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美空ひばりの生涯・年表まとめ【名曲やおすすめアルバム、息子や死因まで解説】

美空ひばりは「昭和の歌姫」と呼ばれた歌謡界の大スターです。わずか10歳の頃から芸能界で活動し、弱冠12歳にして国民的歌手としての階段を駆け上がります。楽曲を発表するたびにヒットを飛ばし、映画の世界に飛び込んでは銀幕のスターとしても認められるのでした。

晩年には病魔との長い戦いが待っていますが、1988年4月に開かれた「不死鳥コンサート」はいまだに多くの国民の脳裏に焼き付いているのではないでしょうか。最後に発表された名曲「川の流れのように」は現在も愛され続けています。

美空ひばり

美空ひばりの亡き後も多くの歌手やアーティストが出てきていますが、彼女ほどのインパクトを受ける人物はほとんど見当たりません。なぜ美空ひばりはここまで国民に愛されたのでしょうか。もちろん彼女自身の魅力や歌の良さが人を惹きつけているのは間違いがありませんが、要因はそれだけではないでしょう。

Youtubeでたまたま「不死鳥コンサート」の映像を見つけ、その歌声に聴き入ってしまい、その後美空ひばりに関する文献を漁って得た情報を元に彼女の生涯、伝説などをご紹介していきたいと思います。

目次

美空ひばりとはどんな人物か

名前加藤和枝
誕生日1937年5月29日
没日1989年6月24日
生地神奈川県横浜市磯子区滝頭
没日東京都文京区
順天堂大学医学部附属順天堂医院
配偶者小林旭(1962−1964)
埋葬場所神奈川県横浜市港南区
横浜市営日野公園墓地

美空ひばりの生涯をハイライト

美空ひばり

美空ひばりは魚屋を営む、加藤家の長女として神奈川県横浜市に生まれました。両親が音楽に精通していたため、幼少期から歌と触れ合う機会は多かったです。母の創設した「青空楽団」で舞台デビビューを果たし、大御所に気に入られながら芸能界を渡り歩くようになります。

12歳の頃には笠置シヅ子の「東京ブギウギ」の真似で一世を風靡すると、そのままスター街道をひた走るようになりました。映画「リンゴ園の少女」の主題歌である「リンゴ追分」が大ヒットしたことを皮切りに音楽の世界へ名を馳せるようになります。

その後、1960年には「哀愁波止場」で日本レコード大賞を受賞し、「歌謡界の女王」の名をつけられることに。紅白歌合戦でも主役級の活躍を成し遂げ、1963年からは10年連続で紅白のトリを務め、1970年には司会と大トリの両方を兼任するほどの大役を引き受けることとなります。

晩年には肝臓の病気、肺の病気のとの戦いを余儀無くされていましたが、伝説の「不死鳥コンサート」をはじめとする多くのステージに立ち、その存在感をアピールしました。1989年の6月に間質性肺炎によりこの世から去ることになりますが、後世にわたって愛される楽曲を数多く残した伝説の歌手として語り継がれています。

美空ひばりの家族構成は?息子は何をしている?

美空ひばりの息子・加藤和也

美空ひばりの家族構成は以下の通りです。

  • 父:加藤増吉 魚屋を経営
  • 母:加藤貴美枝
  • 妹:加藤(佐藤)勢津子 ひばりの死後に歌手デビュー
  • 弟:加藤哲也(かとう哲也) 歌手、俳優、「ひばりプロダクション」の元社長
  • 弟:加藤武彦(香山武彦) 俳優、引退後は飲食店経営

そして、養子の加藤和也がいます。加藤和也は美空ひばりの弟である加藤哲也の息子で、和也が7歳の時にひばりと養子縁組をしました。現在は「ひばりプロダクション」の社長をしています。

美空ひばりの死因は?葬儀はどんな様子だった?

美空ひばり 遺影

美空ひばりは1989年6月24日に間質性肺炎の悪化により帰らぬ人となります。

6月25日に通夜、26日に葬儀が行われました。この葬儀には芸能界や政界などひばりと親交のあった各界からの参列者が相次ぎます。7月22日には一般向けに青山葬儀所にてお別れの会が催され、42000人のファンが訪れました。

葬儀で弔辞を読み上げたのは、映画で親交の深かった萬屋錦之介、森繁久弥などで、歌手として親しくしていた北島三郎、近藤真彦などらは「川の流れのように」を合唱しました。

美空ひばりの名曲は?

