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普仏戦争とは?原因や経緯、勝敗、与えた影響などを分かりやすく解説

「普仏戦争ってどんな戦争だったの?」
「普仏戦争について詳しく知りたいけど情報が多すぎて全体像がつかめない」
「結局戦争の原因や結末はどうだったの?」

普仏戦争は1870年代に起こったプロイセン王国とフランスによる戦争で、約1年間に渡って続きます。そんな普仏戦争ですが、世界史の授業ではあまり詳しく説明されないことが多く、どんな歴史的な意義があるのかわからないという方も多いのではないでしょうか。

普仏戦争は授業だとさらっとした説明しかされませんが、その後のドイツ統一や戦争における戦い方、当時の日本の軍の在り方にも大きく影響した重要な戦争です。今回はそんな普仏戦争の経緯や原因、勝敗について分かりやすく解説していきます。

普仏戦争とは?

普仏戦争 絵

普仏戦争は1870年7月19日から翌年5月10日まで行われたフランスとプロイセンによるスペインの王位継承問題を発端とした戦争です。戦いはフランス北東部のスダンやフランスに近いプロイセンのザールブリュッケン、パリにまで及び大規模なものとなっています。

プロイセンとは現在のドイツ北部からポーランドの西部までにかけて統治されていた国で、当時のドイツはいくつかの国に分かれていたので政治体制はバラバラでした。しかし、数カ国に分かれていたドイツ諸国はフランスを共通の敵としたことで一致団結します。

そして、最終的には全ドイツ対フランスの戦争となりドイツ統一への大きな足がかりとなり、後世に大きな影響を残しました。このことから普仏戦争はドイツ対フランスなので独仏戦争、1870年戦争と呼ばれる場合もあります。

また、普仏戦争は当初、周辺国はフランスが圧倒的に勝利を予想していましたが、プロイセンの革新的な軍事制度や戦略、外交手腕により予想外の展開を迎えました。それでは、普仏戦争は一体どのような戦争だったのか詳しく見ていきましょう。

普仏戦争の経緯

プロイセン王国 国旗

まずは、普仏戦争はどこの地域でどのように行われたのか、簡単におさらいしていきましょう。

フランス軍のザールブリュッケン占領

普仏戦争の始まりは1870年7月19日にフランスがプロイセンへ宣戦布告したのが始まりです。両国はこの数日前から戦争に備えて総動員令を出しています。

この時点で両国の兵力差はプロイセン約30万人以上に対して、フランスは20万人以下で兵士の数には大きな差がありました。しかし、指令を出したのはフランスの方が数日早く、動員も素早かったので先手を打ったのはフランスです。

フランス軍はプロイセンとの国境近くの都市であるザールブリュッケン周辺で攻撃を始めます。この時の戦いは小規模でしたが、フランス製のシャスポー銃とプロイセンのドライゼ銃では性能に大きな差があったこと、プロイセン軍の動員に時間がかかったことが原因となってザールブリュッケンはフランスに占拠されてしまいました。

また、この時の結果ではフランスが有利にも見えますが、同時期にプロイセンは情報将校による偵察活動等を行っていて、フランスのアルザスの守備が薄いことを知ると予備軍を投入してフランスの主力軍へ攻撃することを画策していました。

フランス国内での戦い

普仏戦争 絵

普仏戦争での大規模なぶつかり合いは、フランスの国境付近ヴィサンブールで行われました。

ザールブリュッケンを占拠したフランス軍ですが、軍の一部をヴィザンブールより東のスピシャランに退避させます。このことで軍の兵力が分散した事に加え、プロイセン軍が攻めてくることは無いと油断していた国境警備の軍隊が手薄状態になっています。

味方からの支援も無く兵力が少ない状態だった国境監視部隊は1870年8月4日にプロイセン軍の攻撃を受けて、ヴィザンブールの街ごと占拠されてしまいました。これがヴィサンブールの戦いです。

