美空ひばりの簡単年表
美空ひばり(本名:加藤和枝)は神奈川県横浜市で生まれます。魚屋を営む父・加藤増吉と母・貴美枝の長女でした。兄弟は他に、弟が2人、妹が1人います。
当時は第二次世界大戦の最中であったため、父・増吉も戦争へ駆り出されることとなりました。その見送りの際に、美空ひばりが「九段の歌」を歌い、増吉はもちろん周囲の人も感動の渦に巻き込んだのです。
美空ひばりの歌唱力に気が付いた母・貴美枝は近所の公民館などに舞台を構え、「青空楽団」を立ち上げます。そして、ひばりを舞台に立たせるようになるのでした。
9歳の時にはNHK「素人のど自慢」に出演し、手応えを感じますが、結果は不合格でした。理由は、選曲した「リンゴの唄」が非教育的であるとのことからです。
1946年に杉田劇場へと参加することとなったひばりは、翌年から劇場の前座として巡業を共にするようになります。
1947年10月(諸説あり)に宝塚歌劇団の岡田恵吉に命名を依頼します。そして、「美空ひばり」という芸名をもらうこととなりました。1948年の5月には恩師とも言える川田晴久との出会いを果たします。
当時のスター歌手であった笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を歌っている姿が評判を受け、「のど自慢狂時代」という映画で初出演を飾ります。この年の8月には「河童ブギウギ」でレコードデビューも果たします。その後、主題歌を担当した映画「悲しき口笛」が大ヒットし、全国に知られることとなりました。
映画「リンゴ園の少女」の主題歌「リンゴ追分」をひばりが担当することとなります。そしてこの歌が大ヒットを記録し、レコードの売り上げ枚数は70万枚と当時の史上最高記録を打ち立てます。
17歳にしてNHK紅白歌合戦に出場します。歌った楽曲は「ひばりのマドロスさん」でした。
映画「ジャンケン娘」で江利チエミ、雪村いづみと共演します。この映画がヒットを記録し、3人ともに人気を勝ち得たため「三人娘」と呼ばれるようになりました。
紅白歌合戦への出場は3年ぶりの2度目でしたが、当時のスター歌手らを抑えて、ひばりが大トリに抜擢されます。
7月に東映と専属契約を結び、多くの時代劇や映画に出演することとなります。この時期は東映の黄金時代でもあったことから、同時期に活躍したひばりは銀幕のスターとしての称号も得ることとなりました。
この年に開かれた第2回日本レコード大賞に「哀愁波止場」で参戦します。見事に大賞を受賞し、「歌謡界の女王」と呼ばれるようになりました。
美空ひばりは生涯で一度結婚をしていますが、籍を入れていないため戸籍上では独身のままとされています。その一度の結婚は小林旭がお相手で、ひばりは妻になりきろうと家事や炊事を行いますが、音楽への未練が捨てきれずに2人の間に溝が生じ、1964年にわずか2年で離婚することとなりました。
1965年には「柔」という曲を発表し、180万枚の売り上げを記録します。これを皮切りに1966年「悲しい酒」が145万枚、1967年「真赤な太陽」が140万枚とヒットを連発します・
この年の紅白歌合戦では「人生将棋」にて出場し、大トリを務めます。同時に司会進行も任され、紅白史上初の司会兼大トリという大役に抜擢されたのでした。
美空ひばりはデビュー間もない頃から山口組三代目・田岡一雄とのコネクションがありました。1973年に弟が不祥事を起こすと、ひばりの暴力団との関係も世間から責められるようになり、コンサートなどを開催しにくくなってしまいます。
この時期は以前と比べると活動が低迷しますが、岡林信康との「月の夜汽車」をはじめとし、イルカとの「夢ひとり」、小椋佳との「愛燦燦」など多数の有名人とのコラボを実現します。
1981年には母・貴美枝が脳腫瘍により亡くなります。ひばりはずっと寄り添っていてくれた母の死にショックを受けますが、同年に田岡一雄、1982年には江利チエミ、1983年、1986年には2人の弟が亡くなり、悲しみの底に沈んでしまうこととなりました。
1985年からは原因不明の腰痛に悩むようになりますが、1986年はデビュー40周年記念ということもあり、三大都市でのコンサートを開催します。1987年にも全国ツアーを開催しますが、腰痛がひどくなってきたこともあり、ツアーを中断し、療養することとなりました。
ツアー開催中に体調を崩し、福岡県の病院へ入院することとなります。診断は慢性肝炎、大腿骨頭壊死症でした。3ヶ月後には無事に復帰を果たし、同年の10月には「みだれ髪」をレコーディングしました。
病気からの回復後、東京ドームでの復活ステージ「不死鳥コンサート」を開きました。体調は万全とは到底言いがたい状況で、医師も控えていましたが、ひばりは精力的に舞台で歌唱します。コンサートを終えた際にはそのまま倒れこみ、救急車で病院へと運ばれたそうです。
秋元康が企画したアルバムのレコーディングを行い、このアルバムの中に「川の流れのように」が収録されました。これは生涯最後の曲となり、現在でも多くの人に愛される曲となったのです。