美空ひばり ベストアルバム

美空ひばりの名曲は数多く、選ぶことはできませんが、「愛燦燦」や「川の流れのように」が現代では馴染みが深いのではないでしょうか。

「愛燦燦」は1986年に小椋佳とのコラボレーションで作られた作品で、今日でもテレビやラジオで取り上げられることが多いです。石川さゆり、五木ひろし、和田アキ子、ATSUSHIなど数々のアーティストにカバーされています。

「川の流れのように」はひばりの遺作となった曲で、こちらも多くのアーティストにカバーされました。ひばりの死後も売上枚数は増加し続け、現在では最も売れたCD・レコード(205万枚)として記録されています。カラオケのランキングも上位であることから、その人気の高さが伺えます。

美空ひばりの功績

功績1「女性として初めての国民栄誉賞受賞」

国民栄誉賞

ひばりの亡き1ヶ月後の1989年7月、女性としては初めてとなる国民栄誉賞の受賞が決定しました。

国民栄誉賞はもともと、プロ野球選手の王貞治がホームラン世界記録を達成したことを称えるために作られた賞です。王貞治が1977年に受賞し、ひばりが受賞するまでの12年間に、わずか6人しかもらったことのない特別な賞でした。

現在までの主な受賞者としては柔道の山下泰裕、「サザエさん」の長谷川町子、「寅さん」の渥美清、映画監督の黒澤明などです。最近では高橋尚子、「なでしこジャパン」、長嶋茂雄と松井秀喜などが記憶に新しいでしょうか。

この40年以上の間に歌手として受賞したのは藤山一郎と美空ひばりの2人だけです。

功績2「レコード・CDの総売上は1億枚以上」

美空ひばりベストヒット全集

2019年までに美空ひばりが売り上げたCD・レコードは1億枚を超えています。日本のアーティストのCDの総売上枚数はトップがB’zの8000万枚となっていますが、ひばりの時代はレコードが多かったので、それらの枚数を合わせるとB’zを上回る数となるのです。

1989年のひばりが亡くなった年には美空ひばりの音楽関係グッズの売り上げが120億円にも達しました。その後も億単位でひばり関連の商品は売れ続けています。マイケルジャクソンが死後も毎年数百億円売り上げているとのニュースがありましたが、美空ひばりはその日本人バージョンと言えそうです。

功績3「紅白歌合戦の紅組大トリ回数はぶっちぎりの1位 」

紅白歌合戦

美空ひばりは17歳の頃から紅白歌合戦に出場し、2回目には大トリを務めています。大トリの回数は北島三郎と同じ11回で歴代最多ですが、紅組歌手に限った場合、ひばりに次ぐのは都はるみの3回です。

1973年以降は「ひばりスキャンダル」も絡み、NHKとの折り合いが合わなかったため紅白出場を果たしていませんが、1979年には特別出演という形で出場しています。この回が事実上、最後の紅白歌合戦出演ということになりました。

2019年にはAIの技術を用いて「美空ひばり」を画面上に映し出し、新曲を発表するという画期的な試みも行われています。

美空ひばりの名言

「ひばりに引退はありません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ。」

美空ひばりは幼い頃から歌の世界で生きていくことを決心していたというエピソードがあります。小林旭との結婚生活の時には良き妻を演じようとしていたようですが、それでも芸能界への未練は捨て切れずに再びステージへと立つことを決意します。晩年の病魔に侵されていた時期も歌うことに関しては一切手を抜かずにやり切ったそうです。

「本当に人生って、川の流れのようなものよね。真っ直ぐだったり、曲がりくねっていたり、幅が広かったり、狭かったり、流れが早かったり、遅かったり…。」

この言葉は生前最後となる「川の流れのように」が収録されたアルバム発表時の言葉です。この名言に共感できる人はかなりの人数がいるのではないでしょうか。この歌詞に思いを馳せる人が多いからこそいまだに愛される曲として「川の流れのように」が生き続けているのだと思われます。