ヴィサンブールの戦いでしっぺ返しを食らったフランス軍は1870年8月6日にスピシャランの戦いにて巻き返しを図りますが、これも指揮官同士の意見の食い違いや足並みの揃わなさが原因で敗北してしまいます。

そして、フランスとプロイセンはこの後も各地で3度にわたり戦争を行いますが、どの戦いも結果はフランス軍の敗北で甚大な被害を残しました。

セダンの戦い・メス攻囲戦

度重なる敗戦で押されたフランス軍はスピシャランより南東に位置するメスという都市への退却を余儀なくされました。メスには要塞があり、軍隊はその要塞に籠城することになりますが、プロイセン軍約15万人の兵力に包囲されて身動きが取れなくなってしまいます。これがメス攻囲戦です。

そして、この後にフランス軍のナポレオン3世は包囲された軍を救うために、シャロンという都市で残りの兵力を集めました。この時のフランス軍は兵士の士気も低下していて、武器も少なかったため状況は不利でしたが残った兵や部隊を集めて要塞の奪還を狙います。

しかし、この動きはプロイセン軍に露呈していて8月30日にフランス軍はプロイセン軍に急襲されてセダンという街に退却しました。さらに、9月1日はセダンを包囲する形でプロイセン軍の攻撃が始まり、フランス軍に大打撃を与えます。この時のフランス側の死者と捕虜は3万8千人近くに昇ったと言われています。

翌日の9月2日勝ち目が無いと悟ったナポレオン三世は降伏し、捕虜となりました。

パリ攻囲戦

パリ攻囲戦 絵

ナポレオン三世が捕虜として捕らえられたことがパリに伝わると、フランス国内ではクーデターが起こり、フランス第二帝政は廃止されて新しい国防政府が作られます。ナポレオン3世は1871年の3月19日に釈放されました。

フランス軍の戦力はメス攻囲戦でほぼ抑えられていたので、プロイセン側としては休戦をしてから戦争を終わらせるための講和を行うことを希望します。しかし、当時のプロイセン首相だったビスマルクが和平に向けた交渉条件を発表するもフランスの新政府はこれを拒否したために戦争が続くこととなりました。

プロイセン軍はパリへ進軍、包囲した後障害物を作って封鎖します。そして、1870年9月19日から1871年1月28日までパリ攻囲戦が行われました。

フランスのパリ市街では通常の軍だけでなく、武装したフランス市民によるゲリラ部隊も編成されたため、プロイセンが市街にも砲撃を行います。主要都市まで包囲されてしまったフランスは各地で徴兵を行いプロイセン軍に戦争を仕掛けますが、結果は全て惨敗です。

1871年1月18日についに食糧不足に陥ったフランスは休戦交渉を行い、パリの主要要塞をプロイセンに明け渡すことで攻撃が停止しました。そして、2月5日にはフランス軍指揮官からフランス全土での休戦が命令されて、普仏戦争は終了します。

フランクフルト講和条約締結

フランス 地図

1871年5月10日にプロイセンとフランスはフランクフルト講和条約を結んで普仏戦争を終結させました。

プロイセンはフランスとプロイセンの貿易開始と50万近くのフランス兵の捕虜の返還と引き換えに、ドイツ皇帝の承認の許統一ドイツとフランスの領土の境目を確定させること、アルザス=ロレーヌ地方をドイツの監督下に置くこと、賠償金50億フランを3年以内に支払うことを確約させました。

また、期限内に賠償金が支払わなかった場合国境地帯の重要施設を併合することを条件としています。さらに、アルザス地方からはフランス系移民は追放さることにもなったので、フランスから見るとかなり不利な条件での終戦となりました。

このフランクフルト講和条約が締結されるとあまりにも不利な条件でフランスの政府及び国民は怒りに燃え、ドイツへの反感を募らせる原因にもなったのです。そして、このアルザス=ロレーヌ地方の統治権は後の第一次世界大戦が勃発するきっかけにもなりました。

普仏戦争の原因は?

