ディープパープルとはどんなバンド?功績や逸話、名曲、アルバムまとめ

ベース

ニック・シンパー

ニック・シンパー

オリジナルメンバーのひとり。セッション活動をしていたころにリッチー・ブラックモアやジョン・ロードと出会いディープ・パープルに参加します。

ハードロック路線へと舵を切るために迎えたボーカルのイアン・ギランが、同僚であったロジャー・グローヴァーの加入を強く希望したため解雇される形でバンドを脱退しました。

ロジャー・グローヴァー

ロジャー・グローバー

ニック・シンパーの席を奪う形で加入となった2代目ベーシスト。黄金期を支え活躍しますが、メンバー間での対立が原因でバンドを去ります。

その後、ディープ・パープルが設立したレコード会社「パープル・レコーズ」で音楽プロデューサーとしての道を歩み始めます。1979年にはリッチー・ブラックモアに誘われレインボーに参加しました。

グレン・ヒューズ

グレン・ヒューズ

1973年に脱退したロジャー・グローヴァーの後継者。トラピーズというミクスチャー・ロックバンドでボーカル兼ベースを担当してたヒューズに、イアン・ペイスとジョン・ロードが熱心に勧誘したといいます。

ディープ・パープルにスカウトされたことで世界的に注目を浴び、脱退後はソロ活動や様々なアーティストのアルバムに関わっています。

ドラム

イアン・ペイス

イアン・ペイス

ディープ・パープルのメンバーの中で唯一、現役のオリジナルメンバー。1960年代から活動を始め、現在も第一線で活躍しているロックドラムの立役者のひとりです。ローリングストーン誌の「歴史上最も偉大な100人のドラマー」で第9位を獲得しました。

またペイスは左利きで、ドラムセットを通常と反対に配置する珍しいセッティングで演奏します。非常に細かいフレーズを正確に叩くパワフルなドラミングが持ち味です。

活動履歴

1967年:バンド結成

クリス・カーティス

ディープ・パープルの前身となったのは、サーチャーズのドラム兼ボーカルだったクリス・カーティスが始めたラウンドアバウトというバンドでした。カーティスはメンバーとして同じアパートに住んでいたジョン・ロードとセッション・ギタリストだったリッチー・ブラックモアに声を掛けます。しかし他のメンバーが集まらず、ラウンドアバウトは解散してしまいました。

1968年〜1976年:結成から解散まで

1968年 – 第1期

ラウンドアバウトが解散したあと、ブラックモアとロードは再び集結します。二人共の知り合いだったニック・シンパ、ボーカル・オーディションに勝ち残ったロッド・エヴァンス、エヴァンスに同行してきたイアン・ペイスを引き入れ、バンド名を「ディープ・パープル」と改め再始動しました。

当時はまだハードロックではありませんでしたが、デビュー・アルバムの「ハッシュ」はヒットしバンドは順調な滑り出しを見せました。

1969年 – 第2期

第2期のディープ・パープル

黄金期と呼ばれるのはこの時期です。バンドのコンセプトを当時流行し始めたハードロックにするため、新しくイアン・ギランとロジャー・グローヴァーを迎えます。

1970年に発売された「イン・ロック」は大ヒットを記録。続けてアルバム「ファイアー・ボール」「マシン・ヘッド」を出し、「ハイウェイ・スター」や「スモーク・オン・ザ・ウォーター 」などのヒット曲を量産しました。

1973年 – 第3期

ポール・ロジャース

ギランとグローヴァーが1973年に脱退したことによる新メンバー探しは難航を極めました。ペイスとロードがグレン・ヒューズを勧誘しているさなか、ブラックモアは元フリーのポール・ロジャースにも声をかけていました。結局ポール・ロジャースが誘いを断り「バッド・カンパニー」を結成したため、ヒューズが加入することになりました。

その後に行われたボーカル・オーディションで当時無名だったデイヴィッド・カヴァデールが加入します。1974年にはこのメンバーで「紫の炎」が制作され世界的なヒットを記録しました。

1975年 – 第4期

新しく加入したヒューズとカヴァデールとの音楽性が合わなかったことで、ブラックモアが脱退を表明します。後任としてカヴァデールの案でトミー・ボーリンが加入しました。しかし以前のディープ・パープルとは違う方向性になってしまい、ファンたちを困惑させてしまいます。

その結果バンドは空中分解の状態に陥り、ついには1976年の7月にディープ・パープルは解散を発表しました。この解散期の間にロッド・エヴァンスは「偽ディープ・パープル事件」を起こしました。

1984年〜2020年:再結成から現在

1984年 – 第5期

ディープ・パープル再結成

1984年に8年間の沈黙を破りディープ・パープルは再結成を果たします。黄金期と言われた第2期のメンバーでの復活でした。この当時世界ではヘヴィ・メタルが流行していて、ディープ・パープルに影響を受けたミュージシャンたちに歓迎されました。

同年11月には再結成第1作となる「パーフェクト・ストレンジャーズ」を発売し、第2期のディープ・パープルとレインボーの良いところを折衷したアルバムだと高評価を受けました。

1989年 – 第6期

レインボー

再結成したものの、またしてもメンバー通しの関係性が悪化しイアン・ギランが脱退します。代わりに元レインボーのジョー・リン・ターナーが加入。

ターナーの加入でレインボー寄りの音楽性になるかと思われましたが、ディープ・パープルの雰囲気もしっかり残したアルバム「スレイブス・アンド・マスターズ」を発表しファンを安心させました。

1992年 – 第7期

3年ほどメンバーだったジョー・リン・ターナーが脱退すると、バンド結成25周年の名目で再びイアン・ギランが復帰します。1993年には通算13枚目となるアルバム「紫の聖戦」を発表しました。

しかしギランとブラックモアの対立が決定的になり、日本ツアー直前の同年11月にブラックモアが脱退してしまいます。ブラックモアが抜けた穴を急遽埋めたのが、ギタリストのジョー・サトリアーニでした。

1994年 – 第8期

カンサス

自身の活動のためメンバーにはならなかったサトリアーニの代わりに、ディキシー・ドレッグスやカンサスなどで活動していたスティーヴ・モーズが加入します。1996年に「紫の証」、1998年には「アバンダン」を発表しました。

2002年 – 第9期

イングウェイ・マルムスティーン

身体を壊し脱退したジョン・ロードの変わりにドン・エイリーが加入し、2003年には「バナナズ」、2005年には「ラプチャー・オブ・ザ・ディープ」を発表します。

2011年にジョン・ロードがすい臓がんを公表し、翌年に肺塞栓症のため71歳でこの世を去ります。2009年のイングヴェイ・マルムスティーンとのジョイント・ツアーでの来日が、最後の公演となりました。

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