「今日の我に明日は勝つ。」

常に国民的スターとして生きてきた美空ひばりらしい言葉です。10歳の頃から芸能界へデビューを果たし、20歳にして紅白歌合戦の大トリを務めるほどの輝かしい経歴を歩んできた美空ひばりだからこそ言える名言だと思います。最後まで国民に愛される歌手として活躍し続けた姿は永遠に生き続けることでしょう。

美空ひばりにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「王貞治と兄弟のような仲」

王貞治

美空ひばりは王貞治と親交が深く、ほとんど兄弟のような仲であったとされています。1988年の年末に行われたひばりの生涯最後となるクリスマスディナーショーにも王貞治は参加しています。また、ひばりの葬儀の際も弔辞を任されました。

1989年6月24日、王貞治は台湾に出かけていましたが、美空ひばりが亡くなったとのニュースを受けると「それは本当か」と言い、絶句してしまったそうです。

都市伝説・武勇伝2「タクシー運転手に歌を聞かせ、無料で乗せてもらう」

美空ひばり

ある日、タクシーに乗せてもらった際に財布を忘れ、「わたくし、美空ひばりというものですが、財布を忘れてきたので友人からお金を借りてきます。」と言い、運転手に信用させるために「リンゴ追分」を歌いました。

最初は信じなかったタクシーの運転手でしたが、歌い終えた後には感激し、「生で歌を聴かせていただいたので、料金はいただきません。」と言ったそうです。

都市伝説・武勇伝3「楽屋で秋刀魚を焼いて食べていた?」

秋刀魚

美空ひばりが活躍していた頃の楽屋は今よりも自由度が高く、ひばりが秋刀魚を焼いて食べている写真が残っています。その写真は関係者が保持しているようですが、今では到底考えられませんね。

美空ひばりの簡単年表

1937年 - 0歳
美空ひばり誕生

美空ひばり(本名:加藤和枝)は神奈川県横浜市で生まれます。魚屋を営む父・加藤増吉と母・貴美枝の長女でした。兄弟は他に、弟が2人、妹が1人います。

1943年 - 6歳
父の徴兵時に「九段の母」を歌う

当時は第二次世界大戦の最中であったため、父・増吉も戦争へ駆り出されることとなりました。その見送りの際に、美空ひばりが「九段の歌」を歌い、増吉はもちろん周囲の人も感動の渦に巻き込んだのです。

1945年 - 8歳
「青空楽団」を設立

美空ひばりの歌唱力に気が付いた母・貴美枝は近所の公民館などに舞台を構え、「青空楽団」を立ち上げます。そして、ひばりを舞台に立たせるようになるのでした。

1946年 - 9歳
のど自慢に出演し、「リンゴの唄」を歌う

9歳の時にはNHK「素人のど自慢」に出演し、手応えを感じますが、結果は不合格でした。理由は、選曲した「リンゴの唄」が非教育的であるとのことからです。

1947年 - 10歳
劇場の前座として巡業に同行するようになる

1946年に杉田劇場へと参加することとなったひばりは、翌年から劇場の前座として巡業を共にするようになります。

1948年 - 11歳
「美空ひばり」と命名、師匠との出会い

1947年10月(諸説あり)に宝塚歌劇団の岡田恵吉に命名を依頼します。そして、「美空ひばり」という芸名をもらうこととなりました。1948年の5月には恩師とも言える川田晴久との出会いを果たします。

1949年 - 12歳
映画初出演

当時のスター歌手であった笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を歌っている姿が評判を受け、「のど自慢狂時代」という映画で初出演を飾ります。この年の8月には「河童ブギウギ」でレコードデビューも果たします。その後、主題歌を担当した映画「悲しき口笛」が大ヒットし、全国に知られることとなりました。

1952年 - 15歳
「リンゴ追分」が大ヒット

映画「リンゴ園の少女」の主題歌「リンゴ追分」をひばりが担当することとなります。そしてこの歌が大ヒットを記録し、レコードの売り上げ枚数は70万枚と当時の史上最高記録を打ち立てます。

