ルコルビュジエは20世紀を代表する建築家です。2016年に「国立西洋美術館」を含めた17の資産が、世界文化遺産として登録されたことが記憶に新しいかと思います。装飾の極めて少ない、合理性を追求した鉄筋コンクリート製の建造物を代表作とし、「モダニズム建築」の提唱者としても知られています。
1960年代に盛んになったモダニズム建築の原型を、すでに1920年代に実現していました。ルコルビュジエは新しい建築様式として「ピロティ・屋上庭園・自由な平面・水平連続窓・自由なファサード」を5原則として主張し、その原則は「サヴォア邸」によく現れています。
※ピロティ:2階以上の建物で、1階部分を柱のみの空間(吹き放ち)にした1階部分のこと。
※ファサード:建物正面のデザインのこと。
ルコルビュジエは建築だけでなく、水彩画・油彩画、彫刻、家具、書籍に至るまで幅広い分野で作品を残しました。そして、多くの都市計画を提案し、この分野に大きな影響を与えたことも功績の一つです。
ルコルビュジエの作品が現在でも異彩を放っているのは何故なのでしょうか。彼の作品が私たちに衝撃や感動を与えることがその主な要因なのですが、それだけではありません。
国立西洋美術館で開催されたルコルビュジエの展覧会を鑑賞し、その作品のとりことなった筆者が、その後、彼の文献を読んで得た知識をもとに、ルコルビュジエの生涯、名言、エピソードをご紹介していきたいと思います。
ルコルビュジエとはどんな人物か
名前 | シャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ |
---|---|
誕生日 | 1887年10月6日 |
没日 | 1965年8月27日 |
生地 | スイス ラ・ショー=ド=フォン |
没地 | フランス ロクブリュヌ=カップ=マルタン |
配偶者 | イヴォンヌ・ガリ |
埋葬場所 | フランス ロクブリュヌ=カップ=マルタン |
ルコルビュジエの生涯をハイライト
ルコルビュジエの人生をダイジェストすると以下のようになります。
- スイスにてルコルビュジエの誕生。時計職人の息子として育つ。
- 視力があまり良くなかったため、17歳前後で時計職人を諦め、建築家を目指すようになる。
- 鉄筋コンクリートを駆使した建築法「ドミノシステム」を発表。
- パリ万博で「レスプリヌーヴォー館」を展示。
- 43歳の時に、フランスのモデル、イヴォンヌ・ガリと結婚。
- レジオン・ドヌール勲章を受章(1937年シュヴァリエ、1950年コマンドゥール、1963年グラン・トフィシエ、1964年グラン・クロワ)。
- 「ロンシャンの礼拝堂」、「国立西洋美術館」の竣工。
- 海水浴中の心臓発作で亡くなる。享年78歳。
ルコルビュジエの家族構成は?子孫はどうしてる?
ルコルビュジエはスイスの時計の街、ラ・ショー=ド=フォンの生まれで、父親も時計職人でした。
家族構成は以下の通りです。
- 父:ジョルジュ=エドゥアール・ジャンヌレ(時計の文字盤職人)
- 母:マリー・シャルロット・アメリー・ジャンヌレ・ペレ(ピアノ教師)
- 兄:アルベール=エドゥアール・ジャンヌレ(音楽家)
- ルコルビュジエ:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ
ルコルビュジエは1930年にフランスでモデルとして活動していたイヴォンヌ・ガリと結婚します。2人は生涯で子供をもうけませんでした。そのため、子孫に関する情報はほとんどありません。
ルコルビュジエの日本唯一の作品「国立西洋美術館」とは?
国立西洋美術館は上野公園内にある美術館で、1959年にルコルビュジエの設計により竣工した建築物です。当時、戦後の日本・フランス間の関係改善の象徴として建設を予定されました。2007年には国の重要文化財として指定され、2016年には世界文化遺産に登録されています。
実際の建設にはルコルビュジエの弟子である板倉準三、前川國男、吉阪隆正が関わりました。館内の展示物は松方コレクション(印象派の絵画などのフランス美術の作品)を主として、西洋美術に関する多くの作品を収容しています。そのほかにも西洋美術に関する教育、出版物の刊行なども行っています。
ルコルビュジエが構想した都市計画の内容とは?
