うなら、まずはぜひこの本を一読することをおすすめします。

牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか

牟田口廉也については最初から否定的なイメージで見てしまう人が多いですが、この本はそういった先入観抜きに牟田口を扱っている点が良かったです。結果的に牟田口を「愚将」だと評価するにせよ、知識を得た上での判断が大切だと思います。

また、組織にとって人事がいかに重要かという話も出てきますが、これはどんな社会においても応用できる話です。例えば新撰組は、局長が近藤勇で、副長を土方歳三が務めたからこそ、強い組織になったと言われています。歴史は失敗から学ぶべきことが多い学問だと感じます。

盧溝橋事件に関するまとめ

いかがでしたか?盧溝橋事件のことが少しでも掴めたでしょうか?

日本の近現代史はややこしい時代ですが、太平洋戦争前後は特に理解が難しく、学校の歴史の授業でもあまり深く学ぶ時間が取れないため、よく分からないという人が多いかもしれません。

しかし盧溝橋事件は、日中戦争の発端でもあり、今でも中国との関係を考える上では外せないものです。中国では七七事変と呼ばれ、7月7日は盧溝橋事件が起こった日と意識して過ごす人も多くいます。

単なる歴史上の事件の一つとしてだけではなく、今の自分たちにも関係がある地続きの歴史と捉えて考える人が増えていくと、これからの中国との関係性にも新しい道が見えてくるかもしれません。

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1 COMMENT

匿名

日本悪しか言わない。 盧溝橋事件は共産党の罠でしょう。
国民党と日本軍を争わせ、漁夫の利を得るための工作です。中国人、朝鮮人ともに嘘つきの裏切り者です。 通種事件の鬼畜ぶり、それを南京事件と世界に宣伝しました。
人食いのシナ人、戦後もおそらく8000万人の人を殺した、それを食いました。
日中戦争も大東亜戦争も嵌められた戦争です。

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