【年表付】レッドツェッペリンの歴史や功績、名曲、代表アルバムまとめ

1980年 – 解散

1979年に活動休止から復活して、1980年にはツアーを回り始めたツェッペリンにまたしても悲劇が襲いました。ドラマーのジョン・ボ―ナムが過剰な飲酒が原因で、吐しゃ物をのどに詰まらせ窒息してしまいこの世を去ってしまいます。

ボ―ナムはツアーなどで家族に会えないさみしさから、ついつい深酒をしてしまう事が度々ありました。また飛行機恐怖症でもあり、長いツアーの移動にストレスも感じていました。度重なる深酒でボ―ナムの酒癖は次第に酷くなり、このような事故に繋がってしまったのです。

不慮の事故により偉大なドラマーを失ったバンドは、ボーナムの変わりは誰にもできないとして1980年12月に解散を発表しました。

1982年には、追悼アルバムとして「最終楽章(コーダ)」が発売されます。レッド・ツェッペリンの12年の歴史の中で、日の目を見なかった未発表曲を集めて収録した作品でした。

1985年 – 再結成

レッド・ツェッペリン再結成

解散後レッド・ツェッペリンは何度か再結成してライブをしています。

1985年のライブエイド(アフリカの難民救済ライブ)でフィル・コリンズがパフォーマンス中に、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込んでツェッペリンの曲を演奏しました。この時はレッド・ツェッペリンという名前は使いませんでしたが、その後元メンバーの3人が集まったときはレッド・ツェッペリンを名乗って演奏しています。

1988年に行われたアトランティック・レコードの40周年コンサートからは、ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加しています。ジェイソンは自身でもレッド・ツェッペリンのトリビュートバンドである「ジェイソン・ボーナムズ・レッド・ツェッペリン・イブニング」として活動しています。

ジェイソン・ボ―ナム

ロンドンのO2アリーナで2007年に開催された、アトランティック・レコードの創始者アーメット・アーティガンの追悼チャリティライブにも再結成して出演しています。この時のメンバーの意気込みは素晴らしく、6週間にも渡るリハーサルをこなし圧巻のステージを披露しました。

しかし、ロバート・プラントは「ジョン・ボーナムこそがレッド・ツェッペリンのドラマーだ」と再結成後の続行には首を縦には振りませんでした。

代表曲

天国への階段

ツェッペリンの最も有名な曲といっても過言ではないでしょう。アコースティックギターとリコーダーによるイントロに始まり、後半に向かってエレクトリックなサウンドへと広がりを見せるドラマチックな構成の曲となっています。

アコースティックギターのイントロは、ロックギタリストのなら一度は練習するフレーズです。盛り上がってくるにしたがって、テンポもあがっていきメンバーの気持ちの高揚を表しています。

カシミール

6枚目のアルバム「フィジカル・グラフィティ」に収録された一曲。カシミールとはインドとパキスタンの国境付近に広がる山岳地帯のことです。ロバート・プラントはサハラ砂漠を横断しているときに、この曲の歌詞を思いついたと言います。

カシミールのメインリフは少し変わっています。ドラムが叩く4拍子のリズムパターンの上に3拍子のリフが演奏されるという、ポリリズムと呼ばれる複合リズムで構成されています。

移民の歌

「レッド・ツェッペリンⅢ」の1曲目に収録された楽曲。歌詞は北欧からやってきた航海者が、たどり着いた新天地を治めていくという内容になっています。イントロでのロバート・プラントの雄たけびがとても印象的です。

特徴的なバスドラムの重低音と、F#の一音しか弾いていないのに耳に残るリフの融合が、素晴らしいグルーヴを生み出しています。

Rock And Roll

「レッド・ツェッペリンⅣ」に収録されたタイトル通りのロックンロールナンバー。ジミー・ペイジがブルースから受けた影響を色濃く表現した一曲です。ブルースに使用される1度・4度・5度のスリーコードを用いたシンプルな構成になっています。

イントロのドラムフレーズはコピーが難しいことで有名で、演奏し始めが1拍目では無いことが原因です。このフレーズのもとは、リトル・リチャードの「キープ・ア・ノッキン」という曲だと言われています。

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