1954年 - 17歳
紅白歌合戦初出場

17歳にしてNHK紅白歌合戦に出場します。歌った楽曲は「ひばりのマドロスさん」でした。

1955年 - 18歳
江利チエミ、雪村いづみらとともに「三人娘」と呼ばれる

映画「ジャンケン娘」で江利チエミ、雪村いづみと共演します。この映画がヒットを記録し、3人ともに人気を勝ち得たため「三人娘」と呼ばれるようになりました。

1957年 - 20歳
紅白歌合戦の大トリを務める

紅白歌合戦への出場は3年ぶりの2度目でしたが、当時のスター歌手らを抑えて、ひばりが大トリに抜擢されます。

1958年 - 21歳
東映と契約を結び、銀幕のスターに

7月に東映と専属契約を結び、多くの時代劇や映画に出演することとなります。この時期は東映の黄金時代でもあったことから、同時期に活躍したひばりは銀幕のスターとしての称号も得ることとなりました。

1960年 - 23歳
名実ともに「歌謡界の女王」へ

この年に開かれた第2回日本レコード大賞に「哀愁波止場」で参戦します。見事に大賞を受賞し、「歌謡界の女王」と呼ばれるようになりました。

1962年 - 25歳
小林旭との結婚

美空ひばりは生涯で一度結婚をしていますが、籍を入れていないため戸籍上では独身のままとされています。その一度の結婚は小林旭がお相手で、ひばりは妻になりきろうと家事や炊事を行いますが、音楽への未練が捨てきれずに2人の間に溝が生じ、1964年にわずか2年で離婚することとなりました。

1965年 - 28歳
数々のヒット曲を続けざまに生み出す

1965年には「柔」という曲を発表し、180万枚の売り上げを記録します。これを皮切りに1966年「悲しい酒」が145万枚、1967年「真赤な太陽」が140万枚とヒットを連発します・

1970年 - 33歳
紅白歌合戦の司会と大トリを担当

この年の紅白歌合戦では「人生将棋」にて出場し、大トリを務めます。同時に司会進行も任され、紅白史上初の司会兼大トリという大役に抜擢されたのでした。

1973年 - 36歳
暴力団組員との関係を指摘され、全国からバッシング

美空ひばりはデビュー間もない頃から山口組三代目・田岡一雄とのコネクションがありました。1973年に弟が不祥事を起こすと、ひばりの暴力団との関係も世間から責められるようになり、コンサートなどを開催しにくくなってしまいます。

1975−1986年 - 38歳
さまざまなスターとのコラボレーション

この時期は以前と比べると活動が低迷しますが、岡林信康との「月の夜汽車」をはじめとし、イルカとの「夢ひとり」、小椋佳との「愛燦燦」など多数の有名人とのコラボを実現します。

1981年 - 44歳
母親の死、そして近親者の相次ぐ死

1981年には母・貴美枝が脳腫瘍により亡くなります。ひばりはずっと寄り添っていてくれた母の死にショックを受けますが、同年に田岡一雄、1982年には江利チエミ、1983年、1986年には2人の弟が亡くなり、悲しみの底に沈んでしまうこととなりました。

1986年 - 49歳
芸能生活40周年コンサートを三大都市で開催

1985年からは原因不明の腰痛に悩むようになりますが、1986年はデビュー40周年記念ということもあり、三大都市でのコンサートを開催します。1987年にも全国ツアーを開催しますが、腰痛がひどくなってきたこともあり、ツアーを中断し、療養することとなりました。

1987年 - 50歳
慢性肝炎により入院

ツアー開催中に体調を崩し、福岡県の病院へ入院することとなります。診断は慢性肝炎、大腿骨頭壊死症でした。3ヶ月後には無事に復帰を果たし、同年の10月には「みだれ髪」をレコーディングしました。

1988年 - 51歳
「不死鳥コンサート」開催

病気からの回復後、東京ドームでの復活ステージ「不死鳥コンサート」を開きました。体調は万全とは到底言いがたい状況で、医師も控えていましたが、ひばりは精力的に舞台で歌唱します。コンサートを終えた際にはそのまま倒れこみ、救急車で病院へと運ばれたそうです。

1988年 - 51歳
「川の流れのように」のレコーディング

秋元康が企画したアルバムのレコーディングを行い、このアルバムの中に「川の流れのように」が収録されました。これは生涯最後の曲となり、現在でも多くの人に愛される曲となったのです。