プロイセン首相 ビスマルク

それでは普仏戦争はどんなことがきっかけで勃発したのでしょうか。ここで、普仏戦争の原因をおさらいしていきましょう。

プロイセンによるドイツ統一の目論み

普仏戦争以前のドイツは現在と異なり、北ドイツと南ドイツで国々が分かれていました。1799年のナポレオン戦争後はウィーン議定書によってドイツはいつかの国に分かれて別々に統治されていてオーストリアなどのドイツでない国からも影響を受けていたのです。

その中でもプロイセンは国土も広く産業改革の影響で経済的にも潤っていましたが、ドイツの各国では経済格差が目立ち、様々な問題が浮き彫りになっていき国としては不安定な状態でした。

プロイセンの首相だったビスマルクは自国の領土などを守るためにドイツの国々影響を及ぼすオーストリアを排除するために普墺戦争を起こします。そして、ドイツの国々を一つの国にまとめる政策を進めていきますが、ドイツの小さな国々はこの強引な政策に猛反発します。

その時に丁度勃発したのがスペインの王位継承問題です。この王位継承問題で起こったエムス電報事件は普仏戦争が勃発したと言われていて、ビスマルクはこの事件を利用してドイツ国民のフランスへの反感を高めたと言われています。

しかし、ビスマルクは単純にこの事件の報復で普仏戦争を起こしたわけではなく、ドイツ国民のフランスへの反発を高めることで国々を団結させてドイツ統一を勧めるという狙いがあったのです。

スペイン王位継承問題

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン

フランスの隣国であるスペインでは1868年にスペイン九月革命により、皇帝の椅子が空席になっていました。プロイセンのビスマルクはプロイセン王家であるホーエンツォレルン家の親戚である王子レオポルトにスペインの王位継承者になるように促し、スペインもこれに了承します。

しかし、プロイセン王家の人間がスペインの皇帝になってしまうと、スペインにもプロイセンの勢力が影響していしまい、プロイセンとスペインに国土を挟まれているフランスは戦争になった時に不利になってしまうという事情がありこれを強硬に反対しました。

フランスのナポレオン3世はプロイセンのヴィルヘルム1世に圧力をかけて、レオポルトがスペインの皇帝にならないように働きかけて、結果的にレオポルトは皇帝を辞退します。

しかし、その後の1870年にフランス大使をエムスに滞在していたヴィルヘルム1世のもとに派遣して、今後一切スペインの王位継承に介入しないという約束をさせようとしたことでドイツ各国の人間の反感を買う結果になり、普仏戦争の直接的な原因を作る結果になってしまいました。

エムス電報事件とは?

ヴィルヘルム1世 ドイツ皇帝

エムス電報事件とは上記のエムスに滞在したヴィルヘルム1世に対して、フランスが圧力をかけてスペインの王位継承問題に介入しないように約束させようとした事件のことです。この会談が起こるとその結果はすぐにビスマルクの許に届きました。

戦争のきっかけが欲しかったビスマルクはただの会談の状況報告だったエムス電報をドイツ各国とフランスの仲が悪くなるように、敢えて簡略化して発表します。

内容としては、「フランスがヴィルヘルム1世に圧力をかけて不当な要求を突き付けたが、ヴィルヘルム1世は毅然とした態度でこれを拒否し、今後一切要求に答えるつもりはないと伝えた。」という内容に改変されていました。

これはもちろん嘘を言っているわけではありませんが、内容の受け取り方によってはフランスが自国の皇帝を恫喝し大変な失礼を働き、皇帝が激怒しているという内容にもとることができました。つまり、ナポレオン3世が悪意を持ってヴィルヘルム1世を挑発したということになります。

そのため、この事件は両国の国民を激しく刺激する結果となりプロイセンだけでなくドイツの小さな国々もフランスへの敵対心を持つ結果となり、普仏戦争が勃発したのです。

普仏戦争の結末、勝敗は?

