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【年表付】レッドツェッペリンの歴史や功績、名曲、代表アルバムまとめ

2018年に結成50周年を迎えた世界を代表するロックバンド「レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)」。1968年にイギリスで結成されたこのバンドは数々の作品と伝説を残しました。

レッド・ツェッペリン

日本ではドイツ式の「レッド・ツェッペリン」という発音で呼ばれますが、イギリスでは「レッド・ゼッペリン」と呼ばれています。

この記事では、そんな偉大なロックバンド「レッド・ツェッペリン」の軌跡を、代表曲や代表アルバムと共にご紹介したいと思います。

レッド・ツェッペリンってどんなバンド?

レッド・ツェッペリンのプロフィール

名前レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)
ジャンルハードロック
イギリス
結成1968年
解散1980年
メンバー
ジミー・ペイジ(Jimmy Page)ーギター
ロバート・プラント(Robert Plant)ーボーカル
ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)ーベース・キーボード
ジョン・ボーナム(John Bonham)ードラム

レッド・ツェッペリンは1968年にイギリスで結成されたロックバンドで、歪んだエレキギターを大音量で演奏するハードロックの先駆けとなったバンドと言われています。

メンバーはギタリスト兼リーダーのジミー・ペイジ、ボーカルのロバート・プラント、ベース・キーボードのジョン・ポール・ジョーンズに、ドラマーのジョン・ボーナムの4人です。

1980年にジョン・ボーナムが急逝してバンドは解散してしまいますが、12年間の活動期間中に9枚、解散後に3枚のアルバムを発売しました。

ローリングストーン誌が選ぶ「最も偉大なハードロックアーティスト」で第1位に選ばれ、現在でも人気の衰えない伝説のロックバンドです。

レッドツェッペリンの名前の由来

キース・ムーン

レッド・ツェッペリンというバンド名はザ・フーのドラマーであるキース・ムーンの言葉から生まれたものでした。

1966年にジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンス、キース・ムーンの5人でレコーディングが行われました。このセッションがとても充実していたのでバンドとして活動していく計画を5人は立てます。

しかし良いボーカリストが見つからず、結局このプロジェクトは途中で頓挫してしまい結成は叶いませんでした。その際、ムーンが「おれたちがもし今のバンドを辞めていたら、鉛でできた風船みたいに急降下しただろう(go down like a lead balloon)」と表現したと言います。この言葉をもとに「レッド・ツェッペリン」という名前が生まれました。

ツェッペリン飛行船

本来「鉛」を意味する単語は「Lead(レッド)」ですが、導くという意味の「Lead(リード)」と間違われないように‟A”を省き「Led」としました。ツェッペリンは飛行船の一種であるツェッペリン飛行船のことで、大事故を起こしたヒンデンブルク号をもじってバルーンから変更されました。

またツェッペリンの使用をめぐって、ツェッペリン飛行船の開発者の子孫から無断使用で訴えられそうになり、一時的に「ザ・ノブス」と名乗っていたこともありました。

レッド・ツェッペリンの音楽性や特徴

レッド・ツェッペリンの音楽性はとても一言では言い表せません。激しいハードロックからアコースティックギターが美しいフォークロック、果てにはストリングスが壮大なクラシカルな曲まで多種多様です。これはメンバー全員が様々な音楽や楽器をたしなみ、常に新しい刺激を求めていたためです。

ブルースを基調としたロック

ツェッペリンの前身であるヤードバーズの時代からブルースロックを演奏していたジミー・ペイジは、より激しくより大きく演奏することでヤードバーズとツェッペリンの差別化を図りました。ペイジ以外のメンバーもそれぞれブルースと関りを持っていたため、ツェッペリンにしか出せない粘り強い重厚な演奏が生まれたのでしょう。

エキゾチックな民族音楽

ロバート・プラントは民族音楽に大きな関心を持っていました。アラブやモロッコの音階を使用しているところが、ツェッペリンのエキゾチックさの要因となっています。プラントは作詞でもツアーなどで赴いた国や地域で受けた影響を言葉にしています。