1989年 - 52歳
間質性肺炎により死去

病気から復帰後も精力的にコンサートを敢行していたひばりでしたが、病状は日に日に悪化し、1989年の公演では自力でステージへ上がれないほど進行していました。2月に行われた公演を最後に病院にへ入院し、6月13日には呼吸困難で重体となります。その約2週間後の6月24日、間質性肺炎による呼吸不全により息を引き取りました。

美空ひばりの年表

1937年 – 0歳「美空ひばり誕生」

美空ひばり

横浜で魚屋の長女として生まれる

美空ひばりは本名を加藤和枝と言い、加藤家の長女として横浜市磯子区に誕生します。両親が音楽好きなため、幼少期から歌謡曲をはじめとするさまざまな歌に触れながら育ちました。

6歳の時には戦争へ出兵する父のために「九段の母」を歌いましたが、これが観衆にも好評であったため、母・貴美枝はひばりの歌の才能に気づくこととなったのです。

初舞台から劇団の前座歌手へ

ひばりが8歳の時には母が「青空楽団」を設立します。近くの銭湯などに歌う場所をもうけ、ひばりはそこで初舞台を踏みます。翌年にはNHK「素人のど自慢」に出場しますが、選曲「リンゴの唄」が審査員に不評だったため不合格に終わりました。

10歳の際には杉田劇場で漫談家などの前座歌手として舞台へ上がるようになります。この時に「歌をやめるなら死ぬ」と豪語するほど、歌手になることを夢見るようになりました。

1948年 – 11歳「「美空ひばり」と命名」

美空ひばり「悲しき口笛」主題歌歌唱時

「美空ひばり」の芸名をいただく

神戸への興行の際に三代目山口組組長の田岡一雄に気に入られたり、のちに師匠と崇めることとなる「川田晴久とダイナ・ブラザーズ」の川田晴久と出会ったりするなど、ひばりの人生において影響を及ぼす重要人物との会見を果たします。

川田晴久の演芸部では当時のスター歌手である笠置シヅ子の真似をして人気を博します。ひばりは横浜国際劇場と契約を結ぶこととなりますが、その際に宝塚の岡田恵吉から「美空ひばり」という芸名をもらうことになりました。

映画出演を果たし、国民的な人気を得ることに

笠置の「東京ブギウギ」を歌っている姿が好評で、映画「のど自慢狂時代」に「東京ブギウギ」を歌う子供として出演することになります。その後、12歳の時に主演に抜擢された「悲しき口笛」で全国的な地名度を得ることになったのです。

「悲しき口笛」の主題歌は45万枚の売り上げを記録し、この歌唱時の姿は多くの国民の印象に残りました。

15歳の時には「リンゴ追分」が70万枚売れ、同時のレコード売り上げ史上最高枚数を記録しています。

1955年 – 18歳「「三人娘」から「歌謡界の女王」へ」

三人娘

ジャンケン娘に出演し、三人娘と呼ばれるように

1954年の暮れには紅白歌合戦への初出場を果たします。その翌年、映画「ジャンケン娘」に出演した江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれるようになりました。

1957年には紅白歌合戦出場2回目ながら、大物スター歌手を差し置いて大トリを歌い上げます。芸能界でも相当の地位を得たことを印象付ける出来事となりました。そして、翌年からは本格的に映画出演の方へ力を入れるようになったのです。

日本レコード大賞を獲得し、歌謡界の女王へ

1958年から1963年にかけては映画へ精力的に出演した期間でした。ちょうど東映の栄えていた時とひばりの活躍した時期が被っていたため、映画スターとしての称号もほしいままにします。ひばりは生涯で150本以上の映画に出演しており、現在では「昭和の歌姫」としてのイメージが強いですが、当時は映画女優としても日本を代表するほどの存在でした。

1960年の暮れには日本レコード大賞に出場します。選曲したのは「哀愁波止場」で、見事に大賞を獲得することとなります。この出来事から以後、「歌謡界の女王」と呼ばれるようになりました。

1962年 – 25歳「結婚、離婚、史上初の紅白の司会かつ大トリ」

美空ひばりと小林旭

小林旭との結婚、離婚

美空ひばりと小林旭は雑誌の対談を機に親しくなります。1962年には田岡一雄経由で、ひばりの小林に対する思いを伝え、結婚に至ることとなりました。母の貴美枝は結婚に反対でしたが、ひばりは良き妻となるように精一杯尽くしていたようです。

