ニュルンベルク裁判とは?経緯や問題点、判決内容、死刑人数など分かりやすく解説

「ニュルンベルク裁判って何?」
「何が発端で、結末はどうなったの?」
「裁判のその後はどんな影響があった?」

第二次世界大戦後ドイツで行われたニュルンベルク裁判は、後世に大きな影響を残す軍事裁判でした。現在では第二次世界大戦後に日本で行われた極東国際軍事裁判と合わせて二大国際軍事裁判と呼ばれています。

そのためニュルンベルク裁判は、第二次世界大戦後の国際法の発展にも大きく貢献した裁判と言えます。

ニュルンベルグ国際軍事裁判の様子

しかし、ニュルンベルク裁判はどんな罪状が挙げられたのか、一体なにを裁くために行われたのか、誰が容疑者なのかよくわからないという方も多いのではないでしょうか?

今回はそんなニュルンベルク裁判はどんな裁判だったのか、経緯や当時の評価、後世への影響などをご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

ニュルンベルク裁判とは

ニュルンベルク裁判とは第二次世界大戦時のドイツ軍の戦争犯罪を裁くための裁判で、1945年11月20日から1946年10月1日までの約1年間行われました。裁判では、ドイツ労働党を指揮していた重要人物22人の容疑者のうち12人が死刑判決となりました。

それでは、ニュルンベルク裁判で挙げられた罪状と容疑者、判決内容、開催国など裁判の内容について詳しく見ていきましょう。

第二次世界大戦の戦犯を裁くための裁判だった

ニュルンベルク裁判の写真

ニュルンベルク裁判は第二次世界大戦の際に当時のナチスドイツが行った戦争犯罪を裁く裁判です。戦争犯罪というと定義の幅が広いですが、要約すると民間人を攻撃したり略奪をする行為、一般商船や医療施設の破壊など、戦争を理由に戦う意思や力を持たないものを脅かす行為のことを指します。

ニュルンベルク裁判では、当時ドイツの軍や政治を動かしていたナチス高官たちが平和に対する犯罪と戦争犯罪、人道に対する犯罪、そしてこの3つを共謀参画した罪に問われました。

これらの罪はどう定義づけられているかというと、平和に対する罪は正式な宣戦布告無しの「他国への侵略行為や戦争の参画、準備。」、人道に対する罪は「国家や集団による民族の絶滅等を目的とした虐殺や奴隷化などの非人道的行為。」などが罪状として挙げられます。

当時のドイツはユダヤ人の迫害や他国への侵略などを行っているので、裁判でもこれらの罪を追求されました。

しかし、これらの法律が国際軍事裁判所憲章で成立したのは1945年8月8日です。ドイツが連合国軍に降伏したのは同年の5月7日なので、この法律はドイツが戦争で罪を犯した後に成立したものと言えます。

第二次世界大戦での犯罪とは何だったのか

ナチ党党大会跡

それでは、第二次世界大戦のナチスドイツは具体的にどんな規約違反をしたのか振り返ってみましょう。

第二次世界大戦は1939年にドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに起こりますが、戦いに関してドイツはポーランドに宣戦布告をせずに戦争を仕掛けています。それからドイツはデンマークやノルウェーも占領していき、1940年には不可侵条約を破ってソ連に進行しました。そのため、この時点で平和に対する罪を犯していることになります。

また、それだけではなく当時ドイツの政権を握っていたドイツ労働党(ナチ党)のアドルフ・ヒトラーは反ユダヤを政策に掲げホロコーストを行いました。ホロコーストは当時のドイツ軍によるユダヤ人への虐殺行為や絶滅政策のことです。

ホロコーストではユダヤ人を捕まえて強制収容所に閉じ込め、強制労働を行わせたりガス室で直接殺害したりなど、非人道的な行為が日常的に行われていました。

最終的に犠牲者数は諸説ありますが虐殺だけでなく収容所や強制郎度で死亡した人数を含めると、最低でも200万人は死亡しています。ニュルンベルク裁判ではこのホロコーストに関してもドイツの罪が問われました。

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