壮大なクラシックアレンジ

ジョン・ポール・ジョーンズが幼少のころから好きだったクラシックも、ツェッペリンの楽曲に現れています。「カシミール」のストリングスアレンジや、中間部の管弦楽器のアレンジなどはジョーンズの手によるものです。

演奏するレッド・ツェッペリン

レッドツェッペリンの功績や与えた影響

レッド・ツェッペリンの功績

レッドツェッペリンはマスメディアにほとんど登場せず、テレビでの演奏も結成当時を除いてほとんど行いませんでした。取材やインタビューにも攻撃的な態度で望んでいたようです。しかしライブハウスや大学のステージでの演奏が評判を呼び、不動の地位を築いていきました。

シングルを発売したことをマスメディアを利用して宣伝し、レコードを買ってもらうというのが当時の音楽の売り方でした。ツェッペリンはこのシングル中心のプロモーションをせず、アルバムを中心とした宣伝の仕方を確立します。

1995年にロックの殿堂入りを果たし、2005年にはグラミー賞(功労賞)を受賞。アルバム・シングルを合わせた総売り上げ枚数は2億枚以上と言われており、「史上最も売れたアーティスト」の第6位の記録を保持しています。

ロックの殿堂

またローリング・ストーン誌の選ぶ「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」で第14位を獲得し、ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」においては第2位に輝きました。

レッド・ツェッペリンが与えた影響

レッド・ツェッペリンに影響を受けたミュージシャンは数え切れません。

一時は社会への不満などを表現したパンクロックやニューウェイブが台頭して、ハードロックは時代遅れというレッテルを張られました。しかし、その後に現れたオルタナティブロックやグランジのミュージシャンたちはレッド・ツェッペリンからの影響を口にしています。

ニルバーナのドラマーで、フーファイターズのボーカルであるデイブ・グロールは、「彼らほど崇拝してるバンドは他にない」と発言し、レッド・ツェッペリンのタトゥーをしています。

デイブ・グロール

ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトは「彼らを好きじゃないって奴は信用していない」と発言しています。

ジャック・ホワイト

またヘヴィメタルのミュージシャンからの支持も厚く、ブラック・サバスのオジー・オズボーンは「彼らの大ファンだ」とコメントしています。

言うまでもなく、後世のハードロッカーたちにも多大な影響を与えました。クイーンのフレディ・マーキュリーがロバート・プラントのファンなのは有名ですし、エアロスミスのスティーブン・タイラーも「ジミー・ペイジはブルースをロックに変えた、だれもその偉業に近づけない」と発言しています。

メンバーと担当楽器

それではレッド・ツェッペリンのメンバーを紹介します。

ジミー・ペイジ(Jimmy Page)ーギター

ジミー・ペイジ

レッド・ツェッペリンのリーダーでありプロデューサー。エリック・クラプトンとジェフ・ベックに並んで「世界3大ギタリスト」と称されました。

エリック・クラプトンとジェフ・ベック

1963年ごろからセッション・ギタリストとして活動をスタートさせ、ジョー・コッカ―のデビューアルバムなどでペイジの演奏を聴くことができます。

ロックバンド「ヤードバーズ」からクラプトンが脱退した際に、次期ギタリストとして勧誘されました。しかし誘いを断り、代わりにジェフ・ベックを推薦します。ところがヤードバーズのベースのポール・サミュエル・スミスが脱退したため、ベーシストとして加入します。その後、ギタ―パートに転向しベックとのツインギターがバンドの売りになりました。

エリック・クラプトン在籍時のヤードバーズ

ヤードバーズからベックが脱退し1968年にバンドが解散状態に陥ると、ペイジは新たなメンバーを捜し始めます。そして集まったロバート・プラント、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズによりレッド・ツェッペリンが結成されました。

ペイジのプレイスタイルはアフリカ系アメリカ人たちの音楽であるブルースを基調としています。繰り返されるフレーズであるリフを作り出す名手でもあり、数々の印象的なリフがツェッペリンの楽曲に残っています。