しかし、ひばり自身、歌への情熱を忘れることができず、芸能の世界へ戻りたいと日に日に強く思うようになっていきます。そのため、小林との関係にすれ違いが生じるようになり、2年後の1964年には離婚する運びとなりました。

ヒット曲連発、そして、紅白歌合戦の司会・大トリ

離婚後の1965年、「柔」が180万枚のヒット、1966年は「悲しい酒」が145万枚の売り上げ、1967年には「真赤な太陽」が140万枚のセールスを記録し、破竹の勢いで芸能界へ復帰します。これらの作品は後世にわたってひばりの代表作品として知られていると思います。

1970年には紅白歌合戦で司会を進行しつつ、大トリを歌うという大役に抜擢され、見事に役を果たしました。この役柄は紅白が始まって以来初のことで、現在でも女性では唯一の出来事となっています。

1973年 – 36歳「世間からのバッシングや肉親の死による試練の期間」

ひばり・スキャンダル

暴力団員であった弟の不祥事により、ひばりもバッシングを受ける

1973年に暴力団員である弟がマスコミに取り沙汰され、ひばりと、田岡をはじめとする山口組のコネクションも世間から問題視されるようになります。この事件により、コンサートの開催を拒否されるなど、ひばりにとっては辛酸を舐めるような期間が続きました。

10年連続でトリを務めていた紅白歌合戦への出場もままならず、ひばりの紅白出場は1972年が最後となります。

歌手としての活動のかたわら、肉親の死が相次ぐ

上記のスキャンダル以降は、時代をときめくミュージシャンとのコラボに力を注ぐようになります。イルカとの「夢ひとり」、小椋佳との「愛燦燦」などが代表的な作品として挙がります。

1980年代前半には親しい人が相次いで亡くなり、非常に寂しい思いをすることになりました。1981年には母・貴美枝と田岡一雄、1982年には「三人娘」で親しくしていた江利チエミ、1983年と1986年には2人の弟も立て続けに失ってしまいます。

1985年 – 48歳「肝臓の病と戦いつつ、伝説の不死鳥コンサート開催」

美空ひばり 不死鳥コンサート

慢性肝炎と大腿骨頭壊死症の診断

1987年のコンサートの際に体調不良を訴え、病院で検査した結果、慢性肝炎と両側の大腿骨頭壊死症との診断を受けます。3ヶ月に渡って病床に伏すことになりましたが、8月には退院し、2ヶ月の休養後、「みだれ髪」のレコーディングを行います。

肝臓の病気に関しては当初、「慢性肝炎」とマスコミには伝えていましたが、実際には「肝硬変」であり、病状はかなり進んでいたそうです。

東京ドームにて「不死鳥コンサート」開催

1988年4月11日、のちに語り継がれる伝説の「不死鳥コンサート」を東京ドームで開催します。この頃までに肝臓の病気は進行しており、体調もあまりよくなかったのですが、ステージ上では全39曲を歌い上げます。

このコンサート開催時には、控え室に医師もスタンバイしており、歌い終えた後は大事を取って救急車で病院へと運ばれました。「不死鳥コンサート」をやり遂げると、その後、ひばりの体調は徐々に悪化の一途を辿っていくのでした。

1989年 – 52歳「「川の流れのように」発表後、約半年で病に倒れる」

川の流れのように

「川の流れのように」発表

1988年10月、アルバムを発表し、その記者会見にて「『川の流れのように』という曲、一曲を聞いていただければこのアルバムについてはわかります。」と説明します。この年の暮れには3日間組まれたショーをテレビ収録し、最後まで歌い切りました。これが生涯最後のワンマンショーとなります。

1989年1月には「川の流れのように」がシングルカットして発売されました。2月には九州にて最後の公演を行いますが、病気がギリギリの状態まで進行しており、いつ倒れてもおかしくないような状況の中でのステージだったのです。

間質性肺炎にて帰らぬ人に

九州での公演後、病院への入院退院を繰り返しますが、3月の終わりに「特発性過眠症間質性肺炎」の診断にて長期臥床を余儀なくされます。4月には横浜アリーナでのコンサートが予定されていましたが、開催は絶望的となりました。

