メンバーと担当楽器
それではレッド・ツェッペリンのメンバーを紹介します。
ジミー・ペイジ(Jimmy Page)ーギター
レッド・ツェッペリンのリーダーでありプロデューサー。エリック・クラプトンとジェフ・ベックに並んで「世界3大ギタリスト」と称されました。
1963年ごろからセッション・ギタリストとして活動をスタートさせ、ジョー・コッカ―のデビューアルバムなどでペイジの演奏を聴くことができます。
ロックバンド「ヤードバーズ」からクラプトンが脱退した際に、次期ギタリストとして勧誘されました。しかし誘いを断り、代わりにジェフ・ベックを推薦します。ところがヤードバーズのベースのポール・サミュエル・スミスが脱退したため、ベーシストとして加入します。その後、ギタ―パートに転向しベックとのツインギターがバンドの売りになりました。
ヤードバーズからベックが脱退し1968年にバンドが解散状態に陥ると、ペイジは新たなメンバーを捜し始めます。そして集まったロバート・プラント、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズによりレッド・ツェッペリンが結成されました。
ペイジのプレイスタイルはアフリカ系アメリカ人たちの音楽であるブルースを基調としています。繰り返されるフレーズであるリフを作り出す名手でもあり、数々の印象的なリフがツェッペリンの楽曲に残っています。
ヤードバーズ時代からレッド・ツェッペリンまでギブソン製のギターを愛用していました。トレードマークにもなっているレスポール・スタンダードやSGシェイプのダブルネックギターなどが印象的です。
ロバート・プラント(Robert Plant)ーボーカル
突き抜けるパワフルなハイトーンが特徴。その歌唱法は、その後のロック、ハードロック、ヘヴィメタルのボーカリストたちに多大な影響を与えました。
10代のころ父親に連れて行ってもらったクラブでブルースを聴き、自身もバンドを組み歌うようになりました。「髭も伸びないうちからハーモニカを吹いては、マディ・ウォーターズの古い歌ばかり歌っていた」とプラントは当時を振り返っています。
16歳の時にロックスターを夢見て家を出ると、様々なバンドに身を置き音楽に明け暮れました。そのうちのひとつである「リッスン」というバンドでは、1966年にシングルを発表しています。1965年に結成したバンド「ザ・クローリング・キング・スネイク」で、のちに盟友となるジョン・ボーナムと出会います。残念ながらこのバンドは日の目を見ず解散してしまいました。
1967年に再びボーナムと組み「ザ・バンド・オブ・ジョイ」を結成。このバンドではアメリカ西海岸のウエスト・コースト・ロックなどを演奏していました。
翌年、新バンドのためメンバーを探していたペイジがプラントのライブを見に訪れます。プラントの旧友だったテリー・リードの推薦を受けてのことでした。ペイジはプラントのパフォーマンスに圧倒され、すぐさまバンドに勧誘したといいます。
ジョン・ポール・ジョーンズ(John Paul Jones)ーベース・キーボード
堅実で安定感がありつつも、バンドをまとめる多彩なプレイスタイルが特徴です。ベースの他にもキーボード、バンジョー、ギター、マンドリンなど25種類以上の楽器を演奏できるマルチプレイヤー。
ジョーンズはビックバンドでピアニスト兼アレンジャーをしていた父親と、音楽ビジネスに関りをもつ母親の間に生まれたサラブレッドでした。父親からピアノを習い、ブルースやジャズ、クラシックまで幅広い音楽に興味を抱きました。
中でもソウルの名ギタリストであるフィル・アップチャーチのアルバムを聴いてベースの虜になり、フェンダーのジャズベースを購入したといいます。
1962年にロックバンド「シャドウズ」のジェット・ハリスとトニー・ミーハンの作品に参加した際に、ジミー・ペイジに出会いました。その後、ミーハンの紹介でスタジオでのセッションミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせます。1964年から68年まで多くのアレンジやベース・キーボードのレコーディングに参加しました。
スコットランド出身のミュージシャンであるドノヴァンのレコーディングでペイジと再会し、新しいバンドに誘われます。すでにキャリアを築いていたセッションマンとしての仕事を辞めることはジョーンズにとって賭けでしたが、自己表現の欲求には勝てずバンドに参加しました。
両親から受け継いだ資質とスタジオでの経験に裏付けられた、確かな音楽センスでツェッペリンの音楽性を大きく広げた立役者です。
ジョン・ボーナム(John Bonham)ードラム
存在感のある音と独自のグルーブを合わせ持ったパワフルなプレイスタイルのドラマー。あだ名はボンゾ。個性的なリズムパターンとフィルインが特徴的です。2010年には「ローリングストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」で第1位に輝いています。
5歳の時に空箱とコーヒー缶を使ったドラムセットでドラムを始めます。当時はジーン・クルーパーやバディ・リッチなどのジャズドラマーに憧れ、叩き方をマネしていたといいます。15歳になると本物のドラムセットを揃え練習に励みました。
1964年以降、様々なバンドで経験を積んだボ―ナムはドラマーとして生きることを決意します。そのころには「イギリスで最も大きな音を出すドラマー」として評判になり、パワフルすぎて太鼓の革を破ったり大きすぎる音が原因で演奏を止められたりしていました。
ドラマーを探していたペイジにボ―ナムの旧友であったプラントが紹介しますが、ボ―ナムは頑なに加入を断ります。合計40回以上も電報や電話で説得を受け、最終的にはペイジの熱意に負けバンドへの参加を了承しました。
レッド・ツェッペリンの活動履歴
1968年 – バンド結成
ジミー・ペイジの呼びかけでレッド・ツェッペリンが結成されたのは1968年でした。ペイジはヤードバーズでの残っていた契約を果たすため、新しいバンドはニュー・ヤードバーズと名乗りスカンジナビアツアーに出かけます。
ツアーから帰るとすぐに、ファースト・アルバムの制作に入りました。その後、1968年10月のイギリスでのコンサートから改名し「レッド・ツェッペリン」としての歴史がスタートしたのです。
翌11月、ヤードバーズ時代からのマネージャーだったピーター・グラントが、アメリカのアトランティック・レコードとの契約を成功させました。これによりレッド・ツェッペリン初のアメリカツアーが実現しました。
1969年にファースト・アルバム「レッド・ツェッペリン」を発表すると、全英6位・全米10位の大ヒットになりました。このアルバムから「グッド・タイムス・バッド・タイムス」がシングルとして発売されています。
1969年 – 結成後の活動
ファースト・アルバムの発売からすぐの1969年10月にセカンド・アルバム「レッド・ツェッペリン II」を発売。英米ともに7週連続で第1位を獲得します。さらに1970年に発売されたサード・アルバム「レッド・ツェッペリン III」でも英米ともに7週連続で第1位となりました。
翌年の1971年には最高傑作と名高い「レッド・ツェッペリンⅣ」が発表され、人気は不動のものとなります。アメリカだけで2300万枚以上を売り上げ、アルバムセールス歴代6位を記録しました。
同年に初めて来日し、日本武道館、広島県立体育館、大阪フェスティバルホールの3か所でライブを行いました。広島での公演はメンバーの希望で実現し、収益の全額を原爆被災者の救済基金に寄付しました。
1975年に家族で休暇中だったプラントが、運転中に事故を起こし足を骨折します。この事故によりワールドツアーが途中で中止になりました。プラントの足が回復に向かったので、7枚目のアルバム「プレゼンス」を録音し全米ツアーを開始した矢先、プラントの息子がウイルス性感染症によりこの世を去ります。
プラントの悲しみは深く、残りのツアーを中止するとともにツェッペリンは活動を無期限に休止しました。