ニュルンベルク裁判とは?経緯や問題点、判決内容、死刑人数など分かりやすく解説

ニュルンベルク裁判の3つの問題点

ニュルンベルク裁判は国際法の発展に大きく貢献する出来事でしたが、この裁判については「勝者の裁き」、「押し付け論」などと呼ばれていることもあります。

その理由として、ニュルンベルク裁判には大きく3つの問題点がありました。

  1. 裁判で適用された罪状が事後法であった
  2. 裁判官が全員戦勝国から選出された
  3. 戦勝国が犯した罪に関しては言及されなかった

こちらではその3つの問題点についてご紹介していきます。

1. 裁判で適用された罪状が事後法であった

法令が出来上がる前の出来事は裁けるのか

まず一つ目は、ニュルンベルク裁判で告訴した人道に対する罪などが提唱されたのは1945年で第二次世界大戦終結後です。

欧州の法律の原則として法令が出来上がる前の出来事に関しては責任を追求できないという考え方があります。

この考え方を基盤とすると国際法ができたのは第二次世界大戦後になるので、「今ある法律で裁くべきなのでは?」という意見があり、「事後法」と非難されました。

2. 裁判官が全員戦勝国から選出された

裁判官の選出に偏りがあった

2つ目はニュルンベルク裁判の裁判官が全員戦勝国の人間から選出されていることにあります。

もちろん裁判官の人間性に問題があると言わけではありませんが、裁判の判決を下す裁判官が戦勝国の人間から選ばれた場合、本人にそのつもりがなくても公正な判断を下すのが難しいのでは?という意見もあったのです。

実際にアメリカの裁判官の中では「公平性に欠ける。」という理由で辞退した人も存在します。

3. 戦勝国が犯した罪に関しては言及されなかった

戦勝国の不法行為に関しては一切罪に問われなかった

また、ニュルンベルク裁判では民間人への無差別攻撃や一方的な侵攻などが平和に対する罪として裁かれました。しかし、この罪は敗戦国だけでなく連合国やその他の国も犯しています。

特に1939年代にはフランスやイギリスもドイツに一方的な宣戦布告で戦争を仕掛けたり、第二次世界大戦時には無差別爆撃などを行っていました。

しかし、戦勝国はこれらの不法行為に関しては一切罪に問われていません。つまり、敗戦国のドイツは断罪されたのに、戦勝国の国々は犯した罪を不問にされたのです。

このような理由から、第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判は戦勝国が自分の正義を敗戦国に押し付ける、いわゆる「勝者の裁き」と呼ばれることになりました。

ニュルンベルク裁判と日本の関連性

東京国際軍事裁判の写真

第二次世界大戦後はニュルンベルク裁判と動揺に日本でも東京国際軍事裁判(極東国際軍事裁判)という裁判も行われました。この裁判でも第二次世界大戦の日本の戦犯が罪に問われ、当時の日本軍でも重役だった26人が告訴されました。

しかし、東京国際軍事裁判で選出された裁判官の中には戦勝国だけではなくインドなど日本との戦争に直接関係のない中立国からも派遣されました。

さらに、ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人からしか選出されなかったという事実がありますが、この裁判では日本だけでなくアメリカ人の弁護団も裁判に参加しています。これはニュルンベルク裁判と同じような公平性に欠けるという批判を避けるための手段だったともいわれています。

また、東京国際軍事裁判では告訴された人間のほとんどは終身刑または死刑という重い判決が下りました。

ニュルンベルク裁判が後世に与えた影響

ベルリンの壁

上記のようにニュルンベルク裁判は公平性に欠けるという観点で見るとあまり良い印象はありません。しかし、この裁判をきっかけとして国際法の定義が明確化したことは事実です。第二次世界大戦以前まではこのような国際的なルールというものが曖昧だったため、いつ戦争が起こってもおかしくはないという状況でした。

けれど、第二次世界大戦後に国際法で戦争犯罪に関するルールがしっかりと決められたことで、国際連合に加入した国が法律違反をした場合は他の国々で集団制裁を与えるという集団安全保障のシステムの基盤にもなりました。そのため、ニュルンベルク裁判は、その後の世界平和を構築するための法律作りに大きく貢献したとも言えます。

また、ニュルンベルク裁判後の1949年にはそれまで4カ国で管理されていたドイツは東西に分かれてベルリンの壁が作られます。この分断は1990年のドイツ統一まで続きました。この出来事が後のベルリンの壁崩壊です。

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