普仏戦争 絵

普仏戦争の結末は一体どういうものだったのでしょうか。その勝敗となにが勝負を分けるきっかけになったのかを見ていきましょう。

プロイセンの圧勝

普仏戦争ではフランスやプロイセン各地で戦争が行われましたが、中でもフランスが勝ったのは最初の1回のみで後の戦いは全てプロイセンが圧勝を収めています。最後に行われたパリ攻囲戦ではフランスは完全にお手上げ状態で降伏し、戦争後に結ばれたフランクフルト講和条約もプロイセンに有利な条件で結ばれたので戦勝国はプロイセンで、フランスは敗戦国という結果に終わりました。

これには、両国の兵力の差が影響しています。当時のフランスとプロイセンの力国で軍制度がそれぞれ異なっていて、フランス軍は常備兵、プロイセン軍は徴兵制で軍を維持していました。

常備兵とはいわゆる職業軍人と呼ばれる、仕事として軍人をしている国民が兵役を務める軍制度で、有事の際にも軍をすぐに動かせるというメリットを持っています。そのため、フランスが宣戦布告してすぐに進軍し、ザールブリュッケンを占拠できたのもこれが勝因となっています。

しかし、常備兵は職業として軍人をしている人間で構成されているので、数に限りがあるというデメリットがありました。

これに対して、プロイセン軍の徴兵制は男子であれば必ず兵役をこなさなけばならないという法律もとに作られた義務でした。そのため、常備兵よりも圧倒的に数が多いというメリットがあったのです。このような理由から、普仏戦争でもフランスの兵力の2倍近くの動員数で反撃が出来たのでどの戦いでも勝利を収められたと言われています。

フランスの敗因

普仏戦争時のフランス兵

普仏戦争におけるフランスの敗因は戦争への準備不足にあります。当時のドイツ諸国はプロイセンとそのほか南ドイツの4つの国が敵対していて、フランスは戦争になっても他国が協力してプロイセンを叩いてくれることを期待していました。

しかし、頼みの綱であった南ドイツの諸国はビスマルクの外交手腕の力もあり、フランスではなくプロイセンの味方をしたり中立的立場をとってしまいます。さらに、オーストリアやハンガリーも中立を決め込んでしまったため、フランスは孤立してしまったのです。

また、プロイセンは戦争に備えて兵士を迅速に移動できるために鉄道を6つ作り参謀本部を設置し、スパイを放って敵の動向を探っていたりと、周到に準備を行っていました。

これに対してフランスは参謀本部も無く、鉄道の数は1本のみで戦争が始まってみると圧倒的に不利です。つまり、普仏戦争は戦争が起こる前までに設備や制度を整えていたプロイセンの作戦勝ちとも言えます。

普仏戦争が与えた影響

普仏戦争は後のドイツの国々に大きく影響を与えただけではなく、当時の日本の軍事制度の編成にも大きく関与している戦争です。こちらでは、戦争当時の周辺国の反応や後世に与えた影響をご紹介します。

周辺国の反応と影響

普仏戦争時にプロイセンと敵対していた南ドイツ諸国は同盟を結んでフランスに対抗しています。当時はビスマルクの外交手段により、プロイセンは各国と攻守同盟や関税同盟で関係を深めていたという事情もあります。各国は考え方の違いから敵対はしていましたが、同じ民族であるという共通認識がありました。

そのため、エムス電報事件の報せはプロイセンだけでなく南ドイツの国民までも激怒させる結果になり、南ドイツがプロイセンに協力したのもこれが影響しています。

さらに、プロイセンの勢力拡大を恐れていたオーストリアも1866年に起こった普墺戦争の影響で危機的状況にあったため、フランスの味方になることができず中立の立場を貫きました。

オーストリアは元々ドイツ人で構成された国家であったことも理由の一つですが、当時は国内の民族間の問題に注力していて国内の安定を望んでいたので、無駄に他国を刺激して戦争をしたくなかったという事情もあります。

