紀元前48年「クレオパトラ7世がカエサルとともにエジプトを統治する」
クレオパトラ7世が即位した頃の地中海周辺は、エジプトを除いてローマ帝国の領土となっていました。クレオパトラ7世はローマ帝国の軍人ユリウス・カエサルと手を組み、カエサルの傀儡政権としてエジプトを統治します。
紀元前44年「カエサル暗殺される」
カエサルとエジプトを治めていたクレオパトラですが、カエサルが暗殺されるとすぐにカエサルとの子カエサリオンをプトレマイオス15世として即位させました。カエサルの暗殺によって後ろ盾をうしなったクレオパトラ7世は、ローマの軍人アントニウスに接近し、生き残りを図ります。
前31年「クレオパトラ7世の死」
紀元前30年、アクティウムの海戦でローマのオクタヴィアヌス軍に敗れたアントニウスとクレオパトラ7世はアレクサンドリアに逃げ帰ります。紀元前31年、ローマ軍の捕虜になることを拒んだクレオパトラ7世は、毒蛇に身をまかせ自殺し、プトレマイオス朝は滅亡しました。
紀元前27年「エジプトがローマ帝国の属国となる」
オクタヴィアヌスがアウグストゥスの称号を得てローマ皇帝のなると、エジプトはローマ帝国の属国となりました。388年、皇帝テオドシウス1世はキリスト教を国教とし、アレクサンドリアはキリスト教布教の5本山の一つとなりました。
395年「学術都市アレクサンドリアが破壊される」
ローマ帝国がキリスト教を国教とした後、アレクサンドリアでは、キリスト教、ユダヤ教、セラピスなど宗教間の争いが頻発します。学問の中心地であったアレクサンドリア図書館は破壊され、多くの書物と共に学者たちも消え、アレクサンドリアは衰退の道を歩み始めます。
641年「イスラム勢力がエジプトへ侵攻する」
619年にはササン朝ペルシャが、628年には東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がアレクサンドリアを支配します。641年、イスラム勢力がエジプトへ侵攻し、アムル・イブン・アル=アースによってアレクサンドリアは陥落しました。その後アレクサンドリアはイスラムの支配下に置かれます。
1365年「アレクサンドリア十字軍に一時的に支配される」
キプロス王のピエール1世が指導する十字軍がアレクサンドリアを一時的に支配しました。聖地奪還ではなく経済的な理由でおこなった支配で、アレクサンドリアではモスクや寺院、教会などが破壊され、街では略奪と市民の虐殺繰り広げられ、5000人が奴隷となりました。
エジプトに十字軍の拠点を築きたかったものの、マムルーク朝の本軍との戦いで勝ち目がないと判断した十字軍は、わずか3日間で撤退しました。
1798年「ナポレオンがアレクサンドリアに上陸する」
1798年7月、イギリスのインド支配の中継地点であるエジプトを抑えるため、ナポレオンはアレクサンドリアに上陸します。これがナポレオンのエジプト遠征です。
しかし、ネルソン率いるイギリス海軍に敗れ、ナポレオンは制海権を失い、フランス軍は撤退しました。アレクサンドリア郊外でロゼッタ=ストーンが発見されたのもこの時期です。
1875年「イギリスの支配下になる」
スエズ運河株を買収したイギリスがエジプト支配を強めたことで、1881年にウラービーの反乱が勃発しました。イギリス支配に反発したエジプト人とウラービーによるこの反乱は、イギリス軍がアレクサンドリアを砲撃し、鎮圧したことで収まりました。翌1882年、イギリスがエジプトを保護下に置いたため、アレクサンドリアもイギリスの支配下に置かれました。
アレクサンドリア縁の人物
政治家・王族
プトレマイオス1世
プトレマイオス1世は、エジプトのプトレマイオス朝の創始者で初代の王です。マケドニアの貴族の出身で、アレクサンドリアを建設したアレクサンドロス大王の学友であり部下でした。アレクサンドロス大王亡き後の覇権争いを制し、前305年プトレマイオス朝の王となりました。
プトレマイオス1世は、優れた軍人であり優れた政治家でした。王になってからは学問の発展に力を入れ、王立研究所ムセイオンや大図書館を設立し、国内外から優れた学者を集めました。宗教においても寛容で、マケドニアの信仰を押し付けることはありませんでした。
クレオパトラ7世
クレオパトラ7世はエジプトプトレマイオス朝最後の女王で、ギリシャ語やエジプト語の他にも複数の言語を話せる知的な女性であったといわれています。17歳で弟のプトレマイオス13世と結婚し共同統治をしますが、その後ローマの軍人カエサルと出会うと、プトレマイオス13世を追い出し、カエサルとエジプトを統治します。
カエサルとの間に息子カエサリオンが誕生し平穏な日々を過ごしますが、カエサルが暗殺されると息子カエサリオンをエジプトの共同統治者プトレマイオス15世として即位させました。カエサルという後ろ建てを無くしたクレオパトラは、アントニウスに接近し子供を設けます。
紀元前31年、アクティウムの海戦で敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアに逃げ帰り、ローマ軍に捕らえられたクレオパトラは、オクタヴィアヌスに屈することを拒否し、毒蛇に身を噛ませて自殺しました。
カエサリオン
カエサリオンは、エジプトプトレマイオス朝最後の王プトレマイオス15世であり、クレオパトラ7世の子供です。前47年、母クレオパトラ7世と、父カエサルの間にアレクサンドリアにて生まれました。カエサリオンとは、小さなカエサルという意味です。
父カエサルが暗殺されアレクサンドリアに戻ると、母クレオパトラ7世との共同統治者プトレマイオス15世として即位します。母クレオパトラ7世がアクティウムの海戦でローマ軍に敗れると、カエサリオンは紅海に面したベレニケに逃亡しますが、オクタヴィアヌスに捕らえられ処刑されてしまいました。