ルコルビュジエは、人口の急増によって環境の悪化していく世界を嘆き、人の数が増えても住みやすい都市を提案しました。それがルコルビュジエの都市計画(輝く都市)です。1922年に「300万人の現代都市」、1925年に「ヴォアザン計画」、1930年に「輝く都市」を発表しました。
ルコルビュジエの提唱した都市計画は「高層ビルを多く建設し、地上には人が自由に動くことのできるオープンスペースを多く確保。そしてオープンスペースに自動車道と歩道を整備し、双方が移動しやすい環境を作る。」というものでした。
最終的に実現したのはインド北部の新興都市のみですが、ブラジリアをはじめとする各国の都市計画に影響を与えました。日本では六本木ヒルズなどがルコルビュジエの構想を採用しているそうです。
ルコルビュジエの功績
功績1「近代建築の三代巨匠」
ルコルビュジエはフランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築の三代巨匠と呼ばれています。
フランク・ロイド・ライトは豊かな人間性の保証と、自然との調和を追求した建築である「有機的建築」の提唱者です。代表的な作品は、アメリカにある「タリアセン・ウエスト」で、世界遺産に登録されています。日本の「帝国ホテル」もロイドが手がけました。
ミース・ファン・デル・ローエは「ユニバーサル・スペース」を提唱した建築家です。「ユニバーサル・スペース」とは柱や梁により作られた均質な空間のことで、人々がその空間を自由にデザインできる仕組みとなっています。代表建築は「ファンズワース邸」です。
また、この3人にヴァルター・グロピウスを加えて、「近代建築の四大巨匠」と呼ぶこともあります。
功績2「画家としても活躍」
ルコルビュジエは生涯に多数の油絵も残しています。ともに雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を刊行した画家のアメデエ・オザンファンから油絵の描き方を教わり、2人で「ピュリスム」という概念を提唱しました。
「ピュリスム」とは、戦争中に失われたフランス文化の「秩序や合理性」を取り戻し、「構築や物質のまとまり」を重視した芸術を生み出そうという思想です。ピュリスムでは形が主役のため、色は比較的淡い色が用いられました。
功績3「世界遺産に数多くの作品が登録される 」
ルコルビュジエの作品群が「ルコルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」として2016年に世界文化遺産に登録されたのは記憶に新しいと思います。東京上野にある「国立西洋美術館」もその中に含まれました。
登録されたのは全部で17件で、代表作である「サヴォア邸」、「ユニテ・ダビタシオン」、「ロンシャンの礼拝堂」なども選ばれています。特に、晩年に設計された「ロンシャンの礼拝堂」はそれまでのモダニズム建築の概念を超えた作品として評価されました。
ルコルビュジエの名言
「平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動も立体も脈絡もない。
ルコルビュジエの建築は平面を多く用い、シンプルな構造をしています。「サヴォア邸」や「国立西洋美術館」からもその信念を伺うことができます。ルコルビュジエは生涯を通じて合理性や機能性を求めたのでした。
「住宅は住むための機械である。」
こちらは1923年にルコルビュジエが出版した「建築をめざして」の中に記載されていた言葉です。当時の建築家たちからは注目を集めることになりました。この言葉からもルコルビュジエが建築に合理性や機能性を求めていたことがわかります。
「家は生活の宝石箱でなくてはならない。」
この言葉は、「住宅は人にとって住みやすい環境を提供しなければならない」と言い換えることができると思います。あくまで主体は人間であって、建築は人に対して心地よいものでなければならないというルコルビュジエの考えを示しています。
ルコルビュジエにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「家具のデザインもしている」
ルコルビュジエは家具もデザインしており、いまだに人気は衰えていません。その外観は建築のような計算された美しさを表しており、そのフォルムは使いやすさと美しさのバランスを計算し尽くして作られています。
ルコルビュジエの家具の中で人気となっているのは「LCシリーズ」です。その中でも「シェーズロング」は「世界最高デザインの休憩椅子」と称されています。本革とステンレスで構成されており、使用する人によって、細かい幅のベルトが体重を分散させるため、どの人にとっても使い心地の良い椅子となるのです。
都市伝説・武勇伝2「独自の尺度『モデュロール』の発表」
「モデュロール」はルコルビュジエが提唱した建造物の寸法のことです。人間の寸法、黄金比、フィボナッチ数列を用いて理想の建物の構造を割り出し、世界に向けて発表しました。ちなみに人間の寸法の参考として用いられたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」です。
日本では丹下健三という建築家が、ルコルビュジエの「モデュロール」を元に、日本版の「モデュロール」を作成しました。丹下健三は「広島平和記念公園」、「東京都庁」、「フジテレビ本社ビル」などを手がけています。
ルコルビュジエの簡単年表