病気から復帰後も精力的にコンサートを敢行していたひばりでしたが、病状は日に日に悪化し、1989年の公演では自力でステージへ上がれないほど進行していました。2月に行われた公演を最後に病院にへ入院し、6月13日には呼吸困難で重体となります。その約2週間後の6月24日、間質性肺炎による呼吸不全により息を引き取りました。
美空ひばりの年表
1937年 – 0歳「美空ひばり誕生」
横浜で魚屋の長女として生まれる
美空ひばりは本名を加藤和枝と言い、加藤家の長女として横浜市磯子区に誕生します。両親が音楽好きなため、幼少期から歌謡曲をはじめとするさまざまな歌に触れながら育ちました。
6歳の時には戦争へ出兵する父のために「九段の母」を歌いましたが、これが観衆にも好評であったため、母・貴美枝はひばりの歌の才能に気づくこととなったのです。
初舞台から劇団の前座歌手へ
ひばりが8歳の時には母が「青空楽団」を設立します。近くの銭湯などに歌う場所をもうけ、ひばりはそこで初舞台を踏みます。翌年にはNHK「素人のど自慢」に出場しますが、選曲「リンゴの唄」が審査員に不評だったため不合格に終わりました。
10歳の際には杉田劇場で漫談家などの前座歌手として舞台へ上がるようになります。この時に「歌をやめるなら死ぬ」と豪語するほど、歌手になることを夢見るようになりました。
1948年 – 11歳「「美空ひばり」と命名」
「美空ひばり」の芸名をもらう
神戸での興行では、三代目山口組組長の田岡一雄に気に入られたり、のちに師匠と崇めることとなる「川田晴久とダイナ・ブラザーズ」の川田晴久と出会ったりするなど、ひばりの人生において影響を及ぼす重要人物との出会いがありました。
川田晴久の演芸部では、当時のスター歌手である笠置シヅ子の真似をして人気を博します。ひばりは横浜国際劇場と契約を結ぶこととなりますが、その際に宝塚の岡田恵吉から「美空ひばり」という芸名をもらうことになりました。
映画出演を果たし、国民的な人気を得ることに
笠置の「東京ブギウギ」を歌っている姿が好評で、映画「のど自慢狂時代」に「東京ブギウギ」を歌う子供として出演することになります。その後、12歳の時に主演に抜擢された「悲しき口笛」で全国的な地名度を得ることになったのです。
「悲しき口笛」の主題歌は45万枚の売り上げを記録し、この歌唱時の姿は多くの国民の印象に残りました。
15歳の時には「リンゴ追分」が70万枚売れ、同時のレコード売り上げ史上最高枚数を記録しています。
1955年 – 18歳「『三人娘』から『歌謡界の女王』へ」
ジャンケン娘に出演し「三人娘」と呼ばれるように
1954年の暮れには紅白歌合戦への初出場を果たします。その翌年、映画「ジャンケン娘」に出演した江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれるようになりました。
1957年には紅白歌合戦出場2回目ながら、大物スター歌手を差し置いて大トリを歌い上げます。芸能界でも相当の地位を得たことを印象づける出来事となりました。そして、翌年からは本格的に映画出演の方へ力を入れるようになったのです。
日本レコード大賞を獲得
1958年から1963年にかけては映画へ精力的に出演した期間でした。ちょうど東映の栄えていた時とひばりの活躍した時期が被っていたため、映画スターとしての称号もほしいままにします。ひばりは生涯で150本以上の映画に出演していて、現在では「昭和の歌姫」としてのイメージが強いですが、当時は映画女優としても日本を代表するほどの存在でした。
1960年の暮れには日本レコード大賞に出場します。選曲したのは「哀愁波止場」で、見事に大賞を獲得することとなります。この出来事から以後、「歌謡界の女王」と呼ばれるようになりました。
1962年 – 25歳「小林旭と結婚」
小林旭との結婚・離婚
美空ひばりと小林旭は雑誌の対談を機に親しくなりました。1962年には田岡一雄を通じてひばりの小林に対する思いを伝え、結婚に至ることとなりました。母の貴美枝は結婚に反対でしたが、ひばりは良き妻となるように精一杯尽くしていたようです。
しかし、ひばり自身、歌への情熱を忘れることができず、芸能の世界へ戻りたいと日に日に強く思うようになっていきます。そのため、小林との関係にすれ違いが生じるようになり、2年後の1964年には離婚する運びとなりました。
紅白歌合戦の司会・大トリ
離婚後の1965年、「柔」が180万枚のヒット、1966年は「悲しい酒」が145万枚の売り上げ、1967年には「真赤な太陽」が140万枚のセールスを記録し、破竹の勢いで芸能界へ復帰します。これらの作品は後世にわたってひばりの代表作品として知られていると思います。
1970年には紅白歌合戦で司会を進行しつつ、大トリを歌うという大役に抜擢され、見事に役を果たしました。この役柄は紅白が始まって以来初のことで、現在でも女性では唯一の出来事となっています。