普仏戦争(プロイセンフランス戦争)とは?原因や経緯、勝敗、影響を分かりやすく解説

普仏戦争のきっかけ・原因

それでは普仏戦争はどんなことがきっかけで勃発したのでしょうか。ここで、普仏戦争の原因をおさらいしていきましょう。

原因1「プロイセンによるドイツ統一の目論み」

普仏戦争以前のドイツは現在と異なり、北ドイツと南ドイツで国々が分かれていました。1799年のナポレオン戦争後はウィーン議定書によってドイツはいつかの国に分かれて別々に統治されていてオーストリアなどのドイツでない国からも影響を受けていたのです。

その中でもプロイセンは国土も広く産業改革の影響で経済的にも潤っていましたが、ドイツの各国では経済格差が目立ち、様々な問題が浮き彫りになっていき国としては不安定な状態でした。

プロイセン首相「ビスマルク」

プロイセンの首相だったビスマルクは自国の領土などを守るためにドイツの国々影響を及ぼすオーストリアを排除するために普墺戦争を起こします。そして、ドイツの国々を一つの国にまとめる政策を進めていきますが、ドイツの小さな国々はこの強引な政策に猛反発します。

その時に丁度勃発したのがスペインの王位継承問題です。この王位継承問題で起こったエムス電報事件は普仏戦争が勃発したと言われていて、ビスマルクはこの事件を利用してドイツ国民のフランスへの反感を高めたと言われています。

しかし、ビスマルクは単純にこの事件の報復で普仏戦争を起こしたわけではなく、ドイツ国民のフランスへの反発を高めることで国々を団結させてドイツ統一を勧めるという狙いがあったのです。

原因2「スペイン王位継承問題」

レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン

フランスの隣国であるスペインでは1868年にスペイン九月革命により、皇帝の椅子が空席になっていました。プロイセンのビスマルクはプロイセン王家であるホーエンツォレルン家の親戚である王子レオポルトにスペインの王位継承者になるように促し、スペインもこれに了承します。

しかし、プロイセン王家の人間がスペインの皇帝になってしまうと、スペインにもプロイセンの勢力が影響していしまい、プロイセンとスペインに国土を挟まれているフランスは戦争になった時に不利になってしまうという事情がありこれを強硬に反対しました。

フランスのナポレオン3世はプロイセンのヴィルヘルム1世に圧力をかけて、レオポルトがスペインの皇帝にならないように働きかけて、結果的にレオポルトは皇帝を辞退します。

しかし、その後の1870年にフランス大使をエムスに滞在していたヴィルヘルム1世のもとに派遣して、今後一切スペインの王位継承に介入しないという約束をさせようとしたことでドイツ各国の人間の反感を買う結果になり、普仏戦争の直接的な原因を作る結果になってしまいました。

原因3「エムス電報事件」

ヴィルヘルム1世 ドイツ皇帝

エムス電報事件とは上記のエムスに滞在したヴィルヘルム1世に対して、フランスが圧力をかけてスペインの王位継承問題に介入しないように約束させようとした事件のことです。この会談が起こるとその結果はすぐにビスマルクの許に届きました。

戦争のきっかけが欲しかったビスマルクはただの会談の状況報告だったエムス電報をドイツ各国とフランスの仲が悪くなるように、敢えて簡略化して発表します。

内容としては、「フランスがヴィルヘルム1世に圧力をかけて不当な要求を突き付けたが、ヴィルヘルム1世は毅然とした態度でこれを拒否し、今後一切要求に答えるつもりはないと伝えた。」という内容に改変されていました。

これはもちろん嘘を言っているわけではありませんが、内容の受け取り方によってはフランスが自国の皇帝を恫喝し大変な失礼を働き、皇帝が激怒しているという内容にもとることができました。つまり、ナポレオン3世が悪意を持ってヴィルヘルム1世を挑発したということになります。

そのため、この事件は両国の国民を激しく刺激する結果となりプロイセンだけでなくドイツの小さな国々もフランスへの敵対心を持つ結果となり、普仏戦争が勃発したのです。

普仏戦争の勝敗・結末

普仏戦争の結末は一体どういうものだったのでしょうか。その勝敗となにが勝負を分けるきっかけになったのかを見ていきましょう。

プロイセンの圧勝

普仏戦争の様子を描いた絵

普仏戦争ではフランスやプロイセン各地で戦争が行われましたが、中でもフランスが勝ったのは最初の1回のみで後の戦いは全てプロイセンが圧勝を収めています。

最後に行われたパリ攻囲戦ではフランスは完全にお手上げ状態で降伏し、戦争後に結ばれたフランクフルト講和条約もプロイセンに有利な条件で結ばれたので戦勝国はプロイセンで、フランスは敗戦国という結果に終わりました。

これには、両国の兵力の差が影響しています。当時のフランスとプロイセンの力国で軍制度がそれぞれ異なっていて、フランス軍は常備兵、プロイセン軍は徴兵制で軍を維持していました。

常備兵とはいわゆる職業軍人と呼ばれる、仕事として軍人をしている国民が兵役を務める軍制度で、有事の際にも軍をすぐに動かせるというメリットを持っています。そのため、フランスが宣戦布告してすぐに進軍し、ザールブリュッケンを占拠できたのもこれが勝因となっています。

しかし、常備兵は職業として軍人をしている人間で構成されているので、数に限りがあるというデメリットがありました。

これに対して、プロイセン軍の徴兵制は男子であれば必ず兵役をこなさなけばならないという法律もとに作られた義務でした。そのため、常備兵よりも圧倒的に数が多いというメリットがあったのです。このような理由から、普仏戦争でもフランスの兵力の2倍近くの動員数で反撃が出来たのでどの戦いでも勝利を収められたと言われています。

考案者モルトケ参謀総長
出典:Wikipedia

またプロイセン軍は、参謀本部を設置しています。参謀とは指揮官のサポートのことで、プロイセンはこの参謀を独立した専門職にし、参謀の考えた作戦を指揮官に提示するシステムを確立したのです。

このシステムの採用により指揮官の独断で動くことを防ぎ、効率的に作戦を遂行できるようになったのでした。

フランスの敗因

普仏戦争時のフランス兵

普仏戦争におけるフランスの敗因は戦争への準備不足にあります。当時のドイツ諸国はプロイセンとそのほか南ドイツの4つの国が敵対していて、フランスは戦争になっても他国が協力してプロイセンを叩いてくれることを期待していました。

しかし、頼みの綱であった南ドイツの諸国はビスマルクの外交手腕の力もあり、フランスではなくプロイセンの味方をしたり中立的立場をとってしまいます。さらに、オーストリアやハンガリーも中立を決め込んでしまったため、フランスは孤立してしまったのです。

また、プロイセンは戦争に備えて兵士を迅速に移動できるために鉄道を6つ作り参謀本部を設置し、スパイを放って敵の動向を探っていたりと、周到に準備を行っていました。

これに対してフランスは参謀本部も無く、鉄道の数は1本のみで戦争が始まってみると圧倒的に不利です。つまり、普仏戦争は戦争が起こる前までに設備や制度を整えていたプロイセンの作戦勝ちとも言えます。

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