1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンという街でルコルビュジエが誕生します。父・エデゥアールと母・マリーの間に次男として生を受けました。父は時計職人、母はピアノ教師をしていました。
小学校を卒業した後は地元にある美術学校へ入学します。父の後を継ぐために時計装飾を学びました。
美術学校高等科へと進学し、建築に興味を持つようになります。18歳の時には、建築家ルネ・シャパラの協力を受けながら「ファレ邸」のデザインを担当しました。
「ファレ邸」を手がけた後は、フランスのパリへと移り、オーギュスト・ペレの事務所に所属することになります。
1911年にはドイツ、トルコ、イタリアなどへの旅を敢行し、故郷のスイス、ラ・ショー=ド=フォンへと戻ります。そして、故郷の美術学校で講義を行うようになりました。
鉄筋コンクリートの先駆者、ペレの事務所での経験を生かし、住宅建設方法の一種である「ドミノシステム」を発表します。
ラ・ショー=ド=フォンで邸宅の建設を行ったあと、フランスのパリに定住することになります。自分のアトリエを構え、鉄筋コンクリート会社の顧問として仕事を引き受けるようになりました。
この頃、オーギュスト・ペレの紹介により、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックらと会見しました。その後、自身初の油彩画である「暖炉」を製作します。
詩人のポール・デルメ、画家のオザンファンとともに「レスプリ・ヌーヴォー」という雑誌を創刊します。ルコルビュジエの本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリでしたが、この時にペンネーム「ルコルビュジエ」を使用するようになりました。
3年間「レスプリ・ヌーヴォー」に掲載してきた記事をまとめて「建築をめざして」という一冊の書籍にします。これが建築家の間で話題となりました。
1925年に開催されたパリ万国博覧会にて、装飾の少ない、シンプルな外観の「レスプリ・ヌーヴォー館」を設計・展示しました。この年にはパリを超高層ビルで埋め尽くすという都市計画「ヴォアザン計画」を発表します。
ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエなどともに近代建築国際会議(CIAM)を設立しました。以後、CIAMは近代建築の世界的な規範となります。
モデルであったイヴォンヌ・ガリと結婚します。ガリとは1922年に出会い、そこから8年に及ぶ交際を実らせての結婚でした。そして、ルコルビュジエはこの年にフランス国籍を取得します。
ルコルビュジエの「近代建築の5原則」の理念をわかりやすく反映した「サヴォア邸」を建設しました。「サヴォア邸」はルコルビュジエの代表作として今も語り継がれています。
今までの功績を讃えて、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章」が贈られました。
「モデュロール」とはルコルビュジエが提唱した建築物の理想の寸法のことです。この理論に用いられたのは人体の寸法、黄金比、フィボナッチ数列でした。
1914年に発表した「ドミノシステム」に基づいた建築物「ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ)」の建設を開始します。
これまでの業績を評価され、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール章」を贈られました。コマンドゥール章は15年前に受けた章(シュヴァリエ)のさらに上のランクの勲章です。
ルコルビュジエの代表作の一つである「ロンシャンの礼拝堂」を竣工しました。今まで主張していた機能性や合理性を求めた建築とは一線を画し、鉄筋コンクリートによる自由な形を表現しています。
ルコルビュジエは1955年に東京を訪れ、国立西洋美術館の建設計画を立てます。4年の歳月をかけて建設が進められ、1959年に開館することとなりました。
レジオン・ドヌール勲章でさらに上位ランクの称号を与えられました。この年にはジュネーヴ大学から名誉博士号ももらっています。
レジオン・ドヌール勲章で最高ランクのグラン・クロワの称号を授かります。この時に受章式を行ったのはフランス文科相で小説家のアンドレ・マルローでした。
8月、南フランスにて海水浴中に心臓発作を引き起こし、帰らぬ人となってしまいます。享年78歳でした。
ルコルビュジエの年表
1887年 – 0歳「スイスにてルコルビュジエの誕生」
スイスの時計の街にてルコルビュジエが生まれる
ルコルビュジエは1887年10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンにて誕生します。ルコルビュジエの本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリで、父親は時計の文字盤(エナメル盤)職人のジョルジュ、母親はピアノ教師のマリーでした。
ルコルビュジエは小学校を卒業すると、地元の美術学校へと進学しました。父親の後を継いで時計職人になる夢があったので、時計装飾について学びます。しかし、ルコルビュジエは視力があまりよくなかったために、夢を断念し、他の目標を探すことになるのでした。