普仏戦争が後世に与えた影響

ヴェルサイユ宮殿

普仏戦争で同盟を結んだプロイセンと南ドイツ諸国は1871年に1月18日にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、統一国家になりました。これにより、ドイツ帝国が誕生し普仏戦争はビスマルクの目論み通りの結果で終わります。この時プロイセン皇帝だったヴィルヘルム1世はドイツ帝国の初代皇帝に就任しています。

普仏戦争で勝利を収めたドイツですが、フランクフルト講和条約で手に入れたアルザス=ロレーヌ地方を失ったフランスはドイツへの怨恨を募らせる結果となり、これが原因で第一次世界大戦が勃発してしまうという影響も残しています。

また、普仏戦争でのプロイセンの活躍は各国に参謀の必要性や砲兵、騎兵の戦術など重要性を知らしめることになり、後の軍事思想に大きく影響を与えました。このことがきっかけて日本やロシアなどの国も徴兵制を採用して軍を編成しています。

普仏戦争がよくわかる本、動画

最後に普仏戦争の流れや各国の世界情勢、当時の市民の反応などがわかる本や動画をご紹介します。手短に普仏戦争の内容が知りたい方には動画、当時の状況を詳しく知りたい方には本の閲覧がおすすめです。

ドイツ参謀本部-その栄光と終焉

『ドイツ参謀本部その栄光と終焉』は普仏戦争当時のプロイセンの軍制度の仕組みや、普仏戦争以前とその後の戦争の戦い方についてどのような違いがあるかが解説された本です。

この本ではプロイセンの軍の仕組みから組織の在り方などが筆者の視点から述べられているので多少偏りがある部分もありますが、プロイセンがどのような作戦や戦い方で普仏戦争に勝利したのか書かれています。そのため、詳しく知りたい方にはおすすめです。

現代語訳 巴里籠城日誌

現代語訳巴里籠城日誌は明治初期の広島藩士である渡正元が留学で訪れたパリで普仏戦争のパリ攻囲戦に居合わせた際の体験が記されたものを現代語訳した本です。

この本ではパリ攻囲戦時のパリの状況や人々の様子が日本人の視点から描かれています。そのため、普仏戦争当時の人々の暮らしや市民への影響、包囲されたパリはどんな状態だったのか気になる人におすすめです。

【モルトケvsナポレオン3世】セダンの戦い

この動画はプロイセンとフランスが普仏戦争に至るまでの経緯や、両国で使用された兵器などが詳しく解説されています。この動画では戦争の流れが大まかに編集されていて、さっくりと15分程度で閲覧できるので手短に戦争の事情と結果などを知りたい方におすすめの動画です。

【世界史】19世紀の欧米5 ドイツの統一

この動画は約20分ほどの長さで、プロイセンのドイツ統一までの流れをおさらいできます。普仏戦争は普墺戦争などを含めた3つの戦争と合わせるとドイツ統一戦争とも呼ばれていて、普仏戦争だけでドイツを統一したわけではなく行きつくまでには長い経緯がありました。この動画ではその経緯をざっくりと解説しているので、ドイツの統一に関して詳しく知りたい方におすすめです。

普仏戦争に関するまとめ

いかがでしょうか。今回は1800年代に起きたフランスとプロイセンによる普仏戦争の経緯や勝敗、原因についてご紹介しました。

普仏戦争はプロイセンの緻密な作戦や革新的な軍事制度という観点からも、同時期の日本に大きく影響を残し、第一次戦争のきっかけにもなる重要な出来事です。また、1800年代は革命や戦争の勃発が多くて事情が複雑化しているので、普仏戦争もあっさりと勉強することが多いですが後世には様々な影響を与えているので詳しく知っておくとその後の世界史の理解を深めることができます。

この記事をきっかけにより多くの方が近代ヨーロッパの軍事制度やドイツ統一に興味を持って頂ければ幸いです。

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