「普仏戦争ってどんな戦争だったの?」
「普仏戦争について詳しく知りたいけど情報が多すぎて全体像がつかめない」
「結局戦争の原因や結末はどうだったの?」
普仏戦争は1870年代に起こったプロイセン王国とフランスによる戦争で、約1年間に渡って続きます。
そんな普仏戦争ですが、世界史の授業ではあまり詳しく説明されないことが多く、どんな歴史的な意義があるのかわからないという方も多いのではないでしょうか。
普仏戦争は授業だとさらっとした説明しかされませんが、その後のドイツ統一や戦争における戦い方、当時の日本の軍の在り方にも大きく影響した重要な戦争です。
今回はそんな普仏戦争の経緯や原因、勝敗について分かりやすく解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
普仏戦争とは?
普仏戦争は1870年7月19日から翌年5月10日まで行われたフランスとプロイセンによるスペインの王位継承問題を発端とした戦争です。戦いはフランス北東部のスダンやフランスに近いプロイセンのザールブリュッケン、パリにまで及び大規模なものとなっています。
プロイセンとは現在のドイツ北部からポーランドの西部までにかけて統治されていた国で、当時のドイツはいくつかの国に分かれていたので政治体制はバラバラでした。しかし、数カ国に分かれていたドイツ諸国はフランスを共通の敵としたことで一致団結します。
そして、最終的には全ドイツ対フランスの戦争となりドイツ統一への大きな足がかりとなり、後世に大きな影響を残しました。このことから普仏戦争はドイツ対フランスなので独仏戦争、1870年戦争と呼ばれる場合もあります。
また、普仏戦争は当初、周辺国はフランスが圧倒的に勝利を予想していましたが、プロイセンの革新的な軍事制度や戦略、外交手腕により予想外の展開を迎えました。それでは、普仏戦争は一体どのような戦争だったのか詳しく見ていきましょう。
普仏戦争勃発から終結までの経緯
まずは、普仏戦争はどこの地域でどのように行われたのか、簡単におさらいしていきましょう。
フランス軍のザールブリュッケン占領
普仏戦争の始まりは1870年7月19日にフランスがプロイセンへ宣戦布告したのが始まりです。両国はこの数日前から戦争に備えて総動員令を出しています。
この時点で両国の兵力差はプロイセン約30万人以上に対して、フランスは20万人以下で兵士の数には大きな差がありました。しかし、指令を出したのはフランスの方が数日早く、動員も素早かったので先手を打ったのはフランスです。
フランス軍はプロイセンとの国境近くの都市であるザールブリュッケン周辺で攻撃を始めます。この時の戦いは小規模でしたが、フランス製のシャスポー銃とプロイセンのドライゼ銃では性能に大きな差があったこと、プロイセン軍の動員に時間がかかったことが原因となってザールブリュッケンはフランスに占拠されてしまいました。
また、この時の結果ではフランスが有利にも見えますが、同時期にプロイセンは情報将校による偵察活動等を行っていて、フランスのアルザスの守備が薄いことを知ると予備軍を投入してフランスの主力軍へ攻撃することを画策していました。
フランス国内での戦い
普仏戦争での大規模なぶつかり合いは、フランスの国境付近ヴィサンブールで行われました。
ザールブリュッケンを占拠したフランス軍ですが、軍の一部をヴィザンブールより東のスピシャランに退避させます。このことで軍の兵力が分散した事に加え、プロイセン軍が攻めてくることは無いと油断していた国境警備の軍隊が手薄状態になっています。
味方からの支援も無く兵力が少ない状態だった国境監視部隊は1870年8月4日にプロイセン軍の攻撃を受けて、ヴィザンブールの街ごと占拠されてしまいました。これがヴィサンブールの戦いです。
ヴィサンブールの戦いでしっぺ返しを食らったフランス軍は1870年8月6日にスピシャランの戦いにて巻き返しを図りますが、これも指揮官同士の意見の食い違いや足並みの揃わなさが原因で敗北してしまいます。
そして、フランスとプロイセンはこの後も各地で3度にわたり戦争を行いますが、どの戦いも結果はフランス軍の敗北で甚大な被害を残しました。
セダンの戦い・メス攻囲戦
度重なる敗戦で押されたフランス軍はスピシャランより南東に位置するメスという都市への退却を余儀なくされました。メスには要塞があり、軍隊はその要塞に籠城することになりますが、プロイセン軍約15万人の兵力に包囲されて身動きが取れなくなってしまいます。これがメス攻囲戦です。
そして、この後にフランス軍のナポレオン3世は包囲された軍を救うために、シャロンという都市で残りの兵力を集めました。この時のフランス軍は兵士の士気も低下していて、武器も少なかったため状況は不利でしたが残った兵や部隊を集めて要塞の奪還を狙います。
しかし、この動きはプロイセン軍に露呈していて8月30日にフランス軍はプロイセン軍に急襲されてセダンという街に退却しました。さらに、9月1日はセダンを包囲する形でプロイセン軍の攻撃が始まり、フランス軍に大打撃を与えます。この時のフランス側の死者と捕虜は3万8千人近くに昇ったと言われています。
翌日の9月2日勝ち目が無いと悟ったナポレオン三世は降伏し、捕虜となりました。
パリ攻囲戦
ナポレオン三世が捕虜として捕らえられたことがパリに伝わると、フランス国内ではクーデターが起こり、フランス第二帝政は廃止されて新しい国防政府が作られます。ナポレオン3世は1871年の3月19日に釈放されました。
フランス軍の戦力はメス攻囲戦でほぼ抑えられていたので、プロイセン側としては休戦をしてから戦争を終わらせるための講和を行うことを希望します。
しかし、当時のプロイセン首相だったビスマルクが和平に向けた交渉条件を発表するもフランスの新政府はこれを拒否したために戦争が続くこととなりました。
プロイセン軍はパリへ進軍、包囲した後障害物を作って封鎖します。そして、1870年9月19日から1871年1月28日までパリ攻囲戦が行われました。
フランスのパリ市街では通常の軍だけでなく、武装したフランス市民によるゲリラ部隊も編成されたため、プロイセンが市街にも砲撃を行います。主要都市まで包囲されてしまったフランスは各地で徴兵を行いプロイセン軍に戦争を仕掛けますが、結果は全て惨敗です。
1871年1月18日についに食糧不足に陥ったフランスは休戦交渉を行い、パリの主要要塞をプロイセンに明け渡すことで攻撃が停止しました。そして、2月5日にはフランス軍指揮官からフランス全土での休戦が命令されて、普仏戦争は終了します。
フランクフルト講和条約締結
1871年5月10日にプロイセンとフランスはフランクフルト講和条約を結んで普仏戦争を終結させました。
プロイセンはフランスとプロイセンの貿易開始と50万近くのフランス兵の捕虜の返還と引き換えに、ドイツ皇帝の承認の許統一ドイツとフランスの領土の境目を確定させること、アルザス=ロレーヌ地方をドイツの監督下に置くこと、賠償金50億フランを3年以内に支払うことを確約させました。
また、期限内に賠償金が支払わなかった場合国境地帯の重要施設を併合することを条件としています。さらに、アルザス地方からはフランス系移民は追放さることにもなったので、フランスから見るとかなり不利な条件での終戦となりました。
このフランクフルト講和条約が締結されるとあまりにも不利な条件でフランスの政府及び国民は怒りに燃え、ドイツへの反感を募らせる原因にもなったのです。そして、このアルザス=ロレーヌ地方の統治権は後の第一次世界大戦が勃発するきっかけにもなりました。