ディープ・パープルのメンバー
ボーカル
ロッド・エヴァンス
ディープ・パープル結成時のオリジナルメンバー。在籍中に3枚のアルバムに関り、「ハッシュ」や「ケンタッキー・ウーマン」などのヒット曲に恵まれました。しかしハードロックに傾いていくほかのメンバーとすれ違うようになり、1年でバンドを去ることになります。
1980年に「偽ディープ・パープル事件」を起こして、表舞台から姿を消しました。現在もバンドのメンバーとは絶縁状態が続いています。
イアン・ギラン
バンドのハードロック化に伴って加入したボーカリスト。在籍中に「イン・ロック」「ファイアーボール」「マシン・ヘッド」「紫の肖像」のアルバムに参加し、1972年には初来日を果たし武道館などで公演を行いました。
金切り声のような独特な歌唱法で、のちのヘヴィメタルのボーカリストに大きな影響を与えました。1973年に一度バンドを脱退しますが、1984年のディープ・パープルの再結成時に再びバンドに復活しています。
デイヴィッド・カヴァデール
ディープ・パープルに加入時にはまだ無名のボーカリストだったデイヴィッド・カヴァデール。1973年に行われたディープ・パープルのボーカリスト募集のオーディションに勝ち残り、正式にメンバーとして加入します。
しかし1976年にはバンドの絶望的な状況に脱退を表明し、翌年にハードロックバンド「ホワイトスネイク」を結成します。1993年にはレッド・ツェッペリンのギタリストであるジミー・ペイジと「カヴァデール・ペイジ」としてアルバムを発売し話題となりました。
ジョー・リン・ターナー
1984年の再結成時に復活していたイアン・ギランが再び脱退した際に、代わりに加入したのが元レインボーのジョー・リン・ターナーでした。13作目のアルバム「スレイヴズ・アンド・マスターズ」に参加しますが1992年に脱退。
ギター
リッチー・ブラックモア
結成時のオリジナルメンバーのひとり。ロックの楽曲にクラシックのフレーズを取り入れたことで、のちのロックの発展に大きな貢献をしました。ディープ・パープル脱退後は、別のロックバンド・レインボーを結成しました。
ギターはフェンダー社のストラトキャスターを使用。ステージでギターを破壊するなどの過激なパフォーマンスは、ロックギタリストのヒーローとして現在も語り継がれています。
トミー・ボーリン
リッチー・ブラックモア脱退後に加入したバンド初のアメリカ人ギタリストです。ドラマーのビリー・コブハムのアルバムへの参加や、自身のソロアルバムでもジャズ・フュージョン系のミュージシャンとの共演が目立ちます。
1975年にディープ・パープルに加入しアルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」を発表しますが、翌1976年にバンドは解散してしまいます。
ジョー・サトリアーニ
再結成時のメンバーだったリッチー・ブラックモアが1993年の日本ツアーの直前に脱退し、サポートとして参加したのがジョー・サトリアーニでした。加入から日本公演までわずかな時間しかなかったにもかかわらず、素晴らしい演奏でバンドを支えました。
そのまま正式メンバーに迎える提案もありましたが、サトリアーニがすでにソロ・ミュージシャンとして歩みだしていたため実現はされませんでした。
スティーブ・モーズ
1993年のリッチー・ブラックモアの脱退後、正式メンバーとして迎えられたのがスティーブ・モーズです。ディキシー・ドレッグスやカンサスなどで活動していたため、ディープ・パープル以外の活動も認めるという条件での加入でした。
キーボード
ジョン・ロード
ディープ・パープル結成からのメンバーで、バンドのまとめ役でもあったキーボーディスト。幼い頃からクラシックピアノを習っていましたが、ジャズ・オルガニストのジミー・スミスの演奏を聴いてハモンドオルガンに目覚めます。
ジョン・ロードが演奏するアンプで歪ませたオルガンの音色は、ロックオルガンのお手本となりました。ひざを痛め演奏に支障をきたしたため、2001年にバンドを脱退します。
ドン・エイリー
ジョン・ロードの跡を継ぎ、バンドに加入したのがドン・エイリーでした。ゲイリー・ムーアとのジャズ・ロック・バンド「コロシアムⅡ」での活動や、セッション・キーボーディストとしてブラック・サバスのアルバムへの参加などが有名です。
1979年にはディープ・パープルを脱退していたリッチー・ブラックモアのグループであるレインボーにも参加しています。