ヤードバーズ時代からレッド・ツェッペリンまでギブソン製のギターを愛用していました。トレードマークにもなっているレスポール・スタンダードやSGシェイプのダブルネックギターなどが印象的です。

ロバート・プラント(Robert Plant)ーボーカル

ロバート・プラント

突き抜けるパワフルなハイトーンが特徴。その歌唱法は、その後のロック、ハードロック、ヘヴィメタルのボーカリストたちに多大な影響を与えました。

10代のころ父親に連れて行ってもらったクラブでブルースを聴き、自身もバンドを組み歌うようになりました。「髭も伸びないうちからハーモニカを吹いては、マディ・ウォーターズの古い歌ばかり歌っていた」とプラントは当時を振り返っています。

マディ・ウォーターズ

16歳の時にロックスターを夢見て家を出ると、様々なバンドに身を置き音楽に明け暮れました。そのうちのひとつである「リッスン」というバンドでは、1966年にシングルを発表しています。1965年に結成したバンド「ザ・クローリング・キング・スネイク」で、のちに盟友となるジョン・ボーナムと出会います。残念ながらこのバンドは日の目を見ず解散してしまいました。

1967年に再びボーナムと組み「ザ・バンド・オブ・ジョイ」を結成。このバンドではアメリカ西海岸のウエスト・コースト・ロックなどを演奏していました。

翌年、新バンドのためメンバーを探していたペイジがプラントのライブを見に訪れます。プラントの旧友だったテリー・リードの推薦を受けてのことでした。ペイジはプラントのパフォーマンスに圧倒され、すぐさまバンドに勧誘したといいます。

ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)ーベース・キーボード

ジョン・ポール・ジョーンズ

堅実で安定感がありつつも、バンドをまとめる多彩なプレイスタイルが特徴です。ベースの他にもキーボード、バンジョー、ギター、マンドリンなど25種類以上の楽器を演奏できるマルチプレイヤー。

ジョーンズはビックバンドでピアニスト兼アレンジャーをしていた父親と、音楽ビジネスに関りをもつ母親の間に生まれたサラブレッドでした。父親からピアノを習い、ブルースやジャズ、クラシックまで幅広い音楽に興味を抱きました。

中でもソウルの名ギタリストであるフィル・アップチャーチのアルバムを聴いてベースの虜になり、フェンダーのジャズベースを購入したといいます。

1962年にロックバンド「シャドウズ」のジェット・ハリスとトニー・ミーハンの作品に参加した際に、ジミー・ペイジに出会いました。その後、ミーハンの紹介でスタジオでのセッションミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせます。1964年から68年まで多くのアレンジやベース・キーボードのレコーディングに参加しました。

ドノヴァン

スコットランド出身のミュージシャンであるドノヴァンのレコーディングでペイジと再会し、新しいバンドに誘われます。すでにキャリアを築いていたセッションマンとしての仕事を辞めることはジョーンズにとって賭けでしたが、自己表現の欲求には勝てずバンドに参加しました。

両親から受け継いだ資質とスタジオでの経験に裏付けられた、確かな音楽センスでツェッペリンの音楽性を大きく広げた立役者です。

ジョン・ボーナム(John Bonham)ードラム

ジョン・ボーナム

存在感のある音と独自のグルーブを合わせ持ったパワフルなプレイスタイルのドラマー。あだ名はボンゾ。個性的なリズムパターンとフィルインが特徴的です。2010年には「ローリングストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」で第1位に輝いています。

5歳の時に空箱とコーヒー缶を使ったドラムセットでドラムを始めます。当時はジーン・クルーパーやバディ・リッチなどのジャズドラマーに憧れ、叩き方をマネしていたといいます。15歳になると本物のドラムセットを揃え練習に励みました。

