生涯で150本以上もの映画に出演
「昭和の歌姫」として名高い美空ひばりですが、東映映画の花形女優としても活躍していました。52年の生涯で出演した映画は150本以上というから驚きです。時代劇から名作文学の実写化まで、幅広い役柄を演じていました。
ファン人気第1位の『花笠若衆』は、1958年に公開された時代劇です。大名家の娘として生まれたものの、双子だったために追い出されて江戸で男として育った喧嘩好きの伊達男・吉三とその実の妹・千代姫の2役をひばりが1人で演じています。「男として育てられた娘」とはいえ、男性役を見事に演じ上げるひばりは才能のかたまりのような人だったのだな、と感じます。
死因は間質性肺炎の悪化
美空ひばりは1989年6月24日に間質性肺炎の悪化により帰らぬ人となります。
6月25日に通夜、26日に葬儀が行われました。この葬儀には芸能界や政界などひばりと親交のあった各界からの参列者が相次ぎます。7月22日には一般向けに青山葬儀所にてお別れの会が催され、42000人のファンが訪れました。
葬儀では映画で親交の深かった萬屋錦之介、森繁久弥などが弔辞を読み上げ、歌手として親しくしていた北島三郎、近藤真彦などらは「川の流れのように」を合唱しました。
美空ひばりの功績
功績1「女性として初めての国民栄誉賞受賞」
ひばりが亡くなって1ヶ月後の1989年7月、女性としては初めてとなる国民栄誉賞の受賞が決定しました。
国民栄誉賞はもともと、プロ野球選手の王貞治がホームラン世界記録を達成したことを称えるために作られた賞です。王貞治が1977年に受賞し、ひばりが受賞するまでの12年間に、わずか6人しかもらったことのない特別な賞でした。
現在までの主な受賞者としては柔道の山下泰裕、「サザエさん」の長谷川町子、「寅さん」の渥美清、映画監督の黒澤明などです。最近では高橋尚子、「なでしこジャパン」、長嶋茂雄と松井秀喜などが記憶に新しいでしょうか。
この40年以上の間に歌手として受賞したのは藤山一郎と美空ひばりの2人だけです。
功績2「レコード・CDの総売上は1億枚以上」
2019年までに美空ひばりが売り上げたCD・レコードは1億枚を超えています。日本のアーティストのCDの総売上枚数はトップがB’zの8000万枚となっていますが、ひばりの時代はレコードが多かったので、それらの枚数を合わせるとB’zを上回る数となるのです。
1989年のひばりが亡くなった年には美空ひばりの音楽関係グッズの売り上げが120億円にも達しました。その後も億単位でひばり関連の商品は売れ続けています。マイケルジャクソンが死後も毎年数百億円売り上げているとのニュースがありましたが、美空ひばりはその日本人バージョンといえそうです。
功績3「紅白歌合戦の紅組大トリ回数はぶっちぎりの1位 」
美空ひばりは17歳の頃から紅白歌合戦に出場し、2回目には大トリを務めています。大トリの回数は北島三郎と同じ11回で歴代最多ですが、紅組歌手に限った場合、ひばりに次ぐのは都はるみの3回です。
1973年以降は「ひばりスキャンダル」も絡み、NHKとの折り合いが合わなかったため紅白出場を果たしていませんが、1979年には特別出演という形で出場しています。この回が事実上、最後の紅白歌合戦出演ということになりました。
2019年にはAIの技術を用いて「美空ひばり」を画面上に映し出し、新曲を発表するという画期的な試みも行われています。
美空ひばりの名言
「ひばりに引退はありません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ。」
美空ひばりは幼い頃から歌の世界で生きていくことを決心していたというエピソードがあります。小林旭との結婚生活の時には良き妻を演じようとしていたようですが、それでも芸能界への未練は捨て切れずに再びステージへと立つことを決意します。晩年の病魔に侵されていた時期も歌うことに関しては一切手を抜かずにやり切ったそうです。
「本当に人生って、川の流れのようなものよね。真っ直ぐだったり、曲がりくねっていたり、幅が広かったり、狭かったり、流れが早かったり、遅かったり…。」
この言葉は生前最後となる「川の流れのように」が収録されたアルバム発表時の言葉です。この名言に共感できる人はかなりいるのではないでしょうか?この歌詞に思いを馳せる人が多いからこそ、いまだに愛される曲として「川の流れのように」が生き続けているのだと思われます。
「今日の我に明日は勝つ。」
常に国民的スターとして生きてきた美空ひばりらしい言葉です。10歳の頃から芸能界へデビューを果たし、20歳にして紅白歌合戦の大トリを務めるほどの輝かしい経歴を歩んできた美空ひばりだからこそ言える名言だと思います。最後まで国民に愛される歌手として活躍し続けた姿は永遠に生き続けることでしょう。
美空ひばりにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「王貞治と兄弟のような仲」
美空ひばりは王貞治と親交が深く、ほとんど兄弟のような仲であったとされています。1988年の年末に行われたひばりの生涯最後となるクリスマスディナーショーにも王貞治は参加しています。また、ひばりの葬儀の際も弔辞を任されました。
1989年6月24日、王貞治は台湾に出かけていましたが、美空ひばりが亡くなったとのニュースを受けると「それは本当か」と言い、絶句してしまったそうです。
都市伝説・武勇伝2「タクシー運転手に歌を聞かせ、無料で乗せてもらう」
ある日、タクシーに乗せてもらった際に財布を忘れ、「わたくし、美空ひばりというものですが、財布を忘れてきたので友人からお金を借りてきます。」と言い、運転手に信用させるために「リンゴ追分」を歌いました。
最初は信じなかったタクシーの運転手でしたが、歌い終えた後には感激し、「生で歌を聴かせていただいたので、料金はいただきません。」と言ったそうです。
都市伝説・武勇伝3「楽屋でサンマを焼いて食べていた?」
美空ひばりが活躍していた頃の楽屋は今よりも自由度が高く、ひばりがサンマを焼いて食べている写真が残っています。その写真は関係者がもっているようですが、今では到底考えられませんね。