その後、6月13日に呼吸困難を起こし、人工呼吸器を装着されます。この前までは自分で話すこともできており、マスメディアに肉声テープを送るなどしていました。しかし、6月24日、治療の甲斐もむなしく、間質性肺炎の悪化により息を引き取ってしまうのです。

美空ひばりの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

美空ひばり不死鳥伝説

「週刊文春」の記者として活躍した大下英治が書いた美空ひばりの長編評伝です。「青空楽団」が作られた時の話から国民的スターの階段を駆け上り、芸能界での地位を確立していく様を描いています。華やかな功績の裏にある苦悩も記されており、表向きには見られない美空ひばりの一面も垣間見ることができます。

ひばり自伝-わたしと影

美空ひばりの残した自伝です。自分の幼少期から国民的歌手として活躍するまでの軌跡を細かく描写しています。特にお母さんとの絆の深さを彷彿とさせるような表現が多く、二人三脚で努力を重ねてきた様子がよくわかる一冊となっています。

おすすめの動画

不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME〈完全盤〉翔ぶ!!新しき風に向って

美空ひばり伝説のステージである「不死鳥コンサート」を全て公開しています。当時、病魔に犯されながらも一心に歌唱するひばりの姿に感動する方も多かったと思います。30年ほど前の映像ですが、かなり画質が良く見やすい動画となっています。

【最後の映像】 美空ひばり/川の流れのように

美空ひばりの生前の最後の映像です。現在も愛されている「川の流れのように」を熱唱する姿には心を打たれます。「昭和の歌姫」の名に恥じぬ、素晴らしい歌唱力であたかも歌詞の情景の中で聞いているかのような感に浸ることができます。

AIでよみがえる 美空ひばり

美空ひばりをAIの技術を用いて復活させた映像です。歌った曲は新曲「あれから」で、秋元康がプロデュース、振り付けは天童よしみが担当しています。過去の音源や映像を元に美空ひばりの特徴を抽出して本物に近づけ、画面上に蘇らせました。

おすすめの映画

ひばり チエミ いづみ 三人よれば

「ジャンケン娘」から始まった三人娘のシリーズです。ジャンケン娘の頃は学生の設定でしたが、社会人になって3人が帰ってきます。3人の恋愛模様をコメディタッチかつミュージカル調に描いた作品となっており、最後まで楽しんで見ることができます。

水戸黄門 天下の副将軍

水戸黄門役の月形龍之介をはじめ、中村錦之助、東千代之介、里見浩太朗、大川橋蔵などそうそうたるメンツを起用した映画です。美空ひばりも要所で登場し、東映映画の黄金世代を象徴するような作品に仕上がっています。

忠臣蔵 櫻花の巻/菊花の巻

こちらの作品も水戸黄門同様、豪華なメンバーを揃えて撮影された映画です。現代のようにCGが使えない時代で、セットを大々的に製作して取られているため、リアルな風景や雰囲気が楽しめます。時代劇を代表する俳優と言われている片岡千恵蔵の演技には目を見張るものがあります。

おすすめアルバム

美空ひばりゴールデンベスト

美空ひばりの歌手生活40年以上の中で、珠玉の作品を選りすぐって編成されています。「川の流れのように」、「悲しい酒」、「悲しき口笛」など各年代でヒットを記録した楽曲を中心に全16曲が収録してあります。

美空ひばりベスト 豪華盤

美空ひばりの1949年〜1963年までのベストアルバム(白盤)と1964年〜1989年までのベストアルバム(紅盤)を合わせた構成となっています。「リンゴ追分」から「哀愁波止場」、「愛燦燦」、「川の流れのように」まで幅広い年代の名曲が収録してあります。

美空ひばりについてのまとめ

美空ひばりは10歳前後から歌と芸能の世界で活躍した昭和を代表する大スターです。「愛燦燦」、「川の流れのように」などの名曲は今の若い世代でも知っている方が多いと思います。1960年前後は映画俳優としても名を馳せ、銀幕のスターの称号もほしいままにしました。

晩年は病魔と闘いながらも力強く歌い続け、多くの人の心にその姿を残して、この世を去りました。

今回の記事で美空ひばりに興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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