1907年 – 20歳「人生初の設計」
初の建築「ファレ邸」の設計を手がける
地元の美術学校を卒業すると、美術学校の高等科へと進学します。そこで出会った恩師シャルル・レプラトゥニエによって建築への道を勧められ、建築科への興味を持つようになりました。レプラトゥニエと親交のあった建築家のルネ・シャパラとともに、初の建築となる「ファレ邸」の設計を手がけることになります。
その後、オーストリアのウィーンで「ストッツァー邸」、「ジャクメ邸」の設計も手がけます。そして、オーギュスト・ペレの事務所に所属することとなり、製図工として働き始めました。
1914年 – 27歳「建築法の一種『ドミノシステム』の発表」
ペーター・ベーレンスのアトリエで働く
1909年には設計を担当していた「ストッツァー邸」、「ジャクメ邸」が完成します。1910年にはドイツに装飾芸術を学びに出向き、「ドイツの装飾芸術運動について」という研究を発表することになります。その後、ベルリンにアトリエを構えていたペーター・ベーレンスの元で働くことになり、ここで、長年親交を持つようになるミース・ファン・デル・ローエと出会うのでした。
1912年には両親のための邸宅「ジャンヌレ・ペレ邸」を手がけ、1913年には水彩画の展覧会「石の言葉」を開催します。
「ドミノシステム」の発表
デッサンの教師の資格を取ったルコルビュジエは故郷ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教師として働くようになりました。そして、そのかたわらで「ドミノシステム」の研究を開始します。「ドミノシステム」は鉄筋コンクリートによる住宅建設方法で、のちの「ユニテ・ダビタシオン」にその手法が用いられています。
「ドミノシステム」のさらなる深掘りをするために、1917年にはフランスのパリへと移住し、鉄筋コンクリート会社に勤めるようになりました。この時期にオーギュスト・ペレの紹介により、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックと面識を持つようになります。
1920年 – 33歳「雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」の刊行」
友人の画家や詩人とともに雑誌「レスプリヌーヴォー」を刊行する
1920年に画家のアメデエ・オザンファン、詩人のポール・デルメらとともに雑誌「レスプリヌーヴォー」を創刊します。「ルコルビュジエ」というペンネームを使用しだしたのはこの時からでした。
1923年には「レスプリヌーヴォー」に3年間に渡って掲載してきた記事を一冊にまとめて書籍「建築をめざして」を出版します。この本の中に記された「住宅は住むための機械である」という言葉は世界中の建築家の間で物議をかもしました。
パリ万博で「レスプリヌーヴォー館」を展示
1925年に開催されたパリ万国博覧会(アール・デコ博)にて「レスプリヌーヴォー館」を展示することになりました。「レスプリヌーヴォー館」は外観の装飾がほとんどなく、シンプル過ぎる見た目のため、観衆の注目を集めることになります。
また、この時期には都市計画を唱える書籍を多数出版しており、代表的なものとして「300万人の現代都市」、「ヴォアザン計画」、「輝く都市」があります。1926年には「新しい建築のための5つの要点」を発表しました。
1928年 – 41歳「近代建築国際会議(CIAM)を創設」
ミース・ファン・デル・ローエらとともに近代建築国際会議(CIAM)を開催
1928年にヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらとともに近代建築国際会議(CIAM)を設立・開催し、主要メンバーとして会を進行します。CIAMはのちに近代建築の中で重要な位置を占めるようになり、近代建築活動の拠点ともなりました。
この年には「サヴォア邸(ルコルビュジエの提唱した近代建築の5原則が全て高い完成度で実現されている代表作)」の建築計画が開始されており、3年の歳月をかけて、1931年に竣工されています。
モデルのイヴォンヌ・ガリと結婚
パリでファッションモデルをしていたイヴォンヌ・ガリと1922年に出会います。南フランス生まれで、目が大きく、鼻の形もきれいであった彼女はルコルビュジエの絵のモデルとしても多数登場しています。
出会ってから8年後の1930年に2人は結婚することになりました。イヴォンヌ・ガリは料理が得意で、勝気な女性だったようです。ルコルビュジエは尻に敷かれていたのではないかという逸話も残っています。2人の間には生涯を通じて子供はいませんでした。
1937年 – 50歳「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章」
レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエをフランス政府より贈られる
今までのルコルビュジエの業績を讃え、フランス政府より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」の称号を与えられます。レジオン・ドヌール勲章はナポレオンによって1802年に制定されたフランスの栄典制度で、フランスの最高勲章としてとらえられています。
