普仏戦争が与えた影響
普仏戦争は後のドイツの国々に大きく影響を与えただけではなく、当時の日本の軍事制度の編成にも大きく関与している戦争です。こちらでは、戦争当時の周辺国の反応や後世に与えた影響をご紹介します。
周辺国の反応と影響
普仏戦争時にプロイセンと敵対していた南ドイツ諸国は同盟を結んでフランスに対抗しています。当時はビスマルクの外交手段により、プロイセンは各国と攻守同盟や関税同盟で関係を深めていたという事情もあります。各国は考え方の違いから敵対はしていましたが、同じ民族であるという共通認識がありました。
そのため、エムス電報事件の報せはプロイセンだけでなく南ドイツの国民までも激怒させる結果になり、南ドイツがプロイセンに協力したのもこれが影響しています。
さらに、プロイセンの勢力拡大を恐れていたオーストリアも1866年に起こった普墺戦争の影響で危機的状況にあったため、フランスの味方になることができず中立の立場を貫きました。
オーストリアは元々ドイツ人で構成された国家であったことも理由の一つですが、当時は国内の民族間の問題に注力していて国内の安定を望んでいたので、無駄に他国を刺激して戦争をしたくなかったという事情もあります。
普仏戦争が後世に与えた影響
普仏戦争で同盟を結んだプロイセンと南ドイツ諸国は1871年に1月18日にヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、統一国家になりました。これにより、ドイツ帝国が誕生し普仏戦争はビスマルクの目論み通りの結果で終わります。この時プロイセン皇帝だったヴィルヘルム1世はドイツ帝国の初代皇帝に就任しています。
普仏戦争で勝利を収めたドイツですが、フランクフルト講和条約で手に入れたアルザス=ロレーヌ地方を失ったフランスはドイツへの怨恨を募らせる結果となり、これが原因で第一次世界大戦が勃発してしまうという影響も残しています。
また、普仏戦争でのプロイセンの活躍は各国に参謀の必要性や砲兵、騎兵の戦術など重要性を知らしめることになり、後の軍事思想に大きく影響を与えました。このことがきっかけて日本やロシアなどの国も徴兵制を採用して軍を編成しています。
普仏戦争が日本に与えた影響
普仏戦争は、日本にも大きな影響を与えました。日本人にとって始めて見たヨーロッパ戦争が普仏戦争だったといいます。日本は明治維新後、フランス式で建設されることになっていましたが、普仏戦争をきっかけにドイツの制度に切り替えています。理由は普仏戦争にドイツが勝利したことと、日本の軍事制度に適していると判断されたためといいます。
明治維新の軍政に大きく貢献した桂太郎は、普仏戦争終結直前と終結後に数年間においてドイツで兵学を学んでいます。そして、軍事上の代表者川上操六も2回の留学でドイツ参謀本部に実際勤務しモルトケ参謀総長の指導を受けたのです。
普仏戦争の流れ・年表
1870年7月:普仏戦争が開戦
1870年7月、フランス王国とプロイセン王国の間で戦争が始まります。フランス王国はプロイセンにのみ宣戦布告を行いますが、ドイツ諸邦がプロイセン側について宣戦しました。
プロイセン側はドイツ統一のために、共通の敵を欲していました。そしてスペインで起きた王位継承問題を口実に「エムス電報事件」でドイツ国民の怒りを煽り、統一へ向けるためフランスに宣戦布告をしたのです。
1870年8月:フシュヴィレール=ワシュの戦い
普仏戦争は当初フランスが優勢でしたが、ヴィサンブールの戦いで巻き返し8月のスピシャランの戦いでも敗退しました。そして普仏戦争で最大規模の、フシュヴィレール=ワシュの戦いでも敗北しています。
フシュヴィレール=ワシュの戦いは両軍合わせて約10万の激突となり、数はプロイセン軍が勝っていましたが、陣形的にはフランス軍が有利でした。両軍ともに損害は1万を超える状況でしたが、プロイセン川の方がフシュビレールを奪取。そのためフランス軍は圧倒的不利となり後退を余儀なくされたのです。
この頃フランスは、相次ぐ敗戦にエミール・オリヴィエ内閣が倒れ、新たな首相が擁立されました。皇帝ナポレオン3世はさらも後退させるつもりでしたが、人気が落ちることを危惧して決断できず、指揮官の地位をバゼーヌ元帥に委ねています。
1870年8月:サン=プリヴァの戦い
サン=プリヴァの戦いは西に退却するフランス軍を阻止するための戦いで、普仏戦争最大の戦闘となりました。この戦いはフランスが敗退し、フランス軍は要塞のあるメスまで退却を余儀なくされています。
戦いはプロイセン軍が約19万人、フランス軍が約11万3千人の戦闘でした。戦闘の当初、シャスポー銃の有利性を活かしたフランス軍が優勢でしたが、全鋼鉄製クリップ製後装砲を装備したプロイセン軍の砲兵隊のために不利となっていきます。
結局プロイセン軍がサン=プリヴァを占領し、フランス軍は退却しました。この時プロイセン軍はかなり疲弊しておりフランス軍は反撃をかけることも可能でしたが、結局メスへ退却することを選択しています。そしてメス攻囲戦が繰り広げられることとなりました。