バディ・リッチ

1964年以降、様々なバンドで経験を積んだボ―ナムはドラマーとして生きることを決意します。そのころには「イギリスで最も大きな音を出すドラマー」として評判になり、パワフルすぎて太鼓の革を破ったり大きすぎる音が原因で演奏を止められたりしていました。

ドラマーを探していたペイジにボ―ナムの旧友であったプラントが紹介しますが、ボ―ナムは頑なに加入を断ります。合計40回以上も電報や電話で説得を受け、最終的にはペイジの熱意に負けバンドへの参加を了承しました。

レッド・ツェッペリンの活動履歴

1968年 – バンド結成

ニュー・ヤードバーズ時代のロバート・プラントとジミー・ペイジ

ジミー・ペイジの呼びかけでレッド・ツェッペリンが結成されたのは1968年でした。ペイジはヤードバーズでの残っていた契約を果たすため、新しいバンドはニュー・ヤードバーズと名乗りスカンジナビアツアーに出かけます。

ツアーから帰るとすぐに、ファースト・アルバムの制作に入りました。その後、1968年10月のイギリスでのコンサートから改名し「レッド・ツェッペリン」としての歴史がスタートしたのです。

翌11月、ヤードバーズ時代からのマネージャーだったピーター・グラントが、アメリカのアトランティック・レコードとの契約を成功させました。これによりレッド・ツェッペリン初のアメリカツアーが実現しました。

1969年にファースト・アルバム「レッド・ツェッペリン」を発表すると、全英6位・全米10位の大ヒットになりました。このアルバムから「グッド・タイムス・バッド・タイムス」がシングルとして発売されています。

1969年 – 結成後の活動

ファースト・アルバムの発売からすぐの1969年10月にセカンド・アルバム「レッド・ツェッペリン II」を発売。英米ともに7週連続で第1位を獲得します。さらに1970年に発売されたサード・アルバム「レッド・ツェッペリン III」でも英米ともに7週連続で第1位となりました。

翌年の1971年には最高傑作と名高い「レッド・ツェッペリンⅣ」が発表され、人気は不動のものとなります。アメリカだけで2300万枚以上を売り上げ、アルバムセールス歴代6位を記録しました。

同年に初めて来日し、日本武道館、広島県立体育館、大阪フェスティバルホールの3か所でライブを行いました。広島での公演はメンバーの希望で実現し、収益の全額を原爆被災者の救済基金に寄付しました。

広島県立総合体育館

1975年に家族で休暇中だったプラントが、運転中に事故を起こし足を骨折します。この事故によりワールドツアーが途中で中止になりました。プラントの足が回復に向かったので、7枚目のアルバム「プレゼンス」を録音し全米ツアーを開始した矢先、プラントの息子がウイルス性感染症によりこの世を去ります。

プラントの悲しみは深く、残りのツアーを中止するとともにツェッペリンは活動を無期限に休止しました。

レッド・ツェッペリン来日 日本武道館

1980年 – 解散

1979年に活動休止から復活して、1980年にはツアーを回り始めたツェッペリンにまたしても悲劇が襲いました。ドラマーのジョン・ボ―ナムが過剰な飲酒が原因で、吐しゃ物をのどに詰まらせ窒息してしまいこの世を去ってしまいます。

ボ―ナムはツアーなどで家族に会えないさみしさから、ついつい深酒をしてしまう事が度々ありました。また飛行機恐怖症でもあり、長いツアーの移動にストレスも感じていました。度重なる深酒でボ―ナムの酒癖は次第に酷くなり、このような事故に繋がってしまったのです。

不慮の事故により偉大なドラマーを失ったバンドは、ボーナムの変わりは誰にもできないとして1980年12月に解散を発表しました。

1982年には、追悼アルバムとして「最終楽章(コーダ)」が発売されます。レッド・ツェッペリンの12年の歴史の中で、日の目を見なかった未発表曲を集めて収録した作品でした。