階級としては1等から5等まであり、シュヴァリエは5等です。日本人でも受章した人は数多くいます。有名な人物では北野武(オフィシエ:4等)、黒澤明(コマンドゥール:3等)、安藤忠雄(シュヴァリエ:5等)などが受章しました。
建築物の理想の寸法とする「モデュロール」の研究を開始
ルコルビュジエの研究の中でも特に有名な「モデュロール」の研究が1943年(56歳)から開始されます。「モデュロール」とは黄金比、フィボナッチ数列を用いて、人間にとって理想となる建物の寸法を示したものです。
また、ルコルビュジエ自身が1914年に提唱した「ドミノシステム」を、33年の歳月を経て採用した建造物である「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」の建設を開始します。後年にはパブロ・ピカソもこの建物の見物に訪れることになりました。
1955年 – 68歳「ロンシャンの礼拝堂、国立西洋美術館の竣工」
「ロンシャンの礼拝堂」竣工
1952年、レジオン・ドヌール勲章のさらに上の階級である「コマンドゥール」がルコルビュジエに与えられます。
1955年にはルコルビュジエの代表作の一つ「ロンシャンの礼拝堂」が完成しました。今までは機能性や合理性を追い求めた建築を行ってきましたが、「ロンシャンの礼拝堂」はその流れをくつがえし、流線型に富んだ形状となっています。
「国立西洋美術館」の完成
ルコルビュジエは1955年に東京・上野を訪れ、「国立西洋美術館」の建築計画を立てます。建物自体はそこから4年をかけて、1959年に完成することとなりました。館内には、印象派を中心とする19世紀から20世紀にかけての絵画や彫刻が「松方コレクション」として展示されることになります。
国立西洋美術館は2016年に「ルコルビュジエの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」の作品の一つとして世界文化遺産に登録されることになりました。
1965年 – 78歳「ルコルビュジエ死去・死因は海水浴中の心臓発作」
レジオン・ドヌール勲章の最高勲章を授かる
ルコルビュジエは1963年にレジオン・ドヌール勲章グラン・トフィシエ(2等)、1964年にグラン・クロワ(1等)を受章します。この時に勲章を授けたのは、当時フランス文科相を務めていたアンドレ・マルロー(「王道」や「人間の条件」などを書いた小説家でもある)でした。
ルコルビュジエは自分のこれまでに建設してきた建造物や絵画などの作品を公的に保管することをアンドレ・マルローに打診し、後年、認められています。
ルコルビュジエが海水浴中に亡くなる・死因は心臓発作
1965年8月27日、南フランスのロクブリュヌ=カップ=マルタンで海水浴をしている最中に突然、心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年78歳でした。墓地はカップ=マルタンに設けられました。
1968年にはルコルビュジエ財団が設立され、彼の希望通り、作品群の保存や管理が行われるようになりました。管理事務所はルコルビュジエが両親のために建設した「ジャンヌレ邸」に置かれています。
ルコルビュジエの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
伽藍が白かったとき
ルコルビュジエがアメリカを訪れた際に、その地域の建築や芸術を見て感じたことをつづったエッセイ集です。ニューヨークのマンハッタンの摩天楼を見て衝撃を受け、それを元に自身の考える都市についての構想を記している書籍です。スケッチを用いて説明されているので理解しやすい構成となっています。
小さな家-1923
ルコルビュジエが両親のために作った「ジャンヌレ邸」について、自身で撮った写真やスケッチを用いながら解説されている本です。設計は実にシンプルながら、生活がしやすいようにこだわりを持って作られていることがよくわかります。
ル・コルビュジエの勇気ある住宅
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ル・コルビュジエ図面集 vol.1 住宅I (LE CORBUSIER PLANS impressions)
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ルコルビュジエが1924年に描いた「エスプリ・ヌーヴォー館の静物」のレプリカです。家のインテリアとして飾りやすいように4種類の寸法から選ぶことができます。ファインアート紙を使用したジクレープリントで仕上がっています。
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ルコルビュジエについてのまとめ
ルコルビュジエは時計職人の家に産まれながら、視力が悪いことを理由に建築家を目指すようになります。その選択が功を奏し、近代建築の三大巨匠として名を連ねるようになるのでした。日本にも親しみが深く、東京上野にある「国立西洋美術館」はルコルビュジエが設計を手がけ、2016年に世界文化遺産に登録されています。
最期は心臓発作で突然亡くなってしまいますが、彼が建築の世界に与えた影響は計り知れず、今もその信念は受け継がれています。
今回はルコルビュジエについて紹介しました。この記事でさらに興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。