1985年 – 再結成

レッド・ツェッペリン再結成

解散後レッド・ツェッペリンは何度か再結成してライブをしています。

1985年のライブエイド(アフリカの難民救済ライブ)でフィル・コリンズがパフォーマンス中に、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込んでツェッペリンの曲を演奏しました。この時はレッド・ツェッペリンという名前は使いませんでしたが、その後元メンバーの3人が集まったときはレッド・ツェッペリンを名乗って演奏しています。

1988年に行われたアトランティック・レコードの40周年コンサートからは、ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加しています。ジェイソンは自身でもレッド・ツェッペリンのトリビュートバンドである「ジェイソン・ボーナムズ・レッド・ツェッペリン・イブニング」として活動しています。

ジェイソン・ボ―ナム

ロンドンのO2アリーナで2007年に開催された、アトランティック・レコードの創始者アーメット・アーティガンの追悼チャリティライブにも再結成して出演しています。この時のメンバーの意気込みは素晴らしく、6週間にも渡るリハーサルをこなし圧巻のステージを披露しました。

しかし、ロバート・プラントは「ジョン・ボーナムこそがレッド・ツェッペリンのドラマーだ」と再結成後の続行には首を縦には振りませんでした。

代表曲

天国への階段

ツェッペリンの最も有名な曲といっても過言ではないでしょう。アコースティックギターとリコーダーによるイントロに始まり、後半に向かってエレクトリックなサウンドへと広がりを見せるドラマチックな構成の曲となっています。

アコースティックギターのイントロは、ロックギタリストのなら一度は練習するフレーズです。盛り上がってくるにしたがって、テンポもあがっていきメンバーの気持ちの高揚を表しています。

カシミール

6枚目のアルバム「フィジカル・グラフィティ」に収録された一曲。カシミールとはインドとパキスタンの国境付近に広がる山岳地帯のことです。ロバート・プラントはサハラ砂漠を横断しているときに、この曲の歌詞を思いついたと言います。

カシミールのメインリフは少し変わっています。ドラムが叩く4拍子のリズムパターンの上に3拍子のリフが演奏されるという、ポリリズムと呼ばれる複合リズムで構成されています。

移民の歌

「レッド・ツェッペリンⅢ」の1曲目に収録された楽曲。歌詞は北欧からやってきた航海者が、たどり着いた新天地を治めていくという内容になっています。イントロでのロバート・プラントの雄たけびがとても印象的です。

特徴的なバスドラムの重低音と、F#の一音しか弾いていないのに耳に残るリフの融合が、素晴らしいグルーヴを生み出しています。

Rock And Roll

「レッド・ツェッペリンⅣ」に収録されたタイトル通りのロックンロールナンバー。ジミー・ペイジがブルースから受けた影響を色濃く表現した一曲です。ブルースに使用される1度・4度・5度のスリーコードを用いたシンプルな構成になっています。

イントロのドラムフレーズはコピーが難しいことで有名で、演奏し始めが1拍目では無いことが原因です。このフレーズのもとは、リトル・リチャードの「キープ・ア・ノッキン」という曲だと言われています。

レッド・ツェッペリンのアルバム一覧

1969年 – レッド・ツェッペリン

ジミー・ペイジがヤードバーズ時代から温めていたイメージを形にしたレッド・ツェッペリンのデビュー作。レコーディングはライブに近い形で行われ、ほぼ1回の演奏で録音されました。ビルボードチャートでは73週連続でチャートインし最高で10位を記録しました。

1969年 – レッド・ツェッペリンⅡ

ファースト・アルバムの成功を受け、忙しいスケジュールの合間を縫って製作された本作。ブルース色の強かった前作と比べてよりハードな路線で制作され、その後のツェッペリンのサウンドの指標となりました。

1970年 – レッド・ツェッペリンⅢ

前作・前々作のエレクトリックの路線から一変して、収録曲の半分以上がアコースティックなサウンドのアルバム。あまりに急な方向転換だったので、発売当時は賛否両論でした。のちにバンドの意図が理解されるようになり、多種多様な音楽性を示す重要作であると評価されるようになりました。

1971年 – レッド・ツェッペリンⅣ

レッド・ツェッペリンの作品の中で最も売れたアルバムで、アメリカだけで2300万枚以上を売り上げました。便宜上「レッド・ツェッペリンⅣ」と呼ばれていますが、アルバムのジャケットには何も記載されておらず正式な題名は決まっていません。

1973年 – 聖なる館

このアルバムを境にレッド・ツェッペリンの作品の方向性は変わります。ライブ感を大事にした今までの作品と比べると、スタジオで作り込まれたポップな仕上がりになっています。ジャマイカの音楽であるレゲエを取り入れたりと、試行錯誤が見て取れます。

1975年 – フィジカル・グラフィティ

ツェッペリン初の2枚組アルバム。スタジオでの作業でLP1枚半もの曲が出来上がってしまい、未発表だった曲と合わせて2枚組にしたのでした。ビルボードチャートには初登場3位を獲得し、翌週から6週間1位に輝きました。

1976年 – プレゼンス

全曲にわたってギター・ベース・ドラムで作られたシンプルなサウンド。初期のツェッペリンを思わせるような重量感のある演奏です。3週間という短いレコーディング期間で制作されたので、切迫感のあるアルバムに仕上がっています。

1976年 – 永遠の詩(狂熱のライブ)

ツェッペリンのコンサート映画「レッド・ツェッペリン狂熱のライブ」のサウンドトラック。1973年に行われたニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのライブを収録したものです。ただし、映画の本編で使用された楽曲とは多少異なっています。

1979年 – イン・スルー・ジ・アウト・ドア

1980年にジョン・ボーナムが事故によりこの世を去ったため、最後になったオリジナルアルバムです。この作品ではジョン・ポ・ル・ジョーンズが活躍しており、7曲中6曲に作曲者として名を連ね全編に渡ってキーボードを演奏しています。

1982年 – 最終楽章(コーダ)

1980年に急逝したジョン・ボーナムに向けた追悼アルバム。オリジナル版では未発表曲を8曲収録しています。アルバム名であるコーダとはクラシック音楽の楽曲形式の終結部の事を指していて、バンド活動を締めくくるという意味で名付けられたものと思われます。

1997年 – BBCライブ

ツェッペリンがイギリスの放送局・BBC向けに収録したセッションライブの中から、選曲してまとめられたアルバム。シングルを発売しないツェッペリンにとって、ラジオで曲をかけてもらうことは難しかったため、バンドで番組に出演して演奏していました。

2003年 – 伝説のライブ

1972年のバンド全盛期に行われたロサンゼルスとカルフォルニアでのライブ音源が編集して収録されています。バンドのキャリア史上初めてビルボードのアルバム・チャート初登場1位を獲得しました。ジミー・ペイジも「バンドが最高の状態にあった時期のライブだ」と絶賛しています。

レッドツェッペリンの映画「レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ」

1976年に公開されたコンサートやプライベートの模様描いたドキュメンタリー映画です。テレビ番組での演奏を拒否し続けていたツェッペリンの、ステージでのパフォーマンスを記録しておこうという試みが形になった作品。

1973年のアメリカツアーでのライブと、ツアー終了後にイギリスにもどったメンバーたちのプライベートを撮影しました。2003年にライブDVDの「レッド・ツェッペリンDVD」が発売されるまで、レッド・ツェッペリンのステージ模様を見ることが出来る唯一の公式映像でした。

レッド・ツェッペリンに関するまとめ

いかがでしたか?

偉大なハードロックバンドレッド・ツェッペリン。あまり長くはない活動期間の中で世界中を虜にし、現在でもその人気は衰えません。数々のミュージシャンと音楽業界に大きな影響を残しました。

ジョン・ボーナムの急逝により解散を余儀なくされましたが、息子のジェイソンを迎えて再結成したり現在も精力的に音楽活動を続けています。

数えきれない名盤と名曲を残したレッドツェッペリンを知らないのは非常にもったいないです。ハードロック好きとヘヴィメタル好きは必聴です!

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